Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2007年11月

日ごとの聖句292 平和の預言 2007/12/2〜8


2007年12月2日(日)降臨節第1主日
主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。イザヤ2:3

12月3日(月)
主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。イザヤ2:4

12月4日(火)
彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。イザヤ2:4

12月5日(水)
人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた。ミカ4:4

12月6日(木)
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む。ミカ4:5

12月7日(金)
その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎(な)えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。ミカ4:6

12月8日(土)
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。イザヤ2:5

プリモール ライアーのクリスマス

ライアーとコロイ

12月1日(土)午後3時〜4時30分
右京ふれあい文化会館
    創造活動室

 
京都市右京区太秦安井西裏町11番地の6
(JR嵯峨野線花園駅下車南へ徒歩5分)
TEL (075)822−3349

曲 Alleluia
  In Dulci Jubilo
  みつかいうたいて
  パストラル・シンフォニー(ヘンデル「メサイア」より)
  Away in a Manger
  まきびとひつじを
  聖母の御子
  グローリア
  ゆきのこびと
  Winterlied
  メヌエット(バッハ「無伴奏バイオリン・ソナタ」より)
  みつかいうたいて
  主よ、人の望みの喜びよ
  きよしこの夜
  あめにはさかえ
  
演奏 ライアー・アンサンブル・プリモール

 山本文蓉/中川悦子/平元みさえ/村田悦子/道上まみ
 井原美代子/山田祐子/飯田和子/佐藤恵理意/松尾育代     
 主宰・小野純子/チャプレン・井田 泉

 会費500円(お茶つき)

救い主を待ち望む──ミカ書から

 2007/11/26
 大阪教区宣教部生涯学習委員会主催の黙想会で話したもののレジュメ(聖書の言葉)です。


 ミカは紀元前8世紀、南王国ユダの預言者。農村の出身。名前は「たれかヤハウェのごとき」の意味。
 活動時期は、アッシリアによる北王国の首都サマリア陥落(BC721)の少し前から約25年間。
 時代・経済的繁栄 領土の回復 社会の腐敗 貧富の格差増大 都市の富裕層による農民の土地収奪。


<嘆き> 第1章8〜9節

このため、わたしは悲しみの声をあげ
泣き叫び、裸、はだしで歩き回り
山犬のように悲しみの声をあげ
駝鳥のように嘆く。
まことに、痛手はいやし難く
ユダにまで及び、わが民の門エルサレムに達する。


<現実> 第2章8〜9節

昨日までわが民であった者が
敵となって立ち上がる。
平和な者から彼らは衣服をはぎ取る
戦いを避け、安らかに過ぎ行こうとする者から。
彼らはわが民の女たちを楽しい家から追い出し
幼子たちから、わが誉れを永久に奪い去る。


<罪>エレミヤ14:7

我々の罪が我々自身を告発しています。
主よ、御名にふさわしく行ってください。
我々の背信は大きく
あなたに対して罪を犯しました。


<平和の預言> 第4章3〜5節

主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。


<救い主誕生の預言>  第5章1‐4節

エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
まことに、主は彼らを捨ておかれる
産婦が子を産むときまで。
そのとき、彼の兄弟の残りの者は
イスラエルの子らのもとに帰って来る。
彼は立って、群れを養う
主の力、神である主の御名の威厳をもって。
彼らは安らかに住まう。
今や、彼は大いなる者となり
その力が地の果てに及ぶからだ。
彼こそ、まさしく平和である。


<祈りと約束>  第7章14‐15節

あなたの杖を持って
御自分の民を牧してください
あなたの嗣業である羊の群れを。
彼らが豊かな牧場の森に
ただひとり守られて住み
遠い昔のように、バシャンとギレアドで
草をはむことができるように。

お前がエジプトの地を出たときのように
彼らに驚くべき業をわたしは示す。(人々の祈りに対する神の応答)


(100年余り後、ミカの言葉はエレミヤを死から救う。エレミヤ26:17‐19)


降誕

ルカによる福音書 第2章8‐14節

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると突然この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」

脅かすもの──ウトロ報道に接して


 旧約聖書・十二小預言書のひとつ、ミカ書はこう語っています。

「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。」4:4

 このような言葉が語られたのは、自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に安心して座れない現実、常に心と体と生活を脅かされている人々の現実があったからに違いありません。

