Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2007年09月

平和を求める祈り

真理と平和の源である神よ

あなたの愛と平和をこの世界に満たしてください。

わたしたちとすべての人の心に平和を愛するまことの愛を燃やしてください。

あなたを畏れ敬う霊をお与えください。

どうか今、戦争、弾圧、災害などのために家族や住まいを失った人びと、離散させられた人びと、また飢えと暑さや寒さ、暴力や虐待、不安と恐れのうちにある人びとを顧み、あなたの救いのみ業を現わしてください。

亡くなった人びとに永遠の平安と慰めをお与えください。

あなたが今も平和の実現のために働いておられることを信じます。

私たちもまた平和を求め、平和を造り出す者として歩むことができますように。

神のみ子イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

(この祈りは日本聖公会祈祷書の諸祈祷「世界平和のため」をもとに、さまざまな出来事に出会う中で改訂増補を重ねたものです。昨日、9月28日の京都教区宣教局「平和の集い」でも用いました。)

日ごとの聖句283 ゆるし 2007/9/30〜10/6

2007年9月30日(日)聖霊降臨後第18主日
しかし神の人よ、あなたは正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。�汽謄皀�6:11

10月1日(月)
神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。�汽茱魯�1:7

10月2日(火)
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。�汽茱魯�1:9

10月3日(水)
御父がどれほどわたしたちを愛してくださることか。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実そのとおりです。�汽茱魯�3:1

10月4日(木)
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。�汽茱魯�3:2

10月5日(金)
御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。そのとき御子をありのままに見るからです。�汽茱魯�3:2

10月6日(土)
あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。�汽茱魯�3:5

サラとイエス

 逝去者記念礼拝があり、サラの話をしました。
 以下は語ったそのままではなく、概要です。


 私たちの信仰の元をたどっていくと、旧約聖書・創世記に出て来るアブラハムとサラにさかのぼります。

 アブラハムの妻、サラの死と葬りを語るのが創世記第23章です。

「サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」23:1‐2

「アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀四百シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。」23:16‐19

 サラの死と葬りはイエスの死と葬りを思い起こさせます。


「サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」創世記23:1‐2

「イエスの生涯は33年であった。これがイエスが生きた年数である。イエスはユダヤのエルサレムで死んだ。弟子たちは、イエスのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」

「その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。」創世記23:19

「アリマタヤのヨセフは、エルサレムの城門の外、ゴルゴタの十字架からイエスの遺体を引き取り、自分の新しい墓に葬った。」

 サラに起こったことはイエスさまに起こりました。イエスさまはサラのことをご自身に引き受けられました。


新約聖書 コリントの信徒への手紙�機�15:20‐22

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」

 葬られたイエスの復活は、葬られたサラに復活の命を与えます。

 死と葬りにおいてイエスと一つにされる者は、復活と永遠のいのちにおいてもイエスと一つにされます。

 それが今日、主の前に記念する兄弟姉妹のことであり、私たちのことなのです。

救いの泉から──9月の逝去者記念礼拝

 京都聖三一教会 9月の逝去者記念聖餐式の聖書箇所です。

 礼拝は2007年9月22日(土)午後2時から


旧約聖書 イザヤ書12:2‐4

「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった。」
あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む。
その日には、あなたたちは言うであろう。
「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。」

使徒書 ヨハネの黙示録7:14‐17

長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」

福音書 ヨハネによる福音書4:13‐15

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

平和の風──京都聖ステパノ教会創立24周年にあたって

「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかに……を選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」使徒言行録6:5‐6
 
 昔、イスラエルの荒れ野に、風が吹いていました。風に吹かれて、葦がそよいでいました。群衆がいて、弟子たちがいて、イエスがおられました。
 風は自由に吹く。

 ごうごうと大きな音を立てて風が吹きました。聖霊の風。その風は人を動かしました。風は教会を誕生させ、風は福音を運んでいきました。

 イスラエルに吹いた風は、アジアに吹き、ヨーロッパに吹き、アメリカに吹き、やがて海を渡って日本にまで届きました。
 風は京都に吹き、京都の教会の鐘を鳴らし、桂川を渡ってこの地に人を集めました。

