Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2007年06月

<ご案内> ライアー と笛 の調べ

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  音楽会のご案内

 次のように音楽会を行いますのでどうぞご参加ください。

                      聖三一幼稚園   
                        園長 井田 泉






と き・2007年7月4日(水)10:45

ところ・京都聖三一教会・聖三一幼稚園礼拝堂


 〒604-8403 京都市中京区聚楽廻(じゅらくまわり)中町(なかまち)45
(千本丸太町一筋西下る)
 電話075-841-3281

 JR嵯峨野線(山陰本線)「二条」駅、地下鉄「二条」駅から北へ徒歩10分
市バス「千本丸太町」から南西へ徒歩5分


ライアー と笛 の調べ

      演奏・小野純子さん (ピアニスト、ライアー奏者)


 ライアー(Leier)は20世紀初めにドイツで考案された竪琴です。
園長も一部笛で共演します。皆さまと一緒に静かであたたかな響きのひとときを過ごせたらさいわいです。

 これは「地域子育て支援」の一環として行うものです。保護者に限らず、どなたでもご参加ください。小さいお子さまづれでも結構です。


予定プログラム

  プレリュード(バッハ)
  雨だれ/森で(シュレーダー)
  たなばた
  星
  ゆりかごのうた
  ぶらんこ
  ブラームスの子守歌
  シューベルトの子守歌
  メヌエット(バッハ)
  春の日の花と輝く
  The Ash Grove
  ローレライ

略図
京都聖三一教会

沖縄県議会の意見書──沖縄戦集団自決について


 去る6月22日、沖縄県議会は意見書を発表しました。これは沖縄戦集団自決についての教科書記述について文部科学省が削除・修正の検定意見を付けたことに対して撤回を要請するものです。

 こうした文部科学省の姿勢は、一連の日本近現代史の美化・正当化の動きの一環であると思います。 

 私は日本の歴史・文化を全否定すべき価値なきものとは考えません。反対に、多くの貴い、記憶、継承、発展させるものがあると思います。たとえば万葉集の中にそれを数多く見出します。 日本の歴史と文化の良きものと聖書の福音が出会うところから、神の国のしるしがこの地、この時代に現れるでしょう。そのために私たちは信仰の歩みをしているのです。 

 しかし自国のなしたおびただしい負と悪の事実をあいまいにし、相対化し(相対化とは、どこの国でもそうしたことはしてきた、と言うこと)、やがて美化正当化することは、恐ろしい罪です。これは神がもっとも嫌われるものです。 

 かつて預言者エゼキエルをとおして神は、神の民イスラエルについてこう言われました。

 「彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。」6:9‐10

「主なる神はこう言われる。手をたたき、足を踏み鳴らして、イスラエルの家の忌まわしいすべての悪事を嘆け。」6:11

「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。」36:25‐29

 神によって清められ、新しい霊を置かれ、汚れから救われ、新しく神の民としていただいて歩むことが、日本に生を受けた私たちの祝福の道であると信じます。

 戦争の罪の責任を回避することによっては日本の再生は不可能です。罪と責任の告白という破れから、キリストのいのちが注ぎ込まれます。 ディートリッヒ・ボンヘッファーは「罪の告白とは、キリストが教会に突入してくださることである」と言いました。

 私たちの教会はそのような信仰共同体でありたいと願います。 

(以下、沖縄県議会意見書)

意見書全文

 去る3月30日、文部科学省は、平成20年度から使用される高等学校教科書の検定結果を公表したが、沖縄戦における「集団自決」の記述について、「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」との検定意見を付し、日本軍による命令・強制・誘導等の表現を削除・修正させている。

  その理由として同省は、「日本軍の命令があったか明らかではない」ことや、「最近の研究成果で軍命はなかったという説がある」ことなどを挙げているが、沖縄戦における「集団自決」が、日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものである。

