Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2007年10月

牧者となられる小羊

(諸聖徒日の説教)

「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
命の水の泉へ導き、
神が彼らの目から涙をことごとく
  ぬぐわれるからである。」ヨハネの黙示録7:17


 迫害のために捕らえられて、今は地中海の小島、パトモスに閉じ込められているヨハネは、天上の礼拝を見つめています。世を去った人々の群れが集まっています。

 天使なのか、それともすでに世を去った教会の指導者なのか、天において重要な働きをしていると思われるひとりの長老が、彼にこう語ります。まるで歌うごとくに語ります。

「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、
昼も夜もその神殿で神に仕える。
玉座に座っておられる方が、
この者たちの上に幕屋を張る。
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、
太陽も、どのような暑さも、
彼らを襲うことはない。
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
命の水の泉へ導き、
神が彼らの目から涙をことごとく
  ぬぐわれるからである。」7:14‐17


 見ると、平安のうちに召された人もあれば、迫害に抵抗して亡くなった人もある。世の不条理を訴えるすべもなく死んでいった人たちもあり、心の底で深い負い目と悔いを残した人もある。あまりに早い別れを嘆く人があり、心に体に傷を負っている人たちもいます。

 ヨハネが見ていると、玉座の中央におられた小羊が立ち上がられました。天の中央の座から離れて小羊キリストはその人々に近づいて来られます。

 17節の言葉を確かめてみます。

 「小羊が彼らの牧者となられる。」

 弱った者、傷ついた者、悲しむ者、悔いある者の傍らに小羊キリストは来られて、その人たちの牧者となられます。キリストがこの人たちすべての傷と悲しみと悔いを引き取って、その生涯全体を受け入れてくださる。

「わたしがあなたがたを引き受け、あなたがたを守り、あなたがたを養う。もう他のどこかに行く必要はない。わたしのところで憩いを得なさい。」

 小羊はその人々を「命の水の泉へ導かれる。」

 求めていたけれど満たされなかった。口ものども体も渇いて、渇ききってとてもとても苦しかった人を、小羊は命の水に導かれる。命の水は、その人たちをよみがえらせます。

 さらにヨハネが見ていると第3の光景が目に映ります。

 「神が彼らの目から涙をことごとく、ぬぐわれる」

 小羊と神とは一体なので、ここは小羊キリストが涙をぬぐってくださっていると読んでよいと思います。

 小羊イエス・キリスト。

 小羊。小さいもの。守られ養われ導かれなければならない、自分ひとりでは生きていけない危うい存在。それが小羊です。イエスはそのようなものとして、守られなければならない小さな危うい幼子として地上に来られました。クリスマスです。

 そしていま涙をぬぐってくださる方は、涙を知っておられた方です。

 ある礼拝の日、イエスは手の萎えた人と出会われました。働いてはいけないと定められた安息日です。イエスがこの人を癒せば、律法違反で告訴しようとしている人たちのかたくなな心をイエスは見て、悲しまれました(マルコ3:5)。

 ベタニヤのマルタ、マリアの弟ラザロが亡くなって葬られたとき、イエスはマルタ、マリアのところに来られました。

 マルタは言いました。「主よ、あなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」マリアも同じことを言いました。

 イエスはラザロの墓に行こうとして涙を流されました。

 何も悪いことはされなかったのに、理不尽にもイエスは捕らえられ、十字架の上で処刑されました。そのとき、イエスは「渇く」と叫ばれました。

 昔の預言者はこう言っていました。

「彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で病を知っていた。」イザヤ53:3(口語訳)


 今、涙をぬぐってくださる方は、そのような方です。

 小羊キリストが、私たちのために、また世を去った人たちのために、牧者となってくださいます。渇きを知っておられる方が命の水の泉へと導いてくださいます。悲しみの人で、涙を知っておられた方が、私たちと先に逝った人々の目から涙をことごとくぬぐってくださいます。

 主イエスさま、あなたは私たちのためにも、先に逝った人々のためにも、牧者となってくださいました。今日私たちが記念する人々に永遠の平安をお与えください。天と地を結び合わせてくださるあなたによって、聖徒の交わりを楽しませてください。

(2007/10/28 京都聖三一教会)

日ごとの聖句287 永遠の命 2007/10/28〜11/3

2007年10月28日(日)聖霊降臨後第22主日
神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。ユダ 21

10月29日(月)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

10月30日(火)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。ヨハネ4:14

10月31日(水)
わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである。ヨハネ6:40

11月1日(木)諸聖徒日
主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。ヨハネ6:68

11月2日(金)
わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。ヨハネ10:28

11月3日(土)
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。ヨハネ17:3

10/27 ライアー ロビー・コンサート

右京ふれあい作品展 ライアーによるミニコンサート

10月27日(土)午後2時〜 および午後3時〜

右京ふれあい文化会館 1階ロビー

出演・アンサンブル「プリモール」

 飯田和子 井原美代子 道上まみ 松本あかね 村田悦子
 山田祐子 山本文蓉  井田 泉(笛)  小野純子(主宰)


○10月27日(土)〜28日(日)
 お花、編物、絵画、俳句の作品展が行われています。

右京ふれあい文化会館
 右京区太秦安井西裏町11番地の6
 TEL (075)822−3349

聖書の中の音楽

 聖書の中に音楽が響いています。聖書の中から歌が聞こえてきます。
 今日は午後にコンサートをしますので、聖書の中の音楽についてお話しします。

1. 出エジプトの歌とタンバリン

 聖書に出てくる最初の楽器は竪琴と笛です(創世記4:2)。創世記にも音楽があるはずなのですが、表には出て来ません。音楽が表にはっきりと出てくるのは出エジプト記第15章です。

 紀元前13世紀、イスラエルの人々はエジプトの圧政に苦しんでいました。神さまに命じられてモーセはイスラエルの人々をエジプトから脱出させました。ところが後ろからはエジプトの軍隊が追ってくる。前は海。絶体絶命のとき、モーセが神の杖を差し伸べると水が左右に分かれ、海の中に道ができました。イスラエルの人々はその道を通って向こう岸に渡ることができました。そこに合唱が起こります。出エジプト記第15章。新共同訳には「海の歌」という標題がついています。