 1982年9月、桂集会所が始まり、翌1983年9月、京都聖ステパノ教会が設立されました。24年前のことです。

 1985年11月、「ステパノ教会の使命、開拓伝道について考え祈ろう。教会の信徒の声は一致しました。」(3年前の創立記念感謝の祝会でのHさんのお話から)

 2001年10月21日、京都聖ステパノ教会は「平和宣言」を発表しました。

「私たちはイエス・キリストにより新しい命を受け、生かされている者として、イエスに倣う生き方をしたいと願い求める者達の集まりです。」

「9月11日にアメリカを襲った暴力による被害者の方々に深い哀悼の意を表します。」

「イエスに従うことはあらゆる暴力を否定することでもあります。」

「京都聖ステパノ教会は平和のために、すべての戦争に反対し、武力によらない解決方法を求めて行動します。」

 ステパノ教会は主の平和の風を受けています。

 2003年1月の教会委員会で教会建物の全面改修を決定。12月14日、新聖堂聖別式。
 それから2年と9ヵ月が過ぎました。

 この教会は、最初の殉教者ステパノの名前をいただいています。
 最初の教会が次第に発展していったとき、12弟子以外に指導者が必要になりました。そこで選ばれたのが7人の人で、これが執事職の起源。ステパノはその一人です。

「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかに……を選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」使徒言行録6:5‐6

 このステパノとステパノ教会には共通点があります。

 ステパノは必要とされて後から立てられたリーダー、私たちの教会は必要とされて京都の中で後から建てられた教会です。

 ステパノは祈られ、励まされて働きを開始した人。私たちの教会も京都じゅうの教会から、京都教区の諸教会から祈られ、励まされて出発した教会です。

 桂集会所が始まって25年、また来年は教会設立から25年です。私たちの教会の歩みを振り返り、今を考え、将来のビジョンを描きたい。

 復活の主イエスは弟子たちのところに来られてこう言われました。

 「あなたがたに平和があるように。」ヨハネ20:19、21、26

 「あなたがたに平和がありますように」

 これは今年の教会の宣教目標です。

 そしてイエスは弟子たちに息を吹きかけて言われました。

 「聖霊を受けなさい。」ヨハネ20:22
 
 聖霊は神さまの風、命の息です。
 
 桂川を渡って神さまの風が吹き、福音を運び、私たちを集めてくださいました。
 その風をとどめてはいけません。

 主イエスの命の息を、聖霊の風を、平和の風を受けて、私たちもその風を運ぶ者となりたいと思います。

               (2007/09/16 京都聖ステパノ教会)

日ごとの聖句282 2007/9/23〜29 真理

2007年9月23日(日)聖霊降臨後第17主日
神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。テモテ一 2:4

9月24日(月)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネ1:14

9月25日(火)
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。ヨハネ4:23

9月26日(水)
わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。ヨハネ8:31-32

9月27日(木)
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。ヨハネ14:6

9月28日(金)
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。エフェソ1:13

9月29日(土)聖ミカエルおよび諸天使の日
その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。ダニエル12:1

日ごとの聖句281 2007/9/16〜22 神の行進

2007年9月16日(日)聖霊降臨後第16主日
キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。テモテ一 1:12

