Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2008年02月

尹東柱「ひまわりの顔」

尹東柱の詩をひとつ訳します。



ひまわりの顔

姉さんの顔は
  ひまわりの顔
日がいま昇るや
  仕事場に行く
  
ひまわりの顔は
  姉さんの顔
顔がやつれて
  家に帰る
       (1938 推定)

この詩は2月26日(土)、立教大学で開かれた「詩人尹東柱とともに」で「姉さんの顔」という歌(作曲・金永東)の歌詞として紹介されたものです。

歌詞になっているものは原詩と微妙に違ったので、原詩から訳してみました。

この1938年の秋、朝鮮イエス教長老会(固有の教派名。イエス教というのはキリスト教のこと)総会は、日本当局により神社参拝決議を強制されました。

 当時尹東柱はソウルの延禧専門学校の学生で、その総会前後に「弟の印象画」「コスモス」を書いています。


アルファ、オメガ──バルトの言葉

最近雑誌を読んでいて心に残った言葉のひとつ。

「いずれにしても、そのこと(終末)はまだ隠れています。私たちはイエス・キリストを、新約聖書に語られている姿でしか知り得ないわけです。しかし、ほかならぬ新約聖書が私たちに呼びかけています。
キリストをアルファでありオメガである方として知るようにと。万物の源であり目標である方として知るようにと(ローマ11:36、ヘブライ2:10)……」

カール・バルト(1886〜1968)はスイスの神学者。20世紀を代表するキリスト教神学者のひとり。聖書は別にして、私の信仰とキリスト教理解にもっとも大きな影響を与えた人です。

私は伝統的な信仰告白の中にある生命をよみがえらせたいと願っているのですが、そのような姿勢はバルトから受けたものが大きく関係していると思います。

上記は『福音と世界』2008年1〜3月号に連載された「カール・バルト対話集」から。

岩城宏之『音の影』

 文春文庫。かつて『週刊金曜日』に連載されたもの。
 AからXYZまでイニシャル順で作曲家が取り上げられている。

 岩城氏のものは大変面白い。

 印象的な言葉を少し紹介します。脈絡無視ですがおゆるしください。

「指揮者は聴衆に背を向けていても、聴衆の状態は悲しいほどわかるものなのだ。」

 この点、説教者、講演者はふつう聴衆を見ながら話すのですが、やはりよく分かりますね。
 先日、270人ほどを前に講演したとき、ほとんどの人はこちらを見ながら熱心に聴いていてくださいましたが、中央の補助椅子のおじさんはずっとおやすみの様子でした。

 困るのは主催者など責任ある役の人が別のことに気を取られていることがこちらに伝わってくる場合です。
 ちょっと脱線しました。

「モーツァルトを偉大な作曲家というのは、ふさわしくないと思う。音楽史上、天才と呼べる唯一の人間という言い方も十分ではない。天の声、天の音楽、宇宙そのものだと言いたい。」

 それで著者はなんとモーツァルトの記述をパスしてメンデルスゾーンに移っている。

「それにしても彼(シューベルト)の全ての音楽の美しさは、他に例がないと思う。『全て』と書いたけれど、モーツァルト様には申し訳ないが、ぼく個人の感覚では、打率はシューベルトの方が上だと思っている。」
 
 

日ごとの聖句304 詩編第16編 2008/2/24〜3/1

2008年2月24日(日)大斎節第3主日
神よ、守ってください、あなたを避けどころとするわたしを。詩編16:1

2月25日(月)使徒聖マッテヤ日
わたしは主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」詩編16:2

2月26日(火)
主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。詩編16:5

2月27日(水)
わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。詩編16:7

2月28日(木)
わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。詩編16:8

2月29日(金)
わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。詩編16:9

3月1日(土)
主は命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。詩編16:11

シューベルト「ドイツ・ミサ曲」

 シューベルトの「ドイツ・ミサ曲」を自分で訳したものを掲載します。できるだけ直訳し、元のドイツ語歌詞と対比しやすいようにしてありますが、そのぶん日本語として通りのよくないものになっているかもしれません。私はドイツ語に明るくないので、間違いがあればご指摘ください。
(転載の場合は訳者名を明示してくださるようにお願いします。)
 
 ミサ曲(キリスト教会の中心的な礼拝である聖餐式の祈りの言葉を歌うための曲)は、伝統的なラテン語ミサ(聖餐式)式文に作曲されました。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、そしてシューベルトもラテン語のミサ曲を残しています。

 しかしこのドイツ・ミサ曲はそれとは異なり、ヨハン・フィリップ・ノイマンが、自由に書き下ろしたドイ語のテキストに、シューベルトが作曲したものです。ドイツ語による宗教作品は教会では演奏を禁止されていましたが、それ以外の場での演奏は認められていたので、コンサート作品として普及していったとのことです。

 この曲は私の最愛の曲のひとつです。最愛の曲もたくさんありますが。聖書の最重要の言葉がたくさんあるのと同じ。

 フランツ・シューベルト「ドイツ・ミサ曲」D 872(1827年作曲)

各曲の標題と大意

1.入祭唱(Zum Eingang)
 悩み、悲しみのとき、私はだれのもとに行けばいいだろう。あなたのもとに、父(神)よ、私は行く。

2.栄光の歌(Zum Gloria)
いと高きところ、栄光神にあれ

3.福音書と信仰告白
(Zum Evangelium und Credo)
神は言われた、「光あれ」と。すると光が生じた。

4.奉献(Zum Offertorium)
主よ、あなたは存在と生命と、あなたの教えと天上の光を与えられた。

5.聖なるかな(Zum Sanctus サンクトゥス)
 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主は!