「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
主に向かってわたしは歌おう。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」15:1‐3


 このとき、楽器も登場します。モーセの姉、ミリアムがタンバリンを打ち鳴らします。新共同訳では「小太鼓」と訳されています。

「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。
主に向かって歌え。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。」15:20‐21


 神の救いのわざに対する感謝と賛美の礼拝。そこに合唱があり、楽器が鳴らされたのです。

2. 詩編の歌と合奏

 旧約聖書には詩編という祈りを集めた書物があります。全部で150ありますが、その最後、第150編は神への賛美の合唱です。

「ハレルヤ。
聖所で          神を賛美せよ。
大空の砦で        神を賛美せよ。
力強い御業のゆえに    神を賛美せよ。
大きな御力のゆえに    神を賛美せよ。
角笛を吹いて       神を賛美せよ。
琴と竪琴を奏でて     神を賛美せよ。
太鼓に合わせて踊りながら 神を賛美せよ。
弦をかき鳴らし笛を吹いて 神を賛美せよ。
シンバルを鳴らし     神を賛美せよ。
シンバルを響かせて    神を賛美せよ。
息あるものはこぞって   主を賛美せよ。
ハレルヤ。」150:1‐6


 これはおそらく礼拝の中で歌われたものでしょう。前半はひとりの先唱者が歌い、後半は会衆みんなが声を合わせたのではないかと思われます。
 ここには角笛、琴と竪琴、太鼓、弦、シンバルが出て来ます。管楽器、弦楽器、打楽器がそろっています。手にする楽器だけではありません。

「息あるものはこぞって   主を賛美せよ。」
 息をとおして出る声も楽器なのです。
 このように詩編の最後は、合唱と合奏で礼拝がささげられています。

3. イザヤの召命

 旧約聖書からもう一箇所を開いてみます。
 預言者イザヤの書第6章です。

「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。」イザヤ6:1‐2

 青年イザヤがエルサレムの神殿で祈っていたときのことです。彼はそこに神がおられるのを経験します。天使セラフィムが飛び交っています。セラフィムは声を合わせてこう歌います。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神
主の栄光は天地に満つ。」


 これは私たちが聖餐式の感謝聖別のところで歌っている「聖なるかな」(サンクトゥス)ですね。これはイザヤがこのときに聞いた天使の合唱から来ているのです。私たちも聖餐式の中でこれを歌って、セラフィムの合唱に加わるのです。

4. 最後の晩餐の祈りと賛美

 今度は新約聖書です。
 私たちが今ささげている聖餐式は、イエスさまの最後の晩餐を記念し、それを再現するものです。マルコ福音書の最後の晩餐のところを読んでみましょう。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。』
 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」14:22‐26


 最後の晩餐はユダヤ教の過越の食事であり、そのときに用いられた詩編は第116編その他であることが分かってきています。いくつかの詩編がその場で祈られ歌われたに違いありません。そしてその最後。

「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」

 イエスは弟子たちと共に賛美の歌を歌われた。そしてオリーブ山のゲッセマネに祈りに行かれました。
 私たちが聖餐式で歌を歌うのは、イエスさまの最後の晩餐につながるものとして大切な意味を持っています。

5. 天上の礼拝と小羊の歌

 聖書の最後はヨハネの黙示録です。これはローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に書かれた一種の秘密文書です。たとえば六百六十六という数字が出て来ます。これはローマ皇帝ネロを指すと言われます。ネロは残酷な迫害を行った皇帝。しかし直接名前を出すことを控えて象徴的な数字でそれを表わしたのです。

 黙示録は悪の力と神の力が戦い、最後に神の救いが完成するという壮大な幻の世界です。迫害によって捕らえられ、地中海のパトモスに幽閉されていた長老ヨハネがその幻を示されて書き留めたと言われます。

「わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。」15:2

 獣とその像というのはローマ皇帝とその像のことと思われます。迫害に打ち勝った人々が神の竪琴を手にしてガラスの海の岸に立っています。

「 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。
『全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、
驚くべきもの。諸国の民の王よ、
あなたの道は正しく、また、真実なもの。
主よ、だれがあなたの名を畏れず、
たたえずにおられましょうか。
聖なる方は、あなただけ。
すべての国民が、来て、
  あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが、
明らかになったからです。」15:3‐4


 彼らが歌った歌のひとつは「モーセの歌」。1300を経て出エジプトと黙示録の世界はつながります。

 もうひとつは「小羊の歌」。小羊とは、世の罪のためにご自身をささげられたイエスさまのことです。
 聖餐を受ける前に私たちも小羊の歌を歌います。

「世の罪の除く神の小羊よ、憐れみをお与えください」

 モーセの歌と小羊の歌が歌われ、楽器が奏でられて、正しいことと悪いことが明らかとなり、裁きが行われ、清めと救いが起こっていきます。世界の救いが、神が世界と私たちを守り、治め、導いてくださる神の国が実現していきます。その中で音楽は大切な役割を果たします。

 音楽をとおして、神が私たちに呼びかけ、私たちを動かされます。音楽をとおして、私たちは神に呼びかけ、神を動かします。音楽をとおして、神と私たちは響き合い、共に働きます。

 音楽が得意な人もいればそうでない人もいるでしょう。それはいずれでもいいのです。私たちは皆、心の楽器を持っています。神に向かって澄んだ祈りの音を奏でる。心の楽器が響いて声となり、音楽となります。

 聖霊が私たちの心を清め、祝福して、心の音を奏でさせてくださいますように。
(2007/10/21 京都聖ステパノ教会)