9月17日(月)
神に向かって歌え、御名をほめ歌え。雲を駆って進む方に道を備えよ。その名を主と呼ぶ方の御前に喜び勇め。詩編68:5

9月18日(火)
神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。詩編68:7

9月19日(水)
主をたたえよ。日々、わたしたちを担い、救われる神を。詩編68:20

9月20日(木)
この神はわたしたちの神、救いの御業の神、主、死から解き放つ神。詩編68:21

9月21日(金)福音記者使徒聖マタイ日
神よ、あなたの行進が見える。わたしの神、わたしの王は聖所に行進される。詩編68:25

9月22日(土)
あなたの神は命じられる、あなたが力を帯びることを。神よ、力を振るってください、わたしたちのために行動を起こしてください。詩編68:29

わたしが飲む杯を飲み

 2007年9月8日、京都教区主教座聖堂で加納嘉人聖職候補生と三浦恵子聖職候補生の執事按手式が行われました。
 そのときの説教を掲載します。


          マルコ10:35‐45

 「救いの杯を献げ‖ 主のみ名を呼び求めよう」

 先ほどご一緒に唱えました詩編116:13の言葉です。

 ヨブ加納嘉人聖職候補生、アグネス三浦恵子聖職候補生のお二人が今日執事に按手されます。
 執事に按手されて最初に行う務めは、杯(チャリス)をささげ持つことです。

 「救いの杯を献げ‖ 主のみ名を呼び求めよう」
 この言葉を、聖職に召されるお二人と共に、私たちの心に刻みたいと思います。

 さて先ほど読まれた福音書、マルコ第10章35節以下で、イエスは「杯」のことを言われました。

「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」10:38

 この「杯」に思いを向けましょう。

「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」10:35‐37

 イエスが栄光の座に着かれるとき、その右と左に位置を占めたい。このような願いはまことに人間的、愚かな間違った要求であるという気がします。
 けれどもゼベダイの子ヤコブとヨハネはこのとき、何を思い、何を感じてこんなことを口にしたのでしょうか。

 イエスはまっすぐ、先頭に立ってエルサレムに向かって進んでおられました。従う弟子たちは恐れました。エルサレムで待っているのはイエスの受難と死であることを、すでに2度も聞かされていたからです。
 イエスはみたび12人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められました。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」マルコ10:33‐34

 12人のうちの二人、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、もう分からないふりをすることはできませんでした。イエスは死なれる。しかも迫害され、侮辱されて殺される。エルサレムはもう間近です。その時が迫っている。自分たちはどうなるのでしょうか。どうしてこういうことになってしまったのでしょうか。

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが最初にイエスに出会ったのは、ガリラヤ湖のほとりでした。彼らは漁師でした。ある日二人が舟の中で網の手入れをしていたとき、イエスが来られて二人を呼ばれた。呼ばれたので従った。そんな単純な言い方ではすまないのですが、突き詰めたらそういうことです。仕事も家族も大事な人のつながりや責任もあったのに、それを捨ててイエスに従った。この方が自分たちを呼ばれた。そして自分たちが決意した。これが出発点です。

 なぜかイエスは、ペテロとともに自分たちだけを連れて行かれることがありました。カファルナウムの会堂長ヤイロの娘が重い病で亡くなったとき、イエスはペテロと自分たち二人だけをその家に連れて行き、娘の部屋まで一緒に連れて入って子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。すると少女は起き上がったのです。少女が起き上がったことが考えられない奇跡でしたが、同時にその子をどんなことがあっても命に呼び返そうされるイエスの気迫は忘れられません。

 つい最近、イエスに連れられて、ペテロと自分たち二人は山に登りました。山の上でイエスの顔と衣服が光り輝き、この世のものとは思えない経験をしました。雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。とても恐ろしかったけれども、このイエスがほんとうに神の子であること、この方をとおしてほんとうに神が働いておられることを、ヤコブとヨハネははっきりと知ったのです。

 そんなことを経て、今、イエスはエルサレムで死のうとしておられる。ヤコブもヨハネも不安です。恐ろしい。イエスから離れて逃げてしまうか。そんなことはできません。自分たちの魂はイエスにすがりついているのです。それならもう、イエスと一緒に死のう。もし世の人たちがイエスを迫害し、嘲り、辱めたとしたら、イエスが間違っておられるのではなくて世の中が間違っている。イエスさまと一緒に迫害を受けて、侮辱されて、死んでよい。この方は神の子、この方の中に神がおられるのだから、殺されて死んでも神の栄光があるはずです。

「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」10:35‐37

「イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』」10:38

 二人は「できます」と答えました。イエスが飲まれる杯とはイエスの苦難と死のことです。自分たちはもうそれを決意し、覚悟しているのです。
 それに対してイエスは二人に何と言われたでしょうか。

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」10:39

 イエスは否定されませんでした。二人がイエスと共に死ぬ気でいることをよく分かられました。

 それからおよそ1週間して、木曜日の夕食の席となりました。エルサレムのとある家です。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」14:23‐24


 他の弟子たちと共に、ヤコブとヨハネはイエスの飲まれる杯から自分も飲みました。イエスと共にする食事は天国の食事。イエスが飲み、イエスから渡された杯は天国の杯。この上なくやさしく甘い杯でした。

