Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2008年09月

日ごとの聖句336 神の力 2008/10/5〜11


2008年10月5日(日)聖霊降臨後第21主日    ルカ5:17
主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。

10月6日(月)    ミカ書5:3
彼は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。

10月7日(火)    民数記14:17‐18
今、わが主の力を大いに現してください。あなたはこう約束されました。「主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。」

10月8日(水)    ローマの信徒への手紙1:18
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

10月9日(木)    テモテへの手紙 1:8
むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。

10月10日(金)    ペトロの手紙 1:5
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

10月11日(土)    ペトロの手紙 5:6‐7
神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

恐れるな──バルト対話集から


『福音と世界』にカール・バルト対話集が連載されている。カール・バルトはわたしがもっとも影響を受けたスイスの神学者(1886‐1968)。

『福音と世界』2008年10月号(第10回)に印象的な言葉が載っていたので抜き書きする。

「キリスト者は恐れてはなりません。……かんじんなことは、神を畏れていること(詩編111:10)。神を畏れて生きているなら、こわいものはありません。」

詩編111:10
主を畏れることは知恵の初め。
これを行う人はすぐれた思慮を得る。
主の賛美は永遠に続く。

「教会の任務は、聖書のメッセージと、人々の日常生活のまんなかに立つことだとわたしは思います。教会は、しばしば、超俗的なところがあまりにも足りない。そうかと思うと、世俗的なところがあまりにも足りない。しかし、このふたつの面をしっかりとらえていなければなりません。」

「見える姿がどうであっても、福音を伝えているなら、死にそうな教会のほうが、元気な教会よりも上かもしれません。……ほんとうの教会が死ぬことはありえません。社会制度として『教会』と読んでいるものは、死ぬことがありうるでしょう。」

「しかしその後、よくわかったんです、キリストは神の国である、ということが。キリストは神の言葉であるというだけでなく、神の手である──人々のあいだで、人々のために、私たちみんなのために働かれる神ご自身である、ということが。」

(今日の教会に贈りたい言葉を一言、と言われて)
「説教しなさい! 神の言葉の受肉を伝えなさい。神の言葉の、しかもその受肉を伝えなさい。」

「教会は、橋にならなければならない。いえ、橋はイエス・キリストご自身です。しかし、キリストを伝えることで、神と人間のあいだに橋が存在することを伝えるんです。教会は、この橋を、つまり神と人間のあいだの契約を行き来しなければならない。……神の崇高さを忘れず、人間の深い苦しみから目をそらさず、この両方をひとつに結ぶことによって。」

『J.S.バッハ──時代を超えたカントール』その 2


川端純四郎氏のこの書から記憶しておきたい言葉を書き留める。


「……バッハは、通奏低音を『音楽のもっとも完全な基礎』と定義したうえで『すべての音楽と同じように、通奏低音の目的と究極原因もまた、それ故、ただ神の栄光と心の新生のため以外のものであってはならない』と言っています。」

「バッハの音楽観からすれば、音楽はすべて神の栄光のためであって、《チェンバロ協奏曲》であろうと《フーガの技法》であろうと、神への献げものであることに何の違いもないのです。」

「バッハにとっては、世俗音楽と教会音楽は区別なしに、どちらも神への献げものであったのです。」

わたしたちは主のもの


ローマ14:8

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」ローマ14:8

 今日の使徒書の言葉です。
 この言葉の少し前には次のように書かれています。

「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。……主は、その人を立たせることがおできになるからです。」14:1、4

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」ローマ14:8

 このパウロの言葉に込められているのは、弱い人、弱っている人を支えようとする思いであり、その背後には、弱った人々を立ち上がらせようとされる主イエスの愛の情熱があります。

 聖書の中で弱った人間、弱り果てた人の代表の一人はヨブです。旧約聖書・ヨブ記の主人公です。「聖書の中によくもヨブ記があってくれた」というのがわたしの思いです。苦しみ、訴え、叫び続ける人間が聖書の中に存在する。これはわたしたちには大きな救いです。