「道」──尹東柱の詩4


 キリスト新聞2006年9月第4週の号、コラム「橄欖」に掲載されたものです。


「わたしは道であり、真理であり、命である。」ヨハネ14:6

 「もうひとつの故郷」と同じ1941年9月(31日!の日付)に書かれた「道」を直訳してみます。


「なくしてしまいました。
何を どこで なくしたのか わからず
両手がポケットをさぐり
道に出て行きます。

石と石と石が 果てしなくつづき
道は石垣に沿って行きます。

垣は鉄の門を固く閉ざし
道の上に長い影を落として

道は朝から夕べへ
夕べから朝へ通じました。

石垣を手探りして 涙ぐみ
見上げると 天は恥ずかしいほど青いのです。

草一本ないこの道を歩くのは
垣の向こうに私が残っているからで、

私が生きるのは、ただ、
なくしたものを見出すためなのです。」


 尹東柱が見出したいと切に願ったのは魂の故郷だったかもしれません。それは、民族の歴史、文化、言葉と無関係のものではなかったでしょう。

 彼はそれを見出すために決意して日本に留学し、キリスト教大学である立教、同志社で学びました。

 しかし自分の魂の求めを自分の言葉で、ハングルで綴ること自体が、戦時下の日本では犯罪でした。京都左京区田中高原町の下宿で逮捕。治安維持法違反で懲役2年の判決。解放の半年前、1945年2月16日午前3時、福岡刑務所の酷寒の独房で死去しました。

 彼は草一本ない荒野の道を歩みました。しかし彼は天を仰ぎ、夜の闇が朝に通じることを知っていました。来年は生誕90年。憲法、教育基本法の「改正」、軍事化、共謀罪……。彼を死に至らせた闇の支配をふたたび許してはならないと思います。

「もうひとつの故郷」──尹東柱の詩3


 キリスト新聞2006年9月第3週の号、コラム「橄欖」に掲載されたものです。


「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」ヘブライ11:16

 「自画像」から2年後、1941年9月に書かれた「もうひとつの故郷」を直訳してみます。


「ふるさとへ帰ってきた日の夜に
わたしの白骨がついて来て ひとつの部屋に横たわった。

暗い部屋は 宇宙へ通じ
天からか 音のように 風が吹いてくる。

闇の中で きれいに風化作用する
白骨をのぞきこみながら
涙ぐむのは わたしが泣くのか
白骨が泣くのか
美しい魂が泣くのか

志操の高い犬は
夜を明かして 闇に向かって吠える。

闇に向かって吠える犬は
わたしを追うのだろう。

ゆこう ゆこう
追われる人のように ゆこう
白骨の知らぬまに
美しいもうひとつの故郷に ゆこう。」


 1940年2月、創氏改名が実施された。

「言葉ばかりじゃいけない。もっともっと風俗や習慣も近寄って、一層立派な日本人にならねばいけないのだ。……この度有難い思召しで、いよいよ朝鮮の人にも氏を創ることが許されたのだ」(飯田彬『半島の子ら』1942年)。

 尹東柱はそのような時代に、自分が死んで白骨となり、風化していくのを感じつつ、なお自分が生きて死ぬことのできる道を模索していた。それは自分の中に言葉を集めて蓄え、自分をとおして命の言葉が保たれ、それが表現を取る、という道であったに違いない。

 「もうひとつの故郷」から3ヵ月後の12月に太平洋戦争が勃発。戦時のため月末には延禧専門学校を繰り上げ卒業。翌1942年春、留学のために日本渡航。渡航証明書取得のため、彼は「平沼東柱(ひらぬまとうちゅう)」という恥ずかしい名まえを受け容れざるを得なかった。

「自画像」──尹東柱の詩2

「あなた自身の井戸から水を汲み
あなた自身の泉から湧く水を飲め。」箴言5:15

 尹東柱が9月に書いた詩を拙訳で紹介。第2回は1939年の「自画像」。

「山の麓をめぐって 田んぼのそば ぽつんとある井戸を ひとり尋ねて行っては、そっとのぞいて見ます。

 井戸の中には、月が明るく、雲が流れ、天(空)が広がり、真っ青な風が吹き、秋があります。

 そして ひとりの男がいます。
 なぜかその男が憎らしくなって、帰って行きます。

 帰ってから考えると、その男がかわいそうになります。ふたたび行ってのぞいてみると、男はそのままいます。

 またその男が憎らしくなって、帰って行きます。
 帰ってから考えると、その男がいとおしくなります。

 井戸の中には、月が明るく、雲が流れ、天が広がり、真っ青な風が吹き、秋があり、追憶のように 男がいます。」

 朝鮮総督府保安課の極秘文書『高等外事月報』は、その9月に新義州で開かれた長老派総会の様子を伝えています。「宮城遙拝」「国歌奉唱」「皇軍将兵に対する感謝黙祷」「皇国臣民誓詞斉唱」「国民精神総動員朝鮮耶蘇教長老会連盟結成式挙行」……。日本によって韓国・朝鮮の人たちの歴史と文化が押しつぶされようとする時代でした。

 満21歳の尹東柱は、井戸の中に映る自分を見て、それを受け容れることができずに帰って行きます。けれどもその自分がいとおしくて、また戻ってきます。井戸の中にはもう一つの世界が開けています。いつの間にか彼は将来の自分になって、そこから過去の自分を見つめているようです。彼は永遠を知っていたから、闇の現実を底まで見通すことができたのでしょう。

(「キリスト新聞」2006年9月、第2回掲載分です。)

「弟の印象画」──尹東柱の詩1

 キリスト新聞2006年9月第1週の号、コラム「橄欖」に掲載予定のものです。


 尹東柱は1917年、朝鮮国境に近い中国東北部に生まれた。長老教会で幼児洗礼を受け、1942年春、海を渡って立教、次いで同志社留学。翌年治安維持法違反の容疑で逮捕され、1945年2月に福岡で獄死した。

 1935年9月、平壌の崇実(スンシル)中学校に入学。しかし翌年春、学校は日本が強いた神社参拝を拒否したため停止状態となり、彼はやむなく故郷に帰った。

 1938年春、ソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校に入学。9月15日、「弟の印象画」という詩を書いた。