「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」14:25

 食事の後、イエスは弟子たちを連れて祈るためにゲッセマネに行かれました。ペテロとヤコブ、ヨハネの3人だけを奥の方まで連れて行き、「わたしは死ぬほど悲しい」ともらされて、そこで祈っているように言われました。
 イエスは少し進んで行って地面にひれ伏して祈られました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」マルコ14:36

 そのとき、ヤコブもヨハネも眠っていました。イエスが捕らえられたとき、他の弟子たちと共にヤコブもヨハネも逃げました。イエスは不当な裁判を受け、神に対する冒涜者、また秩序破壊者として十字架の刑に処せられました。

 「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われて、「できます」と答えたのに、イエスの飲まれる杯を飲むことができませんでした。
 
 しかし聖書の記述はそれで終わってはいません。ヤコブもヨハネもそれで生涯が終わったのではありません。イエスの飲まれた杯を飲むことができなかったこの場所から、二人の新しい生涯が始まるのです。

 使徒言行録12:1‐2にこう記されています。

「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣(つるぎ)で殺した。」

 ヨハネの兄弟ヤコブは、イエスを宣べ伝える働きの中で迫害を受け、剣で殺されました。

 ヨハネの最期は分かりません。ひとつの言い伝えによれば、初代教会の重要な指導者のひとりとなったヨハネは、捕らえられて地中海のパトモスという島に幽閉されました。自分の命も危うく、教会の存続も危機に瀕していたとき、ヨハネは幻を見ました。人の罪とこの世の悪と混乱がいかに絶望的であっても、必ず最後は、神の恵みの溢れる世界が実現する、という幻です。ヨハネの黙示録はそこから生まれたと言われます。

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、結局、イエスの飲まれた杯を飲んだのです。

 「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われて、「できます」と答えたとき、イエスはこのふたりの真心と決意を知られ、その生涯を見通しておられました。ただ見通しておられたばかりではなく、その生涯を貴いものとして愛し、ご自身の御手で囲んでおられたのでした。

 このヤコブとヨハネとは、今日執事按手を受けられる二人のことです。
 今、執事に按手されるお二人に与えられるのはイエスの杯です。イエスと一緒に生きて死んで共に栄光を受けようと願ってください。ヤコブとヨハネのように。

 イエスの杯は、第一に祝福の杯です。愛に満ち恵みの溢れる甘い杯です。それをヤコブとヨハネは最後の晩餐において経験しました。新しく執事となられるお二人も、その生活と働きの中で、とりわけ聖餐式の中で、祝福の杯を十分に祝福とし恵みとして受けてください。そしてそれを人に渡してください。イエスが弟子たちに大切に杯を渡されたように、大切に人々に渡してください。

 第二に、イエスの杯は苦難の杯です。苦い杯です。どのように生きても、私たちには苦労がある。それなら、イエスと共に苦労しよう。イエスと共に生きてイエスと共に死のう。人と世の中に気を使うのでなく、神さまのことを思って生きよう。イエスと共に苦労を負うなら、イエスがその私たちを担ってくださいます。

 ひとつ危ういことがあります。ヤコブとヨハネは、イエスへの真心と死ぬ覚悟から、イエスの右と左に座ることを願いました。イエスはそれを貴いものとして愛されました。しかしその傍らに危険なものが潜んでいることをイエスは知っておられました。人より上に立ちたい、権力を手にして人を支配したい、というひそかな傾向です。今はそんなことは考えられないかもしれない。しかし年がいくほど、経験を重ねるほど、その危険は大きくなります。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。」マルコ10:43

「仕える者」――ディアコノス、deacon(執事)です。
 聖職として神と人に仕えようとするお二人の決意を、イエスは貴いものとして愛しておられます。

 第三に、イエスの杯は、救いの杯、天国の杯です。

「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」14:25

 私たちの将来、必ず私たちは神の国でイエスと共に杯を飲む。私たちは将来の救いの完成の約束をイエスさまから受け、神の国で共に飲む日を目指して、杯をささげるのです。

 どうしてこういうことになったのか。ほかにもっとふさわしい人がいたかもしれないのに、なぜ自分が聖職になることになったのか。それは、イエスがヤコブとヨハネを招かれたように二人を招かれたからです。二人をとおしてイエスが働かれます。招いてくださった方は、今から終わりまで、神の国で救いの杯を一緒に味わうときまで、責任を持ってくださいます。