6.聖変化の後に(Nach der Wandlung)
 あなたは言われる。「これはわたしのからだ、わたしの血」。これを受けて、わたしの愛を思え。

7.主の祈り

8.神の小羊(Agnus Dei アニュス・デイ)
わが救い主、神の小羊よ、あなたはおのが身をささげて、重い罪を除いてくださった。

9.終祭の歌(Schlußgesang)
 天上の喜びは、今やこの世界に降(くだ)った。
 祝福してください。わたしと家族を。わたしたちの人生の旅路を。


「ドイツ・ミサ曲」D 872(1827年)

1. 入祭唱

どこへわたしは自分を向けるべきでしょうか、
悲しみと悩みがわたしを押しつぶすとき。
だれにわたしはわたしの喜びを語るべきでしょうか、
わたしの心が喜びに鼓動するとき。
あなたに、あなたに、おお父よ、
わたしは行きます、喜びのときも苦しみのときも。
あなたは喜びを送ってくださいます。
あなたはすべての苦しみを癒される。

ああ、もしわたしがあなたを持たなければ、
何でしょうか、わたしにとって地と天は。
あらゆる場所は追放の地となり、
わたし自身は偶然の手に落ちてしまいます。
あなたこそは、わたしの道に
確かな目標を与えてくださる方、
そして地と天を聖別して
甘い故郷の地としてくださる方です。


2. 栄光の歌

栄光、栄光が神にありますように、いと高きところで!
幸いなる天の大軍は歌います。
栄光、栄光が神にありますように、いと高きところで!
地が産んだ私たちも口ごもりつつ歌います。
私はただ驚くばかり、驚きつつ喜びます。

全世界の父よ! それでも私はともに加わります──
栄光、栄光が神にありますように、いと高きところで!

栄光、栄光が神にありますように、いと高きところで!
輝く星の軍勢が告げます。
栄光、栄光が神にありますように、いと高きところで!
空気はうなり、海はとどろきます。
賛美の果てしない合唱が
永遠の感謝の歌を高らかに歌います。
栄光、栄光が神にありますように、いと高きところで!

3. 福音と信仰告白

世界は形なく横たわっていました、
聖なる報告によれば。
そのとき主は言われました、光あれ!と。
主が語られると、光が生じました。
生命が生じ、活動し
秩序が現れました。
そして至るところ、あらゆる場所で
賛美と感謝が響き渡ります。

力と勇気をお授けください、私たちが
救い主が行かれた道を
ただ見るばかりではなく
努力してそれに従うことができますように。
そうしてあなたの福音が
私たちにとって天の知らせとなりますように。
そして私たちを、主よ、あなたの憐れみによって
喜びの国に導き入れてください。


4. 奉献

あなたはお与えになりました、主よ、私に存在と生命を
そしてあなたの教え、天の光を。
それに対して塵にすぎない私があなたに何を与えることができましょうか。ただ感謝をささげることのほかに。

なんと幸いなことでしょう! あなたはあなたの愛のために、ただそれに答える愛のほか、何も求められません。
そして愛は、感謝に満ちた愛は
必ず私の生涯の喜びとなるでしょう。


5. サンクトゥス(聖なるかな)

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主は!
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、ただこの方は!
この方は、はじめなく
この方は、つねにおられた。
永遠であって統治される。
いつまでもおられる。

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主は!
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、ただ主は!
全能、驚き、愛
すべてのものが取り囲んでいる!
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主は!


6. 聖変化の後に

あなたの憐れみと慈しみを見つめながら
おお、私の救い主よ、私に、
私は見ます──最後の晩餐において
あなたの大切な人々の交わりの中で
あなたはパンを裂き
あなたは杯を差し出し
あなたは言われます、「これは私のからだ、私の血。
取って、私の愛を思いなさい、
あなたがたが身を献げつつ同じように行うときに」と。

私たちは自らをここに献げます、あなたの言葉に従って
あなたの聖なる祭壇の上に。
そしてあなたが、私の救い主、あなたが共におられます。
霊(心)の目はあなたを認めます。
主よ、あなたは苦しみと死を負われました、
私たちに生命を与えるために。
この天の糧が私たちにとって力の源となりますように、
生きるときも死ぬときも!


7. 主の祈り

あなたの力と偉大さを崇めつつ
私はおののきつつ、自分の無の中に沈みます。
あなたにふさわしいどのような名をもって
あなたをほめたたえましょうか。言葉では言い表わせないあなたを。なんと私は幸いなことでしょう! 私はあなたを父と呼ぶことがゆるされています。あなたのみ子の教えによって。
それで私はあなたに語りかけます、私の造り主よ
幼子のように喜ばしい確信をもって。
おお、父よ、あなたは天におられ
そしてどのような所にもどのようなときもおられます。
あなたの父の名を賛美することが
あらゆる心にとってこの上ない喜びとなりますように。
おお、あなたの憐れみと愛によって
あなたの恵みの国が私たちに現れますように。
そして真実のわざが、あなたの御心に従って
この地をも天のように造りかえますように!


8. 神の小羊

わが救い主、主よ、師よ!
あなたの口は祝福に満ちて
かつて救いの言葉を語られた
「平和があなたがたとともにあるように!」と。
おお、小羊よ、身をささげて
人類の重い罪を除かれた主よ。
あなたの平和を私たちにもお送りください、
あなたの恵みと慈しみによって。

私の救い主よ、主よ、師よ!
おお、憐れみ深く語ってください、
私たちに救いの御言葉を
「平和があなたがたとともにあるように!」と。
私たちに天に平和を送ってください。
この地上がけっして与えることのない平和を。
それはただこのような心にだけ呼びかけるのです。
清く真実にあなたを愛する心に!


