Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2007年08月

日ごとの聖句279 2007/9/2〜8 あなたの神

2007年9月2日(日)聖霊降臨後第14主日
島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。イザヤ41:1

9月3日(月)
この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは、主なるわたし。初めであり、後(のち)の代(よ)と共にいるもの。イザヤ41:4

9月4日(火)
わたしはあなたを固くとらえて言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。イザヤ41:9

9月5日(水)
恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。イザヤ41:10

9月6日(木)
わたしは勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。イザヤ41:10

9月7日(金)
わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う、恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。イザヤ41:13

9月8日(土)
苦しむ人、貧しい人。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。イザヤ41:17

水仙の花

 今日、あることがきっかけで水仙の花を歌う韓国の詩に出会い、訳してみた。
 
 作者は金東鳴(キム・ドンミョン)。1900〜1968。
 詩人、政治評論家。
 日本統治下、国民学校の教師をしていたころにつくった詩のひとつ。

 この詩は金東振(キム・ドンジン)が作曲して歌曲にもなっている。

 なお、同じ金東振の作曲になる金東鳴の「わたしの心は湖」は、私にとって最愛の韓国歌曲である。とてもむつかしいのでちゃんと歌ったことはない。これもいずれ訳してみたい。


 水仙の花

あなたは とても冷たい意志の羽で
果てしない孤独の上を飛ぶ
切ない心。

またそして 慕って死ぬ
死んでまた生きて またふたたび死ぬ
いたわしい魂ではないか。

注ぐところのない情熱を
胸のなか深く隠して
冷たい風にほほえむ寂しい顔よ。

あなたは神の創作集の中で
もっとも美しく輝く
不滅の小曲。

またわたしの小さな恋人だから
ああ、わたしの愛 水仙の花よ
わたしもあなたに従って あの雪の道を歩もう

立派に語るイエスの血

         ヘブライ12:22‐24

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、……新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」ヘブライ12:22、24

 「あなたがたが近づいたのは」と語られています。あなたがたは近づいた。遠ざかったのではなく、近づいた。シオンの山に近づいた。
 シオンの山とは、エルサレムの神殿、礼拝をささげる聖なる場所です。私たちは神のおられるところに近づいた。生ける神の都、天のエルサレムに近づいた。私たちは神ご自身に近づいたのです。

 神に近づくと聞こえる声があります。叫びか、呻きか、祈りか、呼びかけか、だれかの切実な声が聞こえるのです。

「あなたがたが近づいたのは、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」

 イエスの声が聞こえる。イエスの流された血が呼びかけている。

 アベルの血とは何でしょうか。これは旧約聖書・創世記第4章に記された話です。創世記によれば人類の最初はアダムとエバ。その二人に与えられたのが二人の子、カインとアベルです。人類の最初の兄弟です。ところがカインは弟アベルを憎むようになり、ついにカインは野原で不意打ちして弟アベルを殺してしまいます。アベルの血が流されました。

 神さまがカインに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねられると、カインはこう言います。
「知りません。わたしと弟の番人でしょうか」

 ところが神はカインに言われました。
「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」

 神は、土の中から叫ぶアベルの血の声を聞かれました。アベルの嘆きと訴えと叫びを神は聞かれたのでした。

 同じように今日、新約聖書・ヘブライ人への手紙は、あのときアベルの血が地の中から叫び語っていたとすれば、それ以上に、流されたイエスの血は叫び語っているではないか
、と言うのです。

 イエスは捕らえられ、不当な裁判を受け、十字架にかけられ、その血は土に注がれました。それだけ言えば痛ましい、恐ろしいことです。

 けれどもそこだけに止まってはなりません。イエスさまの流された血、地に注がれた主イエスの血にこめられた意味を知りましょう。その血は何かを呼びかけています。

 第一に、イエスさまの血は、苦しみの血です。苦しめられた者の血です。ですからそれは、私たちの悲しみ、私たちの憤り、嘆きを知っておられる血です。イエスは不当に、理不尽に捕らえられて血を流された。そのゆえに、この世界の理不尽、私たちの痛み、破れを、それらすべてをイエスはご自分に引き受けて、吸収される。イエスの血は「あなたのことは私が引き受けている」と呼びかけています。「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」です。