 「救いの杯を献げ‖ 主のみ名を呼び求めよう」

しっかりと立つように──「エフェソの信徒への手紙」

「エフェソの信徒への手紙」は従来「フィリピ」「コロサイ」と共に、パウロが獄中から書き送った書簡「獄中書簡」とされてきた。しかし今日の研究では、パウロの精神の継承者が90年ころに書いたものとする説が有力になっている。

1. 1:3「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」

 この書簡の特徴の一つは、祈りの占める割合がとても大きいことである。

1:2、17-19、3:16‐21(3:20‐21は聖餐式の感謝・聖別の祈りで用いられる)、6:23‐24

2. 1:4「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」

 3節から神の救いのわざが大胆に語られていく。さらにキリスト、そして聖霊への言及が続き、三位一体の神が意識される。

3. 3:5‐6「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」

 エフェソ書の重要なテーマの一つは、ユダヤ人と異邦人がキリストによって一つに結び合わされる、ということである。敵対してきた者の一致と連帯が生まれる。

4:3‐4「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」

4. 6:10‐17「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」

 悪、悪魔に対してしっかり立って抵抗せよ──これが著者の呼びかけ。身を守る武具の記述が続くが、「霊の剣、すなわち神の言葉」のみが攻撃の武器。「立つ」はヨハネ19:25のマリアの姿。

5. 6:19‐20「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」

 著者は苦難(3:13)と捕らわれの中にある。そこから私たちに呼びかけ、また祈りを求めている。祈り合うことは私たちの力である。

(2007/09/09)

その名はヨセフ

 今日はTさんの洗礼を行います。

 準備の中で、教名を何にするかを考えた結果、「ヨセフ」と名付けることにしました。
 そこでヨセフがどういう人かをお話しします。聖書の中には、ヨセフの名前を持つ重要な人物が3人います。

 まず第一は、マリアの夫となり、イエスの父となったヨセフです。
 ヨセフはマリアと婚約中に、自分とは無関係にマリアが身ごもったことを知り、非常に苦しみました。マリアを傷つけないように密かに離縁することを決意しました。ところが夢に主の御使いが現れてヨセフに言いました。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」マタイ1:20‐21

 天使の言葉を信じたヨセフは、決意してマリアを受け入れました。
 そのころイスラエル、パレスチナを支配していたのはヘロデ大王でした。王は、自分に取って代わる新しい王となるべき人が生まれたという話を聞き、その子を殺そうとしました。
 天使が夢に現れてヨセフに言いました。

「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」マタイ2:13

 ヨセフは起きて、夜の間に赤ちゃんのイエスとその母マリアを連れてエジプトに逃げました。このヨセフがいたからこそ、イエスは守られて成長し、やがて福音の宣教を開始されるのです。

 第一のヨセフがイエスの誕生前から登場するのに対して、第二のヨセフはイエスの死後に登場します(マルコ15:42‐46)。アリマタヤの町の出身なのでアリマタヤのヨセフと呼ばれます。

 彼は、イエスを死に定めたユダヤ人の議会、最高法院の議員でした。彼はイエスの死刑に賛成ではなかったのですが、それを言い出すことができないまま、イエスは十字架につけられてなくなりました。ヨセフは、何の罪もないどころが、人々を愛して理不尽な死を遂げたイエスのことを思うと、ついに耐えられなくなって、ローマ総督ピラトのところに出かけ、イエスの遺体を引き取りたいと願い出ました。ピラトが許可したので、彼はイエスの体を十字架から取り降ろし、いずれ自分が入るために用意していた新しい墓にイエスを葬りました。

 アリマタヤのヨセフは、自分がイエスの仲間、弟子と見られることで自分の身に危険を招くことを覚悟しながら、イエスを自分の墓に葬ったのです。
 
 第一のヨセフがイエスの生涯の最初に現れてイエスを守り、第二のヨセフがイエスの生涯の最後に現れてイエスを引き取りました。この二人のヨセフをとおして、神はイエスのために働かれたのでした。