9. 終祭の歌

主よ、あなたは私の切なる祈りを聴かれました。
私の胸の中で何かが、この上ない幸せに鼓動しています。地上へと、またこの命の中へと
いま天の喜びが私に伴います。
そこにあなたは私に近くおられ
至るところ、どのようなときにもおられます。
あらゆるところはあなたの神殿です、
人が心を深くあなたに献げるところは。
祝福してください、主よ、私と私のものを。
祝福してください、私たちの人生の道を!
私たちのすべてのわざと働きが
真心からの賛美の歌となりますように。


Deutsche Messe


1. Zum Eingang

Wohin soll ich mich wenden,
Wenn Gram und Schmerz mich drücken?
Wem künd' ich mein Entzücken,
Wenn freudig pocht mein Herz?
Zu dir, zu dir, o Vater,
Komm ich in Freud' und Leiden,
Du sendest ja die Freuden,
Du heilest jeden Schmerz.

Ach, wenn ich dich nicht hätte,
Was wär' mir Erd' und Himmel?
Ein Bannort jede Stätte
Ich selbst in Zufalls Hand.
Du bist's, der meinen Wegen
Ein sich'res Ziel verleihet,
Und Erd' und Himmel weihet
Zu süßem Heimatland.


2. Zum Gloria

Ehre, Ehre sei Gott in der Höhe!
Singet der Himmlischen selige Schar.
Ehre, Ehre sei Gott in der Höhe!
Stammeln auch wir, die die Erde gebar.
Staunen nur kann ich und staunend mich freu'n;
Vater der Welten! doch stimm' ich mit ein: Ehre sei Gott in der Höhe!

Ehre, Ehre sei Gott in der Höhe!
Kündet der Sterne strahlendes Heer.
Ehre, Ehre sei Gott in der Höhe!
Säuseln die Lüfte, brauset das Meer.
Feiernder Wesen unendlicher Chor
Jubelt im ewigen Danklied empor:
Ehre sei Gott in der Höhe!

3. Zum Evangelium und Credo

Noch lag die Schöpfung formlos da,
Nach heiligem Bericht;
Da sprach der Herr: Es werde Licht!
Er sprach's und es ward Licht.
Und Leben regt, und reget sich,
Und Ordnung tritt hervor.
Und überall, allüberall
Tönt Preis und Dank empor.

Verleih' uns Kraft und Mut, daß wir
Nicht nur die Wege seh'n,
Die der Erlöser ging, daß wir
Auch streben nachzugeh'n.
Laß so dein Evangelium
Uns Himmels Botschaft sein,
Und führ' uns, Herr; durch dein Huld
In's Reich der Wonnen ein.


4. Zum Offertorium

Du gabst, o Herr, mir Sein und Leben,
Und deiner Lehre himmlisch Licht.
Was kann dafür, ich Staub, dir geben?
Nur danken kann ich, mehr doch nicht.

Wohl mir ! Du willst für deine Liebe
Ja nichts, als wieder Lieb' allein;
Und Liebe, dankerfüllte Liebe
Soll meines Lebens Wonne sein.


5. Zum Sanctus

Heilig, heilig, heilig, heilig ist der Herr!
Heilig, heilig, heilig, heilig ist nur er!
Er, der nie begonnen,
Er, der immer war,
Ewig ist und waltet,
Sein wird immerdar.

Heilig, heilig, heilig, heilig ist der Herr!
Heilig, heilig, heilig, heilig ist nur er!
Allmacht, Wunder, Liebe,
Alles ringsumher!
Heilig, heilig, heilig, heilig ist der Herr!


6. Nach der Wandlung

Betrachtend deine Huld und Güte,
O mein Erlöser, gegen mich,
Seh‘ ich, beim letzten Abendmahle
Im Kreise deiner Teuren dich.
Du brichst das Brot,
Du reichst den Becher,
Du sprichst: Dies ist mein Leib, mein Blut,
Nehm hin und denket meiner Liebe,
Wenn opfernd ihr ein Gleiches tut.

Wir opfern hier, nach deinem Worte,
Auf deinem heiligen Altar;
Und du, mein Heiland, bist zugegen,
Des Geistes Aug' wird dich gewahr.
Herr, der du Schmerz und Tod getragen,
Um uns das Leben zu verleih'n,
Laß dieses Himmelsbrot uns Labung
Im Leben und im Tode sein!


7.Anhang: Das Gebet des Herrn

Anbetend Deine Macht und Größe
Versinkt in Nichts mein bebend Ich.
Mit welchem Namen, Deiner würdig,
Du Unnennbarer, preis ich Dich?
Wohl mir! Ich darf Dich Vater nennen,
nach Deines Sohnes Unterricht;

So sprech' ich denn zu Dir, mein Schöpfer
Mit kindlich froher Zuversicht.
O Vater, der Du bist im Himmel
Und überall zu jeder Zeit,
Zu preisen Deinen Vaternamen
Sei jedem Herzen Seligkeit!
O laß durch Deine Huld und Liebe
Erscheinen uns Dein Gnadenreich,
Und treues Tun nach Deinem Willen
Mach' auch die Erde himmelgleich!


8. Zum Agnus Dei

Mein Heiland, Herr und Meister!
Dein Mund so segenreich,
Sprach einst das Wort des Heiles:
»Der Friede sei mit Euch!«
O Lamm, das opfernd tilgte
Der Menschheit schwere Schuld,
Send' uns auch deinen Frieden
Durch deine Gnad' und Huld.

Mein Heiland, Herr und Meister,
O sprich erbarmungsreich
Zu uns das Wort des Heiles:
»Der Friede sei mit Euch!«
Send' uns den Himmelsfrieden,
Den nie die Erde gibt,
Der nur dem Herzen winket,
Das rein und treu dich liebt!


