Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2006年11月

わたしが飲む杯を飲み

         マルコ10:35−39

 今日の福音書、マルコ第10章の後半は、イエスがまっすぐにエルサレムに向かって行かれる道の出来事です。すでにイエスは、3回にわたって弟子たちに受難の予告をされました。今日の直前の箇所でイエスは次のように言われました。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」マルコ10:33‐34

 弟子たちは恐れました。イエスは迫害と死に向かってまっすぐに進んでおられる。自分たちも一緒に死ぬのだろうか。

 しばらく前、12弟子の中のペテロとヤコブとヨハネの3人は、山の上で栄光に輝くイエスの姿を見たのでした。イエスが「復活する」と言われる意味は分からない。しかしイエスが死なれるとしても、ただ死んで終わるのではなく、死と共に栄光が待っているはずだ、と、ヤコブとヨハネは思いました。そう思わずには恐れに耐えられませんでした。

「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」10:35‐37

 イエスと一緒にいたいのです。イエスが死なれ、自分たちが死ぬことになってもイエスと一緒にいたいのです。イエスのいちばん近くに、栄光の座の右と左におらせてほしいのです。

「イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』」10:38

 「このわたしが飲む杯を飲むことができるか」

 イエスは杯を飲むと言われます。その同じ杯をあなたがたは飲むことができるか。
 イエスが飲まれる杯とは何でしょうか。それは苦難の杯です。それを飲めば死ぬ死の杯です。

「このわたしが飲む杯を飲むことができるか」

「できます」と二人はイエスに答えました。
ヤコブもヨハネもイエスと一緒に死ぬ決意であることを、イエスは理解されました。そのとき、イエスはヤコブとヨハネの将来をご覧になっていました。

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。」10:39‐40

 他の弟子たちはこれを聞いて腹を立てますが、今日はそれには触れません。
 今、大切にしたいことは、ヤコブとヨハネがイエスの飲む杯を「飲むことができます」と言ったことと、イエスがそれに答えて、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲むことになる」と言われたことです。

 それからまもなく、イエスと弟子たちはエルサレムに入城されました。木曜日の最後の晩餐のとき、イエスは杯を取って感謝の祈りを唱え、弟子たちに渡されました。弟子たちは皆、その杯から飲みました。ヤコブとヨハネも、そのイエスの杯を飲んだのです(マルコ14:23)。

 その後、イエスはオリーブ山のゲッセマネに行き、苦しみもだえて祈られました。

「父よ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」マルコ14:36

 その夜、イエスは捕らえられ、不当な裁判にかけられ、死刑の判決を受けて殺されました。

 イエスは三日目によみがえり、弟子たちに宣教の使命を託されました。弟子たちは集まって熱心に礼拝をし、イエスを宣べ伝えました。弟子たちの働きとともに主イエスも共に働かれました。

 何年かの後、使徒言行録はあのヤコブについてこのように記しています。

「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。 そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。」12:1‐3

 除酵祭の時期、つまりイエスが捕らえられて殺された同じ時期に、あのヤコブはヘロデ王の迫害を受け、剣で殺されました。

 あの時、ヤコブは兄弟ヨハネと共に、イエスの栄光の座の右と左に座ることを願いました。「わたしの飲む杯を飲むことができるか」と問われて、二人は「できます」と答えました。それを飲むことを願いました。イエスは「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲む」と予告されました。

 あの時の自分の言葉のとおりに、あの時のイエスの言葉のとおりに、ヤコブはイエスの飲まれた苦難と死の杯を飲んだのです。と同時に、ヤコブは、苦難をとおして輝くイエスの恵みの光に包まれたのです。

 イエスはみずから苦難の杯を飲んで、私たちには祝福の杯を用意されました。イエスはみずから死の杯を受けて、私たちにはいのちの杯を備えてくださいました。イエスの苦難から私たちは祝福をいただき、イエスの死から私たちはいのちをいただくのです。それを具体的に味わうようにイエスが定めてくださったのが聖餐式です。ここで私たちは、主イエスの杯をいただきます。死に代えて、いのちの杯をいただきます。