 ウツという所にヨブという人がいました。神を畏れる正しい人でした。多くの家族と財産を持ち、幸福な生活をしていました。ところが突如として大きな災難がふりかかりました。子どもたちを失い、財産を失い、体いちめんは皮膚病にかかりました。

「ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」ヨブ2:8

 彼は不幸のどん底に落ち、自分の生まれた日を呪います。
 これを聞いた三人の友人たちがやってきます。彼らはヨブのあまりの痛ましさに、1週間話しかけることもできませんでした。

 しかしやがて友人たちは代わる代わるヨブに話しかけます。友人たちは、「このような不幸が起こったのはあなたが何か悪いことをしたからだ。反省して悔い改めなさい」と説得にかかります。しかしヨブは、そんなことはまったく身に覚えがないと反論します。次第にヨブと友人たちのやりとりは激論になります。3人の友人とヨブの議論は3回ずつ巡ります。友人たちは素直に話を聞かないヨブに対して憤り、すさまじい言葉をヨブに投げつけるに至ります。

「あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか。
あなたは兄弟から質草を取って何も与えず、既に裸の人からなお着物をはぎ取った。
あなたはやもめに何も与えず追い払い、みなしごの腕を折った。」22:5、6、9
「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。」22:21

 しかしヨブはこのような身に覚えのないことを受け入れることはできませんでした。ヨブは友人たちとの対話が空しいことを感じ、天に目を向け、神を呼び求めます。いくつかヨブの声を聞いてみましょう。

「神に呼びかけて、答えていただいたこともある者が、友人たちの物笑いの種になるのか。神に従う無垢な人間が、物笑いの種になるのか。
人の不幸を笑い、よろめく足を嘲ってよいと、安穏に暮らす者は思い込んでいるのだ。」12:4‐5

「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。
あなたたちは皆、偽りの薬を塗る、役に立たない医者だ。」13:3‐4

「わたしのために争ってくれる者があれば、もはや、わたしは黙って死んでもよい。

ただ、やめていただきたいことが二つあります、御前から逃げ隠れはいたしませんから。
わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。
そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。
罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪咎を示してください。
なぜ、あなたは御顔を隠し、わたしを敵と見なされるのですか。」13:19‐24

「わたしは粗布を肌に縫い付け、わたしの角と共に塵の中に倒れ伏した。
泣きはらした顔は赤く、死の闇がまぶたのくまどりとなった。
わたしの手には不法もなく、わたしの祈りは清かったのに。

大地よ、わたしの血を覆うな、わたしの叫びを閉じ込めるな。
このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、
高い天には、わたしを弁護してくださる方がある。
わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。」16:15‐20

「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。
このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」19:25‐27

 やがて若いエリフが立ち上がって演説しますが、ヨブは答えません。

 この地上にだれひとり彼を理解してくれる者、彼の味方になってくれる者はなく、ただ彼は神のみを叫び求めるのです。神が沈黙しておられる。これが彼の耐えがたい苦しみであり、嘆きです。

 しかしやがて神は、嵐の中からヨブに答えられました。

「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。
男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」38:2‐3


 神は断乎としてヨブを叱責しつつ、こう言われます。

「あえてわたしの前に立つ者があれば
その者には褒美を与えよう。
天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」ヨブ記41:3


 神が沈黙しておられるとき、世界が自分に敵対し、ヨブはまったく孤独でした。しかし今、神は

「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」と言って、世界とヨブを一挙に引き寄せられます。

「天の下にあるすべてのものはわたしのもの」
「あなたはわたしのもの」
 わたしたちは主のもの。今日の使徒書につながりました。

 神がわたしに目を注ぎ、わたしを引き寄せられます。
 神がわたしを守り、わたしの責任を引き受けてくださいます。
 神がわたしをとおして働いてくださいます。
 神の目にとうといわたしたちです。

 わたしたちは生きるにしても、死ぬにしても主のもの。死んだ後も主のものです。

 孤独で弱ったとき、主がわたしたちを引き寄せてくださいますように。弱った人たちを主がご自分のものとし、支え、立ち上がらせてくださいますように。
 主がわたしたちをとおして働いてくださいますように。

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」ローマ14:8

(2008/09/14 京都聖三一教会)