 また、去る大戦で国内唯一の地上戦を体験し、一般県民を含む多くのとうとい生命を失い、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、今回の削除・修正は到底容認できるものではない。  よって、本県議会は、沖縄戦の実相を正しく伝えるとともに、悲惨な戦争を再び起こさないようにするためにも、今回の検定意見が撤回され、同記述の回復が速やかに行われるよう強く要請する。 以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。

 平成19年6月22日 沖縄県議会

         衆議院議長 参議院議長 内閣総理大臣 文部科学大臣          沖縄及び北方対策担当大臣あて

憐れみと祈りの霊

             ゼカリヤ12:9‐10、13:1

 旧約聖書はイエスさま以前の書物であって、イエスさまを知っていたわけではありません。イエスさまよりもはるか前、それぞれの時代の困難の中で、生きる道を切に求めた人々の労苦の積み重ねの中から旧約聖書ができていきました。旧約聖書は救い主を預言する約束の書物、新約聖書はその約束の実現を告げる書物、と言われます。事実そのとおりだと私も思います。
 けれども、旧約聖書はイエスさまを直接知っていたわけではなく、その時代の人々の営み、その時代の嘆きや希望が記されたものと、まずは理解することが大切です。

 にもかかわらず、イエスさまを知っていたはずのない旧約聖書の中にしばしば、あまりにも明確にイエスさまを指し示す言葉、場面が出て来ます。今日の旧約聖書日課であるゼカリヤ書12章の後半から13章の初めも、その例です。

 そこに入る前に、ゼカリヤ書の次の言葉を聞きましょう。第9章9節には「ろば」が登場します。

「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。」

 イエスさまがろばに乗ってエルサレムに入場されたとき、人々は「このゼカリヤ書の言葉がここで実現している」「この言葉は、この日、この時をあらかじめ告げていたのだ」と思ったのでした。

 そこで今日の13章です。

「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。」12:10
 荒廃し、混乱し、疲れ切った人々。愛も憐れみ感じることができず、祈る力もなくなった人々に、神さまが、神ご自身が「憐れみと祈りの霊を注ぐ」と言われます。

 イエス・キリストの誕生は神の霊、聖霊によったのです。イエスさまがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたとき、天が開いて、聖霊が鳩のように降ってイエスに留まりました。イエスが故郷ナザレに帰り、安息日の礼拝で聖書を朗読されたとき、神の霊はイエスの上におられました。神の憐れみの霊がイエスに注がれてイエスと共に働き、祈りの霊がイエスに注がれたのでイエスは祈られました。
 イエスがおられるところ、そこには愛と憐れみが生じました。

 今日の福音書はこのように始まっていました。
「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。」ルカ9:18
 祈っておられるイエスの祈りは、共にいる弟子たちの中に祈りを呼び起こすのです。

 しかしイエスは秩序破壊者として捕らえられ、死刑の判決を受けて十字架の上に死なれました。釘と槍はイエスのからだを刺し貫きました。
 今日のゼカリヤ書。

「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」ゼカリヤ12:10
 
 十字架の下で独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しんだのは、母マリアです。そして弟子たちであり、イエスを愛していた人々です。けれどもその悲しみはやがて多くの人々に広がって行きました。

 自分たちは、罪のない人を十字架につけて殺してしまった。自分たちをもっとも愛してくださった方を、もっともひどい仕方で手にかけて命を奪った。直接手を下したのでないとしても、この方を守れなかった。見殺しにした。自らがイエスのからだを刺し貫いたことを嘆きながら人々は十字架のイエスさまを見つめて嘆きます。嘆きは人々の魂を突き刺しました。

 しかしそのように嘆く者を、イエスが見つめておられます。イエスを仰ぎ見つめて、自分がこの方を突き刺したと感じて悔いる者の嘆きをイエスが聞いておられます。その姿をイエスが見つめておられます。