 ミカは次のようにも語っています。

「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ
悪事を謀る者は。
夜明けとともに、彼らはそれを行う。
力をその手に持っているからだ。
彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。
住人から家を、人々から嗣業を強奪する。」2:1‐2

 これは遠い昔だけのことではありません。京都府宇治市にウトロという集落があります。在日コリアン約60世帯250人ほどが暮らしています。今から20年近く前の1989年2月13日、3台のトラックがウトロ集落入口付近に横付けされ、作業員らが民家の解体工事に取りかかろうとしました。駆けつけた住民約40人がこれを取り巻いて、「私らはここに50年も住んでいるのに出て行けとはひどいではないか」と抗議。ひとまず解体業者は退散したそうです。これは、土地の所有権を持っているという西日本殖産という不動産会社が「住民が土地を不法占有している」として立退きを要求する裁判を起こした直後のことでした。

 歴史があります。日本が朝鮮を植民地として支配し、また中国での侵略戦争を続けていく中で、近代兵器である飛行機の役割がますます重要視されるようになりました。そこで日本政府は、1938年、国内の5箇所に飛行場と乗員養成所を設置する構想を発表しました。その一つが京都飛行場です。

 「一朝有事(戦争)の際には直ちに、軍飛行場として商都大阪および京都の盾となる」ことを目的として、京都市の南に広がる約100万坪の広大な地域に、飛行機製造工場と乗員養成所を併せ持つ京都飛行場建設事業が着手されました。真珠湾攻撃の前年、1940年のことです。この工事には日毎に約2000名の労働者が必要とされました。機関車27台、トロッコ600台、レール40キロメートル、という大工事だったそうです。作業は人力。竹藪や丘をスコップなどで切り開き、土砂をトロッコに積む。機関車がトロッコを引っ張り、滑走路に土砂を下ろして均すという重労働です。

 ここに低賃金で強靱な労働力として1300人の朝鮮人が集められました。強制連行というわけではなく、仕事を求めて集まった人々です。しかしこの背景には当時の日本による植民地支配があります。朝鮮で生活していけなくなった人たちがたくさん日本に移住することを余儀なくされていたのです。家族も一緒に住める飯場が広がりました。これがウトロ集落の始まりです。

 1945年7月、3回の米軍による爆撃で敷地内の軍需工場は壊滅。8月15日、日本の敗戦。解放の喜びにウトロは沸き立ちました。しかし飛行場の建設工事は中止。仕事はなくなり労賃の支払いは途絶え、配給も打ち切られて、たちまち生活に窮しました。帰国したくても朝鮮には家がない。旅費もない。言わばウトロに置き去りにされた人々は、そこにしがみついて生きるしか道はなかったのです。隣接地には米軍大久保基地ができ、実弾演習が始まりました。命からがら砲弾の破片を拾って屑鉄業者に売って生活を立てる人もありました。
 
 1989年、「不法占拠をやめて立ち退け」という力にウトロの人々は生活を脅かされました。町内会組織の再編強化がなされ、またこれに関心を持つ日本人も集まって「地上げ反対! ウトロを守る会」が発足しました。住民および守る会は宇治市、京都府、そして土地所有権に関わる大阪、東京の大企業に対しても要請、あるいは抗議行動を展開しました。韓国、アメリカ、ドイツなどからの支援も始まりました。

 しかし「建物撤収・土地明渡命令」の判決は覆らず、2000年11月14日、最高裁の上告棄却により住民の敗訴が確定しました。しかしその後ウトロの人々は、西日本殖産との間で土地買取り交渉をねばり強く続けてきました。今年10月、韓国政府が計30億ウォン(約3億8000万円)の支援方針を発表、地区東半分の買取り(5億円と言われます)が急速に現実化してきています。事態の好転を喜びたい。しかし歴史を振り返るとき、日本政府と私たちの責任を考えさせられます。

 これは、聖公会生野センターの機関誌『ウルリム』第45号(2007年11月20日)に書いたものです。

聖書と憲法

 11月25日(日)の午後、日本基督教団京都教区「教会と社会」特設委員会主催で「日本国憲法の“根っこ”を考える」セミナーがあり、「聖書と憲法──試みの初め」と題して発題しました。会場は日本基督教団洛陽教会。