9. Schlußgesang

Herr, du hast mein Fleh'n vernommen,
Selig pocht's in meiner Brust,
In die Welt hinaus, in's Leben
Folgt mir nun des Himmels Lust.
Dort auch bist ja du mir nahe,
Überall und jederzeit.
Allerorten ist dein Tempel,
Wo das Herz sich fromm dir weiht.
Segne, Herr, mich und die Meinen,
Segne unsern Lebensgang!
Alles unser Tun und Wirken
Sei ein frommer Lobgesang.

ニコデモの祈り

                  ヨハネ3:1‐14

 ニコデモという人がいました。イスラエルでは有名な教師、聖書学者、指導者でした。年齢は分かりませんが、だいたい70歳くらいとしておきましょう。最高法院(ユダヤ人の七十人議会)の議員です。社会的地位があり、尊敬を受けている人です。

 しかし、だれにも言いませんが、心の深いところにうずくような悩みがありました。イエスのことを聞いていて、イエスは神から来た方に違いないと思っていました。ある夜、ニコデモはイエスを訪ねました。言葉を交わしました。しかし結果は物別れのようなことになってしまいました。ずいぶん失礼なことをイエスから言われたと感じたのです。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ヨハネ3:3

 「あなたはそのままでは救われない」と言われたのと同じです。そのような物の言い方はあまりではないか。不愉快でした。しかしニコデモは心の奥で、イエスが自分のもっとも痛いところを突いたと感じていました。

 このときイエスが語ったのか、それともイエスが語っているのを聞いているうちに自分の中に響いてきたのか、どちらか分からないのですが、忘れられない言葉があります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3:16‐17

 2年3年の間に、イエスの影響力は非常に大きなものとなりました。それに比例してイエスを秩序破壊者として断罪しよう動きも急激に高まりました。ユダヤの最高法院はイエスを神殿冒涜の罪で告発し、死刑にしようという方向で固まりつつありました。ニコデモは困惑しました。彼はこう発言しました。

「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」ヨハネ7:51

 大きな流れにいくらかでも歯止めをかけようとしたのです。しかしニコデモの発言は激しい反発を呼び起こしただけでした。

 まもなく祭司長たちと有力律法学者たちが行動を起こし、イエスを逮捕しました。最高法院が招集されました。大祭司カイアファが裁判長となり、イエスを審問しました。最高法院は全員一致でイエスを死罪と定め、ローマ総督ピラトに引き渡しました。

 ほんとうは全員一致ではなかったのです。ニコデモは本心では反対だったのです。しかしそれを言い出すことができませんでした。沈黙しているうちに事は決しました。翌日金曜日の朝、ピラトはイエスの死刑を執行しました。ローマ皇帝に対する反逆罪。見せしめの十字架はりつけの刑でした。

 午前9時、イエスは十字架にかけられました。6時間後の午後3時、イエスは息を引き取られました。ニコデモはどのような思いでその時を過ごしたのでしょうか。

 ニコデモが姿を現すのはその日の夕方です。何と彼は、大きな荷物を担いでイエスの十字架のもとに現れたのです。没(もつ)薬(やく)と沈香(じんこう)を混ぜた物を持って。重さは100リトラ、約33キログラム。イエスの遺体を包むための防腐剤です。ニコデモはイエスの体を葬るために重い荷物を持って来たのです。そこで彼は驚くべき人に出会いました。同じ最高法院の議員であるアリマタヤのヨセフです。ヨセフはイエスの体を十字架から降ろして、葬りの準備をしているところでした。あなたも仲間だったのか! あなたもイエスの死刑には反対だったのか。

 ニコデモとアリマタヤのヨセフは一つの思いを共有しました。自分は、イエスの死に責任がある。自分たちはイエスを守ることができなかった。


ニコデモの祈り

主イエスさま
 
あなたは人を愛されたのに、人はあなたを憎みました。
 それはあなたの愛が、人の闇を明るみに出すものだったからです。

 あなたは光で包もうとされたのに、人は光を拒みました。
 あなたは引き寄せようとされたのに、人は逃げました。
 あなたは悲しみの涙をこぼされたのに、
 人は憎しみに燃えるまなざしをあなたに向けました。
 人は自分の要求が満たされる間はあなたを歓迎しましたが、
 あなたが人に問いかけられると、人はあなたに対して心を閉ざし、
 不満と憤りをあらわにしました。

 あなたは愛から人に呼びかけられたのに、人はそれを攻撃ととりました。
 人はあなたによって傷つけられたと思いましたが、
 あなたのほうが何倍も傷つき、心から血を流しておられたことを、
 人は知りませんでした。

 人は、自分の抱える不満や鬱積した感情のはけ口をあなたに求めました。
 あなたは貧しく、謙虚、柔和でおられ、
 社会的地位も権力も何も持たれなかったので、
 人は容易にあなたを侮り、迫害することができたのです。
 あなたは、言葉も心も通じないことを知られたとき、
 沈黙して侮りと迫害を甘受されました。

 わたしはひそかにあなたを慕っていました。
 けれどももうひとりのわたしはあなたを拒んでいました。
 できることならあなたを助けたいと思ったのに
 あなたを死へと追い立てる声に抗することはできず、
 あなたを見殺しにしてしまいました。

 あなたを憎んだ人、それはわたしです。
 あなたを侮った人、それはわたしです。
 あなたを死へと追いやった人、それはわたしです。

 主よ、あわれんでください。
 主よ、あわれんでください。

 今、わたしはあなたの十字架にもとに来ました。
 あなたの葬りのために、没薬と沈香を用意しました。
 どうぞ今、わたしをあなたの弟子としてください。僕としてください。
 あなたと共に死に、あなたと共に葬られることをわたしはいといません。
 あなたが死なれた今になって、
 わたしはあなたの愛をはっきりと知ったからです。