 赤い額に冷たい月が差し
 弟の顔は悲しい絵だ。

 歩みをとめて
 そっとあどけない手を握り
 「おまえは大きくなったら何になる」

 「人になるよ」
 弟の悲しい、ほんとうに悲しい答だ。

 そっと握っていた手を放し
 弟の顔をもう一度見つめる。

 冷たい月が赤い額にぬれて
 弟の顔は悲しい絵だ。

 当時、尹東柱は満20歳、弟の一柱は10歳。あどけない弟の顔を「悲しい絵」と感じたのは、そこに自分自身を見たからか。「人になる」という答は、やがて東柱のたどる道を予感させる。東柱は厳しい時代にあって、イエスに従って真に「人となる」道を求めて悲しみ、苦しんだ。

 この詩がつくられたちょうどそのとき、彼がかつて中学生活を送った平壌では朝鮮長老教会総会が開かれていた。その総会は日本当局の強制により神社参拝を実施する決議を行った。朝鮮総督府のある役人は「今やキリスト教の最後の牙城は潰えた」と述べた。

 この4月末、弟・一柱氏のご子息とお会いした。68年の歳月を越えて、尹東柱は私の手を握り、「この時代に、まことの人となろう」と呼びかけてくれた気がする。

                      2006/08/15

日ごとの聖句286 詩編第16編 2007/10/21〜27

2007年10月21日(日)聖霊降臨後第21主日
神よ、守ってください、あなたを避けどころとするわたしを。詩編16:1

10月22日(月)
わたしは主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」詩編16:2

10月23日(火)
主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。詩編16:5

10月24日(水)
わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。詩編16:7

10月25日(木)
わたしは絶えず主に相対(あいたい)しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。詩編16:8

10月26日(金)
わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。詩編16:9

10月27日(土)
あなたは命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。詩編16:11

あなたの神はわたしの神


         ルツ記1:16

 昔、ベツレヘムにナオミという女の人がいました。飢饉がイスラエルを襲ったため、夫と二人の息子と一緒に、隣のモアブという国に移住しました。

 息子たちはモアブの女性と結婚しました。ところがナオミの夫は亡くなり、二人の息子も亡くなって、残ったのはナオミと、息子たちの嫁二人だけとなってしまいました。疲れ果てたナオミは、モアブの二人の嫁をそこに残して、ひとりで故郷のベツレヘムに帰ろうとします。

 二人の嫁は初めはナオミと共にいようとするのですが、ナオミは二人それぞれの幸せを願い、新しい自分の人生を築くように強く勧めます。嫁のひとりオルパは別れの口づけをして去って行きます。しかしルツは去ろうとしません。
 ナオミはもうひとりの嫁、ルツにこう言います。

「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」ルツ記1:15

 これに対して、ルツはナオミに言います。

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。
 あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」1:16‐17

 このような物語を、私たちは、しゅうとめに忠実であった立派な嫁の話としてまとめてしまうかもしれません。しかしそれとは別のところに中心があります。

 「あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。」

 オルパはモアブの同胞、モアブの神のもとに帰って行きました。
 しかしルツが留まろうとするのは、ナオミが信じるナオミの神さまなのです。

 ナオミの神さまとはどのような神さまなのでしょうか。どのような神を、ルツはナオミから感じたのでしょうか。
 それをナオミ自身の言葉から知ることができます。

「あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」1:8‐9

 「どうか主が……」「どうか主が……」
 これはナオミの願いであり、祈りです。ルツは、ナオミがほんとうに嫁である自分の幸せを願ってくれている、自分の人生を本気で考えて祝福を祈っていてくれることに心を動かされました。

 不幸の連続の中で、なおこれだけ人のことを思い、切に祈ってくれるこのナオミの神。ナオミが切にすがり、そのナオミを守り支えておられる神。このナオミをとおしてルツは、自分の神を見出したのです。

「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。」

 ルツがどうしてもナオミから離れたくなかったのは、信仰のためです。ナオミの信じる神、ナオミが礼拝する神が真実の神、自分にとってのほんとうの神であると感じていたからです。

 「あなたの神はわたしの神」

 あなたの神さまを、わたしはわたし自身の神さまとして信じます。
 ルツの決意です。信仰告白です。
 ナオミの神は必ずルツの神となってくださいます。

「あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」1:17

 ナオミの生涯とその終わり、死と葬りを引き受けてくださるのは神です。ナオミと共に自分もその神のもとで生きて死んで葬られることをルツは願いました。

 ルツのナオミに対するこの言葉の中に、彼女の祈りが含まれています。

「死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを……」

 ナオミが祈ってきた主なる神に対して、ルツもまた祈る者となっていました。ナオミの神が生きておられる神、人と人生を左右する神であることを知って、神を畏れることをすでにルツは知っています。「主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」

 二人は、ナオミの故郷ベツレヘムに帰ります。故郷の人たちは言葉では歓迎してくれたものの、二人の生活を支えてくれる人はいませんでした。たちまち食べるにも困窮することになります。

 しかしルツはボアズという人に助けられます。ボアズという人が非常な好意を示してくれて、ルツはボアズの畑で安心して落ち穂を拾い、パンと水と休息を与えられます。
 ルツはボアズに言います。

「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」2:10

 ルツはモアブの女。外国人、よそ者です。
 ボアズは答えてルツに言います。

「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。
 どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」2:11‐12

 注意したいのはボアズの最後の言葉です。

「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」

 神がご自身の翼を広げられた。ナオミの神、ボアズの神、イスラエルの神は、その御翼のもとに逃れて来た者を保護し、その労苦に報いてくださる。それはただ言葉だけではなく、ボアズをとおしてそれが事実であることをルツは経験しました。

「あなたの神はわたしの神」
とかつてルツが言ったとおりに、ナオミの神はたしかにルツの神であることを示してくださったのです。ルツはこの方を信じて生きていきます。

 ナオミの神、ルツの神は、私たちの神です。
 その御翼のもとに逃れて来る者を保護し、私たちの労苦に十分報いてくださる方です。

 「あなたの神はわたしの神」と私たちも言いたい。

 主イエスさま、あなたの神はわたしの神です。

 私の幸せのために、私の人生のために、本気で心を砕いて祈ってくださる方はイエスさまです。イエスさまが切に祈り、イエスさまをとおして自らを現わされた方が私たちの神です。