 日本国憲法の基本精神は聖書にもとづく(あるいは深く通じる)、ということを明確にしていきたいと願っているのですが、その探求のささやかな試みです。

1. 日本国憲法の根幹

痛ましい戦争・全体主義の圧政経験をとおしての
三つの決意

  日本国憲法    大日本帝国憲法
1 主権在民          天皇主権
2 戦争放棄・絶対平和    富国強兵から侵略戦争・植民地支配
3 思想・信教の自由と平等  自由の抑圧

「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」大日本帝国憲法第28条


2. 憲法と聖書の使信の中心

 ──CAP(Child Assault Prevention 子どもへの暴力防止プログラム)を手がかりとして

子どもの権利とは
「安心」
「自信」 自尊、誇り
「自由」 
=生きていくためになくてはならないもの

 これは聖書のメッセージの中心でもある。安心・自信・自由という視点から聖書を読み直したい。
 

3. 聖書の呼びかけ──正義と平和の実現

「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと万軍の主の口が語られた。」ミカ4:3〜5

安心、平安、平和──聖書の使信の中核
 これを法的、制度的に保証する根幹が憲法
 それが危機に瀕している。


4. 新憲法案の問題点から

(前文)「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」
     ↓
「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務を共有し」

過去の戦争に対する反省が消え、国を支える責務が入った。
                       

日ごとの聖句291 新しい牧者 2007/11/25〜12/1

2007年11月25日(日)聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復
わたしはアルファであり、オメガである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。ヨハネの黙示録21:6

11月26日(月)
主は言われる。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。」エレミヤ23:3

11月27日(火)
彼らを牧(ぼく)する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない。エレミヤ23:4

11月28日(水)
主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。エレミヤ23:5

11月29日(木)
彼の代(よ)にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの正義」と呼ばれる。エレミヤ23:6

11月30日(金)使徒聖アンデレ日
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。エレミヤ29:11

12月1日(土)
それは将来と希望を与えるものである。エレミヤ29:11

娘よ、あなたの信仰があなたを救った


マルコ5:25‐34

 イエスは道を急いでおられました。大勢の群衆が押し迫るようにして従っています。
 イエスの弟子たちのほかに、たくさんの人たちがひしめくようにしてついてきています。イエスの語ることを聞きたい、その姿や振る舞いを見たい、イエスが何をするのかそれを知りたい、それに触れたいと思っているのです。

 イエスの後ろから押し迫るようにして付いてきている群衆の中に、ひとりの女の人がいました。病気を抱えた人です。体のある部分から血が出て、それが止まらない。傷口が開いたまま、ずっと治らないのです。人には知られたくない。医者に見せるのもいやです。でも苦しいから、とてもつらいから、医者に見せました。医者はいろいろ調べて、あれこれ言って、薬をくれました。何度も何度も医者に通います。とてもたくさんのお金を払いました。けれども少しもよくならない。

 医者を変えました。最初からまた説明して、いろいろ調べられて、高い薬を買わされて、やはり治りません。病気の苦痛の上に、医者に見てもらうこと自体も苦痛です。そのうえ治らないのは自分の心がけが悪い、自分の性格や行いが悪いかのように言われて侮辱を感じることもありました。状態はだんだん悪くなります。

 また評判の高い医者を捜して、最初から説明し、調べてもらい、薬を買わされます。こんなことを繰り返すうちに、いくらかあったお金、財産も全部使い果たしてしまい、生活にも困るようになりました。そのうえその病気のことがいつの間にか人に知れて、嫌な目で自分を見る人たちがいます。こんな病気になって治らないのは、何か悪いことをしたからだとふれて回る人がいます。

 もう人の前に出るのもつらい。そんなふうにして12年もかろうじて生きていました。自分には楽しい青春もなく、生きることは苦痛をしのぶだけのようです。苦しむためにだけ生まれてきたのでしょうか。

 もう医者は信頼できず、お金もなく、しかし苦しいから何とかなりたい、何とかしてほしいと思います。

 以前から気になっている名前があります。イエスという人の名前です。特別な人らしい。病気を治すという話です。神さまがこのイエスには乗り移っているといううわさもあります。このイエスという人なら治してくれるのではないか。もうそれしかないと思いました。

