Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2007年05月

老人は夢を見、若者は幻を見る

            使徒言行録2:1‐18
            ヨエル3:1

 今日は聖霊降臨日、集まって祈っていた人々に聖霊が注がれて、生きて働く主の教会が誕生したお祝いの日です。

 主イエスが地上から去られるとき、弟子たちに対して約束をなさいました。不安と心配の中にある弟子たちに対して、もっとも大切な約束をされました。それが一番必要だったからです。その約束とは、「あなたがたに聖霊を送る」という約束でした。

 イエスは弟子たちにこう言われました。──
 あなたがたはまだ神さまのこと、私のことがはっきりと分かっていない。あなたがたの心にはまだ神の言葉がしっかり宿っていない。あなたがたは現在も危うく、将来の希望も得ていない。聖霊を受けなければこのままであろう。しかし心配することはない。聖霊があなたがたに神さまのこと、わたしのことをはっきりと分からせる。聖霊があなたがたの心に神の言葉を宿らせ、刻印して、あなたがたの命を守る。聖霊が、今の不安からあなたがたを解放し、将来に向かって希望をもって歩ませる。聖霊がこのことをしてくださる。あなたがたが聖霊を受けることは神さまのご計画であり、私の願いです。私が聖霊を送るから、あなたがたは信じて、聖霊を求めて祈って待っていなさい。
 ──これが天に昇られるイエスさまの別れの言葉でした。

 イエスの約束のとおり、弟子たちは信じて、求めて、祈って、聖霊を待っていました。
 イエスの昇天から10日目の日曜日、弟子たちは集まって一つになって祈っていました。

 使徒言行録第2章の初めを読みましょう。

 突然、激しい風が吹き、その音が家中に響き渡りました。これは天からの風です。この風は地上の濁った空気を一掃しました。天からの風は家中に吹き、人の体ばかりでは心の中にまで吹きわたりました。天からの風。これは命の息です。神の息吹です。神の息がひとりひとりの心と体に息を通わせていく。弱った人々は息を吹き返す。固く小さくなっていた人は柔らかく大きくなり、縛られていた人は自由になります。

 神さまとイエスさまがはっきりと分かり、聖書とイエスが語られた言葉が自分の中に生きて響く。不安は解消し、神が備えていてくださる希望の将来に向かって歩み出す。──これが聖霊降臨日の出来事です。

 天の風、神の息吹は、ひとりひとりの心、集まっていた祈りの群れにのみとどまったのではありません。天の風、神の息吹はそこから出て行きました。風に吹かれ、聖霊に動かされて、人々は語り始めました。イエスさまのことを伝え始めました。不思議なことに通じるはずのない外国の人にまで確実に通じ伝わっていきました。何百何千という人々がその風に巻き込まれていきました。

 このような出来事を怪しむ人々がいました。このようにイエスなる者のことを語っている者たちはおかしい。朝から酒に酔っているに違いない。
 ペテロがそれに答えて言いました。「私たちは酒に酔っているのではありません。これは、かつて預言者ヨエルをとおして神が約束しておられたことが、今ここに実現しているのです。」

 今日の旧約聖書日課です。

「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
その日、わたしは
奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」ヨエル3:1‐2

 神が、この人々にご自分の霊を注いでおられる。天の風が吹きわたり、神の息吹が多くの人々の息を吹き返すようにさせている。だから語り出したのです。

「あなたたちの息子や娘は預言する。」
普通の人たち、自分の息子や娘が、神の言葉を語り始めたのです。

 「老人は夢を見る。」
 もう人生には何も残っていないかのように、消極的にしか自分のことを思えなかった老人が夢を見る。神から与えられた夢を見るのです。神の救いが完成する。自分も他の人々も幸福になる。その大切な実現のために自分は生かされ用いられていて、その神に生かされ用いられている幸いは、世を去っても終わらない。救いの完成を夢みつつ、生きている間も、世を去って天に召された後も、祈りつづけます。

 「若者は幻を見る。」
 将来のビジョンが見えるようになりました。「幻なき民は亡ぶ」という言葉があります(箴言29:18参照)。神のよき計画──これが幻です──が実現していく。その将来を見つめつつ、その実現に積極的に加わっていきます。はかない夢、幻ではなく、確かな神の未来、確かな私たちの将来に向けて、今、確かな歩みを始めるのです。