 イエスはこのように言われます。

 苦難は私が引き受けたのだから、あなたがたは祝福を受けなさい。私があなたの死を全部引き受けたのだからあなたは私のいのちの全部を受けなさい。
ただ、あなたが私の祝福といのちを受けるとき、私の苦難の一部も分け持ってほしい。私の苦難の一部をあなたが引き受けるとき、あなたはもっとはっきりと私の祝福といのちを経験し、恵みの光に包まれるでしょう。
                (2006/10/22 京都聖三一教会)

わたしはアルファであり、オメガである

       ヨハネの黙示録1:1−8

 今日は、教会の暦の最後の主日です。従来、「降臨節前主日」と言ってきました。クリスマスを準備する期間に入る直前の日曜日という意味です。けれども今年5月の日本聖公会総会で、主日の呼び方を変えることになりました。「聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復」という名まえになりました。

 イエスさまの受難と復活、昇天と聖霊降臨後の期節をずっと経てきて、今日はその最後、「聖霊降臨後最終主日」です。
 教会の暦の最後は、この世界の最後、私たちの人生の最後、言い換えるとこの世界と人生の目標を思わせます。

 今日の使徒書の最後の言葉を聞きましょう。

「わたしはアルファであり、オメガである。」黙示録1:8

「わたしは」と言われます。「わたしは」と言われるのは、神さまです。この言葉ひとつが、私たちの心に宿るなら、私たちの心は落ち着きを得るでしょう。この世界は本来の秩序を取り戻すでしょう。

 逆の場合がとても多い。この世界のいろんな力や、あるいは人の声が私たちを圧迫しています。それで不安であったり落ち着かなかったりする。外からやってくる力や声に対して自分を守るために、自分のほうもせわしく対応し、また固くなります。

 けれども、人と自分のさまざまな声と力の渦巻く中に、まったく別の声が呼びかけてきます。

「わたしはアルファであり、オメガである。」

 人でもなく、自分でもなく、「わたしは」と言われる方、「わたしが」と言われる声に耳を澄ましたい。その方を私たちの中心に迎えたい。

 世界と人と自分は沈黙してほしい、ひとりの方の声を聞きたいのです。
 「わたしはアルファであり、オメガである。」

 アルファとはギリシア語アルファベットの最初の文字です。「わたしは初めである」「わたしが最初である。」
 わたしがこの世界の初めである。わたしがこの世界を祝福をもって造った。

 わたしがあなたの人生の初めである。わたしがあなたを良いものとして造り、あなたの人生を祝福をもって出発させた。わたしが、あなたが生きることを望んだ。
 そうであるのに、あなたはわたしを忘れているのではないか。

 「わたしがオメガである。」オメガとはギリシア語アルファベットで最後の文字です。「わたしが最後である。」
 たとえこの世界がいかに混乱しようとも、わたしが最後には回復させる。
 たとえあなたがいかに迷い、混乱し、苦しみ破れようと、わたしがあなたを整え、回復させる。
 あなたの人生の最後は、あなたをつくりあなたを愛しているわたしが責任を持つ。

 別の、間違ったものにこの世界を支配させてはなりません。別の力にこの人生を支配させてはなりません。

 この世界と私たちを支配しようとする力について、今日の旧約聖書・ダニエル書は次のように語っていました。

「さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれまた。」7:11

「この角」──それは今日、「君が代を歌え」「国家に尽くせ」と尊大なことを私たちに要求しています。

 「わたしがアルファであり、オメガである。」

 この世界を最初つくったわたしが、この世界を最後には回復させる。
 あなたのいのちを造り、あなたの人生を祝福をもって出発させたわたしが、あなたの人生を最後まで守り導いて、あなたの人生を完成させる。