 嘆きと悲しみから新しいことが始まります。

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」ゼカリヤ13:1

 罪のない人を死なせた嘆きと悔いと悲しみから、赦しと清めが起こりました。
 一つの泉が開かれた。命の泉。憐れみと祈りの泉です。
 十字架のイエスのわき腹から憐れみと祈りは湧き出て、嘆く人々のうちに注がれ、人々の嘆きの中から深い悔い改めと新生が始まります。イエスの憐れみと祈りは、人々の罪と汚れを洗い清める泉となり、その水は注がれて人々のうちに憐れみと祈りを生み出します。

 イエスの憐れみと祈りの霊は、いま私たちに注がれて、私たちも憐れみを受け、憐れみの心を持つようになる、イエスの祈りの霊は私たちに注がれて、私たちも祈るようになるのです。
 いのちの泉はイエスから湧き出て、私たちの中に新しい泉を開くのです。

                   (2007/06/24 京都聖三一教会)

日ごとの聖句270 2007/07/1〜7 詩編17

2007年7月1日(日)聖霊降臨後第5主日
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。ガラテヤ5:1

7月2日(月)
主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください。詩編17:1

7月3日(火)
主よ、御前(みまえ)からわたしのために裁きを送り出し、あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。詩編17:2

7月4日(水)
主よ、わたしはあなたの道をたどり、一歩一歩、揺らぐことなく進みます。詩編17:5

7月5日(木)
あなたを呼び求めます。神よ、わたしに答えてください。わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。詩編17:6

7月6日(金)
主よ、慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を、右の御手をもって救ってください。詩編17:7

7月7日(土)
瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください。詩編17:8

平和を祈る聖餐式

   平和を祈る聖餐式

「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び
大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。」ゼカリヤ8:12

 国民投票法案の成立により、日本国憲法の「改正」が現実の日程にあがりました。数知れぬ人々の苦しみと悲しみが「二度と戦争によって人を死なせない」という決意となって憲法にこめられたはずですが、その精神が失われようとしているかに思われます。

 聖書に耳を傾けて平和の福音(エフェソ6:15)を分ち合い、聖餐をとおして平和の主(競謄汽蹈縫3:16)のいのちにあずかり、主の平和の実現を祈り求めましょう。ぜひご参加ください。

日時・2007年7月14日(土)午後2時から4時
司式・井田 泉司祭
説教・韓 相 敦(ハンサンドン)執事(京都聖ヨハネ教会)通訳つき
   「私にとって平和とは──韓国と日本の間で」

 韓相敦執事は大韓聖公会から京都教区に初めて迎えた宣教協働者(宣教師)です。昨年6月に来日、ウイリアムス神学館、日本語学校で学びつつ、京都聖三一教会で実習されました。今年3月にご家族が合流され、4月から京都聖ヨハネ教会牧師補として勤務しておられます。日本と韓国、過去と現在と未来にまたがる有益なお話を伺うことができると思います。

場所・京都聖三一教会
〒604-8403 京都市中京区聚楽廻(じゅらくまわり)中町(なかまち)45
(千本丸太町一筋西下る)
電話075-841-3281

JR嵯峨野線(山陰本線)「二条」駅、地下鉄「二条」駅から北へ徒歩10分
市バス「千本丸太町」から南西へ徒歩5分

主催 日本聖公会京都教区宣教局社会部
協賛 平和を求める夕の祈り
   聖公会平和ネットワーク・京都

憐れみと祈りの霊を

憐れみと祈りの霊を

 京都教区宣教局平和学習委員会発行のリーフレット「たね・あかし」2号に祈りを書きました。


  憐れみと祈りの霊を

 神よ、この世界を憐れんでください。私たちの国は二度と戦争はしないと誓ったのに、いつの間にか戦争で苦しんだ人々、死んだ人々のことは忘れ去り、大量の最新兵器を増し加え、周りの国を脅かすほどになってしまいました。多くの人々を死に追いやった過去を忘れ、自分を正しいとする空気が広がっています。
 かつてエレミヤは、大地の下から、戦争によって子どもたちを失った母ラケルの嘆きを聞きました。私たちもその声を聞くことができますように。