 主イエスさま、あなたの愛が古いわたしを葬ってくださり、わたしの中にあたらしい人を造ってくださいます。あなたに感謝と賛美を献げます。アーメン

       (ヨハネ3:1-10、7:50-52、19:39-42)

 私たちは今、ニコデモとともにこの言葉を聞きましょう。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3:16‐17

(黙想)(祈り)

   (2008/02/17 京都聖ステパノ教会・京都聖三一教会)

あなたがたに平和がありますように

 ある日、洗礼者ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言いました。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ヨハネ1:29

 その翌日、また、ヨハネは歩いておられるイエスを見つめて言いました。
「見よ、神の小羊だ。」

 洗礼者ヨハネはイエスに「神の小羊」を見ました。「神の小羊」とは何なのでしょう。

 小羊とは、神に献げられるいけにえです。羊を献げて礼拝することは、旧約聖書のレビ記などに記されています。人は悪いことを考え、悪いことをする。その結果神との間に自分から壁を造り、やがてその人は人を責め、あるいは自分を責めて滅びていく。しかし神はそのようなことを望まれません。礼拝をとおして神は人々を救おうとされ、人々は礼拝をとおして信仰の告白を献げ、罪の赦しを願い求めます。重要な礼拝においては、牛や羊を祭壇に献げます。いのちをかけるほどの真剣な礼拝です。神の前に動物を屠って、殺して血を流させて、それによって自分たちの罪を赦していただくのです。

 洗礼者ヨハネは、自分に近づいて来られるイエスに、神に献げられる小羊を見ました。この方は傷を受け、血を流して死なれる。私たちの赦しと救いのために屠(ほふ)られ、罪を引き受けて死なれる。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

 主イエスの弟子、十二使徒のひとりのヨハネも、十字架にかけられたイエスに神の小羊を見ました。
 イエスが死なれた後、確認にやってきた兵士のひとりが、槍でイエスのわき腹を刺しました。するとすぐ血と水が流れ出ました(ヨハネ19:34)。

 血は命です。水は清めです。イエスから発する水は、私たちを清めるのです。
 傷を受け、血と水を流して、私たちに命と赦しを与えてくださる神の小羊を、他の女の人たちとともにヨハネは見たのでした。

 昔のある預言者はこう語りました。

「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように、
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。」イザヤ53:5‐7

 私たちのすべての罪を負われた神の小羊イエスが私たちの真ん中に立ち、私たちに呼びかけてくださいます。

「あなたがたに平和がありますように」

 このイエスの呼びかけが私たちの間に平和をつくり出します。世の罪を除きます。私たちもまたこの呼びかけに答え、こだまのように隣人に、世界に平和を呼びかけていきましょう。

「あなたがたに平和がありますように」

(京都聖ステパノ教会「2008年度受聖餐者総会要項」巻頭メッセージ)

一人の従順によって

                 ローマ5:19

 大斎節に入りました。イエスさまが公に働きを開始される前、その備えのために40日の間、荒野でひとり、切に祈って過ごされたことを心に刻みながら、私たちもそれにならう大切な期間です。

 イエスは何を祈られたのでしょうか。
 イエスはご自分のこれからの働きのために、ご自分のために祈られました。
 同時に、すでに出会っておられた何人もの困難を抱えた人たちのために、何とかしてその人たちを助けたいと思って祈っておられました。

 神の国がこの地上に実現していくように祈っておられました。

 まっすぐに神に向かい、神さまの声を聴き、それにまっすぐに向かって歩むことが、必ず人々の救いになるはずです。

 これに対する妨害が起ります。ものすごい抵抗が起ります。イエスさまのその道を阻止しようとする力が猛烈に働きます。サタン、悪魔の誘惑です。イエスはこれに苦しみ、危うくなられ、祈られました。そして最後に勝利されました。聖書に記された言葉が、神の言葉がイエスの心と体とに響き渡って、悪魔の企てを打ち砕いたのでした。

 私たちはどのように過ごしているでしょうか。

 祈ること少なく、神さまの言葉を聴こうとすることが少なく、愛も熱心も乏しいかもしれません。神さまに対してまっすぐでなく、神さまに対して多く従順でなかったかもしれません。
 
 しかし今日のパウロの言葉を聞きましょう。

「一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」ローマ5:19

 ただひとりイエスさまが、荒野で試練にさらされ、悪魔の誘惑を受けながら、ただひとり神への従順を貫かれました。

 このことが私たちの土台です。すでに悪魔に打ち勝たれたイエスが、私たちの守りとして、導き手として、いてくださるのです。

 イエスが先に苦しんで、イエスが先に戦って、先に勝利された。私たちより先に苦しみ、先に祈り、先に勝利されたイエスが、私たちの土台です。イエスとともに私たちも苦しみ、イエスとともに祈り、イエスとともに勝利するのです。

 たとえ私たちが神に対して従順でなく、神に対してまっすぐでなくても、イエスがただひとり従順を貫いてくださって、その信仰と命の中に私たちを迎え入れてくださいます。
 
 イエスさまの祈りが私たちの祈りとなるように。イエスさまが私たちのうちに生きて働いてくださるように。神の前に自らを省み、懺悔し、悔い改めて再出発したい。イエスとともにに信仰の道をしっかり歩むために、大斎節懺悔の祈りをささげ、灰の十字架のしるしを受けたいと思います。
                 (2008/02/10 京都聖三一教会)

日ごとの聖句303 永遠の命 2008/2/17〜23

2008年2月17日(日)大斎節第2主日
人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。ヨハネ3:14‐15

2月18日(月)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

2月19日(火)
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。ヨハネ3:17

2月20日(水)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。ヨハネ4:14

2月21日(木)
わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また死から命へと移っている。ヨハネ5:24