 第二に、イエスさまの血は、命の血です。疲れ、圧迫、孤独、葛藤を重ねて、命が枯渇していくということが私たちにあるとすれば、その私たちを愛し、生かしてくださる血です。イエスの血は、私たちの命となってくださいます。

 第三に、イエスさまの血は、情熱の血です。イエスは圧迫され、迫害を受け、非難中傷されても、生きる道を変えられませんでした。神を信じて、人を生かす道、神の国の道を情熱をもって歩み通された。イエスの情熱というのは、「あなたがたは貴いものである」ということです。この悲しみと圧迫と悩みある世界にあっても、あなたがたは生きてほしい、しっかり生きてほしい、たとえ死んでも生きてほしい、私はあなたが滅びることを許さない。それがイエスの情熱です。イエスの血は熱い血、私たちを生かす情熱の血です。

 イエスさまの血は、私たちの苦しみを引き受ける。イエスさまの血は私たちの命となる。イエスさまの血は情熱をもって私たちを支え生かす。私たちを引き受け、私たちの命となろうとされるイエスの呼びかけがはっきりと聞こえる。私たちが近づけばはっきりと聞こえるのです。

 私たちの間で、今日はひとりの方が、そのように神さまに近づかれました。

 私たちを招き、支え、生かしてくださるイエスの呼びかけの中で、ひとりの兄弟が洗礼を受けることを願われました。
 ただいまから洗礼志願式を行います。

(2007/08/26 京都聖三一教会)

Day by day

 京都教区の聖職按手式のための聖歌隊で Day by day という歌を練習しています。それが非常に良かったので訳してみました。
 
 Martin How(1931年生まれ)


Day by day,       日ごとに

dear Lord,       愛する主よ

of thee          あなたに
 
three things      三つのことを

I pray:          わたしは祈り求めます。

to see thee more clearly,   もっとはっきりとあなたを見ることを、

love thee more dearly,    もっと心からあなたを愛することを、

follow thee more nearly,  もっと近くあなたに従うこと

day by day.        日ごとに。


 以下はこの詩を敷衍した祈りです。

日ごとに
  何となく毎日ではなく、一日一日を新しく

愛する主よ
  あなたに呼びかけます。

あなたに
  わたしが願うもの、それはあなたのものです。あなたからいただきたいのです。

三つのことを

わたしは祈り求めます。

もっとはっきりとあなたを見ることを、
  わたしの目はかすんでいてあなたをよく見ることができません。わたしの目は濁っていて、あなたがよく見えないのです。あなたをはっきりと見ることができるようにしてください。

もっと心からあなたを愛することを、
  わたしの心は乱れて、あなたのことを考えても複雑になってしまったり、反対にあなたを忘れてしまったりします。

もっと近くあなたに従うことを、
  あなたの間近におらせてください。遠くからおずおずとではなく、中途半端ではなく、もっと近くあなたのそばにいて、決意して従わせてください。

日ごとに。
  あなたを見ること、あなたを愛すること、あなたに従うことにおいて、日ごとに成長することができますように。

 2007/08/25

日ごとの聖句278 2007/8/26〜9/1 ぶどうの木

2007年8月26日(日)聖霊降臨後第13主日
万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください。詩編80:15

8月27日(月)
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。ヨハネ15:5

8月28日(火)
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。ヨハネ15:5

8月29日(水)
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。ヨハネ15:7

8月30日(木)
あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。ヨハネ15:8

8月31日(金)
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。ヨハネ15:9

9月1日(土)
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。ヨハネ15:14

地上に火を投じるために

               ルカ12:49

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」ルカ12:49

 今日の福音書の冒頭、イエスさまの言葉です。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

「イエスさまは地上に火を投ずるために来た」と言われます。「その火が既に燃えていたら」と、火が燃えることを願っておられます。
 その火とはどのような火なのでしょうか。イエスさまが願われる火とは何なのでしょうか。