 主イエスよ、憐れんでください。あなたは、殺されたアベルの血の叫びをご自身のものとし、祈り叫びつつ十字架に死なれました。あなたは十字架において世と私たちの罪を負い、贖いを成し遂げてくださいました。あなたは私たちの病をご自身の病として引き受けていてくださることを信じます。あなたの愛と支えがあってこそ、私たちは現実を見つめ、引き受ける勇気を持つことができます。あなたの復活の命によって、私たちとこの世界を新しくしてください。私たちの魂をあなたの平和で満たし、私たちの国と社会に平和の福音が実現するようにしてください。
 
 聖霊よ、私たちを憐れんでください。病み衰えた教会にあなたの命の息を吹き込んでください。あなたは今もうめきつつ私たちのために祈っていてくださることを信じます。あなたに包まれて、私たちも望みを捨てずに教会に託された使命を祝福のうちに行い、平和の実現のために祈り働くことができますように。

 三位一体の神よ、私たちに憐れみと祈りの霊を注いでください。主の御名によってお願いいたします。アーメン

(関連聖句。創世記4:10、エレミヤ31:15、ゼカリヤ12:10、マタイ2:18、ローマ8:26、ヘブライ12:24)


死んだ人々は、還ってこない以上、
生き残った人々は、何が判ればいい?

死んだ人々には、慨く術もない以上、
生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいい?

死んだ人々は、もはや黙ってはいられぬ以上、
生き残った人々は沈黙を守るべきなのか。

(ジャン・タルジュー『詩人の光栄』から。渡辺一夫訳。『きけ わだつみのこえ』岩波文庫より)

日ごとの聖句269 2007/6/24〜30 ゼカリヤ書から

2007年6月24日(日)聖霊降臨後第4主日
わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。ゼカリヤ12:10

6月25日(月)洗礼者聖ヨハネ誕生日
娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。ゼカリヤ2:14

6月26日(火)
すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。ゼカリヤ2:17

6月27日(水)
万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くありなさい。ゼカリヤ7:9

6月28日(木)
彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義に基づいて、彼らの神となる。ゼカリヤ8:8

6月29日(金)使徒聖ペテロ・使徒聖パウロ日
平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。ゼカリヤ8:12

6月30日(土)
その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。ゼカリヤ13:1

日ごとの聖句268 2007/6/17〜23 潤す

2007年6月17日(日)聖霊降臨後第3主日
人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる。ガラテヤ2:16

6月18日(月)
あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴(したた)る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。詩編36:9

6月19日(火)
あなたは地に臨んで水を与え、豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。詩編65:10

6月20日(水)
あなたは地を備え、畝(うね)を潤し、土をならし、豊かな雨を注いで柔らかにし、芽生えたものを祝福してくださいます。詩編65:11

6月21日(木)
主は、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。イザヤ58:11

6月22日(金)
彼らは穀物、酒、オリーブ油、羊、牛を受け、その魂は潤う園のようになり、再び衰えることはない。エレミヤ31:12

6月23日(土)
わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。エレミヤ31:25

ミサとミサ曲──レクィエムについて(2)

1. ミサ=聖餐式

 キリスト教の中心的礼拝。イエス・キリストの最後の晩餐を継承・再現するもの。第1部はみ言葉、第2部は聖餐。司祭が聖別したパンとぶどう酒をキリストのからだと血として分かち合う。ローマ・カトリックでは「ミサ」と言い、プロテスタントでは聖餐式という。聖公会でも聖餐式と言うが、ミサという語も用いる。

