Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2007年03月

日ごとの聖句257 2007/4/1〜7 苦難の僕 2

2007年4月1日(日)復活前主日
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。イザヤ53:5

4月2日(月)復活前月曜日
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。イザヤ53:5

4月3日(火)復活前火曜日
わたしたちは道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。イザヤ53:6

4月4日(水)復活前水曜日
苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、彼は口を開かなかった。イザヤ53:7

4月5日(木)聖木曜日
彼は自らを償いの献げ物とした。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。イザヤ53:10

4月6日(金)聖金曜日(受苦日)
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。イザヤ53:11

4月7日(土)聖土曜日
多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。イザヤ53:12

日ごとの聖句256 2007/3/25〜31 苦難の僕 1

2007年3月25日(日)大斎節第5主日
見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。イザヤ52:13

3月26日(月)聖マリヤへのみ告げの日
彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。イザヤ52:14

3月27日(火)
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。イザヤ53:2

3月28日(水)
見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。イザヤ53:2

3月29日(木)
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。イザヤ53:3

3月30日(金)
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに。イザヤ53:4

3月31日(土)
わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。イザヤ53:4

クランマーの殉教の日

 今日、3月21日は聖公会の基礎を築いたというべきカンタベリー大主教トマス・クランマーの殉教の日です。
 
 クランマーはヘンリ8世、エドワード6世のもとでイングランドの宗教改革を推進しました。聖公会の祈祷書は彼が中心になったつくったものです。

 しかしクランマーはメアリーが登位すると大逆罪の罪を着せられ、カトリックへの回帰を強制されました。彼は脅迫のもとで、自分のしてきた宗教改革の働きを全体を否定する内容の撤回文を書かされ、それに署名しました。しかしそれでも赦されませんでした。
 
 1556年3月21日、クランマーは火刑台の前に引き出されました。女王らは、公衆の前で彼が自説を撤回することを期待しました。ところがクランマーはここに至って宗教改革撤回を完全に否定しました。
 
 火が点けられると、彼は右手を伸ばして炎の中に突っ込みました。
 「この手が罪を犯したのだ! なんと恥ずべき手!」
 クランマーは、良心に反して署名した右手を動かさずに、火の中に死んでいきました。
 
 彼の精神が聖公会の基礎をつくったのです。
 私たちがトマス・クランマーの信仰の精神を継承することができますように。
 
 クランマーのことはベンソン・ボブリック『聖書英訳物語』(柏書房)に生き生きと描かれています。この本のウィリアム・ティンダルの項も秀逸です。
 私は、聖公会という教会を考えるとき、ティンダルとクランマーの二人の精神を今日に回復することの必要を強く感じます。
 
 岩波の『世界』4月号は「日本の軍事政策の大転換」を特集しています。
 この上なく愚かなミサイル防衛、私が憲法違反だと思っている「裁判員制度」の問題も採り上げられています。
 

フルートの本

 1月末、ある方が私のところにフルートを持ってこられた。
 私はリコーダー以外に広げるつもりがなかったので、いまだにどうしていいか分からないでいる。頭管部だけ持って息を吹き込んだら一音だけ出るようになった。それにしても大きな音がする。
 
 フルートそのものはあまり触らず、フルートの本を3冊読んだ。
 
 吉田雅夫『フルートの心』vol.2(フルート音楽の神髄を語る)、アルソ出版
 これは日本フルート協会の会報の巻頭言を集めたもの。
 非常に面白かった。
 
 「私はフルートの音は吹き手の人間性のすべてが出るものと考えています。」
 そのとおりと思える。
 
 吉田氏は師でもあるモイーズのことを繰り返し書いているので、モイーズに関心が湧いた。そこで
 
 高橋利夫『モイーズとの対話──おいたちと演奏論』全音楽譜出版社
を読んだ。
 この本に吉田雅夫は「私の心の師モイーズ」という文を寄せている。その冒頭は──
  「私が演奏に求めているものは、常に内心に訴える新しさである。技術のみの演奏は最もきらいである。」
 
 モイーズの言葉。
 「意識的に個性を作ろうとしたならば、ジョウマンにはなれても、絶対にアーティストにはなれないだろう。芸術家の個性は人格の表出であることに注目しなければいけない。」
 
 「作曲家と演奏家と聴衆の関係は、キリストと牧師と信者の関係に似ているだろう。演奏は牧師の説教のようなものだ。」
 「牧師というのはキリストが存在しなければ神の声が分からない人間であるし、信者は牧師がいなければキリストの声が分からない。演奏家はその牧師の役目を果たすのだと考えればよい。だから演奏家は作曲者に対して絶対的な尊敬と忠実であることが必要だ。」