2月22日(金)
わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである。ヨハネ6:40

2月23日(土)
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。ヨハネ6:54

<詩人尹東柱とともに>

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2008年2月16日(土)午後2〜5時
立教大学池袋キャンパス
 チャペル(立教学院諸聖徒礼拝堂)


〈1部〉
追悼セレモニー
2:00〜

★礼拝 柳時京司祭
★尹東柱ゆかりの歌(アジア アンサンブル)
「アリラン」「懐かしのバージニア」「姉さんの顔」
★詩の朗読
「序詩」「たやすく書かれた詩」他(韓国語・日本語)

〈2部〉
基調講演
3:00〜
井田 泉(京都聖三一教会牧師)
「尹東柱の詩と信仰」−立教時代に書かれた詩−

〈3部〉
シンポジウム
4:00〜5:00
金 時鐘(詩人) 佐川亜紀(詩人) 井田 泉
「尹東柱の詩―そのと抒情を超えるもの」

資料代:一般1000円 学生500円

■主催
詩人尹東柱を記念する立教の会

■共催
立教大学文学部100周年記念事業実行委員会
立教大学文学部文学科英米文学科専修

■協力:韓国尹東柱文学宣揚会
   :尹東柱の故郷をたずねる会

■問合せ先
立教大学チャプレン室(柳時京司祭:ユ・シギョン)
電話:03‐3985‐2696
FAX:03‐3985‐4724
Email:skyoo@rikkyo.ne.jp

日ごとの聖句302 あなたの光に 2008/2/10〜16


2008年2月10日(日)大斎節第1主日
一人の従順によって多くの人が正しい者とされる。ローマ5:19

2月11日(月)
主よ、あなたの慈(いつく)しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。詩編36:6

2月12日(火)
あなたの恵みの御業は神の山々のよう。あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。詩編36:7

2月13日(水)
神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せる。詩編36:8

2月14日(木)
人の子らは、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。詩編36:9

2月15日(金)
命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。詩編36:10

2月16日(土)
あなたを知る人の上に、慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に、恵みの御業が常にありますように。詩編36:11

母マリアによるイエスの物語

 これは2006年4月3日、京都で開かれた日本聖公会各教区人権担当者協議会の聖書の時間に話した内容に加筆したものです。
 母マリアの口からイエスの生涯を回想するという形をとっています。自分なりの想像と解釈によるものですが、聖書の記事に基づいているので創作というわけではありません。
 
 長文で読みにくいと思いますが、おゆるしください。


 母マリアによるイエスの物語

 あの子は──ほんとうは神の子、私たちの救い主ですが、今はそう言うことにします──初めから不思議な子でした。

 出産して40日後、私はあの子を抱いて夫ヨセフとともにエルサレムの神殿に行きました。慣習に従って最初の子を神さまに献げるためです 。けれども私はほんとうにあの子を、神さまからいただいた子として、神さまに献げる決意で神殿に行ったのです。

 そこでシメオンという老人に出会いました。シメオンさんはあの子を抱いて、涙を流しながらこう言ったのです。
「これでもう私は死んで神さまのところに行くことができる。私の目が神の救いを見たのだから。」

 その後、シメオンは私にこう言いました。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 この子は成長して、人々の反対を受け、迫害されることになる。恐ろしいことでした。この子の母となったことで自分も苦しみにあう。けれどもそれが自分に託されたことなら、命をかけてもこの子を守り、神さまに従おうと私は決意したのです。

 その後、今度はアンナというおばあさんに出会いました。預言者と言われている人です。アンナさんはあの子を見て、ほんとうにうれしそうな顔をして神を賛美しはじめました。彼女は、エルサレム中の救いを待ち望んでいた人々にあの子のことを話したそうです。この子は人々に希望を与え、神さまの救いをもたらす者となる。自分がその母とされたことを、もったいなく、畏れ多く、しかしこの上なく幸せに感じました。当時アンナさんは84歳だったと思います 。

 ナザレであの子はすくすくと成長しました。賢い子でした。知能が高いというより、もっと本質的な、物事の核心に敏感というか、命と魂を知っているという賢さです。幼いときからあの子の表情や言葉、しぐさや反応にしばしば驚かされました。あの子がそばにいると、恵みの神を感じました。それは私だけではなく、夫もそうでしたし、いろんな人たちが同じことを言っていました。

 毎年過越の祭の時には、ナザレの村の人たちと一緒に、エルサレムの神殿に礼拝に行きました。あれはあの子が12歳の時です。祭が終わっての帰り道、あの子がいないことに気がつきました。私たちは近所の人たちと親しくしていましたし、あの子ももう律法をわきまえる年齢になっていましたから、道連れの中にいるものと思いこんでいたのです。

 驚いて1日分の道を引き返し、エルサレムを探し回りました。どこにも見つかりません。私たちは気が気ではありませんでした。神さまから預かった大切な子を失ったらどうしようと心配で心配で、食べ物ものどを通りませんでした。

 3日の後、もしやと思って神殿に入ったところ、境内に一群の人たちが座って話をしていました。学者たちが聖書や信仰のことを議論している様子でした。その真ん中に、何とあの子が座って、話を聞いたり質問をしたりしているではありませんか。聞いている人たちは皆、あの子の受け答えに驚き感心していました。

 私はあの子に近づいて言いました。
「どうしてこんなことをしてくれたの。ごらんなさい。お父さんも私も心配して探していたのよ。」

 するとあの子はこう言いました。
「ぼくがぼくのお父さんのところにいるはずだと分からなかったの?」

「ぼくのお父さん」と、あの子は神さまのことをごく親しいもののように言いました。それがとても自然な言い方だったのです。けれども私たちはあの子の言葉の意味が、そのときはよく理解できませんでした。