 群衆にまじって、イエスの後ろ姿を追っていきます。人のひしめく中を何が何でもイエスに近づこうとして走ります。
 イエスの姿、イエスの着ている服が目に入ります。あの服に触ったら助かる、自分は救われると、自分の中で自分が言っています。

 一瞬のチャンスをつかんで、その女の人は後ろからイエスの服にさわりました。するとすぐ、出血がまったく止まって、治ったのを感じました。助かった。救われたのです。もう用はありません。群衆にまぎれて帰るだけです。

 と思ったとき、イエスの足が止まりました。イエスが振り向きました。
「わたしの服にさわったのはだれか」
 イエスの弟子たちが言います。
「こんなに人が押し迫っているのに、だれがさわったかだれが触れたか、分かるはずがありません。」

 しかしイエスは自分の服にさわった人を見つけようとして辺りを見回しておられます。

 それはイエスが、自分の中から力が出て行ったのを感じたからです。
 自分を求めた人がいる。その人はものすごく苦しかったに違いない。その人がすがる思いで自分の服にさわったとき、その求めに自分の体が自分の魂が反応して、力が出て行った。
 その人は大切な人です。その人を見つけたい。
 
 女の人はおびえました。触ったことが知られてしまった。見つかったら恐ろしいことになるのではないか。人の陰に隠れて、消えてしまいたい。しかし動けません。

 イエスがいつまでも待っているので、とうとう隠しきれないと思って、震えながら進み出て、イエスの前にひれ伏して、全部ありのままに話しました。

 イエスは言われた。
「娘よ」
 何という優しい言葉でしょう。「娘よ」。この呼びかけに女の人は身を包まれました。自分を大切に思ってくれる声です。
「あなたの信仰があなたを救った。」
「あなたの信仰が」
 私の信仰が私を救ったのか。そんな立派なものではありません。とにかく服にさわったら治ると思いこんで、すがるしかなくてそうしただけです。

 しかしイエスの目はほほえんでいます。
 「あなたがわたしを信じてくれたから、あなたは救われた。あなたはわたしを信じて、勇気を出してわたしにさわった。わたしを本気で信じた。それがあなたを救った。」

 そうなのでしょうか。ずっとずっと世間は自分を否定して、自分も自分を否定して、自分には何の益も何の意味もないと思っていたのに、イエスさま、あなたにすがったことがそんなに価値のある意味のあることなのですか。それを私の信仰と言ってくださるのですか。それがあってそれが働いて、救いにつながったと。
 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」

 自分の中に肯定できるものがある。自分のしたことは恥ずべきことではなく、誇るべきこと、自分を救うことであった。そうイエスさまから言われて、女の人は自分の中にこれまで感じたことのない命と力が宿っているのを感じます。

 出血が止まって病気が治ったと同時に、自分の心と体のなかに温かいものが流れて、生きていることの喜びが溢れてきます。
 「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 「安心して行きなさい」
 これは、新約聖書の元の言葉(ギリシア語)を確かめてみると、「平和の中へと入って行きなさい」という表現です。

 安心も自信も取り戻したこの女の人は、今までの安心できない、いつも人から世間から否定され自分でも自分を否定していた世界に戻るのではなくて、イエスさまによって大切に思われ、肯定された者として、安心と自信の世界の中に入って行けるのです。そのようにイエスが約束し、励ましてくださいます。

 もしこの女の人が、イエスの服にさわってそのまま隠れて帰ってしまったとすれば、そのような平和は生まれませんでした。イエスが自分を捜し求めてくださったので、彼女は自分から進み出て、自分のことを話した。そのゆえにイエスとの出会いが起こりました。イエスとの出会いから、イエスと思いと言葉のやりとりをしたところから、新しいこの人の人生が始まったのでした。

 このときのイエスの姿、イエスのまなざし、イエスの声は、一生この女の人を支え続けます。
 
 私たちも、人に言えないような傷を負っているかもしれません。傷を抱えたままイエスに近づき、イエスさまに触れましょう。イエスさまは振り返って私たちを求めてくださいます。
 あなたの信仰はあなたを救う。あなたの信仰をとおして、イエスさまが働いてくださるからです。

