Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2008年10月

バッハのカーロフ聖書

Bach and Scripture

『バッハと聖書──カーロフ聖書註解からの言葉』
コンコーディア出版社、1985年

バッハによる聖書への書き込みやアンダラインを見ることができる。解説も充実。

"J.S. Bach and Scripture: Glosses from the Calov Bible Commentary"
Robin A. Leaver



カーロフ聖書 扉

カーロフによる註解付きルター訳ドイツ語聖書(カーロフ聖書)の扉
右下にバッハの署名がある。








カーロフ聖書歴代誌下5章



カーロフ聖書。旧約聖書・歴代誌下第5章のところです。右の欄外にバッハの自筆書き込みを見ることができます。

バッハの聖書──信仰の音楽


昨夜、少しバッハのカーロフ聖書を読みました。

旧約聖書・歴代誌下5:13の欄外にバッハは次のような書き込みをしています。

英訳ですが
NB. Where there is devotional music, God with His grace is always present.


「心からの信仰の(祈り)の音楽のあるところ、神はその恵みをもってつねにそこにおられる。」


12節13節全体にバッハはアンダラインを引いています。これはソロモン王が神にエルサレム神殿をささげる場面です。

「レビ人の詠唱者全員、すなわちアサフ、ヘマン、エドトンおよび彼らの子らと兄弟らは、麻布の衣をまとい、シンバル、竪琴、琴を持ち、百二十人のラッパ奏者の祭司たちと共に祭壇の東側に立っていた。

「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、『主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。」


カーロフのつけた11節から13節のタイトルは

「いかにして神の栄光は美しい音楽の上に(によって)現れるか」

これにもバッハはアンダラインを付けています。

立派に上手に聞かせる音楽ではなく、まごごろからの祈りの音楽をささげ、神さまの臨在と祝福を経験したいと思います。



日ごとの聖句340 永遠の神 2008/11/2〜8


2008年11月2日(日)聖霊降臨後第25主日     創世記21:33
アブラハムは、ベエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ。

11月3日(月)             詩編9:19
乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。

11月4日(火)             詩編16:11
あなたは命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。

11月5日(水)            コヘレトの言葉3:11
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

11月6日(木)             イザヤ書60:20
あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。

11月7日(金)             イザヤ書63:16
主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名(みな)です。

11月8日(土)             ハバクク書1:12
主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。

ライアー・コンサート プログラムから(2) 曲目解説


プレリュード ハ長調

バッハ平均律曲集第一巻の最初の曲です。アルペジオによる和声が小節ごとに変化して進行します。原初に創造された永遠の光を思わせる至高の曲。グノーがこの曲に有名なアヴェマリアの旋律をつけました。


シンフォニア 11番 ト短調

バッハがすべての音楽を学ぶ人のために創造の基礎として作曲したインベンションとシンフォニアの曲集にはいっている曲です。憂いを含んだ付点のリズムを含む3つの旋律が交錯していきます。


アルマンド ト長調

バッハはイギリス組曲、パルティータ、フランス組曲など、鍵盤楽器のためにいくつも組曲を作曲しました。フランス組曲はその中でも典雅で叙情的な気分を持っていますが、このアルマンドはその第5番の最初の曲です。3つの声部がやわらかな光を織りなします。


血しおしたたる/いつくしみ深き

この二つはとても有名な聖歌です。「血しおしたたる」の「血」は、十字架にかかられたイエス・キリストから流れる血のことです。バッハのコラールの響きはうつくしく深く、限りなく深い愛を思わずにいられません。マタイ受難曲ではこのコラールが5回用いられています。

「いつくしみ深き」は世界中の人が愛唱する聖歌です。弱さを感じるとき、孤独の中にいるとき、共にいてくださるイエスさまを思い、口ずさむたびに心が安らぎ、慰め、力づけられます。


ブラームスのこもりうた/シューベルトのこもりうた/フリースのこもりうた

3曲とも有名なこもりうたです。外国のこもりうたですが、3つとも国境を越えて、もう日本人のものになっています。世界中、どこの国のこもりうたも、やさしくあたたかです。


Lascia ch'io pianga/ラッシャ・キオ・ピアンガ (私を泣かせてください)

ヘンデルのオペラ「リナルド」の第2幕、敵の魔術師に捕らわれた女性アルミレーナのアリア。「残酷な運命を泣かせてください。自由を呼吸させてください」と歌われる曲。声にもならないほどの悲しみと自由への切望が、不思議な慰めをたたえたうつくしい音楽となっています。


主よ、人の望みの喜びよ(心に主イエスを)

バッハの教会カンタータ147番で2回歌われるコラール(会衆全体で歌う賛美歌)。カンタータでは「イエスはわが変わることなき喜び。わが心を慰めうるおすかた、わが命の力。……ゆえにわたしはイエスを心と目から離さない」としめくくられます。低音と共に進行する三連符のベールに祝されるように深いコラールが歌われます。


光 空に満つ

原詩は4〜5世紀にさかのぼるラテン語の歌。曲は英国のオーランド・ギボンズ(1585〜1625)によるものです。愛称は「天使の歌」とされます。プログラム(1)もご覧ください。