 キリストの声を自分たちは届けているか、牧師としては反省しなくてはならない。
 
 マルセル・モイーズ。1889〜1984。
 
 あまりに良かったのでCDを注文した。が、まだ届かない。
 
 『THE FLUTE』という隔月の雑誌の最近号を買った。
 元ウィーン・フィルの首席奏者マインハルト・ニーダーマイヤーのインタビューが興味深かった。

2007年3月21日(水)

シュヴァイツァー『ドイツおよびフランスのオルガン建造技法とオルガン芸術』

 アルベルト・シュヴァイツァー『ドイツおよびフランスのオルガン建造技法とオルガン芸術』(シンフォニア)を読んだ。
 
 音楽と芸術の本質について深く考えさせられた。
 
 「自分の名声を求めるのではなく、聖なる楽器の客観性の背後に自分を押しやり、あたかも自分自身が語るように、偉大な神の栄光のためにこの楽器をして語らしめることを自覚している、そのような『良きオルガニスト』であること以上に、まだ高遠なものがあるとでもいうのであろうか。」
 
 シュヴァイツァーによれば、オルガニストたるヴィドールはあるとき自分が「オルガンのヴィルトゥオーソ」だと評され、侮辱されたと感じて憤った、という。オルガニストは自分の名人的技能を聞かせて感心させるために演奏しているのではない。

 これは根本的には本来の音楽全体に通じることだと思う。

 私は2年近く前、ある人に間近でピアノを聞かせてもらって「音が生きている」と感じ、それ以来そのこと以外はどうでもよくなってしまった。
 いくら技術が巧みであっても、魂の呼吸がなければ……。
 
 ほんとうの音楽は天の音を地に響かせ、地の声を天に届ける。
 
 シューベルトの最後の三つのピアノ・ソナタは、作曲者の精神が生きて働く演奏をとおして、そのことを経験させてくれる。
 19番 D.958のアダージョは悶える魂の祈りであり、21番D.960のアンダンテ・ソステヌートは天の光である。
 
 2007年3月21日(水)

阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』

 阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男──伝説とその世界』(ちくま文庫)を読んだ。
 
 1284年6月26日にハーメルンの町で130人の子どもたちが行方不明になった。
 この歴史的事実を探求しながら、当時のヨーロッパ社会における庶民の生活のあり方を浮き彫りにする。
 ゲルマン民族の始原的信仰とキリスト教の葛藤、ユダヤ人迫害、放浪の楽師などにも触れられている。
 
 歴史探究がどういうものであるかを深く考えさせられる本。
 
 「歴史は自分の内面に対応する何かなのであって、自分の内面と呼応しない歴史を私は理解することができない」と著者は別の書物で書いているそうだが、これは私が感じることそのものであり、こういう歴史研究が自分はしたいのだとつくづく思った。 

新約聖書・書簡を読む会 第3回

皆さま

 第3回 新約聖書「書簡」を読む会を次のように開きますので、ご関心のある方はどなたでもご参加ください。

 前回(2月22日)はテサロニケの信徒への手紙1 第2章のはじめのほうを中心に、パウロのフィリピ伝道を使徒言行録第16章と合わせて読みながら学びました。

「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。」2:2
 12名の出席でした。

 第3回
 2007年3月22日(木)10:30〜12:00
 京都聖三一教会ベストリーにて

 パウロの最初の書簡「テサロニケの信徒への手紙 1」
 第2章の続きを読む予定です。

「わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。」2:8

日ごとの聖句255 2007/03/18〜24 慰め

2007年3月18日(日)大斎節第4主日
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
�競灰螢鵐�5:17

3月19日(月)聖ヨセフ日
慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。イザヤ40:1

3月20日(火)
こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのためにメシアであるイエスを遣わしてくださるのです。使徒言行録3:20

3月21日(水)
教会は全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。使徒言行録9:31

3月22日(木)
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。マタイ5:4

3月23日(金)
わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。ローマ15:4

3月24日(土)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。�競灰螢鵐�1:3

聖霊の慰めを受け──「使徒言行録」

「使徒言行録」は「ルカによる福音書」の続編として、紀元90年頃、同じ著者によって書かれた。イエスの昇天、聖霊降臨、それに続く使徒たちの宣教が語られている。

概観すると、前半の中心人物はペテロ、後半はパウロである。印象的な物語はステファノの殉教(7章)、パウロ(旧名サウロ)の回心(9章)などであるが、今回は「神の国」と「慰め」という言葉を手がかりとしてたどってみる。

1. 1:3「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」
 イエスの福音の宣教の中心は「神の国」。「神の国」とは、神が王また牧者として、人と世界を守り治め養い導かれること。イエスが生きて働かれるところに神の国が実現する。


2. 3:20「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。」
 神の慰めを十分に受け、その慰めにひたることは信仰の喜び。


3. 4:36‐37「レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」
 バルナバはパウロとエルサレム教会の間を取り持った人。