 一緒にナザレに帰った後は、あの子は家のことをよくしてくれました。私たちにとても力になってくれました。特に夫ヨセフが亡くなって後は、あの子は父の跡を継いで大工の仕事をしながら家族の大きな柱になってくれていました。私はずっと後まで、あの時のあの子の言葉を心に留めていました。

 ところがイエスは20代の終わり頃になると家を離れて、ヨハネのところで過ごすようになりました。あの、ヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネです。ヨハネの影響力は大変なもので、庶民はもちろん、何不自由なく暮らしているエルサレムの有力者やお金持ちの中にも、彼のところに行って洗礼を受ける人たちが続出しました。私はあの子の様子を見に行って、ヨハネが話すのを聞いたことがありますが、神が自分に迫ってこられるのを強く感じたものです。あの子はヨハネに非常に共感していたようで、やはりヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたのです 。

 その後、ヨハネは民衆を扇動する危険分子として捕らえられました。それからです。あの子が独自の活動を始めたのは。30歳の時でした。
「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とあの子は呼びかけていました 。

 ガリラヤのカナの町で知人の婚礼がありました。婚宴は何日も続きます。私は早くから行ってそのお世話をしていました。イエスと弟子たちも出席していました。私は、大量に用意されていたはずのぶどう酒がなくなってきているのに気づきました。このままでは宴が白けてしまい、招待した人たちが恥をかくことになります。私はイエスに「ぶどう酒がなくなった」と告げました。するとイエスは、「女の方、それが私と何の関係がありますか。私の時はまだ来ていません」と言いました 。意外な答に驚きましたが、イエスの態度はとても真剣でした。私は召使いたちに、「この人が何か言ったら、そのとおりにしてください」と言いました。

 イエスはそこにあった六つの水瓶に水を一杯に満たすように言いました。召使いたちがそのとおりにして、それを運んでいきました。水は非常においしいぶどう酒に変わっていました。「私の時はまだ来ていません」と言ったイエスの言葉は、ずっと私の耳に残っていました。


 あの子が考えていること、あの子がしていることは正しいと私は信じていました。あの子の言葉には、真実そのものから来る響きがありました。彼は神と人を、それこそ命を捨てて愛していました。けれどもそれがとても心配でした。何か危険なことになりはしないか。彼は、人々から恐れられている有力者や指導者たちの誤りをはっきりと批判しました。人のことを思うあまり自分の身を守ることを知らないようでした。

 事実、あの子の言葉と行動は、もっとも勢力を張っているファリサイ派の憤りを買いました。働いてはならないとされる安息日にイエスは手の萎えた人を癒しました。それは安息日(土曜日)の会堂でのことでした。イエスを訴える口実を得ようとする人々の注目の中で、あの子はこう言ったそうです。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

 彼らは答えることができず、黙っていました。自分たちが人の痛みや悲しみなど思わず、人を陥れることばかり考えていることがあらわになったからです。人々のかたくなな心に対するあの子の憤りと悲しみを、どれほどの人が理解したでしょうか。イエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言いました。すると、その人の手は元どおりに良くなりました。その時、ファリサイ派の人々は恥じて去ったのではありません。逆に、普段は仲違いをしているヘロデ派の人々と一緒になって、イエスを殺す相談を始めたのです。

 イエスが神さまと人々のために働けば働くほど、力ある人たちの憎しみを買うことになりました。これがこの世の現実なのでしょう。イエスのことを「あれは悪霊に取り憑かれている」とか、「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」などと、悪意のうわさを広める人たちがたくさんいました 。

「どうして身内の者がイエスをほっておくのか」と私たちも責められました。親戚の中には、自分たちの立場が悪くなるのを恐れて、イエスを取り押さえに行った人たちもいました。「あの男は気が変になっている」と評判になっていましたから。

 私も、このままではいつイエスが捕らえられるか、いつ命を落とすことになるかと心配で心配で、一度無理にでも家に連れて帰りたいと思い、ほかの子どもたちと一緒にあの子のいる所まで行きました。人を頼んでイエスを呼んでもらい、私たちは家の外で待ちました。久しぶりにあの子に会ったのですが、その時あの子の口から出た言葉は次のようでした。

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 私は衝撃を受けました。自分がどれほど人を気にして中途半端な生き方をしていたか。イエスは、神さまが願われることを自分の願いとして、人の救いのために自分を献げているのです。イエスの周りに集まった人々の間には、平和の光が満ちていました。神の国がここにあることを私ははっきりと知りました。神さまの守りと導きが、私たちのために、今に至るまであったしこれからもあることを、ほんとうにその時私は確信しました。自分が、このイエスとその周りに集まった人たちのために祈り、それを支えていくのだと思うと、不思議な幸せに包まれました。

 イエスを愛し、信頼する人々は非常に多くなりました。何百何千という人たちが彼のもとに集まってその話を聞こうとしました。イエスの語る「神の国」は、他の何ものにも代えがたい、命の言葉として響きました。温かく柔らかく自由で真実なものがそこにはありました。

 イエスのまわりにはしばしば不思議なことが起こりました。彼によって病を癒された人は数知れないといいます。

 ある女の人は、イエスの後ろから彼にひそかに近づき、服の房に触ったそうです 。そうすれば必ず治ると信じたからです。これは魔術的なものをイエスに期待したことになるかもしれません。癒されたことを感じた彼女は、そのまま黙って立ち去るつもりだったのです。ところがイエスは振り返って、触ったのが誰か探しました。その女の人は恐ろしくなって、ふるえながらありのままを話したそうです 。イエスはこう言ったそうです。「娘よ、あなたが信じたので、あなたが私を信じてくれたので、あなたは助かった。安心して行きなさい」と。彼女は体の病が治ったばかりではなく、イエスの言葉と愛を受けて、人としてよみがえったのです。