 ヨセフというのはもともとヘブライ語で「増し加える」という意味です。もう一人重要なヨセフが聖書に登場します。それは今お話ししたヨセフよりもずっと昔、紀元前千数百年以上も昔の人です。イスラエルの祖先はアブラハム。その子がイサク、その子がヤコブ、その11番目の息子がヨセフです。このヨセフのことは旧約聖書・創世記の後半に詳しく記されています。旧約聖書の中のもっとも印象的な物語の一つです。

 ヨセフは兄弟に憎まれたことからエジプトに奴隷として売り飛ばされ、そこで信頼を受けてエジプトの宰相、王に次ぐ位に登り、やがて自分をかつて迫害した兄たちを助けることになります。

 父ヤコブはエジプトのヨセフのところに引き取られ、年老いて死のうとするとき、12人の息子たちひとりひとりのために祈って亡くなります。ヤコブはヨセフについてこう言うのです。

「ヨセフは実を結ぶ若木
泉のほとりの実を結ぶ若木。
その枝は石垣を越えて伸びる。……
どうか、あなたの父の神があなたを助け
全能者によってあなたは祝福を受けるように。
上は天の祝福
下は横たわる淵の祝福
乳房と母の胎の祝福をもって。
……
これらの祝福がヨセフの頭の上にあり
兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように。」創世記49:22‐26

 この祈りをもって、Tさんの洗礼を行います。

(2007/09/09 京都聖三一教会)

日ごとの聖句280 2007/9/9〜15 見捨てない

2007年9月9日(日)聖霊降臨後第15主日
わたしは今日、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。申命記30:19

9月10日(月)
わたしは不毛の高原に大河を開き、谷あいの野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする。イザヤ41:18

9月11日(火)
わたしは目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる。わたしは見捨てることはない。イザヤ42:16

9月12日(水)
主はこう言われる。「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」イザヤ43:1

9月13日(木)
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。イザヤ43:2

9月14日(金)
わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。イザヤ43:3

9月15日(土)
わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4

『コルトー・ティボー・カザルス──夢のトリオの軌跡』

 ジャン・リュック・タンゴー『コルトー・ティボー・カザルス──夢のトリオの軌跡』(ヤマハミュージックメディア、2002)を読んだ。

 パブロ・カザルス 1876〜1973 チェリスト
 アルフレッド・コルトー 1877〜1962 ピアニスト
 ジャック・ティボー 1880〜1953 ヴァイオリニスト


 一部引用する。

 ピアニスト、コルトーは次のように言う。

「私たちが何を感じるかが大切です。そしてそれを私たちは表現すべきなのです。みせかけの客観性を再構築するのではなく、魂の真実の姿を再度作り上げることが大切なのです。それこそ、作品の『解釈』と呼べるでしょう。しかもそれは、魂の中で呼び覚まされた深い反響から来ており、書かれた楽譜に生命を与えることなのです。」

 「ムジカ」誌は次のようにコルトーの演奏について言っているという。

「彼の敬虔で情熱的かつ正確な技巧には、確実な練習から生まれた力が備わっている。彼のすばらしい技術は、音楽的なすぐれた感受性を開花させるには、申し分のないものだ。」

「彼はみずからが演奏する名曲に没頭している──つまり曲をよみがえらせ、命を与えるのだ。作曲家が望んだのとまったく同じように、作品の命を表現する。」

「コルトーは自分がピアノで弾く傑作に自分の個性を押しつけるような悪趣味に陥ることはない。」

「彼はあらゆる音楽に造詣が深いが、だからといって自分が演奏する作品にそぐわない表現を聴衆に押しつけようとはしない。コルトーの個性は、個性を押しつけようとしない点にこそ、存在しているのである。」

 このようなコルトーの演奏は、説教や聖書の朗読に本質的に通じるものがあると感じ、ここにメモしておくことにした。

 カザルスについて。

「カザルスは、提供されたストラディヴァリウスよりもモダンな楽器で弾くのを好んでいた。この名器は、あまりにも楽に美しい音が出過ぎるからだ。彼はこのような安易さを好まなかった。」
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