(2007/11/18 京都聖三一教会)

 これは11月初旬、同志社高校、同志社中学校、同志社女子高校の朝の礼拝で話したものを元にしたものです。

クリスマスを迎えるコンサート

 歌とピアノによる、一足早いクリスマス・コンサートを行います。
 どなたでもおいでください。

Early Christmas Concert
                 聖三一幼稚園主催

11月24日(土)15:30
聖三一幼稚園1階ホール


 オー・ホリーナイト
 天使の糧
 アヴェ・マリア
 アメージング・グレイス
 ア・リトルジャズミサ
 クリスマス・ソング メドレーほか

演奏・アンサンブル「しらべ」
 ソプラノ 飯田佳世子
 メゾソプラノ 南 佳江
 アルト 大越智比咲英
 ピアノ 喜多野和子

◎入場無料 お子さま連れ、歓迎です

日ごとの聖句290 収穫 2007/11/18〜24

2007年11月18日(日)聖霊降臨後第25主日
「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」ヨハネ4:35

11月19日(月)
主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします。詩編85:13

11月20日(火)
平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。ゼカリヤ8:12

11月21日(水)
大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神が、わたしたちを祝福してくださいますように。詩編67:7

11月22日(木)
イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」マルコ4:26‐27

11月23日(金)
「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。マルコ4:28

11月24日(土)
「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」マルコ4:29

日ごとの聖句289 翼 2007/11/11〜17

2007年11月11日(日)聖霊降臨後第24主日
わたしは知っている。わたしを贖(あがな)う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。ヨブ記19:25

11月12日(月)
あなたたちは見た。わたしがあなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。出エジプト記19:4

11月13日(火)
鷲が雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように、ただ主のみ、その民を導かれた。申命記32:11‐12

11月14日(水)
瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください。詩編17:8

11月15日(木)
わたしの魂はあなたを避けどころとし、災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします。詩編57:2

11月16日(金)
あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。詩編63:8

11月17日(土)
神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。詩編91:4

新約聖書「書簡」を読む会 11月15日

 月1回、新約聖書「書簡」を読む会を開いています。

 次回は

11月15日(木)10:30〜12:00

京都聖三一教会2階ベストリーにて

ガラテヤの信徒への手紙の第2回。1章を中心に読みます。


ご関心のある方はどなたでもご参加ください。

『ピアノを弾くということ。』

花岡千春『ピアノを弾くということ。──ピアニストは八百屋さん?』
フィルムアート社、2007

 これも最近読んだ本です。約200頁。
 最近の音楽事情を含む読みやすい本。著者は国立音楽大学教授。

 印象的な言葉を少し引用します。

「いい音を出す秘訣は、これに尽きるのです。すなわち自分の音に向き合うこと。謙虚に聴いて、そのときの体の状態や腕の状態を分析し、また音を出して考えてみる。……」

「ピアノを弾くということは、やはり他者との関わりのうえにあるのです。……自分を高め、精進しようとする気持ちは、結局、他者によりよい形の演奏を提示しようとする気持ちの表れ以外のなにものでもないのです。ピアノを弾くことが自己完結で終わってはいけない……」


 著者は朗読の場合と関連させながら次のように述べています。

「そのフレーズの中での、さまざまな要素の重要度を見極めることは意外に難しい。」
「まったく無意味な箇所に厚化粧を施しているパフォーマンスが存在します。」

 たまに、どうしてそこをそのように強調したりテンポをとったりニュアンスをつけたりするのか理解できない演奏を聞くことがあります。

 不自然に感じてしまうと、聞くのがつらくなります。
 
 聖書の朗読にもこれは通じることです。聖書本文が意図しないような人為的強調や作為的表現をされると、とても困ります。

 朗読も演奏も、向こう側(作者、作曲者。あるいはそこに働きかけた聖なる存在)から来るものを大切に受け入れ、受けとめたものが表現になってほしい。
 より丁寧に言えば、その朗読、その演奏において、向こう側の主体がみずから生きて働くようであってほしい。