 「あなたの神はわたしの神」

 祈りましょう。
 ナオミの神、ルツの神、ボアズの神となられた主なる神さま、あなたが私たちの神でいてくださることを信じます。あなたはイエスさまをとおして、ご自身を私たちに現わしてくださいました。どうかあなたが、いつどんな時にも、私たちの神でいてくださいますように。そして私たちも、御翼のもとに逃れて来る者を保護しその労苦に報いてくださるあなたを、現わすことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

            (2007/10/14 京都聖三一教会)

フォーレ「レクィエム」

ガブリエル・フォーレ(1845〜1924)の「レクィエム(死者のためのミサ曲)」の歌詞を訳してみました。

ラテン語から直接全部訳したのではなく、すでに出版されている複数の対訳をもとに自分なりに納得できる言葉にしてみたものです。

対訳の形にしたいのですが非常に手間がかかるので、別にします。できるだけ行ごとに意味を移すようにしてあるので、日本語として読みにくい箇所がありますが、ご容赦ください。

今回の発見のひとつは、最終曲が「楽園にて」ではなく「楽園に(楽園へと)」だということです。

美しい合唱を聞いていると、すでにすっかり天国にいるものと感じてそう思いこんでいたのですが、歌詞を見ると

「天使があなたを楽園に導いてくれますように。
あなたがそこに着くとき
あなたを殉教者たちが迎えてくれますように……」

となっていて、祈り求めなのです。


INTROITUS
Requiem aeternam dona eis, Domine,
et lux perpetua luceat eis.
Te decet hymnus, Deus, in Sion,
et tibi reddetur votum in Jerusalem.
Exaudi orationem meam;
ad te omnis caro veniet.

入祭唱
永遠の安息を彼らに与えてください、主よ、
そして絶えることのない光が彼らを照らしますように。
神よ、シオンで賛歌を献げるのはあなたにふさわしい。
そしてあなたに供え物が献げられます、エルサレムで。
聞いてください、わたしの祈りを。
あなたのもとに、すべての肉なる人は来るでしょう。

KYRIE
Kyrie eleison.
Christe eleison.
Kyrie eleison.

キリエ(憐れみの賛歌)
主よ、憐れんでください。
キリストよ、憐れんでください。
主よ、憐れんでください。

OFFERTORIUM
O Domine Jesu Christe, Rex gloriae,
libera animas defunctorum
de poenis inferni,
et de profundo lacu.
Libera eas de ore leonis,
ne absorbeat eas tartarus,
ne cadant in obscurum (Amen).
Hostias et preces tibi,
Domine, laudis offerimus.
Tu suscipe pro animabus illis
quarum hodie memoriam facimus.
Fac eas, Domine,
de morte transire ad vitam,
quam olim Abrahae promisisti,
et semini eius.

奉献唱
おお、主イエス・キリストよ、栄光の王よ、
解き放ってください、すべての死んだ人たちの魂を
地獄の罰から
そして深い淵から。
解き放ってください、それらを、獅子の口から。
それらを陰府が呑み込むことがありませんように。
それらが闇の中に陥ることがありませんように(アーメン)。
賛美のいけにえと願いをあなたに
主よ、私たちは献げます。
あなたがこれを受け入れてください、
今日私たちが記念するこれらの魂のために。
主よ、それらの魂を
死から命に移らせてください、
かつてあなたがアブラハムと
その子孫に約束されたように。

SANCTUS
Sanctus, sanctus, sanctus,
Dominus Deus Sabaoth.
Pleni sunt coeli et terra
gloria tua.
Hosanna in excelsis.

サンクトゥス
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
万軍の主なる神。
天と地は満ちている、
あなたの栄光で。
ホサナ(万歳!<救ってください)、いと高きところに。

PIE JESU
Pie Jesu Domine,
dona eis requiem,
requiem sempiternam.

ピエ イェズ
やさしいイエス、主よ、
与えてください、彼らに安息を
永遠の安息を。

ANGUS DEI
Agnus Dei,
qui tollis peccata mundi,
dona eis requiem,
requiem sempiternam.
Lux aeterna luceat eis, Domine,
cum sanctis tuis in aeternum,
quia pius es.
Requiem aeternam, dona eis, Domine,
et lux perpetua luceat eis.

アニュス デイ
神の小羊よ、
世の罪を取り除く方よ、
与えてください、彼らに安息を
永遠の安息を。
永遠の光が彼らを照らしますように、主よ、
あなたの聖徒たちと共に、永遠に。
あなたは情け深い方でいらっしゃいますから。
永遠の安息を彼らに与えてください、主よ、
そして絶えることのない光が彼らを照らしますように。

LIBERA ME
Libera me, Domine,
de morte aeterna,
in die illa tremenda
quando coeli movendi sunt et terra,
dum veneris judicare
saeculum per ignem.
Tremens factus sum ego, et timeo
dum discussio venerit,
atque ventura ira.
Dies illa, dies irae,
calamitatis et miseriae,
dies magna et amara valde.
Requiem aeternam, dona eis, Domine,
et lux perpetua luceat eis.

リベラ メ
私を解き放ってください、主よ、
永遠の死から。
恐ろしいその日、
天と地が揺れ動くとき、
あなたが裁くために来られるとき、
世界を火によって。
私は恐れおののきます。
審判が来たり、
さらに怒りが来るでしょうから。
その日は怒りの日、
災いと不幸の日、
大いなる悲しみの日。
永遠の安息を彼らに与えてください、主よ、
そして絶えることのない光が彼らを照らしますように。

IN PARADISUM
In paradisum deducant te angeli,
in tuo adventu
suscipiant te martyres,
et perducant te
in civitatem sanctam Jerusalem.
Chorus angelorum te suscipiat,
et cum Lazaro quondam paupere
aeternam habeas requiem.