 それを言われるのは「わたし」、神さまです。

 神さまの言葉が私たちの中に留まりますように。神さまの声が私の中に留まっていますように。神さまの存在が私たちの中心にいてくださいますように。
                 (2006/11/26 京都聖三一教会)

リルケ「秋」

リルケ「秋」リルケ「秋」





  秋
        ライナー・マリーア・リルケ

木の葉が落ちる
落ちる 遠くからのように。
まるで 天で
 遠い庭が 枯れたかのように。
木の葉が落ちる
 否むみぶりをしながら。

そして夜ごとに 落ちる
 重い地球が
すべての星から 孤独の中へと。

わたしたちはみんな落ちる
 この手も落ちる。
そして よくごらん
 ほかの人たちを。
それ(落下)はすべての人の中にある。

しかしひとりの方があって
 この落下を
かぎりなく優しく
 その両手で 支えてくださる。


 以前に訳を試みたものです。

「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」
     コリントの信徒への手紙 1:8

新約聖書「書簡」を読む会

皆さま

 新約聖書の「書簡」を読む会を始めたいと思います。

 来年1月から月1回開きたいと願っていますが、まずは準備・相談の集まりを下記のように行います。教会、教派にこだわらずご関心のある方はどなたでもご参加ください。

とき・12月7日(木)10時30分〜12時

ところ・京都聖三一教会2階ベストリー

           井田 泉

 新約聖書の書簡は、聖公会の主日礼拝では「使徒書」としてほぼ毎週朗読されますが、福音書に比べて説教のテキストとして取り上げられることは少なく、継続的に読む機会があまりないかもしれません。けれども書簡の言葉を心の糧としておられる方も多いと思います。

 福音書がイエスの生涯を具体的に描くのに対して、書簡はイエスの降誕、生涯、死と復活の意味を説き明かします。書簡をただ指示や教訓の語録とするのではなく、その書き手が宛先の人々の生活と信仰を気づかいながら情熱をもって記したものとして読み直したいと思います。

 かつてある状況のなかで書かれた書簡が、今の時代と私たち自身にどのように呼びかけてくるのかに耳を澄ますことができればと願っています。 

 私自身は、数多く出会った聖書の言葉の中で、とりわけパウロの「ローマの信徒への手紙」の次の言葉に支えられてきました。 

「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」5:19

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」8:26

 このような言葉は一見むつかしいもののように思えるかもしれませんが、私にとっては理屈ではなく、生きることを可能にしてくれた「いのちの言葉」です。

 聖書全体がそうですが、書簡の言葉は私たちの魂を深く呼吸させるとともに、この世界に働く悪の力を直視させ、同時に来たるべき神の救いの完成を告げて、私たちを前に向かって歩むように励まします。

日ごとの聖句239 2006/11/26〜12/2  イザヤの預言

2006年11月26日(日)聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復
わたしはアルファであり、オメガである。ヨハネの黙示録1:8

11月27日(月)
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。イザヤ9:1

11月28日(火)
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。イザヤ9:5

11月29日(水)
その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。イザヤ9:5

11月30日(木)使徒聖アンデレ日
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。イザヤ9:6

12月1日(金)
王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。イザヤ9:6

12月2日(土)
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。イザヤ9:6

日ごとの聖句238 2006/11/19〜25 収穫感謝

2006年11月19日(日)聖霊降臨後第24主日
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」ルカ10:2

11月20日(月)
主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。詩編30:5

11月21日(火)
この地には、一面に麦が育ち、山々の頂にまで波打ち、その実りはレバノンのように豊かになりますように。詩編72:16

11月22日(水)
神の祭壇にわたしは近づき、わたしの神を喜び祝い、琴を奏でて感謝の歌をうたいます。詩編43:4

11月23日(木)
わたしの魂を枷(かせ)から引き出してください。あなたの御名に感謝することができますように。詩編142:8

11月24日(金)
主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします。詩編85:13

11月25日(土)
主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。詩編104:13

エッファタ(開け)──「マルコによる福音書」

「マルコによる福音書」は4福音書の中で最初に書かれたとされ、いちばん短いものです。新約聖書はギリシア語で書かれましたが、マルコ福音書の中にはイエスが話されたアラム語が四箇所に出て来ます。これをとおして私たちはイエスの肉声に触れることができます。