2. ミサ曲

 聖餐式は、キリスト教がかつてローマ帝国の宗教となったこともあり、長くラテン語で行われていた。聖餐式の中の祈りに対して多くの音楽家が作曲しており、これを「ミサ曲」と言う。バッハの「ロ短調ミサ」、モーツァルトの「戴冠ミサ」「レクィエム」、ベートーヴェンの「荘厳ミサ」などがその例(シューベルトはラテン語ミサ曲を六つ作曲。「ドイツ・ミサ」はドイツ語歌詞による独自のもの)。日本でも多数作曲されており、京都聖三一教会では松本正俊司祭が作曲したものを用いている。

3. 聖餐式の流れ

(準備の式)
み言葉の部
参入
キリエ(Kyrie主よ、憐れみをお与えください──これはギリシア語)
大栄光の歌(Gloriaグロリア)
特祷
旧約聖書
(詩編)
使徒書
福音書
説教
ニケヤ信経(Credo)
代祷
懺悔(赦罪──とりなしの祈り)


聖餐の部
平和の挨拶
奉献(Offertorium)
(パンとぶどう酒をささげる)
感謝聖別
 聖なるかな(Sanctusサンクトゥス)
 ほめたたえよ(Benedictusベネディクトゥス)
 聖霊を求める祈り(エピクレーシス=祈求)
 聖餐制定の言葉(アナムネーシス=想起)
主の祈り
神の小羊(Agnus Deiアニュス・デイ)
陪餐(=聖体拝領)
感謝
祝福・派遣


○聖餐式を司式するのは主教(司教)または司祭。
○赦罪・聖別・祝福が主教・司祭固有の働き。
○会衆の参加がより重視されるようになった。
○レクィエム(死者のためのミサ)ではこの中の一部が除かれ、別の祈りが加えられる。

                       (2007/05/20)

「レクィエム」という言葉──レクィエムについて(1)

 京都聖三一教会を練習会場のひとつとする合唱団コーロ・ピアチェーレのメンバーのために話したもののレジュメです。

1. はじめに

 「レクィエム」は今日では広く「死者を追悼する音楽」の意味で用いられることがあるが、本来は「死者のためのミサ」のこと。「ミサ」とは聖餐式(パンとぶどう酒をイエス・キリストの体と血として分かち合う礼拝)のことである。

 Requiem(レクィエム)はラテン語 requies(安息、平和)の対格。「死者のためのミサ」冒頭に用いられる言葉。
「死者のために祈る」(魂の平安を祈る)ことは、歴史的経緯と論議があり、ローマ・カトリックおよび聖公会では行うが、一般的にプロテスタント諸教会では行わない。

 カトリックでは第2ヴァチカン公会議(1962〜1965)以降の典礼改革により従来の形の「死者のためのミサ」は改められ、新しいものになっている。

2. レクィエム冒頭の祈り

Requiem aeternam dona eis, Domine,
安息を   永遠の  与えたまえ 彼らに 主よ
et lux perpetua luceat eis.
そして 光が 永遠の  照らすように 彼らを

 この言葉は旧約聖書続編の「エズラ記(ラテン語)」に出て来る次の言葉に基づいている。
「だから、わたしは言う。『聞いて理解する異邦の民よ、あなたたちの牧者を待ち望みなさい。彼はあなたたちに永遠の休みを与えてくださる。世の終わりに来られるはずの牧者は、近くにおられるからである。報いとして王国を受ける準備をしなさい。やがて永遠の光が永久にあなたたちを照らすからである。』」2:34‐35

 預言者エズラの約束の言葉が、後に祈りとして用いられるようになった。

 このレクィエム冒頭の祈りは、日本聖公会現行祈祷書(1990)「葬送式」では次のように用いられている(355頁)。

  司式者 主よ、永遠の平和を彼に与え
   会衆 絶えざるみ光をもって照らしてください

                           (2007/05/20)

<ご案内> 楽天堂・豆ランチパーティー 7月10日

(転載です)