楽園に
天使があなたを楽園に導いてくれますように。
あなたがそこに着くとき
あなたを殉教者たちが迎えてくれますように。
そしてあなたを導いてくれますように、
聖なる都エルサレムに。
天使たちの聖歌隊があなたを迎えてくれますように。
そしてかつて貧しかったラザロと共に
永遠の安息をあなたが持つことができますように。



日ごとの聖句285 テモテへの手紙兇ら 2007/10/14〜20

2007年10月14日(日)聖霊降臨後第20主日
そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。競謄皀2:1

10月15日(月)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。競謄皀1:7

10月16日(火)
あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。競謄皀1:14

10月17日(水)
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。
競謄皀2:13

10月18日(木)福音記者聖ルカ日
神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と刻まれています。競謄皀2:19

10月19日(金)
主があなたの霊と共にいてくださるように。恵みがあなたがたと共にあるように。競謄皀4:22

10月20日(土)
主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。競謄皀4:18

主の言葉の飢饉

                 アモス8:11−12

 遠い昔、私たちの信仰の先祖であるイスラエルの人々は、エジプトを脱出した後、約束の地を目指して40年の旅をしました。

 荒野をさすらう長い旅路においてもっとも大きな危険は、食糧がなくなって飢え死にするかもしれない、ということでした。
 神さまは天からマナという食べ物を降らせて、イスラエルの民を養われました。

 ある日朝起きてみると、地上に露が降りていた。露が蒸発した後に、白くて何か壊れやすいものが霜のように薄く残っていました。
 モーセは言いました。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」出エジプト記16:15

 神さまは毎朝、地上にマナを降らせてくださいました。その日食べる分はその日の朝に集めるようにと言われました。日毎日毎に神から養いを受けて、イスラエルの人々は40年の旅路を生き抜いたのです。日ごとのパン、Daily Bread です。

 その日の分はその日の朝に与えるから朝毎に集めなさい。これが神が命じられたことでした。ところがそれを面倒くさいと思う人がいて、一度に二日分、三日分集めて蓄えて、楽をしようと思いました。ところが、集めて保存しておいたマナは翌日になると腐って食べられなくなっていました。

 「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」

 神さまが日ごとに養ってくださる。神からマナを日ごとに受けて力づけられて生きて歩んでいく。これは切実なことでした。

 このマナの話は、口の食べ物の話であるとともに、心の食べ物、魂の糧、信仰の話でもあります。マナは命の言葉です。

 神さまが私たちに語りかけてくださって、命の言葉をいただいて、私たちは生きる。私たちのほうからも神に呼びかける。これが祈りです。私たちが神さまの言葉を祈り求めて、神がそれにこたえて言葉を語りかけてくださる。神の言葉は私たちのうちに宿って自分の命となる。聖書から神の言葉を受けて、祈って生きていく。これが危うい人生の旅路を続ける私たちに必要なことです。生き抜くために必要な日ごとの糧。毎日、神から呼びかけを受けて、毎日祈って生きていく。

 ところが昔、荒野を旅した人々の中にあったように、毎日は面倒ですから、2、3日に1回。1週間に1回。1月に1回……。聖書に触れず祈ることをしないと危険が生じる。飢餓状態になる。ところが直接の食べ物の場合は危険にすぐ気づくのに、魂の食べ物のほうはそれに気づかないことが多い。

 自分のひとりのこととしてもそうですし、教会としてもこれは大切にしなくてはなりません。

 紀元前8世紀、イスラエル王国にアモスという人がいました。家畜を飼い、いちじく桑を栽培する農民でした。王国は繁栄していました。壮大な礼拝が行われていました。献げ物は豊かで見事なものでした。
 しかしアモスが見たのは、この国は、この国の人々は飢餓状態に陥っている、ということでした。

 象牙の寝台に横たわり、小羊と子牛を惜しげなく取って昼間から豪華な宴、酒盛りが連日開かれている。その一方で、不正な秤と升を使ったあくどい商売が横行し、貧しい人はますます苦しくなる。生活に困った人たちは、靴1足の値段で売り買いされている(アモス6:4、8:4‐6)。
 
 アモスは主が語られるのを聞きました。

「見よ、その日が来ればと
主なる神は言われる。
わたしは大地に飢えを送る。
それはパンに飢えることでもなく
水に渇くことでもなく
主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。

人々は海から海へと巡り
北から東へとよろめき歩いて
主の言葉を探し求めるが
見いだすことはできない。」8:11‐12

 これは今の私たちの時代のことではないでしょうか。

 世の中も人々の魂も荒廃していく。ほんとうに必要なのは神の言葉であるのに、それは押しのけられてしまっている。神の言葉が失われれば、悪しき人間の言葉が力を振るいます。抑えつける言葉、人にこびる言葉、虚勢を張る言葉、また自分で自分を価値ないものとしてののしる言葉、自分と人を殺す言葉が支配します。

 神さまはこの現実を放置することはできませんでした。
 命の飢餓状態に陥ったこの世界を回復させるために、もう一度命の糧で私たちを養うために、イエス・キリストが自ら命の糧となっておいでになりました。

 世の中と自分の中に鳴り響いている騒音は人を破滅させます。
 神が私たちに何をおっしゃってくださるかを聞きたい。

「あなたはわたしの愛する子。」

「わたしが生きるので、あなたがたも生きる。」

「取って食べなさい。これはあなたがたのために与えるわたしのからだです。」

 今は悪い時代です。悪い時代の中でこそ、私たちを養ってくださる主の言葉を食べて、この人生の旅路を生き抜いていけるように、神さまがそれを用意してくださっています。

(祈り)


    (2007/09/23 京都聖三一教会)