一つの霊によって


フィリピ1:27‐28

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。」フィリピ1:27‐28

 教会の始まりには大きな出来事がありました。それは聖霊の降臨という出来事です。聖霊が、神の霊が、祈っている人々の上に注がれた。神の霊は、燃える炎のようであって、それは「舌」のように見えたと言われています。舌というのは動く舌です。生きて語る舌です。

「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」使徒言行録2:3

 ひとりの神の霊、一つの霊が分かれて一人一人にとどまり、ひとりひとりを動かす。

 一人一人は違うし、それぞれにふさわしい違う賜物を受けたのですけれども、集まっている人々の心は一つになった。イエスさまの愛と救いを伝えたいという思いで一つになったのです。神の霊が火となって人々のうちに燃え、神の霊が舌となって人々の口を動かしました。福音を宣べ伝える教会がこうして誕生しました。これが教会の誕生日、聖霊降臨日の出来事です。その日ペテロたちの説教を聞いてイエスさまを信じ、洗礼を受けた人は3000人にもなったと伝えられます。

 火となって燃え、舌となって語らせる聖霊の力によって、福音の宣教は、パウロによってアジア(今のトルコ)からやがて海を渡り、ヨーロッパに進みました。こうしてヨーロッパで最初に生まれた教会がフィリピの教会です(使徒言行録16:11‐15)。いま聞いたのは、パウロが後にフィリピの信徒に語りかけた手紙の一節です。

 フィリピで伝道を始めたパウロの説教を聞いて、心を動かされたのがリディア(ルデヤ)という女の人でした。紫の布を商う人でした。彼女が自分の家にパウロを無理に招き入れて、こうしてフィリピの教会が誕生しました。心が熱くなり、信じることの幸せと感動がありました。パウロのうちに燃える聖霊の火は、リディアの心に燃え移って、神への熱心、イエスさまへの熱心で一つとなった教会がこの地に誕生したのでした。
 
 しかし誕生したフィリピの教会は二つの試練にさらされます。一つは外からの迫害、もう一つは教会内部にいつのまにかはびこってきたこの世的な力と分裂です。地位、名誉、お金、勢力、形式主義……。福音が見失われると、この世的な関心と力が教会を支配するようになってきました。

 信仰が頼りなくなる。困難にくじけてしまう。教会の中で心が通わなくなり、信頼することができない現実が起りました。以前は信仰も働きも前向きで積極的だったのに、今は現状を嘆きつつ何とか持ちこたえるしかありません。

 このような現状を知らされたパウロは、愛するフィリピ教会の人々のことを心配して、この手紙を書きました。

 パウロは、かつて火となり舌となって最初の教会を誕生させた神の霊が、またフィリピ教会の始まりに働いた聖霊が、再び働いてくださることを切に祈ってこう言います。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。」フィリピ1:27‐28

 キリストの福音にふさわしく生きて、フィリピの教会がこうなるのを聞きたい。

「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っている。」

 神の霊は舌のように分かれて現れ、それぞれの人をとおして多様に働くけれども、しかし神の霊は一つです。一つの霊、神の霊はあなたがたを必ずしっかりと立たせる。

「心を合わせて福音の信仰のために共に戦っている。」

 福音のために人々の心が一つになる。一つの霊の働きのもとで人の心が一つとなり、福音の信仰のために戦う。

 あの聖霊降臨の日、ペテロは人々に呼びかけて言いました。

「邪悪なこの時代から救われなさい。」使徒言行録2:40

 悪がはびこるこの世界の中で、わたしたちは一つの戦いのために呼び集められました。

 それは天国のかけら、神の国のしるしをこの地上に実現していく戦いです。世と、自分の中にひそむ悪の力に打ち勝っていく戦いです。悪が圧倒するように思われてもけっして屈服しない。神の霊がわたしたちをしっかりと立たせてくださり、わたしたちをとおして天国の断片、神の国のしるしを実現していかれます。

 パウロをとおしてフィリピの人々に呼びかけられた神が、今わたしたちに呼びかけてくださいますように。

「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだ。」

 神の一つの霊がわたしたちをしっかり立たせ、福音のためにわたしたちの心を一つにしてくださいますように。神の国のために働き戦う者としてくださいますように。

    (2008/09/21 京都聖三一教会) 