7月10日(火)豆ランチパーティー

「六畳の部屋は ひとの国──尹東柱の詩をよむ」


 次回の豆ランチパーティーは、楽天堂の近くにある京都聖三一教会の牧師さん、井田泉先生をゲストとしてお招きし、韓国の詩人、尹東柱(ユン・ドンジュ)の詩を紹介していただきます。

 尹東柱は1942年に来日し、京都の今出川通りにある同志社大で勉強していましたが、治安維持法違反で逮捕され、45年の2月に獄死しています。27歳でした。

 治安維持法違反といっても、ハングルで詩を書いただけです。美しい詩です。時代を超えて今でも韓国の人々に愛されています。

 詩人がどうして捕らえられなければならなかったのか、その時代背景についてもあわせて、お話していただこうと思います。

 いつものとおり一品持ちより大歓迎です。
 場所は楽天堂の予定です。10時半から14時。会費は会員1300円、一般1800円。
 お子さま連れも歓迎します。前々日までに楽天堂までご予約下さい。

 井田先生が翻訳された尹東柱の詩をひとつ、ここで紹介します。


「たやすく書かれた詩」

窓の外には 夜の雨がささやいて
六畳の部屋は ひとの国

詩人というのは悲しい天命であると知りつつも
1行の詩を書いてみるか。

汗のにおいと愛のにおいの ふくよかに漂う
送ってくださった学費封筒を受けとって

大学ノートを脇に抱えて
老いた教授の講義を聞きに行く。

考えてみれば 幼いときの友を
ひとり、ふたり、みな、失ってしまい

わたしは何を願って
わたしはただ、ひとり沈むのか。

人生は生きがたいというのに
詩がこのようにたやすく書けるのは
恥ずかしいことだ。

六畳の部屋は ひとの国
窓の外に夜の雨がささやいているが

灯火をともして 闇を少し追いやり
時代のように来る朝を待つ 最後のわたし

わたしは わたしに 小さな手を差し出して
涙と慰めで握る 最初の握手

                   1942.6.3



楽天堂・豆料理クラブ
Mail exchange@rakutendo.com
HP http://www.rakutendo.com    
〒602-8354 京都市上京区下立売通七本松西入西東町364-14
TEL (075)811-4890
FAX 020-4665-6740 or (075)811-4890



神の慰め──「コリントの信徒への手紙 2」

 パウロは前回の手紙(コリントの信徒への手紙 1)で、コリント教会の現実に言及し、間違った教会と信仰のあり方を厳しく批判した。そのためコリント教会の指導者たちとの関係が悪化したが、やがて時を経て教会に嘆きと悔い改めが起こった(7:7)。そこで再度パウロが書き送ったのがこの手紙である(2:1‐2)。
 もともと一つの手紙ではなく、いくつかが集められてこの形になったとの説もある。
 他の文書もそうではあるが、この手紙には非常に大切な内容が数多く含まれており、時を置いて繰り返し読むことによって新しく福音の光に照らされる思いがする。

1. 1:4‐5「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」

 神が、あらゆる苦難の中で私たちを慰めてくださる。神が私たちを通して、苦難のうちにある人々を慰めてくださるので、私たちも人々を慰めることができる。パウロはこの手紙の冒頭で、苦しみと悩みのうちにある人々に優しい心をもって語りかけた。他からは受けることのできない慰めを受けることが、信じる者に与えられる恵みである。

 プロテスタント初期の重要な著作「ハイデルベルク信仰問答」(1563)は次のように始まっている。

〈問〉生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの慰めは何ですか。
〈答〉体と魂を持つ私が、生きるにも死ぬにもともに私のものではなく、私が信頼する救い主イエス・キリストのものである、ということです。

2. 1:8‐10「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。」

 これはエフェソでパウロが経験した迫害のことを指していると思われる(使徒言行録19:21、コリント? 15:32)。

3. 3:6「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」
3:16‐17「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」