4. 9:31「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」
 私たちの教会もこのようでありたい。

5. 20:12「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」
礼拝、会食、交わり。3階からの転落死と蘇生。

6. 28:30‐31「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

○イエスも、そして使徒たちも神の国を宣べ伝えた。イエスがおられるところ、イエスが祈り、語り、働かれるところに神の国が現れていた。
 イエスの願いは、神の国が私たちの礼拝の中に実現し、私たちの信仰の交わりの中に実現し、生活の中に実現し、そしてこの世界の中に実現することであり、イエスはそのために今も働いておられる。私たちもその願いを共にして祈り働く者となろう。

       (2007/03/10)

 3月の参加は14名でした。
 次回は3月22日(木)10時30分から。京都聖三一教会にて。

日ごとの聖句254 2007/3/11〜17 同行

2007年3月11日(日)大斎節第3主日
柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。出エジプト記3:2

3月12日(月)
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。」出エジプト記3:12

3月13日(火)
この日、二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。ルカ24:13‐14

3月14日(水)
話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。24:15‐16

3月15日(木)
二人が、「一緒にお泊まりください」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。ルカ24:29

3月16日(金)
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。ルカ24:30

3月17日(土)
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。ルカ24:36

恐れるな、アブラムよ

               創世記第15章

 今日は聖公会生野センターのために祈り、信施を献げる主日です。

 聖公会生野センターは大阪の生野区にあります。生野区の人口の四分の一は韓国・朝鮮人と言われます。生野センターはその地にあって、日本人と韓国・朝鮮人が、障害のある人とない人が、若者とお年寄りが、心を通わせ力を合わせて一緒に生きていくために活動している地域センターです。

 京都教区宣教局社会部では、毎年ここをお訪ねして、学びと交流の機会を与えられています。最近も2月17日、十数名が半日お世話になりました。
 違いを持った人どうし、異なった民族どうしがお互いに理解し合い、力を合わせて一緒に生きていく、というのは福音の精神、イエスさまの精神です。

 ところが私たちの国は、それとはまったく反対の方向に進みつつあります。それを示す出来事がありました。
 この前に日曜日2月25日、伊吹文明という京都選出の衆議院議員・文部科学大臣は、長崎県での講演で600人を前にしてこういうことを言ったそうです。

「日本は大和民族が歴史的に統治してきた。日本は極めて同質的な国」。
これだけでは詳しいことは分かりません。しかし奈良の平城京、京都の平安京とその文化は、朝鮮半島からの渡来人なくしては成立しませんでした。この日本列島に前からいた人々と海を渡ってきた人々とが出会って、協力して、社会と文化ができていった。伊吹さんのこの発言は、この事実を見えなくさせる。そのうえ、「日本は極めて同質的な国」といったとき、その言葉は、「アイヌ民族は、韓国・朝鮮人は、アイヌ民族のままで、朝鮮人のままで日本にいてはいけない」という圧力になって働く。

 これは想像をたくましくして言っているのではありません。私の親しい人たちが、そのような圧迫を現に感じて苦しい思いをしている。これは圧迫を感じるほうが悪いのではなく、圧迫するほうが間違っているのです。
 違いをもった者どうしが、自分も尊重し、相手も尊重して一緒に生きていく。これがイエスさまの福音の精神です。

 遠い昔、私たちの信仰の先祖も、異国の人々、異なる文化、違った考えや習慣を持った人々と出会って、苦労して、一緒に生きていく道を模索したのです。
 その信仰の最初の先祖といえばアブラハムです。今日の旧約日課に出て来ました。元はアブラムと言っていました。今日の創世記第15章は、その名まえが変わる前、アブラムと言っていたときの話です。

 チグリス・ユーフラテス川のほとりからパレスチナに移住してきたアブラハムとその家族、一族は、今のエルサレムの南の方、ヘブロンの近くのマムレという所に天幕を張って暮らしていました。アブラハムはときおり、地の底に呑み込まれるような不安を感じました。それは、自分も家族も一族も、こんな遠い異国の地で滅びてしまうのではないか、という不安です。

 神さまが将来を約束されたのです。神が呼びかけ、神が導かれたから、ここまでやってきたのです。けれども現実はどうか。異国、異民族の中に暮らしていて、今は一応平穏であるものの、いつどんな迫害を受けるか、いつ戦争に巻き込まれるか分かりません。恐怖です。そのうえ、だいいち、子どもが与えられないのです。だれも頼るものがない。ただ神を信じてこれまで生きてきたのです。それなのに神は沈黙しておられる。神は自分たちを見捨てられたのか。それとも、神の声を聞いたと思って信じてここまで来たけれど、あれは空耳、思い違いであったのか。そう思うと、アブラムはもう自分の土台が崩れてなくなってしまう恐ろしさと不安に捕らえられて、眠ることもできませんでした。