 これは遠い昔だけのことではありません。
 「あなたがたに聖霊を送る」──そのように主イエスは私たちにも約束していてくださるのです。聖霊があなたに神さまのこと、わたしのことをはっきりと分からせるだろう。聖霊があなたがたの心に神の言葉を宿らせ、刻印して、あなたがたの命を守る。聖霊が、今の不安からあなたがたを解放し、将来に向かって希望をもって歩ませる。あなたがたが聖霊を受けることは神さまのご計画であり、私の願いです。私が聖霊を送るから、あなたがたは信じて、聖霊を求めて祈って待っていなさい。

 聖霊は主イエスの私たちへの約束、私たちの祈りの課題です。

 神さま、最初の祈りの群れに与えられた聖霊を私たちにも注いでください。天の風を、あなたの息吹を、私たちに与えてください。私たちが神さまとイエスさまをはっきりと理解できるようにしてください。あなたが実現しようとされている将来に希望を持って、信じて、その働きに参加することができますように、主イエスさまによってお願いいたします。アーメン
                  (2007/05/27 京都聖三一教会)

日ごとの聖句265 2007/5/27〜6/2 聖霊


2007年5月27日(日)聖霊降臨日
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。使徒言行録2:1‐2

5月28日(月)
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。ヨエル3:1

5月29日(火)
その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。ヨエル3:2

5月30日(水)
わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。ゼカリヤ12:10

5月31日(木)
主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。イザヤ38:16

6月1日(金)
主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で、わたしの音楽を共に奏でるでしょう。イザヤ38:20

6月2日(土)
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。詩編51:14

主イエスの祝福の手

           ルカ24:50‐53

 今日はキリスト教の暦では特別の日です。今年のイースター、主イエスの復活日は4月8日でしたが、その日から40日目、今日は主イエスが天に上げられた日、昇天日です。

 イエスさまは十字架につけられて三日後によみがえり、それから40日にわたって何度も弟子たちに現れ、そして弟子たちの見ている前で天に上げられて見えなくなった、と聖書は記しています。

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」24:50‐51
 イエスは弟子たちをここ、ベタニアあたり、ということはオリーブ山でしょう。そこまで連れてこられました。

「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」24:49

 そう言うとイエスは手を上げて弟子たちを祝福されました。そして祝福しながら、弟子たちから離れ、遠ざかっていかれます。「祝福された」と2回書いてあります。弟子たちはじっとイエスを見つめています。

 ところで手を上げて弟子たちを祝福されたそのイエスの手は、片手であったか、それとも両手であったか。ここを英語で読んでいたら hands 両手と書いてありました。新約聖書の原典ギリシア語を確かめると、やはり複数で両手となっています。イエスは両手を上げて弟子たちを祝福された。

 イエスさまの両手はこれまで、どんな働きをしてきた手なのでしょう。イエスさまの生涯から三つの場面を思い起こしてみます。

 ガリラヤ湖の北側、カファルナウムの町の会堂長(礼拝堂の責任者)ヤイロという人の娘が重い病気でした。父ヤイロはイエスさまのもとに来てひれ伏して、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって、手を置いてやってください」と懇願します。ここも「両手」となっています。イエスさまは出かけられました。

 ところが途中で別のことが起こって、イエスが立ち止まっておられるうちにヤイロの家から使いが来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及びません」と言います。それを聞いたイエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」とヤイロに言って、まっすぐに家に向かわれます。ヤイロの家に着くと、人々が集まって大声で泣いたりわめいたりしています。イエスが「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と言われると、人々はあざ笑いました。

 イエスさまは決意しておられます。その子を絶対に死なせない。ただ騒ぐだけの人は外に出てもらいたい。本気でその子のことを心配して祈る人だけが一緒に来てほしい。その子どものお父さんとお母さんと、それに3人の弟子だけを連れて、イエスさまはその子の部屋に入られました。

 イエスは子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われました。「少女よ、起きなさい」という意味です。(マルコ5:41)。すると少女はすぐに起き上がりました。少女の手を取って起こされたイエスさまの手は両手に違いありません。

 それからかなり時がたったある日のこと、人々が子どもたちを連れてイエスさまのところにやって来ました。「イエスに触れていただくために」(マルコ10:13)と書いてあります。イエスさまに触ってほしかった。子どもたちに手を触れて祈ってほしかったのです。ところが弟子たちはこの人たちを叱りつけました。いまイエスさまは忙しい。大事なご用がある。子どもの相手などしていられない。