1. 1:1 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」

 聖書の中心には「出来事」(いつ、どこで、何があったか。だれがどうしたか……)があります。イエスの出来事を告げ知らせ、そしてそれがどんな意味を持っているのか、それが私たち自身の救いや生き方にどのように関係しているのか、を語りかけるのが聖書です。

 出来事には、初めがあり、展開があり、結果があり、その影響があります。マルコ福音書は神の子イエス・キリストの出来事を語り始めます。イエスの降誕や成長には触れず、イエスの公的活動に直接つながる、洗礼者ヨハネのことから始めます。

2. 1:14‐15 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」

 神の国(支配、統治)とは、神がこの世界と私たちを守り治められること。イエスとともに神の国が到来し、現実となっていきます。これまで世界と私たちを支配していた悪しきものが力を失って追い出されます。この悪しきものを「汚れた霊」「悪霊」「サタン」(1:13、23、32)と聖書は呼んでいます。これらは人を抑えつけ、苦しめ、また人と人とを争わせてきたものです。

 神の国は、愛と正義と平和、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」(ローマ14:17)であり、単なる言葉ではなく力(コリント一 4:20)です。

3. 3:14‐15 「そこで、(イエスは)十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」

 イエスは神の国を広めるため、弟子たちを集め、訓練し、協力者、協働者として育んでいかれます。イエスは、ご自身が持っておられる力を弟子たちにも与えられます。神の国の宣教、悪霊の追放という主イエスの業を、弟子たちも共に担う者となるのです。

4. 5:40‐41 「しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。」

 イエスは人々の絶望を突き切って、死んだ少女のところに入って行かれます。必ずその子を生かす、という決意があります。タリタはアラム語で「少女」、クムは「起きなさい」。イエスはその子の手を取り、その子に呼びかけ、眠り(死)からその子を呼び戻されました。

5. 7:34 「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。」

 イエスは苦しんできたその人を前に、深く嘆息し、うめきつつ祈られます。イエスは私たちの耳を開き、口を開かれます。それによって私たちは、神の声と人の声を聞くことができるようになり、また自分を表現し、よい言葉を発することができるようになるのです。

6. 8:29 「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』」

 信仰告白。「メシア」は救い主。本来「油を注がれた者」の意味で、神から任命され遣わされたことを示す言葉です。

7. 9:2‐3 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」

 山上の変容(貌)。神の子としてのイエスの真の姿が現されます。信仰告白と変容の出来事がマルコ福音書の分水嶺で、ここからイエスの生涯の物語は後半に入ります。

8. 14:35‐36 「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」

 「アッバ」は親しみをこめた呼び方。「パパ」「お父ちゃん」「アッパ」(韓国語)に似ています。

9. 15:33‐34 「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」

 「エロイ、エロイ」はアラム語。マタイ27:46「エリ、エリ」は旧約聖書の言語ヘブライ語で、詩編22:2に一致させたものと思われます。

 神の子イエスは、今、人の子として、人の苦しみと絶望の極みの場所から神を呼ばれます。このようにしてイエスは、人から神へと橋を架けられるのです(降誕は、神から人への架橋)。

10. 16:19‐20 「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」

 神の子、救い主イエスは、地上での働きをなし終えて天に昇られました。イエスはすでに全世界の主権者、王として座し、統治しながら、私たちを見守っておられます。そのゆえに、私たちの経験する困難、悪、罪がどのように大きなものであろうと、最後は救いがすべてに満ち溢れ、神の国が完成するのです。