 旧約聖書から二つの場面を思い浮かべてみます。
 一つ目は、出エジプト記第3章。紀元前13世紀。場所はホレブ(シナイ山)です。モーセに現れた火です。

「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。』」3:1‐3

 燃え尽きない柴。燃え尽きない火。これは神の愛の火です。
 イスラエルの人々がエジプトで虐げられ、うめき苦しんでいたとき、神をそれを見捨てられなかった。神は人々の苦しみを顧みられました。神の愛の火は、苦しむ人々のために燃えました。
 モーセはすでに80歳。苦労して、忍耐して、努力して、老いて、燃え尽きたと思われたとき、しかし神の火は燃え尽きていなかったのです。
 神の火を受けたモーセは、苦しみと虐げの中にあるイスラエルの人々を救い出すために立ち上がります。神がそれを彼に強いられました。神に動かされてモーセは決意したのです。

 旧約聖書の二つ目は、イザャ書第6章。紀元前8世紀。場所はエルサレムの神殿。青年イザヤに現れた火です。

「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座(みざ)に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。』
 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
わたしは言った。
『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。』」イザヤ6:1‐5

 イザヤは、自分は死ぬと思いました。

「するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏(ひばさみ)で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
『見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。』」6:6‐7


 祭壇の火。燃える炭火。それを天使セラフィムのひとりが運んできてイザヤの唇に押し当てた。
 イザヤの口は大やけどをしたはずです。しかしそこに起こったのは、清めです。神の審きと清めと赦しが起こった。

 人の罪と、世の中の腐敗堕落。しかし神はこれを見限らずに、行動を開始しようとされます。イザヤは自分の唇を焼かれることをとおして、神の審きと清めと赦しを経験しました。自分が神の火で清められた。それは神がこの世界を清めていかれることのしるしです。イザヤはここから、神の言葉を伝える預言者としての働きを始めます。神が彼にそれをさせられます。神に動かされてイザヤは決意したのです。

 モーセに現れた神の火。イザヤに現れた神の火。いずれも神の愛の火です。同時にそれは審きの火、清めの火です。どんなことがあっても、人がどのようであっても、人と世界を正し、救おうとされる神の情熱の火です。

 神の愛の火が、神の清めの火が、神の情熱の火が、燃えていてほしい。この世界に、教会の中に、皆さんのひとりひとりの中に、神の火が燃えていてほしい。
 それをイエスは切に願われました。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

 その火は、平和をつくり出す情熱の火です。力で人を抑えつけるいつわりの平和ではなくほんとうの平和をつくり出す情熱の火です。

 火は燃えていないように見える。しかし必ず燃え残っているはずです。けっして消えきってはいないはずです。イエスさまは私たちの中に火を投じて、私たちを神の愛にふたたび燃えたたせてくださいます。
 イエスさまはご自分の身を焼くほどに愛の情熱を燃やして、私たちをご自身の働きのうちに生かし用いてくださいます。

(2007/08/19 京都聖ステパノ教会 平和礼拝)

日ごとの聖句277 2007/8/16〜25 山

2007年8月19日(日)聖霊降臨後第12主日
あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き、聖なる山、あなたのいますところにわたしを伴ってくれるでしょう。詩編43:3

8月20日(月)
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。マタイ5:1

8月21日(火)
イエスは群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。マタイ14:23

8月22日(水)
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。マルコ14:26

8月23日(木)
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる。ルカ3:5

8月24日(金)使徒聖バルトロマイ日
あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まりです。ヘブライ12:22

8月25日(土)
恵みの御業は神の山々のよう。あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。詩編36:7