 キリスト教信仰とは、固い枠にはめられて不自由になることではなく、自由にされることである。制度、決まり、習慣、秩序は、私たちがイエス・キリストの自由と情熱に触れ、それに動かされて神の国の実現に向かうためにある。聖霊は私たちに自由のいのちを吹き込む。

4. 4:6‐10「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」

 私たちは土の器、神の尊いいのちと栄光が宿り働くための道具である。土の器としてはもろくはかないものであるが、尊いものを宿すものとして尊いものである。
 イエスの死が私たちのうちに宿るとき、イエスの命が私たちのうちに働く。

5. 5:13‐14「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」

 神の愛と力が私たちを動かすので、信仰は時には常識や通念の範囲を大きく超えてしまう。

6. 11:23‐25「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。」

11:29「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」


 パウロは手紙を書きながら思いが高まり、自分の苦労をさらけ出すことになった。神に仕えた人間パウロのありのままの姿をここに見ることができる。

7. 12:7‐9「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

 私たちはしばしば「高慢」と「絶望(あるいは間違った自己卑下)」の両極に陥りやすい。パウロは現実に何かの病ないし激しい苦痛を抱えていた。それは取り去られなかったが、しかし神が自分の弱さをとおして、力をもって働いてくださることを知った。

8. 13:13「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」

 「祝祷」として用いられる言葉はここから来ている。聖書には「三位一体」という言葉はないが、この手紙が三位一体の神への祈りで締めくくられていることを大切にしたい。

○コリントの教会に宛てた二つの書簡は、教会の現実に取り組んだ実践的なものでありつつ、イエス・キリストの本質とその働きを明確にあらわしている。   
   (2007/06/10)

「昭和の日」

  4月29日は「昭和の日」でした。「みどりの日」は5月4日に移されました。休みが増えるのはありがたい。でもどういうことなのでしょうか。

 「みどりの日」はこれまで4月29日でした。元は昭和天皇の誕生日だったのです。今回昭和天皇の誕生日があらためて「昭和の日」とされました。調べてみたところ、超党派の「昭和の日」推進議員連盟(約400名)が運動し、「昭和の日」推進ネット加盟者が170万人の署名を集めてついに実現に至ったとのことです(特定非営利法人「昭和の日」ネットワークのホームページより)。

 「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と政府は説明しています。けれどももっとはっきりした主張が背景にはあります。「昭和の日」推進ネット会長(当時)は次のように述べています。「『昭和の日』実現を願うのは、身をていして日本に平和を取り戻された昭和天皇のご聖断とご遺徳をしのび、62年強という史上最長のご治世において、日本を世界の一流国に仕立て上げた栄光の『昭和』を国民の脳裏に刻みたいとの思いからだ。」(産経新聞「談話室」平成ママ14年1月19日)。

 私は、歴史が「明治」「大正」「昭和」という元号で区分されることに疑問を持っています。これは歴史、時間が天皇の代によって区切られるということです。暦というものは、誰を(何を)中心に「時」を、「時間」を理解するか、という深い問題に関係しています。

 日本の元号は中国の王朝が定めた年号にならったものでしょう。王朝が並立する場合、その国(皇帝)が定めた年号が通用する範囲が、その国の支配が及ぶ範囲です。年号は皇帝の支配を具体的に表わすものです。たとえば、魏、蜀、呉の三国鼎立の時代、五丈原の戦いの年、西暦234年は、魏では「青龍」、蜀は「建興」、呉は「嘉禾」何年と言っていました。その国の年号を使うことは、自分がその国の支配のもとにあることを認めることになります。
 
 旧約聖書の出エジプト記12:1‐2にこう書いてあります。

 「エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。『この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。』」

 これに従って、それまでエジプトの暦によって生活してきたイスラエルの民は、神がイスラエルをエジプトから救出してくださる(くださった)その月を正月(年の初め)と決め直したのです。これは、エジプトのファラオ(王)の支配から神の支配のもとに移る、という信仰告白です。神の救いの時を時間の基準、歴史の原点とするのです。
 