 最初の弟子たちと共に主イエスが働かれたように、私たちの歩みと働きと共にイエスは働いてくださいます。

                     (2006/11/12)

日ごとの聖句237 2006/11/12〜18 祝福

2006年11月12日(日)聖霊降臨後第23主日
イエスは子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。マルコ10:16

11月13日(月)
神は人を男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。創世記5:2

11月14日(火)
主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。創世記5:13

11月15日(水)
わたしの生涯を今日まで、導かれた牧者なる神よ。どうか、この子どもたちの上に、祝福をお与えください。創世記48:15‐16

11月16日(木)天地の造り主、主が、あなたたちを祝福してくださるように。天は主のもの、地は人への賜物。詩編115:15‐16

11月17日(金)
大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神が、わたしたちを祝福してくださいますように。詩編67:7

11月18日(土)主よ、主を畏れる人を祝福し、大きな人も小さな人も祝福してください。詩編115:13

教育基本法「改正」講演・学習会

主催 日本聖公会京都教区宣教局社会部
   日本聖公会京都教区宣教局平和学習特別委員会


 秋の深まりと共に、自然の美しさを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
 この9月、国会で安倍晋三氏が首相に選出され新しい内閣が成立しました。安倍氏は以前から憲法と教育基本法の「改正」を主張しています。
 すでに国会に提出されている「改正」案の第1条では、「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」国民の育成が教育の目的とされ、個人の価値よりも国家優先が色濃いものとなっています。「戦争できる国づくり」のために教育が大きく変えられようとしているのではないでしょうか。
 そこで、今回はこの問題と事情に詳しい三木清樹さんに講演をお願いしました。是非、ご参加ください。

日時・2006年11月18日(土)午後2時から4時
講師・三木清樹さん(出版社勤務・京都聖三一教会信徒)

講師からのメッセージ

「教育には、10人いれば10人が、100人なら100人がそれぞれの考えを話し出します。多様な価値観が教育を支えているといえます。ところがその教育が変えられようとしています。ご一緒に考えてみませんか、人としてキリスト者として。」

場所・京都聖三一教会
 〒604-8403 京都市中京区聚楽廻中町45
 JR嵯峨野線(山陰本線)「二条」駅、地下鉄「二条」駅から北へ徒歩10分 市バス「千本丸太町」から徒歩5分

 教会の地図は次をごらんください。
http://www.nskk.org/kyoto/church/k-san.html

小羊の血で洗われ

   黙示録7:9‐17

 イエスさまはあるとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて高い山に登られました。山の上でイエスさまの姿が変わり、その服は真っ白に輝きました。
 そのとき、3人の弟子たちは天国の経験をしたのです。

 イエスさまの服が弟子たちの前で輝いた。それは服だけが輝いたのではなく、イエスさまご自身が神の子の輝きを現されたので、その服も一緒に輝いたのです。神の愛と平和がイエスのうちに、イエスの周りに、イエスと共にいる人たちの間に満ちたのでした。

 今日の黙示録が描くのは天における礼拝です。「玉座の前と小羊の前」、父なる神とイエス・キリストの前に数え切れないほどの大群衆が集まり、叫びます。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」黙示録7:10

 見ると、その人々は皆、白い衣を身に着けています(7:9)。

 白い衣。これはあの山の上で輝いたイエスさまの服と同じです。この人々はイエスさまと同じ衣を着ている。イエスを包んでいた神の愛と平和が、今、神とイエスを礼拝する人々を包んでいます。その中には、ペテロ、ヤコブ、ヨハネもいます。あのときはイエスの服が真っ白に輝いたのを見たのですが、今は3人の弟子たちも、その他の大群衆も、ただ見るだけではなく、自らも真っ白に輝く服を着ているのです。

 この天上の礼拝の光景を見つめていたのは、迫害を受けて地中海のパトモス島に幽閉されていた長老ヨハネです。彼に、天の長老の一人が語りかけました。

「すると、長老の一人がわたしに問いかけた。『この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。』」7:13