シューベルトのピアノ演奏

 村田千尋『シューベルト』(音楽之友社、2004)
を読んでいたら、シューベルト自身のピアノ演奏について次のような記述があった。

 シュタードラーという人の言葉である。

「彼のピアノ作品を彼自身が弾くのを聞いたり見たりするのは、真の楽しみでした。美しいタッチで静かな手付きで、精神と感受性にあふれた透明な快い演奏をするのでした。」

 この後著者は、シューベルトが大演奏家、超絶技巧の持ち主ではなかったとして次に話を進めるのだが、私はシュタードラーの言葉こそが音楽演奏にもっとも大切なものであると考える。

 シューベルト自身がパガニーニのヴァイオリンの超絶技巧を聞いて驚嘆・感動しているし、私も大演奏や超絶技巧を否定する気はまったくない。しかし今日の音楽の世界の価値観が何かずれているのではないかという思いは持っている。

 大胆な比喩だが、音楽演奏と礼拝における聖書朗読を比べてみたらどうだろうか。

 聖書朗読者は聖書の内容を伝える仲介者、媒介者である。声がはっきりしっかり通って、読み間違いがないようにしたいし、そうする必要がある。しかし中心は、聖書本文の持っている意味、世界、リアリティが朗読者をとおして生きて聴き手に届いていくことである。

 たとえ朗々と立派に読もうと、聖書の内実を素通りした朗読であっては意味がない。まして朗読者が「私はこう読む」というふうに勝手に(恣意的に)抑揚をつけて表現したり、いかにも教訓を垂れたりするようなことをすると、聖書の持っている世界が損われてしまう。

 たとえ聖書朗読が流暢ではなくても、聖書の言葉、その意味世界、そのイメージが、朗読者をとおして生きて動きだし、聴き手に届くとすればそれがいちばん大切である。

 これは音楽演奏に通じないだろうか。その音楽そのものに込められているものを発見し、それに触れ、それに動かされて、自分をとおしてその音楽(あるいはその音楽を生み出した力、リアリティ──場合によっては神あるいは神の霊といってよい)が現実となっていくことに立ち会う(そのリアリティに動かされて演奏する)ということを演奏の基礎においてはどうだろうか。

 こんなことを言うのは、聞いていてたまに「どうしてそのようにそこで強弱をつけたり、テンポを動かしたりするのか、その必然性が感じられない」「整っているけれども心が感じられない」という経験をすることがあるからだ。

 聖書本文を朗読することをとおして、神が、イエスが、聖霊が語ってくださることを朗読者が祈り求めるように、演奏家はその音楽(楽譜の向こう側の実在──作曲家、あるいは作曲家をとおして働いた聖霊から来るもの)そのものにすでにこめられているものが、自分をとおして生きた現実となって現れることを願って(祈って)ほしい。

 このような聖書朗読、そのような演奏はけっして無味乾燥なものとはなりえない。逆にそこにその人の個性が、全存在が生かされ用いられるものとなるのである。
 

今昔物語集

 『今昔物語集』(角川ソファア文庫、ビギナーズ・クラシックス)を読んだ。

 関心が湧いたきっかけは、夢枕獏『陰陽師』『陰陽師──龍笛の巻』(文春文庫)を読んだことである。安倍晴明、源博雅の活躍が非常に面白かった。

 内容的には、生きている人の霊、死んだ人の霊のことが気になっている。特に今は8月、戦争で亡くなった人々のことを思わずにはいられない。

 『今昔物語集』は12世紀前半、平安時代末期に成立したとされる。インド、中国、そして日本の物語1000余を集めた膨大なものである。
 上記の文庫本に収められたものはそのごく一部であるが、原文、現代語訳に解説が付してあって読みやすかった。

「これを思ふに、さは生霊(いきずたま)といふは、ただ魂の入りてすることかと思ひつるに、早う、うつつにも我もおぼゆることにてあるにこそ」
(考えてみると、生霊(いきりょう)というものは、たんに魂が人に乗り移って祟ることかと思っていたが、なんと、生霊となった当人もはっきり自覚していることだったのだ。)
──近江国の生霊、京にて人を殺しし語(こと)