10/14 親子で楽しむクラシック

10月14日(日)午後2時開演

京都聖三一教会・聖三一幼稚園礼拝堂

第1部
 アヴェ・マリア いつくしみふかき ふしぎな風が……
  いっしょに歌いましょう。

第2部
 フォーレ「レクィエム」

出演・合唱団コーロ・ピアチェーレ
指揮・松尾卓郎

入場無料
どなたでもどうぞ。

 聖三一幼稚園
 〒604-8403 京都市中京区聚楽廻中町45
 (千本丸太町一筋西、南へ下がる)

 http://www.holy-trinity.ed.jp/

10/21 秋の実り感謝のコンサート

京都聖ステパノ教会

~ 秋の実り感謝のコンサート ~


日時  10月21日(日)  
午後2:00開演

場所  京都聖ステパノ教会 礼拝堂

出演
   う  た  安藤邦子(聖光教会)
   おるがん 末松玲子(京都聖マリア教会)
  
演目
★オルガン曲  モーツアルトのオルガン曲、聖歌など
★歌   童謡、日本歌曲、イギリスの歌、聖歌集より
★みんなで歌いましょう  

※どなたでも、お越しください。
 入場は無料です。

ステパノ教会は昨年8月にリードオルガンを購入しました。礼拝で聖歌を歌うのにふさわしい、声と調和して柔らかい響きを奏でる、修理した中古のリードオルガンです。このオルガンを用いて、コンサートを行います。是非お越しください。


日本聖公会 京都聖ステパノ教会

〒615-8196
 京都市西京区川島尻堀町38−9
 (阪急桂駅より西へ徒歩6分)
 Tel・Fax 075-391-1393

日ごとの聖句284 ハバクク書 2007/10/6〜13

2007年10月7日(日)聖霊降臨後第19主日
定められた時のために、もうひとつの幻がある。それは終わりの時に向かって急ぐ。ハバクク2:3

10月8日(月)
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。ハバクク2:3

10月9日(火)
しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。ハバクク2:20

10月10日(水)
主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。主よ、わたしはあなたの御業(みわざ)に畏れを抱きます。ハバクク3:2

10月11日(木)
数年のうちにも、それ(主のみ業)を生き返らせ、数年のうちにも、それを示してください。怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。ハバクク3:2

10月12日(金)
しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。3:18

10月13日(土)
わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる。3:19


 ハバククは紀元前7〜6世紀のユダの預言者。ハバクク書は旧約聖書の最後に置かれた12の小預言書のひとつ。

 ハバクク書は嘆きの訴えから始まるのが印象的。

「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに
いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに
あなたは助けてくださらない。」

幼稚園の礼拝

 
今日の幼稚園の合同礼拝の開始時はいつにも増して静かだった。

 今日はモーセさんのお話の最終回(10回目)。

 ベストリー(礼拝準備室)でお話をメモ書きしながら、子どもたちを礼拝堂に迎えるために何を吹くかを考える。

 今日はシューベルトのドイツ・ミサ曲にしようと心づもりしていたのに、楽譜を書斎に置いてきてしまった。

 礼拝堂の正面の壁の向こう側が私の書斎なのだが、通路がないので大回りしなくてはならない。時間も迫ってくるし、1階ではお母さま方の集まりの最中、園庭を通るのも……、と考えて断念。

 式服に着替え、礼拝堂の所定の位置に座って、コロイ・フレーテ(ソプラノ・リコーダーに似た小さな竪笛)を持つ。

「主こそまことの救い」(テゼ共同体の歌)、「主イエスはまことのぶとうの木」(こどもさんびか)を繰り返し吹く。階段に音がして、やがて子どもたちが入ってくる。先生を含めると80人くらいが入り終わるまで、かなりの時間がかかる。

 子どもが半分くらい入ったところで、このところ毎週歌っている「きれいなものを見るために」、「ナイルの岸の」に。時折、ちょっと首を回して、あとどれくらいかな。

 全員座り終えたら、コロイを譜面台に置く。とても静か。祈りの空気になっている。先生たちがよく気持ちを整えてくれたのだろう。

 礼拝の始まりに笛を吹くのは、安らかな空気をつくるため。それを子どもたちと共有できるのはしあわせ。

 オルガンの前奏でろうそくに火をつける。

 モーセさんは、ピスガの山の頂から約束の地を見渡しました。
 山があり、川が流れ、湖があり、お花が咲いている。
 ぶどうの木が実り、麦の穂が風に揺れている。これが、ふるさとの国。

 でもモーセさんは疲れて、からだが動かなくなった。
 神さまは「モーセさん、ありがとう。もうこちらに帰ってきてやすみなさい」。

 モーセさんのからだは動かなくなった。みんなは悲しんで泣いた。
 でもモーセさんはみんなのために祈ってくれて、今は天国からみんなを見守っていてくれる。……

 よくお話を聞いてくれる子どもたち。一緒に心配したり考えたり、提案してくれたりする子どもたちに感謝。モーセさんも喜んでくれているだろう。

神の人よ、あなたは


                 汽謄皀藤:11

「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」
 これは、パウロが自分の弟子にして同労者テモテに呼びかけた言葉です。

 「神の人よ」
 このような呼びかけは普通ではありません。

 テモテはイエスさまの直弟子ではなく孫弟子です。小アジア(今のトルコ)のリストラという町の出身で,父はギリシア人,母はユダヤ人でした。キリスト教を世界に広めたのはパウロという人ですが、そのパウロの導きと教育を受けて成長し、教会の重要な指導者となりました。彼はパウロの働きを支えつつ、自らも大きな責任を引き受けて活動し、最後はエフェソで殉教したと伝えられます。テモテとは「神をあがめる者」という意味です。

 そのパウロがテモテに宛てて書いたとされる手紙が、今日の使徒書です。第一の手紙と第二の手紙がありますが、今日は第一の手紙でした。

 パウロは、自分の愛する弟子であり、また福音のために苦労を共にする者として、テモテに手紙を書いています。

 私たちの場合でも、手紙を書きながら気持ちが高まってきて相手に呼びかけることがあります。この手紙でもパウロは1:18でこう呼びかけています。
「わたしの子、テモテ」

