モーツァルト と シューベルト
ふたつの世界
演奏会「プログラム」より
私が最初に小野純子さんのピアノを聴いたのは2005年の6月半ばのある日の夕方だった。当時活動の中心にしておられた京都市北区紫野の2階の部屋だった。
シューベルトの即興曲D899の第3番、アンダンテ。そのしばらく前から私のシューベルトに対する思いが再燃していて、CDをたくさん聴き、本もいろいろ読んで、彼の作品はドイチュ(D)番号で呼ぶのが自分にとって自然だと感じるようになっていたころである。
そのD899‐3は非常にゆっくりだった。旋律線がたどれるかどうかというくらいゆっくりだった。その曲はよくなじんでいるはずのものであったが、全然違う曲のように聞こえた。聴き終わったとき、私は「音が生きている」と言ったと思う。その後、私が持って行った韓国の讃頌歌(チャンソンガ)337(慈しみ深い救い主よ)と543(あの高いところに向かって)を歌い、ピアノで弾いてもらった。
その日から私の音楽の理解は変わった。技巧が優れているかどうか、もっと単純に言えば上手か下手かではなく、<音が生きているかどうか>が音楽にとって決定的である。そう思うようになった。
昔、ルドルフ・ボーレンという人の本の中に「能弁の説教者」の悲劇が語られていたのを思い出す。彼は、ある訥弁の神学生の説教について批評しながら、「しかしそこには光があった」と言う。音楽もこれと同じである。ただむつかしいのは、説教は訥弁でも意味は伝わるし、何度でも言い直すことができるのだが、音楽においてはそれでは内容が十分現れないということである。
小野さんのシューベルトを聴いていると、しばしば海の中で水が湧き立つのを感じる。深い海。海の中に光があって、水が動き光も動く。明るいところから、下のほうは次第に深い色になっていく。
シューベルトの「3つのピアノ曲」(D946)は1828年5月、彼の死の数ヵ月前に書かれたものであるが、生前は知られず、40年経った1868年、ブラームスが編集して出版したという。
シューベルトのピアノ曲には時折低い音のトレモロ(振動)があって、美しい旋律に浸っている最中に不思議な衝撃というか圧迫を与える。D946の第1曲にこれがあり、D899‐3にもある。シューベルトの魂の声なのだろうか。それとも天からの促しなのだろうか。
D946の第3曲は、後半に人の祈りが天に向かって差し出されるように感じられるところがある。その祈りの橋を渡って向こうから来るのは天使たちだろうか。やがて祈りと天使の歌はひとつとなっていく。
モーツァルトは、私の人生の時間の半分くらいの間、もうほかの音楽はなくてもいいと思うくらい熱愛していた作曲家である。今はそのような極端なことは思わない。しかしモーツァルトには天の光がある。K333の第2楽章アンダンテ・カンタービレを聴いていると、穏やかな光が差し、やがて陰ってくる。光は人と世界の傷を覆っていく。それが小野さんの演奏を聴いた印象である。ただ彼女の演奏は日ごと時ごとに変化する。今日はどんなふうになるのだろうか。
私は最初の印象があまりに強かったために、この人はゆっくり弾く人だと思いこんでいた。ところがそれが大きな誤解であることが別の機会にわかった。けれども彼女がひとつひとつの音のいのちを確かめ、くみとろうとしながら弾く人であることは大切な事実である。演奏には当然解釈が反映する。しかし彼女の演奏は「自分はこう考え、こう演奏する」というようなものとは違う。モーツァルトが経験していた光(あえて言えば彼方の実在)に照らされ、その光が音と響きとなってくるような演奏である。
モーツァルトのK333のフィナーレも、シューベルトのD946のフィナーレにも、祈りがあり、悲しみや嘆きが受けとめられている。しかしそれは無限の愛の中で光の輪舞となる。そのようなモーツァルトのシューベルトの生きた世界を、今夜一緒に味わうことができればと願っている。
彼女の演奏はまだいつも安定しているとは言えず、成長の途上にある。しかし彼女のピアノをとおして現れるモーツァルトとシューベルトの光の世界、永遠のいのちの世界はかけがえのないものであり、多くの人々にふれてほしいと心から思っている。(井田 泉)

