Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2007年01月

日ごとの聖句248 2007/1/28〜2/3 ヨハネ福音書のことば 1

2007年1月28日(日)顕現後第4主日
見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。エレミヤ1:9

1月29日(月)
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。ヨハネ1:1

1月30日(火)
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネ1:14

1月31日(水)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

2月1日(木)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。ヨハネ4:14

2月2日(金)被献日
わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。ヨハネ6:35

2月3日(土)
イエスは再び言われた。わたしは世の光である。ヨハネ8:12

日ごとの聖句247 2007/1/21〜27 アンナ

2007年1月21日(日)顕現後第3主日
主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。ネヘミヤ記8:10

1月22日(月)
アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。ルカ2:36

1月23日(火)
非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。2:36‐37

1月24日(水)
彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。ルカ2:37

1月25日(木)使徒聖パウロ回心日
サウロがダマスコに近づいたとき、突然天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。使徒言行録9:3‐4

1月26日(金)
そのとき、アンナは近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。ルカ2:38

1月27日(土)
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。コリント1 12:27

新約聖書「書簡」を読む会 第2回

 第2回 新約聖書「書簡」を読む会を次のように開きますので、ご関心のある方はご参加ください。
 前回(1月11日)は4教会より計8名の出席でした。

 2007年2月22日(木)10:30〜12:00
 京都聖三一教会ベストリーにて

 パウロの最初の書簡「テサロニケの信徒への手紙 1」
 第2章および第3章を読む予定です。

 「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」2:12

見よ、わたしが支える者を

ルカ3:21、イザヤ42:1

 今日は、「主イエス洗礼の日」です。

 今日の福音書にこう言われていました。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると……」ルカ3:21

 ヨルダン川で洗礼者ヨハネから、まず民衆が洗礼を受けていました。民衆が洗礼を受けて、それでイエスも、洗礼を受けられました。民衆が洗礼を受けていたがゆえに、イエスも洗礼を受けた、というのです。

 これはどういうことでしょうか。それは、イエスが、民衆に近づき、民衆のひとりとなり、民衆と同じになられた、一体になられた、ということです。

 ヨルダン川でヨハネが施していた洗礼とは、「罪の赦しを得させるため」の洗礼、「悔い改めの洗礼」(ルカ3:3)です。

 民衆は洗礼を受ける必要がありました。人々は洗礼を受けたいと願いました。なぜなら、自分には罪があると感じたからです。罪が自分にのしかかって苦しい、罪を赦していただかないと生きていけない、と感じたからです。悔い改めて、古い自分とは決別して、本心から再出発したいと願いました。そうして初めて、ほんとうに生きて死ねると思いました。真剣だったのです。

 ヨルダン川の洗礼は、全身水につかります。水につかって、ひとたび人はそこで溺れ死ぬのです。水から上がったとき、新しい世界が開けています。何の負い目もなく、何も自分で自分を防衛することもなく、卑下することも尊大になることもへつらうこともなく、そのままの自分で太陽の光を浴びることができる。もっと正確に言えば、神の愛の光をそのまま全身に受けることができる。──赦しを受けるとはそういうことです。

 民衆が洗礼を受けたので、イエスも同じく洗礼を受けられました。
イエスは洗礼を受ける必要はありませんでした。神の子イエスには、神から赦していただかなければならない罪はありませんでした。けれどもイエスは、民衆の罪の重荷を自分のものとして担うために、人の不安や悩みや労苦を背負って、自分も不安になり悩み、労苦するために、民衆と同じ立場になって、同じように洗礼を受けられました。

 民衆とは、それはわたしたちのことです。イエスはわたしたちに近づき、わたしたちの罪と労苦を共にするために、わたしたちと同じように洗礼を受けられました。

 クリスマスは、神の子がわたしたち人間に近づき、人間となられた出来事でした。神の子イエスがわたしたちに近づき、わたしたちと一つになられた出来事でした。イエスの洗礼はその続きです。わたしたちに近づき、わたしたちと一つになるために、イエスは人となり、そして洗礼を受けられたのです。

 イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開けました。天と地の間の隔ての壁が破れて、神の世界が見えたのです。そして聖霊が、鳩のように見える姿でイエスの上に降(くだ)って来ました。抽象的にではなく、漠然とではなく、気のせいではなく、確実に、事実として、神の愛の命が、神から来てイエスの上に降りました。イエスの中に入ったのです。