 霊の存在と働き、普通には見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりすることなどは、合理的に説明してすむこととは思えない。このあたりのことはいずれ丁寧に調べてみたいと思っている。

日ごとの聖句276 2007/8/12〜18 恐れるな

2007年8月12日(日)聖霊降臨後第11主日
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイ10:28

8月13日(月)
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。マタイ10:30‐31

8月14日(火)
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。ルカ12:32

8月15日(水)主の母聖マリア日
シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる。ろばの子に乗って。ヨハネ12:15

8月16日(木)
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」使徒言行録18:9

8月17日(金)
その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者。」黙示録1:17‐18

8月18日(土)
恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。サムエル記上12:20

母がその子を慰めるように

      イザヤ66:10−14

 聖書を読むときに、二つの読み方があります。ひとつは頭で読む、文字、文章として知的に読む方法です。もうひとつ読み方があります。それは心で読む、あるいはイメージとして読む、という方法です。頭で読むことと心で読むこと。知識的に読むこととイメージで読むこと。この二つの読み方が合わさって補い合い助け合って、よりよい聖書の読み方が深まっていきます。

 普通は前者、頭で読むほうが多い。神学校ではいっそうそうなりがちです。考えて、調べて、正確に、研究的に読もうとする。それは大事な、必要なことではあるのですが、大きな危険もある。なぜなら聖書は研究書ではなく、心に蓄えられ、心を伝えようとして、そのためにこそ文字で記されたものだからです。

 文字をとおして心を汲み取る。文字から読むのですが、文字をとおして心で聖書に触れていく。これを私は「黙想的読み」と言っているのですが、これは神学生に限らず、私たちにとってとても大切なことです。

 私は原則的に毎朝、この礼拝堂で三つの聖書日課を読みます。詩編と旧約聖書と新約聖書。そしてしばらく黙想します。全体を頭で理解しようとはせず、何か一言が心に近づくのを待っています。近づいてきた一言をしばらく心に繰り返して、目を開けたり閉じたりしながら思いめぐらします。

 そしてノートにその一言をメモします。今朝聞いた一言の聖書の言葉──これが今日生きる力です。

 今日の旧約聖書日課イザヤ書第66章から、そのような試みを今日はしてみましょう。

66:12
「主はこう言われる。
見よ、わたしは彼女に向けよう
平和を大河のように
国々の栄えを洪水の流れのように。
あなたたちは乳房に養われ
抱いて運ばれ、膝の上であやされる。」


1. 「主はこう言われる。」

神さまが何かを言われる。それに耳を傾けよう、という気持ちで次に向かう──これが黙想の始まりです。

2. 「見よ、わたしは彼女に向けよう」

「見よ」と呼びかけられているので、そちらを関心を持って見つめます。
「彼女」とはこの聖書ではエルサレムのことですが、今は自分のこととして聞きましょう。
神さまがこの私たちに、私に何かを向けようと言われるのです。

3. 「平和を大河のように」

神さまが私に平和を向けてくださる。平和が神さまから、私の方にやってくる。流れてくるのです。ひからびた私はうるおされる。しかもわずかではなく、細いみぞではなく、大河のように、と言われています。平和が大河のように流れてくる。私はどうなるか。私は包まれる。

「国々の栄えを洪水の流れのように」

私たちが必要とする豊かなあらゆるものが、洪水のように私たちに押し寄せる。
それはどういうことか、それは何か……といったことは黙想のときは気にしない。私に向かって近づき、私たちに向かって流れ寄せる平和。私たちをひたし、私たちを包み込む神の平和のイメージが心に現れ、それが心いっぱいに広がるまで時間をかけて待つのです。
(黙想)


4. 「あなたたちは乳房に養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる。」

赤ちゃんを抱くお母さんが出て来ました。
あなたたち──私たちは赤ちゃんとして語られていますから、私たちは気持ちのうえで赤ちゃんになってしまう。そんなふうにして乳房で養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされている自分を想像します。楽です。安心です。柔らかく、幸福で、満ち足りた気持ち。
(黙想)