日ごとの聖句334 ヨナの祈り 2008/9/21〜27


2008年9月21日(日)聖霊降臨後第19主日   ヨナ書2:1
さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。

9月22日(月)福音記者使徒聖マタイ日   ヨナ書2:2‐3
ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。

9月23日(火)   ヨナ書2:3
主は陰府(よみ)の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。

9月24日(水)   ヨナ書2:7
わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった。

9月25日(木)   ヨナ書2:8
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。

9月26日(金)   ヨナ書2:9‐10
わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。

9月27日(土)  ヨナ書2:11
主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。

日ごとの聖句333 わたしたちは主のもの 2008/9/14〜20


2008年9月14日(日)聖霊降臨後第18主日   ローマ14:8
生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

9月15日(月)   申命記10:14
見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。

9月16日(火)   詩編24:1‐2
地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。
主は、大海(おおうみ)の上に地の基(もとい)を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。

9月17日(水)   詩編95:4‐5
深い地の底も御手(みて)の内にあり、山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。

9月18日(木)   詩編100:3
知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。

9月19日(金)   詩編100:4
感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。

9月20日(土)   詩編100:5
主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々(よよ)に及ぶ。

自分自身と人々を救う──「テモテへの手紙1」

 テモテへの二通の手紙とテトスへの手紙とは「牧会書簡」と呼ばれている。教会が直面する問題と取り組みながら、牧会者の務めを全うするように助言・指導を与えるために書かれた手紙である。

 伝統的にはパウロが書いたものとされてきた。テモテはパウロの同労者で、使徒言行録19:22、?コリント4:17‐、?テサロニケ3:5‐に言及されている。

 彼は後にエフェの監督(主教)として殉教したと伝えられる。

 この書簡中、女性についての指示(特に2:12‐)は時代的制約の中で記されたものでこのまま信仰の規範として従うべきものではない。

1. 1:15‐16「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」

 パウロの告白として受けとめたい。罪なき者を迫害し、死に追いやったことを自覚したとき、自分はまったく負の存在であり、生きる資格のない者、生きてはいけない者と思うしかなかった。しかしキリスト・イエスが彼を憐れみ、生きる意味と力と使命を与えられた。

2. 4:12‐16「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。……自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」

 伝道者、牧会者にとって、自分の働きと同時に自分自身のあり方は重く深い課題である。すでに「救われてしまった者」ということはあり得ず(そんなことがあればそれは堕落)、人と自分とが一緒に救われなければならない者である。

3.6:11‐12「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」

 信仰は、平和を与えられることであるとともに、悪の力との戦いに召されることでもある。1:18、4:10にも言及がある。信仰の告白(表明=あらわすこと)は、?神に対して、?自分に対して、?世界に対して、なされる。

 この書簡には、語りながらいつのまにか祈っている箇所が複数ある。
1:17「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」 3:16、6:16

 私たちの思い、言葉、働き、生活が、それが祈りと無縁ではなく、祈りからこそ生まれるものでありたい。「憐れみと祈りの霊」ゼカリヤ12:9
(2008/09/14)

祝福を祈りなさい


ローマ12:14

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」

 もし、この言葉だけがあって、わたしたちが自分だけでこれをしなければならないというのであれば、苦(にが)く困難なことかもしれません。

 けれども「祝福する」ということが神さまの業であることを知れば、何か変化が起るかもしれません。祝福とは何か。聖書の初めの方から確かめてみることにしましょう。

 神が人を造られたとき、神が最初になさったのは人を祝福することでした。それは創世記第1章に記されています(27‐28節)。

 わたしたちも神によって造られたとき、同じ神の祝福を受けました。わたしたちひとりひとりが、この世に人として誕生したとき、神の祝福を受けて、そうして人生が始まったのです。