 これを見てイエスは憤られた、と書いてあります。弟子たちに対してイエスは憤られたのです。連れて来られた子どもたちは病気かもしれない。何かむつかしいことを抱えて、親たちが必死の思いで連れて来たのかもしれない。いや、そういう特別な事情があったわけではないかもしれない。詳しいことは分かりません。ただイエスは、子どもたちをここに連れて来た親たち、大人たちの気持ちが分かった。子どもたちのことを貴いものと感じられた。祝福を求めて来た子どもたちをとがめるとは何ごとか! イエスさまは腹が立ったのです。

「『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」10:15‐16

 「子どもたちを抱き上げ……」。両手です 。両腕で子どもたちを抱いて、そして両手を イエスさまは子どもたちの頭の上に置いて、祝福された。神さまがあなたを守ってくださるように。この子が、神さまからも人からも貴いものとされ、大切にされるように。大切な子どもたち、この子どもたちが、自分でも自分を大切にすることができるように、イエスは祈ってくださったのです。

 ヤイロの娘の手を取って起こされたイエスさまの両手、子どもたちを抱き、子どもたちを祝福されたイエスさまの両手は、その後どうなったのでしょうか。

 それから数ヵ月して、イエスは捕らえられ、不当な裁判にかけられて死罪とされ、十字架につけられました。イエスさまの両手は釘で打たれて、血を流しました。子どもたちを守り、子どもたちを祝福されたイエスさまの両手は、傷つけられて、動かなくなりました。

(コロイ〈竪笛〉で古今536「たえなるみうたの」を吹く。この曲はバッハ作と伝えられる。)

 イエスさまは三日目によみがえり、それから40日目に、弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、今、両手を上げて弟子たちを祝福されます。あなたがたに平和があるように。わたしの大切な子どもたち、わたしが天からあなたがたのために祈り、あなたがたを守っている。

 イエスさまによって祝福される弟子たちとは、私たちのこと、皆さんのことです。イエスさまは両手を上げて皆さんを祝福されます。また皆さんが出会う子どもたちを祝福されます。

 子どもたちを祝福されたイエスさまの手は、やがて私たちをとおして働きます。イエスさまの両手が私たちの上に置かれ、祝福された私たちの手は、イエスさまの手の働きをするのです。

 天に昇られるとき弟子たちを祝福されたイエスさまの手が、皆さんを祝福してくださいますように。イエスさまの祝福の手が皆さんをとおして働いてくださいますように。

           (2007/05/17 大阪キリスト教短期大学チャペル)

日ごとの聖句264 2007/5/20〜26 聖霊降臨

2007年5月20日(日)復活節第7主日(昇天後主日)
わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。ルカ24:49

5月21日(月)
イエスは、彼らを、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。ルカ24:50‐51

5月22日(火)
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。使徒言行録1:14

5月23日(水)
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。使徒言行録2:1‐2

5月24日(木)
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。使徒言行録2:3

5月25日(金)
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。使徒言行録2:4

5月26日(土)
真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。ヨハネ16:13

輝く命の水の川

                   ヨハネの黙示録21:1‐2

「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」ヨハネの黙示録21:1‐2

 聖書の一番終わりのところに、完成した神の国、天国の風景が描かれています。
 美しく清い輝きは私たちを温かく包む。命の水の川は私たちの渇きをうるおす。川のほとりの命の木は私たちの命を支え、その実りは私たちの糧となり、その葉はあらゆる国の人々の病を癒す。これが私たちの将来に約束された世界です。すでに天に召された人にも、今生きている私たちにも、これから生まれてくる人々にも用意されているのは、この命の水の川です。

 この聖書の最後に描かれている命の水の川は、聖書全体を貫いて流れています。

 聖書の中で最初に川が流れ出すのは創世記第2章、エデンと呼ばれる楽園からです。エデンから一つの川が流れ出て、園を潤し、そこから四つに分かれて世界に広がってゆきます。その川の水は、人を潤す神の愛、生きて働く神の命の象徴です。

 神の祝福を世界に広げるために選ばれたのがイスラエル民族です。アブラハムとサラから始まったイスラエルの歴史は、やがて非常な苦しみの時期に至ります。エジプトにおける奴隷生活です。神さまはモーセをとおしてイスラエルの人々をエジプトから脱出させられました。イスラエルの人々は、約束の地カナンを目指して長い荒野の旅をすることになります。