66:13
5. 「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。
エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」


実は、私たちを膝の上であやしてくださる母とは、神さまのことだったのです。

神さまはただ父であるばかりではなく、私たちの母でもある。

神さまは私たちをこのうえなく大切に思い、私たちを抱き、私たちをご自分の膝の上であやし、私たちを慰めてくださる。私たちがそのようであればよいと願ったり期待したりする、というのではなく、神さまみずからが「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」と言われます。神の慰めの中に、私たちはやすんじて身をゆだねることができるのです。
(黙想)

(2007/07/08 京都聖三一教会)

詩編と賛歌と霊的な歌によって

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」コロサイ3:16

 私はこれまで何度か韓国のクリスチャンと会う機会があり、祈りを共にする機会がありました。韓国の人の祈りを聞きながら感じたことのひとつは、韓国人の祈りの中には頻繁に、自然に出て来るのに、自分も含めて日本人の祈りの中にはほとんど出て来ないものがある、ということです。それは、賛美、神をほめたたえるということです。私たちの祈りの中に、神への賛美を回復したい。感謝だけではなく、賛美の祈りをしたい。

 イエスさまは、幼子の中にとうとい神の真理が宿っているのをご覧になったとき、喜びに溢れてこう祈られました。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」ルカ10:21

 神をほめたたえる。神を喜ぶ。神賛美から、私たちは命と喜びを与えられます。

 今日の使徒書、コロサイ書でパウロは私たちにこう呼びかけています。

「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」

 詩編と賛歌と霊的な歌により、神をほめたたえる。それはどういうことでしょうか。新約聖書の三つの場面に近づいてみましょう。

 第一は、イエスさまの最後の晩餐の場面です。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。』一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」マルコ14:22‐26

 私たちが今、行っている聖餐式の源、最後の晩餐においてイエスさまは弟子たちと共に賛美の歌を歌われました。
 このとき歌われた賛美の歌というのは、実は詩編そのものだったそうです。どの詩編だったかも分かります。そのひとつは116編。

「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
死の綱がわたしにからみつき
陰府の脅威にさらされ
苦しみと嘆きを前にして
主の御名をわたしは呼ぶ。
『どうか主よ、わたしの魂をお救いください。』
主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。」116:1‐6


 イエスは死を前にして、ご自身のこととしてこの詩編を歌われました。
 「死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ、苦しみと嘆きを前にして、主の御名をわたしは呼ぶ」とは、そのときのイエスさまご自身のことでした。

 次の117編もそこで歌われました。

「すべての国よ、主を賛美せよ。
すべての民よ、主をほめたたえよ。
主の慈しみとまことはとこしえに
わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。」117:1‐2


 イエスを捕らえようとする手が迫るとき、死の恐れがイエスさまと弟子たちを閉じ込めようとするとき、詩編、賛歌、霊的な歌は、イエスと弟子たちを支え守ったのです。

 第二の場面は、それから20年ほど後、パウロとシラスがアジアからヨーロッパに渡り、フィリピで伝道したときのことです。二人は迫害を受けて捕らえられ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行かれました。

「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させている。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しています。」

 このように彼らは告発されました。
 二人は来ている衣服をはぎ取られ、何度も鞭で打たれて、それから牢に投げ込まれました。看守に厳重に見張られて、二人はいちばん奥の牢に入れられ、足には木の足枷をはめられました。

「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」使徒言行録16:25

 フィリピの牢獄の一番奥に、怪我をした二人は閉じ込められ、木の足枷をはめられている。人間的に言えば最悪の場面です。その二人が獄中で真夜中に賛美の歌をうたって神に祈っています。ほかの囚人たちはそれをじっと聞いています。