 パウロにとってテモテは大切なわが子のような存在。良き働き人となるようにと、自分が心を砕いて育て、ずっと心配し祈ってきた人なのです。
 この手紙の書き出しには「信仰によるまことの子テモテへ」とあります(1:2)。

 テモテは苦労しています。教会の内外に起こる様々な困難な出来事。横暴や高慢。うわさ話や詮索好き。無分別で有害な欲望の横行。ねたみ、争い、中傷、邪推。これがイエスさまの教会か、と思うようなひどい現実。

 しかもテモテは若い。また気が強いほうではありません。十分にリーダーシップを取りきれないところがある。その苦労を思いつつ、パウロは「わたしの子、テモテ」と呼びかけるのです。

 ところがもう手紙を書き終えようとするときに至って、パウロは急に
「しかし、神の人よ」と呼びかけます。

 これをギリシア語原典で確かめたところ、
「あなたは、しかし、ああ神の人よ」となっています。「あなたは」で始まっています。「あなたは、しかし、ああ、神の人よ」

 パウロはテモテのことを心配し、深い配慮をしながらこの手紙を書いています。しかしはっきり言えば頼りないのです、テモテは。

「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。」4:12

「わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」4:13‐16

「ああ、神の人よ」しっかりしなさい。あなたは神の人ではないか。

 「神の人」というのは特別な言葉です。旧約聖書ではモーセ、エリヤ、エリシャなどに使われますが、重い言葉であってむやみには使いません。しかしパウロは今、この言葉をもってテモテに呼びかけます。「ああ、神の人よ」

 「神の人」とはどういうことでしょうか。

 第一に、神の人とは、神に属する人です。テモテよ、あなたは神に属する人、神に所属する者です。神があなたの土台でいてくださり、神があなたの生涯に対して責任を持っていてくださる。

 第二に、神の人とは、神から力を、賜物を与えられている人です。あなたは神から力を与えられている。あなたは神から恵みの賜物を受けている。それがないかのように思ってはいけない。自分に与えられたものを見なさい。

 第三に、神の人とは、神の働きをする人です。神があなたを招き、あなたを育て、訓練して来られた。神があなたをとおして働かれる。

 テモテ、神の人よ、しっかり立ちなさい。しっかりたたかいなさい。しっかり守りなさい、自分と人を。神さまがあなたについておられるのです。

 皆さんは、「神の人」など自分とはかけ離れたことと聞かれたでしょうか。けれども皆さんも神に属する人です。皆さんも神から賜物を、力をいただいている人です。私たちをとおして、皆さんをとおして、神さまが働かれるはずなのです。
 心配することはありません。神がついていてくださるのですから。

(祈り)

               (2007/09/30 京都聖三一教会)

目覚めよ、竪琴よ


聖書の中の竪琴について、プリモール・ライアーの集い(2007・9・29、右京ふれあい文化会館)で話したものの要旨です。


 9月29日は「聖ミカエルおよび諸天使の日」

「その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。」創世記4:21
 (父はレメク、母はアダ、兄はヤバル)

 竪琴と笛は聖書に出て来る最初の楽器。

旧約聖書・詩編から 機57:8‐9

「わたしは心を確かにします。
神よ、わたしは心を確かにして
あなたに賛美の歌をうたいます。
目覚めよ、わたしの誉れよ
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
わたしは曙(あけぼの)を呼び覚まそう。」


・竪琴は、呼びかけられ、呼び覚まされる。竪琴は、自分に呼びかけた者と一つになって、自らも新しい一日を呼び覚まし、新しい時、新しい時代の到来を告げる。


旧約聖書・詩編から 供149:1‐5

「ハレルヤ。
新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。
イスラエルはその造り主によって喜び祝い
シオンの子らはその王によって喜び躍れ。
踊りをささげて御名を賛美し
太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。
主は御自分の民を喜び
貧しい人を救いの輝きで装われる。
主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み
伏していても喜びの声をあげる。」


・竪琴は、新しい歌を歌う。世の中と自分と人がこれまでどのようであったしても、その現実を乗り越えさせる希望を告げる。竪琴の響きの中で、神の喜びと人の喜びが交わる。それは貧しい人、困難を抱えた人々を支え、勇気づける。


新約聖書・ヨハネの黙示録から 機8:1
 
 「小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。」


・神の救い(世界の清め、闇の力に対する裁き)が進む中、沈黙、静寂が訪れる。それは新しい希望の実現に向かう待望、忍耐、備えの時。

「竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。……さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。」ヨハネの黙示録12:4‐8

・竜は悪の力をあらわす。大天使ミカエルは救いの働きの担い手。


新約聖書・ヨハネの黙示録から 供15:2‐4

「わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。
『全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、
驚くべきもの。
諸国の民の王よ、
あなたの道は正しく、また、真実なもの。
主よ、だれがあなたの名を畏れず、
たたえずにおられましょうか。
聖なる方は、あなただけ。
すべての国民が、来て、
  あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが、
明らかになったからです。』」


・竪琴は闇の力とのたたかいに参加し、光の勝利を歌う。
・ライアーのもたらす静謐(せいひつ)はそのしるし。


「聖ミカエルおよび諸天使の日」の特祷
永遠にいます神よ、あなたはみ摂理によって、天使の務めと人の務めとを定められました。どうか天において常に主に仕える天使たちに命じて、地にあるわたしたちを守らせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

平和──詩編から


   詩編第85編8‐13節

8 神の語られる言葉を聞こう‖ 主はその民、聖徒たち、神に信頼する人に平和を約束される

9 救いは神を畏れる人に近く‖ 栄光はわたしたちの地に住む

10 慈しみとまことはともに会い‖ 正義と平和は抱き合う

11 まことは地から芽生え‖ 正義は天から見守る

12 主はみ恵みを注ぎ‖ 地は豊かに実る

13 正義は神のみ前を進み‖ 神の歩む道を備える

栄光は‖ 父と子と聖霊に
初めのように、今も‖ 世々に限(かぎ)りなく アーメン

(9月28日の京都教区宣教局「平和の集い」で用いた詩編です)
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