 ヨハネには分かりませんでした。なぜ人間が、イエスさまと同じ輝く衣を着ているのか。そのような清い人間がいるのでしょうか。現実の世の中に生きれば、この世界の悪に苦しみ、自分の罪に悩んで、どろどろになるのではないか。救いようもなく汚れてしまうのが自分たちではないか。この白い衣を身に着けた人々は、自分たちの知らない、特別清い、特別優れた、この世と自分の汚れとは無縁の人たちなのか。そのような人々とはだれか、どこから来たのか、ヨハネには分かりませんでした。それで彼は答えます。

 「そこで、わたしが、『わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです』と答えると、長老はまた、わたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。』」7:14

 この白い衣を着た人たちは、特別清い、特別優れた、この世と自分の汚れとは無縁の人たちではない。彼らは大きい苦難を通って来た人々です。この世の悪も自分の汚れもよく知っている人たちです。普通の人間なのです。ただ、この人たちは「その衣を小羊の血で洗って白くした」。

 この世界と自分に悩み、苦しみ、汚れた者であったけれども、小羊の血で洗って清くした。神の小羊、イエス・キリストが血を流して死んで、その貴い血によって洗われ、清められた。イエスさまが生きて死んでくださらなければ、そのような輝く衣を身に着けることはなかった。

イエスさまが、この世界と私たちの悪と罪と汚れを引き受けてそれを全部引き取って、洗い清めてくださった。そして私たちはイエスさまのゆるしと救いと愛と平和を受けた。イエスの流された貴い血が、この人々を完全に清めたのです。天に先に召された人たちにはこのことがすでに起こっている。あなたも、あなたがたも、この世で苦しみ、自分に悩んでいるならば、同じ真っ白の衣を着せられる。

 ──これが、ヨハネの問いに対する天の長老の答でした。

 私たちがイエスさまに招かれるということは、このようなことです。イエスさまの輝く衣を与えられて、それによって身も心も包まれて、自らも輝く。先に天に召された人たちがそうです。そして地上を旅する私たちにも、同じ衣が与えられています。イエスさまから与えられたのです。

 その衣は真っ白に輝く清い衣です。それを着せられる私たちは、罪からも悪からも清められます。
 
神の子イエスさまの輝く光を受けて自らも輝き、周りを照らして他の人をも励ます。そのような真っ白に輝く衣を身にまとうことにおいて、天に召された人たちと私たちとは一つです。

 今日はひとりの姉妹がイエスさまに招かれて、洗礼志願式を受けられます。洗礼は、そのようなイエスさまの輝く衣を着せられることです。

 イエスさまの愛と平和の光を十分に受けて、それで身を包まれて、私たちもその光を輝かしましょう。
             (2006/11/05 諸聖徒日 京都聖三一教会)

私たちの名を胸に帯びられるイエス

               出エジプト記28:1-

 今日は昇天後主日、主イエスが天に昇られたことを記念する昇天日の直後の日曜日です。
イエスさまは復活された後、40日にわたってしばしば弟子たちに現れ、ご自分が生きていることを示されました。「安心せよ、わたしは生きている。」

 そうして40日たって、イエスさまは弟子たちを連れてオリーブ山に行き、弟子たちの見ている前で天に上げられ、その姿は雲に隠れて見えなくなりました。
主イエスの昇天は私たちにとってどういう意味があるのか。それを今日の旧約聖書から知りたいと思います。

 今日の旧約聖書は出エジプト記第28章からの抜粋でした。そこには、神に仕える祭司の衣装、聖なる衣服のことが記されていました。

 神がモーセに言われます。
「あなたの兄弟アロンに威厳と美しさを添える聖なる祭服を作らねばならない。」28:2
聖なる祭服を祭司のために用意するように言われるのは、その祭司アロン自身の威厳や立派さではなく、神の威厳、神のうるわしさを表わすためです。