 そのようなことの続くある日の夜更け、主の言葉が幻の中でアブラムに臨みました。
「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの報いは非常に大きいであろう。」
「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。」

 主なる神は、天幕の闇の中にうずくまっているアブラムを外に連れ出されました。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」
 アブラムは外に出て、天を仰ぎました。闇ばかりを見ていた彼の目に映ったのは、満天の星。大きい星、小さい星、きらめく星、またたく星、青い星、白い星……。
「あなたの子孫はあの天の星のようになる。」
アブラムは主を信じました。

 主は彼に、この土地を与えると言われます。彼は主を信じつつ、それでもほんとうに主が生きておられるしるしが、神の約束が真実であることのしるしがほしいと願います。しるしがないといきていけないほど、不安で、弱り果てているのです。

 「主は言われた。『三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。』」創世記15:9
アブラムは言われたとおり、牛、山羊、羊、そして鳥を用意し、主に献げました。その際、動物を真っ二つに切り裂いて、向かい合わせて置きました。
二つに切り裂いて向かい合わせに置く、というのは意味があります。それは当時の契約の仕方なのです。たとえば、ある井戸を共同で使うとします。水は非常に大切なので、ひとつ間違えると命の危険にさらされます。井戸をめぐる争いから殺し合いになるかもしれないのです。それで井戸の使用について約束を定め、その約束を両者が命をかけて守ることを誓います。その契約の方法がこれです。

 切り裂いて向かい合わせに置いた動物の間を、契約する人どうし、両方の当事者が通る。それは、もしその契約を破ったら、自分のからだが裂かれてもよい、ということをこれによって意思表示するのです。
 アブラムはここで、神との間に命がけの約束を交わす決意をして献げ物をしました。動物を切り裂いて向かい合わせて置いて、その祈りと決意で神に献げたのです。何か神がそれに対して答えてくださるはずです。

 すでに日付は変わり、昼を過ぎました。何も起こりません。命をかける思いでアブラムが献げた動物を、禿鷹が狙って降りてきます。このような真剣な祈りの献げ物を奪い去ろうとするとは何ということでしょうか。アブラムは幾度も幾度も動物を狙って降りてくる禿鷹を必死で追い払います。何時間このようなことを繰り返したことでしょうか。

 夕方になり、日が沈みかけています。アブラムは疲れ果てて深い眠りに襲われました。そのとき、恐ろしい暗黒が彼に臨みました。恐怖。耐えがたい闇の中に彼は閉じ込められて、身も心も動かすことができません。絶望と恐怖に悶えています。
 日がすっかり沈んで、世界は暗闇に覆われました。闇の世界の中で、アブラムの魂も暗黒に閉じ込められています。

 突然、闇の中に燃え松明が見えました。燃える松明は、アブラムが二つに切り裂いて置いた動物の間を通り過ぎて行きます。

 燃える松明とは何か。それは神です。愛と情熱に燃える神ご自身です。アブラムは暗黒に陥って動くことができません。彼はじっとしたままで、神だけが、あの契約の動物の間を通り過ぎて行かれます。
 神はアブラムとその子孫を必ず守り導くことを約束し、その約束が真実であることを示すために燃える松明となられました。もし約束を破るなら、自分の身がこの動物のように真っ二つに裂かれてもよい。神はご自身の命をかけて、アブラムとその子孫を守り導くことを表わされたのでした。この約束、この契約に責任を持たれるのは神です。アブラムは闇の中でじっとしていて、その神の約束と決意の真実をはっきりと見たのです。これが、彼に対して与えられた神のしるしです。

 私たちが不安に包まれるところ、闇で覆われて身動きできないところで、神が生きて働いてくださいます。神がご自分のからだを裂いて、私たちの現在の救いと将来の確かさを保障してくださるのです。
 「恐れるな、アブラムよ。」

 私たちはどうでしょうか。神が生きて、私たちの現在と将来を守り導かれるというしるしはあるのでしょうか。
イエス・キリストの裂かれたからだ、聖餐のパンが、私たちのための神のしるしです。
                 (2007/03/04 京都聖三一教会)

日ごとの聖句253 2007/03/4〜10 希望

2007年3月4日(日)大斎節第2主日
恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。創世記15:1

3月5日(月)
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画である。将来と希望を与えるものである。エレミヤ29:11

3月6日(火)
あなたたちのために立てた計画──それは平和の計画であり、将来と希望を与えるものである。エレミヤ29:11

3月7日(水)
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。エレミヤ31:17

3月8日(木)
主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼んできました。詩編71:5

3月9日(金)
魂にとって知恵は美味だと知れ。それを見いだすなら、確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。箴言24:14

3月10日(土)
神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えられました。�汽撻肇�1:3
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