 荒野の旅にはさまざまな恐ろしい困難が生じました。その一つは水の不足です。ひどい渇きに陥った人々はモーセに詰め寄り、「なぜ、我々をエジプトからこんなところまで連れ出したのか。我々と子どもたちや家畜まで、渇きで殺すためなのか」と不平と怒りと憎しみを投げつけ、その勢いはモーセを殺しかねないほどでした。モーセは苦しんでそれを神に訴えました。すると神は、こう言われました。

「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」出エジプト記17:6

 モーセは杖をもってホレブの岩を打ちました。するとその岩から水が流れ出て、民は水を飲むことができました。まことにそれは命の水。民を潤し、その命を救うものでした。

 それからおよそ1200年を経て、神の子、イエス・キリストが人としてこの地上に来られました。人の魂が潤いを失い、渇ききっていたときでした。
 ヨハネ福音書にこう記されています。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」ヨハネ7:37‐38

 イエスこそ、この荒廃した人の魂と世界をいやしうるおす命の水を持っておられるのです。イエスから命の水をいただく者は、自分がうるおされるばかりではなく、人をもうるおす者となるというのです。
 しかし、地位と力と富を持った人々はイエスを憎み、イエスを捕らえて裁判にかけました。兵士たちはイエスをあざけり打ちたたきました。

 イエスは十字架の上で「渇く」と言われました(19:28)。

 永遠の命の水をご自身のうちに持っておられる方は、ご自分の命の水を人のために注ぎ尽くして、反対に人々の渇きを自分のものとして「渇く」と叫ばれたのです。

 イエスは十字架の上に息絶えられました。そのわき腹を兵士の槍が突き刺したとき、血と水が流れ出た、とヨハネによる福音書は記しています(19:34)。
 イエスのわき腹から血のみならず水が流れ出たのは、イエスがご自身の命の水を世の人のために最後の一滴まで差し出し尽されということです。

 イエス・キリストは人の渇きと世界の荒廃を嘆かれたばかりではなく、その渇きと荒廃をご自分が引き受けられて自ら渇き、やつれ衰えて十字架の上に死なれました。それは私たちに命の水を飲ませ、うるおし、生かすためでした。人の渇きはイエスが引き受け、イエスの命の水は人に与えられたのです。私たちの傷はキリストの傷となり、キリストのいやしは私たちのいやしとなった。私たちの死はキリストが引き受け、キリストの命は私たちのものとなったのです。これを宗教改革者ルターは「あり難い交換」と言っています。

 命の水の川は、人が流した涙と汗と血を受け入れています。神はここに、人のすべての悩みと罪と労苦を受け入れられたのです。しかし神の子イエス・キリストが涙と汗と血を流されたので、キリストが一切を引き受け、一切を清めてくださったので、今、命の水の川は平和に、清く、美しく流れています。
                   (2007/05/13 京都聖三一教会)

朽ちないものに──「コリントの信徒への手紙 1」

 コリントはギリシアの大都会。パウロは第2回の宣教旅行のときにコリント教会の基礎を築いた。その後コリント教会は発展したが、富める者、力ある者たちの横暴と貧しい人たちの疎外(11:22)、教会の分裂、生活の堕落、礼拝の混乱(12:3、14:33)、福音の歪曲といった問題がはなはだしくなった。

 パウロはこれを心配し、あるべき信仰と生活を回復させるために情熱をこめてこの手紙を書いた。「ローマの信徒への手紙」とは異なり、パウロの感情が前面に出た手紙である(例えば4:8‐21)。パウロのコリント滞在は50年頃、この手紙は54年頃。

1. 1:1‐2「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」

 ソステネはおそらくコリントのユダヤ教の元会堂長。パウロへの迫害に荷担しなかったために群衆によって捕らえられ、法廷の前で殴りつけられた(使徒言行録18:17)。
 「聖なる者」がここに2回繰り返される。「あなたがたはすでに聖なる者とされた(清められた)のだから本来のあり方に戻れ」というパウロの願いが込められている。

2. 1:22‐24「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

 「十字架につけられたイエス・キリスト」こそが福音の中心。神の子の苦難と卑賤が人と世界を根底から造りかえて救う。これが見失われるとき、この世の誤った価値観と力が教会を支配するようになる。
 
3. 3:6‐7「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」

 「成長させてくださる神」を第一とすることによって、私たちは人間の業績、派閥意識から自由になる。また無力感や思い煩いから解放される。
 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」12:27