 何の社会的地位も持ちませんでしたが、人々はイエスを「ラビ」(教師)と呼び、「預言者」と信じました。「生ける神の子」「救い主」と言う人もありました。

 けれどもイエスの思いとはまったく違う期待を彼にかける人たちもいました。ある人々は反ローマ帝国のクーデターの指導者として彼を祭り上げようとしました。ある人々は彼を王として押し立てようとしました 。自分の利益のために彼を利用することを企てる人々も少なくありませんでした。けれどもイエスは、人の心の中に何があるかを知っていました。イエスの願いは、人の心の中に深い安心を、世界にほんとうの平和をもたらすことでした。イエスは人の魂を脅かす力、この世界を損う闇の勢力を見抜いていて、それと対決せざるを得ませんでした。

 悲しみや自分の破れを知っている人々はイエスを愛しましたが、反対に自分たちの地位や立場がイエスによって危うくされていると感じる人たちがいました。それは社会的、宗教的指導者たちです。ふだんは反目し合っているファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ党、親ローマ派などが、イエスを邪魔者、秩序破壊者として抹殺しようとする点では一致しました。

 イエスが公に活動を始めて約3年、ある日曜日に、イエスは弟子たちや多くの彼を愛する人々とともに首都エルサレムに入りました。私は胸騒ぎを感じて、できるだけそばにいるようにしていました。
木曜日の深夜、イエスは、祈りに行ったオリーブ山のゲッセマネで捕らえられました。すぐに裁判が開かれ、大祭司と議会はイエスに死刑の判決を下しました。「神の子」「メシア」を自称し、神殿を冒瀆し、神を汚した、というのが理由でした。イエスほど命をかけて神と人を愛した人はいなかったのに。

 イエスはガバタ(敷石)と呼ばれる裁判の場所から、エルサレムの城門の外、ゴルゴタ(されこうべの場所)という刑場に引いて行かれました。自分がかけられる十字架の横木をかつがされていました。私は大勢の人たちにまじってイエスについて行きました。イエスは道に倒れました。兵士たちは、通りかかったキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせました。その人はシモンという人で、後に彼もその妻も子どもたちもイエスを信じる人になったのです 。

 午前9時にイエスは十字架にかけられました。十字架の上には、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いた罪状書きが掛けられていました。
生後40日、あの子を抱いて神殿に行ったときにシメオンが言った言葉がよみがえりました。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 胸のつぶれる思いで、私はその近くに立って見つめていました。この子は、「神を冒瀆し、ローマ帝国の支配に反抗した極悪の犯罪人」として十字架につけられた。しかし彼は間違ってはいない。間違っているのは彼を十字架につけた者たちだ。他のだれが逃げようと彼を見捨てようと、私は絶対にここを離れない。イエスを信じて自分も死ぬなら死ぬと覚悟していました。マグダラのマリアたちが一緒にいました。

 突然、十字架の上からイエスが私にこう言いました。「ご覧なさい。これはあなたの子です」。彼が言ったのは、そばにいた弟子のひとりヨハネに対してでした。イエスはヨハネに言いました。「見なさい。これはあなたの母です。」それからヨハネは、私を自分の母のように自分の家に引き取ってくれました。

イエスは十字架の上で祈っていました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。 」

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

 イエスが息を引き取ったのは午後3時でした。私はずっと十字架の下に立っていました 。

 夕暮れになったとき、アリマタヤのヨセフがやって来ました。彼は議員で、社会的地位の高い人です。彼はローマ総督ピラトから許可を得て、イエスの遺体を取り降ろしに来たのです。私ははっきり知りました。ヨセフは、自分の社会的地位はもちろん、場合によっては命を失うことも覚悟している。彼は自分がイエスの仲間であり弟子であることを公然と示したのです。この人も神の国を待ち望んでいた 。

 まもなくニコデモ(この人はファリサイ派の教師で、議員でもありました)が大きな袋を担いでやって来ました。イエスの葬りのために没(もつ)薬(やく)と沈香(じんこう)を混ぜた物を持ってきてくれたのです。この人も自分の身を危険にさらして、イエスの仲間であることをあらわしたのです。

 イエスのからだはアリマタヤのヨセフの新しい墓に葬られました 。横穴の墓の入口は大きい石で閉じられました。私はずっとその墓を見つめていました。

 安息日である土曜日はじっとして過ごし、日曜日の夜明け前、私はマグダラのマリアと一緒に墓に行きました。イエスのからだを油で拭い、葬りなおすためです。入口の石をどうやって取り除いたらよいか分りませんでしたが、とにかく急いで行ったのです。すると入口の大きな石はわきへ転がしてありました。

 死んだイエスは復活しました。私はよみがえったイエスに会ったのですから、人がどう思おうとそう言うしかありません。夢見るような不思議な経験。悲しみは慰められ、絶望は希望に変えられました。打ちのめされた私たちは、溢れる喜びに満たされました。他の弟子たちも同じ経験をしました。

 40日後、私たちはイエスに従ってオリーブ山に行き、そこでイエスを見送りました。イエスは手を上げて私たちを祝福し、祝福しつつその姿は見えなくなりました。

 私たちはエルサレムに帰り、一緒に毎日祈っていました 。私たちは、世間から見れば、死刑となった犯罪人を信じる異様なグループでしょうが、私たちには不思議な確信がありました。神に守られ、包まれ、肯定されているという実感がありました。

 10日後の日曜日、私たちが2階の部屋に集まって祈っていたとき、心に風が吹き、火が燃えました。神の慰めが私たちのうちに溢れ、平和が満ち、恐れが消え、すべてから解き放たれて自由になりました。
この世界に愛と自由が、正義と平和が実現することを求めて働いておられる神。その神の情熱が私たちのうちに燃えて、私たちは宣教の歩みを始めたのです。

マリアの賛歌

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしために(も )
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。 」
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