 やがて人が世界に増え広がったとき、神はある人々を引き寄せ、信仰の民として出発させられました。アブラハムとサラです。

「わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。」創世記12:2


 信仰の歩みの出発のとき、アブラハムは神の祝福を受けました。それは、アブラハムとその一族、また子孫をとおして、神の祝福が世界に広がるためです。「あなたは祝福の源となるように。」信仰の民をとおして、神はあらゆる人々を祝福しようとされます。

 わたしたちの信仰の出発のときもそうです。わたしたちも神を信じて歩み出すとき、同じ祝福を受けたのです。あなたをとおしてわたしの祝福はあなたの周りに広がっていく、と。

 神が人を祝福されるだけではありません。神の祝福の中で、人が人を祝福する、ということが起ります。その顕著な例が、創世記第49章にあります。

 アブラハムとサラの子がイサク、イサクの子がヤコブです。ヤコブが年老いてこの世を去るにあたって、子どもたちひとりひとりを祝福します。ヤコブは11番目の息子ヨセフのためにこう祈ります。

「どうか、あなたの父の神があなたを助け
全能者によってあなたは祝福を受けるように。
上は天の祝福
下は横たわる淵の祝福
乳房と母の胎の祝福をもって。」創世記49:25


 聖書はその言葉からイメージを広げて読みたい。

「上は天の祝福」祝福が高く天に満ち、「下は横たわる淵の祝福」祝福は深く淵に満ちる。天から地の深み、淵に至るまでの神の祝福がいまヨセフに注がれる。こうして祝福を祈る祈りは神の祝福を現実にしていく。祝福は事実、現実となるのです。

 しかしその後、世界は神の祝福を損いました。神の願われた正義と平和は破れ、祝福とは反対の呪いが地に満ちました。神はその世界と人を見捨てず、もう一度徹底的に祝福して世界を建て直そうとされました。それがイエス・キリストの降誕、その生涯、十字架と復活です。

 主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、神の声がありました。

「あなたはわたしの愛する子」マルコ1:11

 これは祝福の言葉です。わたしたちも洗礼を受けたとき、この祝福の言葉を受けたのです。

 イエスは子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されました(マルコ10:16)。イエスさまに手を置かれ、祝福を祈っていただいた子どもたち。それは実はわたしたちのことでもあるのです。

 イエスが地上の生涯を終えて天に去られるとき、弟子たちを祝福し、祝福しながらその姿は見えなくなりました。弟子たちの目と心に焼き付いたのは、イエスの祝福の手、祝福の姿でした(ルカ24:50‐51)。

 今も神は、イエスは、わたしたちを祝福しつづけておられます。そして神はただ祝福されるばかりではなく、その神の祝福を受け取ってそれを広げていく大切な存在をつくり、それに祝福の働きを託されました。

 それが教会です。教会をとおして、わたしたちをとおして、神は祝福を世界に実現していこうとされます。

 神の祝福がなければ、この世界は滅びてしまう。呪う力、滅ぼす力が世界には蔓延してします。けれども滅びてはならない。神が造られた世界は、神が愛しとうといものとされた人は滅びてはならないのです。

 祝福を知らない世界は不幸です。非難すること、責めること、呪うことしかないなら、わたしたちは生きていくことができません。
わたしたちは神の祝福を受けるために招かれました。そして人を祝福するために送り出されます。神さまの祝福を広げていくように祝福を託されたのがわたしたちです。

 わたしたちは人として悲しみや憤りを持っています。そのような者が人を祝福することができるのでしょうか。しかしイエスさまもそうでした。イエスは人のゆえの限りない悲しみと、この世界の悪に対する抑えがたい憤りを持っておられました。けれども悲しみつつ憤りつつ、呪うのではなく、祝福されました。

 わたしたちは悲しみや憤り、苦い思いを持ちつつ、神の祝福を注がれて、受けた祝福をもって人を祝福していくのです。神の祝福はわたしたちにとどまるだけではなく、わたしたちをとおして現れ出ようとするのです。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」

 人のために祝福を祈りましょう。神が祝福を広げようとしておられます。

              (2008/09/07 京都聖三一教会)

キリスト教保育


今日は幼稚園の入園説明会を行いました。
朝、起きたとき、キリスト教保育の核心がいくつかの言葉とイメージとして与えられました。それをもとにして話をしました。

次のブログにその要旨を載せましたので、ご関心のある方はご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/kyotosanichi/