「また、二個のラピス・ラズリを取り、その上にイスラエルの子らの名を彫りつける。……このようにして、アロンは聖所に入るとき、裁きの胸当てにあるイスラエルの子らの名を胸に帯び、常に主の御前に記念とするのである。」28:9、29

 人々のために祈るのが祭司の務めです。それを具体的に行うように、神は定められました。二個のラピス・ラズリを取る。青い石です。磨くと美しく輝き、今も装飾に使われます。その石にイスラエルの名まえを彫りつける。神の民の名前を、人々の名前をそのラピス・ラズリの石に彫り刻んで、それを祭服の胸当てに入れる。胸当ては心臓を覆う布です。体と心のいちばん大事なところに、人々の名を刻んだ宝石が大切に保たれている。それは、祭司がその石に刻まれた人々の名前を胸に帯びて、神の前に出て、その人々のことを祈るためです。

 ラピス・ラズリにその名前を刻まれた人が、どのような困難を抱えていても、どのような悩みを持っていても、たとえその人が神から離れてしまっていても、いや、そうであればそうであるほど、祭司はその人のことを記憶して、その名を胸に帯びて、神の前に出て、その人たちのために祈る。執り成すのです。

 私たちのためにそのような祭司がいてくれればどんなによいことか。私が祈り疲れても、祈れなくても、私がどれほど危うくても、神から離れたようになっていても、その私のために私の名を記憶して胸に帯びて、私のために神の前に出て祈ってくれる人がいてくれたら、私たちは救われていなくても救われるのです。

 そのような祭司の役を、そのようなほんとうの祭司の務めを、私たちすべてのために引き受けた方がおられます。それがイエス・キリストです。

 イエスさまは地上の30年あまりの生涯と死において、人の悩みを知り尽くされました。世の罪と人の痛ましさをご自分のものとして引き受けて、味わって、生きて死なれました。
そのイエスさまが復活して天に昇られた。私たちのことを忘れて離れて行ってしまわれたのではありません。私たちの名をご自身の胸に刻んで、私たちの悩みと危うさを身に帯びて、神の前に出てくださったのです。私たちのために、どんなときにも祈っていてくださるイエス。

 昇天のとき、イエスは弟子たちを見つめながら手を上げて祝福してくださった。祝福しながら天に上げられました。
 昇天のイエスさまは私たちの方を見ては私たちを祝福し、神の前に出ては私たちのために祈ってとりなしてくださる。
 このような私たちのための救い主が、ただ地上だけではなく、天にいてくださる。これが昇天の意味です。

 キリストの教会は、このキリストの執り成しの祈りを受け継いで実行するために集められました。祈られることを必要とする人々がたくさんいるからです。私たち自身もそうです。
 礼拝の中でそのことを具体的に行う場所があります。それは代祷です。代祷は、人の名を帯びて、世界の現実を携えて、神の前に出て執り成しの祈りをする。あの祭司アロンの務めを、何よりイエスさまのわざを、この礼拝で行うのが代祷です。

 祈りましょう。

 主イエスさま、あなたは私たちのために地上に生きて死に、復活して天に昇られました。あなたが地上においてだけではなく、天においても私たちのために祈っていてくださることを感謝いたします。あなたの祈りに支えられて、私たちもまた人々のために、この世界のために、とりわけ困難のうちにある人々のために祈り、執り成しの業を行うことができるようにしてください。アーメン
                 (2006/05/28 京都聖三一教会)

日ごとの聖句236 2006/11/5〜11 ぶどうの木

2006年11月5日(日)聖霊降臨後第22主日
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。ヨハネ15:1

11月6日(月)
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。ヨハネ15:5

11月7日(火)
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。ヨハネ15:5

11月8日(水)
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。ヨハネ15:7

11月9日(木)これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。ヨハネ15:11

11月10日(金)
人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた。ミカ4:4

11月11日(土)
平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。ゼカリヤ8:12
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