「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。」16:26‐27

 パウロとシラスはそれを押しとどめ、それがきっかけになって看守とのその一家はイエスを信じ、彼らから洗礼を受けました。

 三つ目の場面は、新約聖書の最後、ヨハネの黙示録に描かれた天上の礼拝で、神への賛美の合唱が響き渡っています(黙示録5:9、15:3)。新しい歌、モーセの歌、小羊の歌が歌われます。

 これら三つの場面に共通するのは、現実には非常な苦しみがあり、死の危険があるということです。しかし詩編と賛歌と霊的な歌は、それに屈しない。神の国を実現させることは神さまの決意。必ず実現する。イエスはその神の国を目指して生きて働かれる。イエスに導かれ守られて、最初の弟子たちも、パウロもシラスも、苦しみを受けつつ、決して屈しない。虐げられるけれども絶望しない。神の国を切望し、信じて歩む。そこに、賛美の歌があったのです。

 私たちの教会に、日本のキリスト教会に、また私たちひとりひとりに、賛美の歌を回復したい。詩編と賛歌と霊的な歌を取り戻したい。それは現実の壁を乗り越えさせるとともに、現実を造りかえていく力を持っているのです。

 神さまが、私たちひとりひとりの心に賛美を与え、私たちの唇から賛美の歌を歌わせてくださいますように。

(2007/08/05 京都聖三一教会)

『キリスト教会と旧約聖書』

 8月2日、京都のヨルダン社に寄って支払いを済ませ、数冊をまた買った。
 そのひとつはA.ファン・リューラーというオランダの神学者による『キリスト教会と旧約聖書』という本である。教文館、2007年8月1日初版発行とあるから、出たてのものである。

 ビールを飲んで、横になって斜め読みしただけなので、内容の紹介もできず、まして書評を記すという段階ではない。

 ただ2箇所のみ印象的な言葉を引用する。

「神にとっては我々を救うお方が重大なのではなく、このお方によって救われた我々が重大なのである。我々はキリスト者であり得るために人間なのではない。そうではなく我々は人間であり得るためにキリスト者なのである。」

「旧約聖書は証言であるが、それ以上のものではない。旧約聖書は裁判官ではない。なぜなら旧約聖書に対する、新約聖書のプラスが存在するからである。中心的に理解されているのはイエスの神性である。だがしかし、新約聖書に対する旧約聖書のプラスもまた存在する。中心的に理解されているのは神の国である。」

 旧約聖書のあらゆる記述の中に急いでイエス・キリストを見出すべきではない。旧約聖書本文そのものの中に、その時代その状況における神の救いの意志と働きが存在するので、それをまずは見出すことが大切である。
──私はそのように思っているので、旧約聖書にもとづいて説教するとき、イエス・キリストについて一語も触れないことがある。
 けれども逆に、旧約聖書の中にあまりにも鮮明にイエス・キリストの姿を見、その声を聞く、ということがある。

 そのような私の考え方に著者リューラーは反対してはいない、ということは何となく分かった。

 それにしてもどうして学者はこうもむつかしい議論の展開をするのだろうか。
 同じことをもっと明晰に、分かりやすく書けそうな気がするのだが。

 私は聖書から神の言葉を聞く。聖書全体と各文書、また個々の物語や記述の中に神の言葉を聞く。

 しかし「記録された聖書のすべての言葉が神の言葉である」という考えには反対する。聖書の中で、神と共に人間が語っていることがあり、神と独立して人間が語っていることがあり、また時には神に反して人間が語っていることがある。これには個別に丁寧な探求が必要だが、それが書かれた時代の価値観を反映していて今日においては「過ぎ去るべき言葉」であるものが含まれる。

 女性差別、「障害者」差別、大量殺戮を正当化するような箇所は、神の言葉では決してない。
 
 イエスさまはそのことを知っておられたから、こう言われたのではないだろうか。
「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」マタイ13:52