4. 10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

 パウロは厳しいことを語りつつ、危うい人、困難を抱えた人を心にとめて支えようとする。

5. 13:12‐13「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 

 私たちが神を知っている知り方は部分的であり、あいまいである。けれどもかならずはっきりと知る時が来る。しかし神はすでに私たちをはっきりと知っていてくださる。

6. 15:3‐5「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」

15:13‐14「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」

15:52‐53「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」

15:58「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」


 キリストの復活と私たちの復活を語る第15章はこの書簡の中核。復活があるから、私たちの信仰も宣教も無駄ではない。


○パウロはこの手紙によって、コリント教会の具体的な現実に厳しく踏み込んだ。このためコリント教会の指導者たちとの関係が悪化するが、やがて時を経てコリント教会に嘆きと悔い改めが起こる。それが反映しているのが「コリントの信徒への手紙2」である。

○この手紙には当時の社会現実を反映して、女性に沈黙と従順を求める言葉がある(14:34‐35)が、これを普遍的なキリスト教の教えと理解すべきではない。聖書における女性の存在と働きについての一番重要な記述は、復活の主イエスの最初の証人としてのマグダラのマリアの物語である(ヨハネ20:11‐18)。彼女は「使徒たちへの使徒」である。

○新約聖書の書簡を私たちは信仰的教訓集のように読むことがある。しかしそれにとどまるのではなく、著者と宛先の人々の具体的な出会い、出来事、経験、関係、現実の中で、著者が宛先の人々の中に新しくキリストをもたらそう(現実化しよう=ガラテヤ4:19参照)として書いた切実な手紙として読みたい。キリストが私たちの中に生まれることが著者の祈りであり、願いである。
                        (2007/05/13)

日ごとの聖句263 2007/5/13〜19 創造

2007年5月13日(日)復活節第6主日
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を見せた。ヨハネの黙示録22:1

5月14日(月)
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。創世記1:1‐2

5月15日(火)
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。創世記1:3

5月16日(水)
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。創世記1:4‐5

5月17日(木)
神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。創世記1:6‐7

5月18日(金)
神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。創世記1:8

5月19日(土)
わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。詩編121:2

「昭和改元の詔書」

 4月29日は、今年初めて「昭和の日」という祝日でした。

 これについては聖公会生野センターの『ウルリム』に書きましたが、その内容は『ウルリム』が出されてからにして、「昭和」が定められた時の「詔書」をご紹介します。

 昭和改元の詔書(天皇の署名・印──御名御璽──で出される重要な公文書)というのがあります。昭和という元号はこれによって開始されました。
 
 わかりにくいので、後に現代語訳をつけます。
 
 
朕皇祖皇宗ノ威靈ニリ大統ヲ承ケ萬機ヲ總フ茲ニ定制ニ遵ヒ元號ヲ建テ大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト爲ス

 御 名 御 璽

    大正十五年十二月二十五日

内閣總理大臣   若槻禮次郎
陸軍大臣   宇垣 一成
海軍大臣   財部  彪
外務大臣 男爵葦原喜重郎
文部大臣   岡田 良平
内務大臣臨時代理      
逓信大臣   安達 謙藏
逓信大臣   安達 謙藏
司法大臣   江木  翼
大蔵大臣   片岡 直温
鉄道大臣 子爵井上匡四郎
農林大臣   町田 忠治
商工大臣   藤澤幾之輔


 このように天皇の名と責任で公にされ、諸大臣が副書しています。「大臣」とは「天皇の大いなる臣下」という意味なのでしょうか(確認中)。
 
 おおざっぱに訳します。
 
 「自分(=天皇)は自分の祖先のおごそかな霊によって大いなる統治権を継承し、天下の政治を支配している。ここに定めに従って元号を建て、大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年とする。」

 「昭和」はこのように天皇の主権の確認宣言から始まったのです。
 
 日本書紀に記されている「日本は天皇のものであり、この国の統治者は天皇である」という神話にもとづいた詔書です。これは日本国憲法の主権在民と相容れません。

 この一点だけでも、私は「昭和の日」に賛成できません。

新約聖書・書簡を読む会 5月

 5月の新約聖書・書簡を読む会は次のとおりです。
 となたでもどうぞ。
 
とき・ 5月10日(木)10:30から12:00
ところ・京都聖三一教会 2階ベストリー

テサロニケの信徒への手紙 機‖3章を中心に

「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」3:7‐8

アーメン

2007年5月6日 復活節第5主日

               ヨハネ黙示録19:1、4‐9

 紀元1世紀末、ローマ帝国ドミティアヌス皇帝の時代、教会は大きな問題に直面していました。ローマ皇帝を神として礼拝するように強制されたのです。「主にしてわれらの神」──これが皇帝ドミティアヌスの称号でした。