 これは個性を失うことではありません。固有の人格において聞かれ、受けとめられたものは、固有の響きとなるのですから。

 聖書朗読についてはそのうち私の考えを掲載します。

『演奏家のためのこころのレッスン──あなたの音楽力を100%引き出す方法』


バリー・グリーン、ティモシー・ガルウェイ『演奏家のためのこころのレッスン──あなたの音楽力を100%引き出す方法』という本をしばらく前に読み終えました。音楽之友社、2005。2400円。約250頁。

 2年前の11月25日に購入したもの。

 読み通すのに忍耐がいりましたが、「音楽家は自分の個性を見せるよりも、音楽の特質を表現することに責任がある」など、有益、共感できる内容もたくさんありました。

その中で音楽教育について<分析的>‐<全体的>、<機械的>‐<創造的>、<技術的>‐<情感的>の二つのアプローチの記述に興味が湧きました。

「この時期、分析的技能を強調する傾向が一般に広まったので、私たちは自己の『全体的』、創造的側面を思うように生かせないようになっていきます。」

著者の考えは、二つのアプローチを別々に認識して取り組む、という方法です。そのうえで両者を総合する。

日ごとの聖句288 いやし 2007/11/4〜10

2007年11月4日(日)聖霊降臨後第23主日
今日、救いがこの家を訪れた。ルカ19:9

11月5日(月)
主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒(いや)し、命を墓から贖(あがな)い出してくださる。詩編103:3‐4

11月6日(火)
イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出された。マルコ1:34

11月7日(水)
主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。ルカ5:17

11月8日(木)
「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」ルカ7:7

11月9日(金)
「わたしはあなたをいやす主である。」出エジプト記15:26

11月10日(土)
主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。ヤコブの手紙5:16

齋藤孝『教育力』

齋藤孝『教育力』岩波新書
を読みました。

 購入したのは1月26日となっているので、9ヵ月たっています。

「教育の一番の基本は、学ぶ意欲をかきたてることだ。そのためには、教える者自身が、あこがれを強く持つ必要がある。」
 
「教師の何よりの仕事は、誇りを感じられるようなテキストを用意し、学ぶ者同士が相互に切磋琢磨する友情の関係性を『場』の雰囲気として実現することである。」
 
「教師の実力が問われる勝負どころは、発問力である。」

「見抜いて見抜いて我慢をする、見守る能力が、教師にとって重要である。思いついたことを全部言ってしまうのはだめなのだ。」

「問題は、その状況を打開するアイデアが浮かぶかどうか、ということだ。」
 
 教師のありようについてとても本質的なことが書いてあって、大変参考になりました。

 ずばずばと明快に、断定的に書かれていて気持ちいいし、教えられるところ、共感するところがたくさんありました。

 ただ、現実の教師はもっともたもたしたり悩んだり困惑したりしてもがいていると思うので(私は大学と神学校、計18年間教育にたずさわり、天職と思える充実感と果てしない困惑の両方を経験しました)、そのあたりをどう切り開いていくのかが課題と感じました。

『楽器と身体―市民社会における女性の音楽活動』

フライア・ホフマン
『楽器と身体―市民社会における女性の音楽活動』
春秋社、2004

 約500頁の大著。しばらく前に読み終えました。 

 音楽の世界においても、どんなに男性の支配、抑圧がひどかったか/ひどいかが、歴史的に詳細に述べられています。
 1750〜1850の100年を中心に扱っています。

 いろんな楽器ひとつひとつについて詳しく論じられています。

 18〜19世紀の女性演奏家に対する当時の差別的な演奏批評(もちろん男性による)に、読んでいてしばしば憤慨しました。

 抑圧をはねのけて音楽をしていく自由を明確にしようとした女性たちの努力もしっかり紹介している貴重な研究書です。

「芸術家はしばしば、世間の人々によって、あたかも彼らの所有物であるかのように、気ままな評価を受けるという不運を背負っています。でも私のみるところ、世間の人々は私たちの特殊な状況を、必ずしも正確に把握してはいないようです。」
 リザ・クリスティアニ(19世紀の女性チェロ奏者)の言葉
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 『日韓キリスト教関係史資料』第3巻の編集
 リコーダーの世界
 音と響き
井田 泉
奈良基督教会牧師
親愛幼稚園園長
富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
聖公会平和ネットワーク共同代表

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『これが道だ、これに歩め
──イザヤ書による説教』
かんよう出版
213頁 1500円+税

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