 天の国、神の国を中心に据えてこそ、聖書から真理を汲み出し、古い言葉の中から輝きつづける新しいものと、過ぎ去るべき古いものとを区別することができるのだ。

 私は「神の国」の内容を、キーワードとしては<愛、正義、平和>、また<自由と情熱>と理解する。

 カール・バルトは『福音主義神学入門』(1962年。邦訳、新教出版社)の中で次のように述べている。

「神学は聖書のテキストに、それが神のロゴスの証しをしようとしているのかどうか、それはどの程度までであるのかを問うことによって聖書の研究をする。聖書が、その完全に人間的な性格を持ちつつも神の言葉の鏡・共鳴であるということ、それがどの程度までなのか、ということはもちろんどこにおいても周知ではない。まさにこのことが繰り返し見ぬかれ、聞き取られることが求められている。」

 30年以上前の学生時代、聖書の内容を批判的に吟味してもよいしまたそうすべきだ、ということの根拠を、私はここに見出して励まされた記憶がある。
 私は、学生時代にカール・バルトに出会ったことを、今も感謝している。

ピアノはいつピアノに

 伊東信宏編『ピアノはいつピアノになったか?』という本を読んだ。
大阪大学出版会、2007

 8回にわたるレクチャー・コンサートをまとめたもの。共著。「歴史的ピアノの音」のCD付録つき。

 ピアノの誕生、ベートーヴェン、シューベルトの項などは面白かった。反対に、1920代や自動演奏ピアノの項などは自分の心に触れてこないので読み飛ばした。

 シューベルトについては、「ベートーヴェンの後で一体何ができるか」という悩みを軸に話が展開されている。それとしては興味深いが、シューベルトの本質そのものにもっと迫っていくことができるのではないか、という気がして物足りない。

 私の考えだが、シューベルトの深みに触れることは信仰の世界に関わってくる。例えば彼の最後の三つのピアノ・ソナタ、即興曲、ピアノ5重奏曲「ます」特に第2楽章、弦楽5重奏曲、最後の交響曲「グレイト」などは、音楽の中に、楽譜の向こうから霊的な働きかけが起こってくる。このあたりになると一般的な音楽評論の領域をこえてしまうだろう。

 こうしたことは私が尹東柱の詩に感じるのと通じている。尹東柱の詩は、信仰と切り離すことはできない。これはいずれ何かの形でまとめるつもりである。

日ごとの聖句275 2007/8/5〜11 苦難の僕

2007年8月5日(日)聖霊降臨後第10主日
見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。イザヤ52:13

8月6日(月)主イエス変容の日
かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。イザヤ52:14

8月7日(火)
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、好ましい容姿もない。イザヤ53:2

8月8日(水)
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。イザヤ53:3

8月9日(木)
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。イザヤ53:4

8月10日(金)
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎(とが)のためであった。イザヤ53:5

8月11日(土)
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。イザヤ53:5


 今週の日ごとの聖句は、8月6日の主イエス変容の日と広島・長崎の原爆を意識して選びました。

 原爆による痛ましい変容と、十字架の上の主イエスの変容を重ねて黙想したいと思います。

招魂

  招魂
        金素月

こなごなに砕けた名まえよ!
虚空の中に散った名まえよ!
呼んでも主人のない名まえよ!
呼んでから わたしが死ぬ 名まえよ!

心の中に残っている言葉ひとことは
とうとう終わりまで 言うことができなかった……
愛していた その人よ!
愛していた その人よ!

赤い太陽は 西山の頂にかかった。
鹿の群れも 悲しんで鳴く。
くずおれてしゃがんだ 山の上で
わたしはあなたの名前を呼ぶ。

悲しみに絶え入るまでに 呼ぶ。
悲しみに絶え入るまでに 呼ぶ。
呼ぶ声は 進みゆくけれども
天と地の間は あまりに広い……

立ったまま この場に 石となろうとも
呼んでから わたしが死ぬ 名まえよ!
愛していた その人よ!
愛していた その人よ!

(キム・ソウォル 1902〜1934) 私訳です。

鄭燦宇牧師 逝去10年の記念に 2005/7/3

金素月については私のホームページ
http://johnizaya.com/archives/category/kimsowol/
をごらんください。

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