 キリスト教徒の多くはこれを拒み、迫害を受けることになりました。ヨハネの黙示録はそのような時代に、困難のうちにある信徒を励ますために書かれた一種の秘密文書と言われます。著者ヨハネ自身が迫害を受け、捕らえられて、エーゲ海のパトモスという島に幽閉されていたのです。

 ある主日のこと、彼は神の霊に満たされ、天上の礼拝を目撃します。24人の長老たちが玉座に着いておられる方の前にひれ伏してこう祈っていました。
 「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。」黙示録4:11

 主にしてわれらの神! 世界を創造し、独り子を人類の救いのために遣わされたこの方こそ、その称号を受ける唯一の方なのです。いかに権力を持とうと人間にすぎない皇帝は、そのような者ではありえません。
 天上の礼拝は次第に高まり、「アーメン、ハレルヤ」の合唱がこだまします。

 「アーメン」は「ほんとうに」「確かにそのとおり」という意味です。

 アーメンは、イエスさまよりはるかにさかのぼる、イスラエルの古い誓いの言葉です。「真理」「真実」「確実」の意味を持つヘブライ語「エメト」から来ているそうです。

 旧約聖書・申命記第27章でモーセは次のように言っています。
 「『隣人との地境を動かす者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言わねばならない。」
 「『盲人を道に迷わせる者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言わねばならない。」
 「『寄留者、孤児、寡婦の権利をゆがめる者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言わねばならない。」
 「呪われる」などという言葉が出てくることに戸惑われる方もあるでしょうが、これは弱い立場の人を守り抜こうとされる神の情熱の反映なのです。「アーメン」と唱えるとき、そこには人の命がかかっていたのです。

 詩編第41編の作者はこう歌います。
 「いかに幸いなことでしょう、弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき、主はその人を逃れさせてくださいます。」
 「主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン。」

 人が神に向かってアーメンと祈り、唱えるばかりではありません。神は人を支え導こうとして「ほんとうに」「確かに」真実をもって立ち続け、働き続けて来られました。紀元前6世紀のある預言者はこう語ります。

 「この地で祝福される人は、真実の神(原文は「アーメンの神」)によって祝福され、この地で誓う人は真実の神(アーメンの神)によって誓う。」イザヤ65:16

 神が人を愛されるその愛の真実と確かさを体現しておられたイエスさまは、ぜひとも聞いてほしい大事なことを言うとき、こう言われました。「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」(たとえばヨハネ1:51。新共同訳では「はっきり言っておく」と訳されています)。

 パトモス島のヨハネは、神の霊に満たされたとき、主イエスの声を聞きました。
「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。』」黙示録3:14‐16

 私たちは今、皇帝礼拝を強制されてはいません。しかし学校現場において、信仰的良心から「君が代」強制に抵抗して迫害を受けている人々がいることを忘れてはなりません。

 「アーメン」と唱えるとき、弱いものを守り抜こうとされる神の真実と情熱に対し、私たちも真実と情熱をもって答える思いをこめたいと願います。

(日本聖公会京都教区ホームページ「今週のメッセージ」に掲載されたものです。)

日ごとの聖句262 2007/5/6〜12 詩編第41篇

2007年5月6日(日)復活節第5主日
主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。黙示録4:11

5月7日(月)
いかに幸いなことでしょう、弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき、主はその人を逃れさせてくださいます。詩編41:2

5月8日(火)
主よ、その人を守って命を得させ、この地で幸せにしてください。貪欲(どんよく)な敵に引き渡さないでください。詩編41:3

5月9日(水)
主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。詩編41:4

5月10日(木)
わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」詩編41:5

5月11日(金)
主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン。詩編41:14

5月12日(土)
二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」黙示録19:4
最近の記事
Archives
最近の関心

 『日韓キリスト教関係史資料』第3巻の編集
 リコーダーの世界
 音と響き
井田 泉
奈良基督教会牧師
親愛幼稚園園長
富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
聖公会平和ネットワーク共同代表

Mail
izaya*da2.so-net.ne.jp
(*を@に変更してください)

カウンター
最新刊
『これが道だ、これに歩め
──イザヤ書による説教』
かんよう出版
213頁 1500円+税

ここをクリックして
  ←左本文をご覧ください
ブログ内検索

WWW を検索 http://blog.livedoor.jp/izaya/ を検索