 先日、ちょっとした事件があって警察を呼びました。書類に署名することになり、日付で「平成」と書いてあるところに「2007」と書くと、お巡りさんは元号で書いてほしいと言います。「私は書かないので必要ならそちらでどうぞ」と言いました。するとお巡りさんは自分で「19」と書いた後、私に訂正印を求めました。

 尹東柱(ユンドンジュ)は、「昭和18年」春、「平沼東柱」として来日し、立教大学の便箋に「たやすく書かれた詩」を記しました。

「灯火をともして 闇を少し追いやり
時代のように来る朝を待つ 最後のわたし
わたしは わたしに 小さな手を差し出して
涙と慰めで握る最初の握手」

そして末尾に「一九四二.六.三」と書きました。その便箋の写真が残っています。「昭和」と書く以外に許されなかった時代。しかし彼にとってはどうしても「一九四二」でなくてはならなかったのです。

 昭和改元の詔書(天皇の署名・印のある重要な公文書)があります。読みづらいので現代語に訳します。
「わたしは自分の祖先のおごそかな霊によって大いなる統治権を継承し、天下の政治を支配している。ここに定めに従って元号を建て、大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年とする。」

「昭和」はこのように天皇の主権の宣言から始まったのです。

 1945年8月15日は、大日本帝国という巨大な牢獄からの解放の日です。神がその不法な支配を終わらせ、アジアと日本を解放してくださった、と私は理解しています。1945年を歴史の基準とすべきだと思います。「昭和」はアジアの隣人にとっては胸の痛む言葉であることを思うと、祝日が増えたことを手放しで喜ぶことはできません。あえて「昭和期」と言うなら、平和憲法こそその時期の最大の宝物です。
                (聖公会生野センター『ウルリム』第43号 2007/05/30)

日ごとの聖句267 2007/6/10〜16 花

2007年6月10日(日)聖霊降臨後第2主日
わたしはこの福音を、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。ガラテヤ1:12

6月11日(月)使徒聖バルナバ日
主を畏れることは、知恵の冠。平和の花を咲かせ、健康を保たせる。シラ書1:18

6月12日(火)
主の祝福こそ、信仰深い人の受ける報い。主は、幸せの花を、速やかに咲かせてくださる。シラ書11:22

6月13日(水)
乳香のように香りを放ち、ゆりのように花を咲かせ、声をあげて、共に賛美の歌をうたえ。すべての御業のゆえに主をほめたたえよ。シラ書39:14

6月14日(木)
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。マタイ6:28

6月15日(金)
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。マタイ6:29

6月16日(土)
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。あなたがたにはなおさらのことではないか。マタイ6:30

6月の新約聖書・書簡を読む会

 6月の新約聖書・書簡を読む会は次のとおりです。
 となたでもどうぞ。
 
とき・ 6月14日(木)10:30から12:00
ところ・京都聖三一教会 2階ベストリー

テサロニケの信徒への手紙 第4章を中心に

「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」4:14
「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」4:17‐18

日ごとの聖句266 2007/6/3〜9 自由

2007年6月3日(日)三位一体主日・聖霊降臨後第1主日
彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」イザヤ6:3

6月4日(月)
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。出エジプト記20:2

6月5日(火)
主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、捕らわれ人には自由を告知させるために。イザヤ61:1

6月6日(水)
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。競灰螢鵐13:13

6月7日(木)
主の霊のおられるところに自由があります。競灰螢鵐3:17

6月8日(金)
御(み)救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。詩編51:14

6月9日(土)
真理はあなたたちを自由にする。ヨハネ8:32


 聖三位一体を記念する主日の週のテーマを「自由」としました。
 
 父なる神(造り主)
 子なる神(救い主イエス・キリスト)
 聖霊なる神(命の与え主)

 父と子と聖霊なる三位一体の神は自由の神であり、私たちに自由をもたらしてくださいます。
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