『J.S.バッハ──時代を超えたカントール』


川端純四郎著『J.S.バッハ──時代を超えたカントール』(日本基督教団出版局、2006)を時々開いて読んでいる。

非常に優れた研究書で、時代と社会の中でのバッハの姿が浮き彫りにされてくる。

ケーテンの宮廷楽長からライプチヒのカントール(音楽監督)に移る事情と、バッハ自身の選択と決意が大変興味深い。

著者は、バッハは「職人」と「芸術家」の統一、「共同体」と「個性」の統一を、ライプチヒのカントール就任をとおして選び取ったのだという。

教会の礼拝のためのカンタータを、言わば職人的に作曲しつづけるというのがカントールに求められた職務であった。しかしそのカンタータを「芸術」として創作しつづけたのがバッハだと。

(すみません、わかりにくくて。これは自分の読書メモです。)

わたしは、ケーテン時代の無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータをとても愛しているが、著者がこの作品を、教会共同体の共同感情から離れて「芸術のための芸術」に一番近づいたものとするのはすぐにはうなずきがたい。

著者の説明は説得的であり、信仰共同体の背景なしにこの曲がつくられたことは理解できる。しかしこの曲がバッハの信仰的感情を反映していないとは思えない。

わたしにとっては無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータは、魂の深み、ひだのひだまで浸透してくる曲であって、それはわたしの信仰と切り離すことはできないものである。

わたしは韓国・朝鮮の詩人、尹東柱の詩について、彼の信仰や聖書との関係について講演したことがある。それに対して、「芸術(文学)の理解に信仰を持ち込むのはいかがなものか」と批判的感想を述べる人たちがいた。しかしわたしは、信仰とは生きることそのもの、自分の存在そのものであって、芸術を理解するのに信仰を棚上げにすることはできない、と答えた。

バッハの場合も尹東柱の場合も、その芸術がその信仰と別にあったとはとうてい考えられない。全作品がそうだと主張するのではないが、直接に信仰をあらわすのではない作品の中にも、自身の魂と生活の営みそのものである信仰が関わっているものが多いとわたしは考え、また感じている。



日ごとの聖句332 み言葉2 2008/9/7〜13


2008年9月7日(日)聖霊降臨後第17主日   詩編119:89
主よ、とこしえに、御言葉は天に確立しています。

9月8日(月)   詩編119:28
わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。

9月9日(火)   詩編119:65
主よ、あなたの御言葉のとおり、あなたの僕に恵み深くお計らいください。

9月10日(水)   詩編119:74
あなたを畏れる人はわたしを見て喜びます。わたしが御言葉を待ち望んでいるからです。

9月11日(木)   詩編119:81
わたしの魂は、あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。

9月12日(金)   詩編119:101
どのような悪の道にも足を踏み入れません。御言葉を守らせてください。

9月13日(土)   詩編119:105
あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。

ロス訳 朝鮮語聖書


今日、日本聖書協会発行の“SOWER”という雑誌が送られてきた。
今回の特集は「聖書の翻訳とは」。

特集とは別に、聖書図書館蔵書シリーズ第30回として「イエス聖経全書 朝鮮語新約聖書ロス訳」がカラー写真入りで紹介されている。

英国聖書協会 奉天 1887年
(韓国聖書協会 ソウル 再版1956年)

スコットランド長老派の宣教師ジョン・ロスが満州(当時)で韓国人の協力のもとに翻訳したもの。

この聖書を徐相倫らが故郷に持って帰って売り歩いたのが、朝鮮におけるキリスト教(プロテスタント)宣教の最初という。


ハングル印字が特徴的で見ていて楽しい。今とは綴りが違っている。

扉を見ると縦にハングルでこう書いてある。

イエス降世一千八百八十七年
イエス聖教全書
光緒十三年 聖経文光書院 活版


「光緒」は清国の年号である。

書名は「聖経全書」と紹介されているが、扉と表紙の写真は「聖教全書」となっている。後の聖書は「聖経全書」という書名になるのだが。

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井田 泉
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