 天が開けて神の愛の命が降(くだ)れば、神の声がはっきり聞こえます。
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」。

 神の子が人となって洗礼を受けて、そこまでしてイエスがわたしたちに近づいてわたしたちと一つになってくださった。イエスがわたしたちのことを自分のこととし、イエスがわたしたちのものをご自分のものとして引き受けてくださったとき、もうひとつのことが起ります。それは、今度は、イエスのことがわたしたちのことになり、イエスのものがわたしたちのものとなる、ということです。

 わたしたちの苦しいもの、辛いもの、弱いもの、濁ったもの、滅びるものを、イエスはご自分のものとしてくださいました。イエスはわたしたちの罪と労苦と不安と死を引き受けてくださいました。すると今度は、イエスの赦しと慰めと平安といのちが、わたしたちのものになるのです。

 イエスが洗礼を受けられたとき、天が開きました。わたしたちのためにも天が開くのです。聖霊がはっきりとイエスの上に降ったように、わたしたちの上にも聖霊が降るのです。神の声がイエスにこう呼びかけた。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」。同じ言葉を神はわたしたちにも呼びかけられます。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」。

 わたしがあなたを大切なわが子としてどんなに愛しているか、あなたのことをどんなに心配しているか、あなたのことをどんなに喜びとしているか。そのわたしの思いを知ってほしい。わたしの愛を受けてわたしの愛の中にいてほしい──そう神は私たちに言われるのです。

 今日の旧約聖書日課、イザヤ書第42章1節以下の言葉はイエスよりはるか昔の言葉ですが、その内容はイエスの洗礼に際して神が呼びかけられた言葉でもあります。
 「しかし見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」
 「しかし」と言われています。なぜ「しかし」と言われているのでしょうか。
 その前を読みましょう。

「エルサレムに良い知らせを伝える者を遣わそうとして、見回しても、ひとりもいない。
彼らの中に、助言を与えうる者はない。彼らに問いかけても、ひと言も返さない。」41:27‐28
 世界を見渡せば悩みに満ちている。神が良い知らせを伝える者を遣わそうとしてもふさわしい人はだれもない。人の悩みと神の嘆きがあります。

 「しかし見よ」と神は言われます。
ここにわたしの僕がいる。ここにわたしが見出した者がいる。
「しかし見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。」
神はイエスを、ご自分の使命を果たす僕とし、イエスを選び、喜び迎えられました。そのイエスを生涯、神が支えられるのです。

 しかしそれだけに留まるのではありません。イエスがわたしたちに近づき、わたしたちのものをご自分のものとし、ご自分のものをわたしたちのものとされた以上は、イエスについて言われたことはわたしたちのことでもあるのです。

 今の世界も悩みに満ちています。頼りになるものがない。世の中は混乱し、国は戦争する国になって行く。人の魂は荒廃していく。
しかし神は世界を見捨てられません。わたしたちを見捨てられません。

「しかし見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。」

 神はイエスと共にわたしたちを、ご自分の使命を果たす僕とされます。神はわたしたちを選び、わたしたちを喜び迎えられます。イエスと共にわたしたちを生涯、神が支えてくださるのです。

 民衆が洗礼を受け、そしてイエスが洗礼を受けられた。イエスが洗礼を受け、今度はわたしたちが洗礼を受ける。イエスの上に開いた天がわたしたちの上に開き、聖霊がわたしたちにも降り、わたしたちも神の声を聞く。
「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」。

 すでに洗礼を受けた人は、その祝福をかみしめてください。これから受ける人は、この幸せを期待して祈り求めてください。神はわたしたちのために最高のものを用意してくださったのです。
                 (2007/01/07 京都聖三一教会)


○新共同訳の初版には、イザヤ42章の冒頭に「しかし」があるのですが、その後の版では省略されています。どうして「しかし」がなくなってしまっているのか、調べてみなくてはなりません。
 

日ごとの聖句246  2007/1/14〜20 シメオン

2007年1月14日(日)顕現後第2主日
あなたは主の御手の中で輝かしい冠となる。イザヤ62:3

1月15日(月)
モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。ルカ2:22

1月16日(火)
シメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。ルカ2:25

1月17日(水)
両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子イエスを腕に抱き、神をたたえて言った。ルカ2:27‐28

1月18日(木)
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」ルカ2:29

1月19日(金)
「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」ルカ2:30

1月20日(土)
「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。2:31‐32」
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