ライアー・コンサート プログラムから(1) あいさつ

光、空に満つ 〜 ライアーの響き

2008年10月26日 (日)午後、京都聖三一教会礼拝堂で小野純子さんによるライアー・コンサートが開かれました。60名あまりの参加がありました。

 これは京都聖三一教会創立110周年行事の一環として開かれたもので、聖三一幼稚園と共催としました。

 当日のプログラムの内容を掲載します。



     京都聖三一教会牧師 井田 泉


 本日はよくいらっしゃいました。

 「光、空に満つ」はわたしたちの教会で用いている聖歌集6番、7番の最初の言葉です。ライアーの響きを思いながらふと浮かんだのがこの言葉でした。

 「光 空に満つ 心をささげて/神の み守りと 導きを祈る」

 わたしが小野純子さんのライアーを最初に聞いてからおよそ3年半になります。その音と響きは、人がつくり出したり操作したりすることのできないもの、あえて言えば「かなた(天)から、祈る魂をとおって来る」ものです。音のしずくが光をまとって一滴一滴落ちてくるのを受けるような世界。効率と正しさ、正確さを競いながらもっとも大切なものを失いつつあるこの世界に、ライアーは魂の故郷を経験させてくれます。

 旧約聖書・イザヤ書のなかにこんな言葉があります。

「目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたはそれを降らせられます。」26:19

 すでに天に満ちている光が音となって地上に降り、わたしたちに安らぎと新しい希望を与えてくれることを祈りつつ、静かなひとときを過ごすことができますように。



ライアーのこと 〜 コンサートに寄せて

      小野 純子


 ライアーは1926年、ドイツで生まれた楽器です。音楽家(プラハト)と彫刻家(ゲルトナー)の共同作業によって考案されました。ライアーには弦の数や音域などにより幾種類もあります。キンダーハープと呼ばれる7弦の小さなライアーや、ソプラノ・アルト・テノールや高音域のディスカント・ライアー、広い音域のコンサートライアーなどです。これらのライアーは独奏もできますし、また、アンサンブルやオーケストラで響きを合わせて楽しむこともできます。

 ライアーはもともと、心と体の治療のための楽器として考案され、その意味は今も失っていません。ライアーの演奏法についてですが、爪や指先で弦をはじくことなく、直接指先で大切に弦に触れて、指先にかかる重みによって弦に圧力がかかり、そののち体が重力(収縮の力)から解放されるとともに指先が弦から次の弦に移動することによって音が生まれる、というふうです。丸く深みのあるあたたかな響きがライアーの特徴です。

 今日演奏に使用するものはドイツ・ゲルトナー社製のコンサートライアーです。53弦あります。ちょうど4年前に私のところに来ました。透明で豊かな広がりのある響きを持っています。ライアーのために作曲された曲も多くありますが、今日はバッハの作品を中心に演奏したいと思います。コンサートライアーの生きた響きを楽しんでくださいましたら幸いです。

<プロフィール>
京都市出身、滋賀県大津市在住。15年あまり前にライアーと出会う。ライアーの響きがもたらす世界に感動し、学びを深めながら、ピアノ、ライアーを中心に指導、演奏活動を行っている。ライアーの会プリモール主宰。

目覚めよ、竪琴よ──コンサートに寄せて


「わたしは心を確かにします。
神よ、わたしは心を確かにして
あなたに賛美の歌をうたいます。
目覚めよ、わたしの誉れよ
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
わたしはあけぼの曙を呼び覚まそう。」詩編57:9


 今日は午後、教会主催のライアー・コンサートをしますので、それに関連して聖書に出てくる竪琴のお話をします。ライアーは20世紀に生まれた竪琴です。

 聖書に最初に出て来る楽器は何か、というと、これが竪琴なのです。

「その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。」創世記4:21
 (父はレメク、母はアダ、兄はヤバルと言います。)

 竪琴と笛は聖書に出て来る最初の楽器です。

 竪琴、笛に始まる聖書の中の楽器は、もう少し広げて言うと音楽は何のために用いられたかというと、それは祈るため、礼拝するためでした。神を賛美するため、祈るために音楽はどうしても必要な、大切なものなのです。第一に大切なのは心、第二に大切なのは技術です。祈る心があってはじめて音楽は成り立ちます。竪琴は祈りの楽器です。

 イスラエルの最初の王はサウルという人でした。サウル王はしばしば精神状態が悪くなることがありました。その苦しみはとてもひどいもので、「悪霊が彼をさいなんだ」と記されています(サムエル記上16:14)。心配した家臣が竪琴の上手な人を推薦しました。エッサイの子、ダビデです。後にイスラエルの王となる人です。ダビデはサウルの傍らにいて、しばしば竪琴をもってサウルの魂を慰めました。ダビデの奏でる竪琴の響きは、悪霊を追いやりました。

 ダビデがサウルのために奏でた竪琴は普通、慰めの楽器、癒しの響きと理解されます。しかし竪琴はそのような理解の範囲に留まるものではありません。

 聖書の最後、ヨハネの黙示録に竪琴が登場します。ヨハネの黙示録は壮大な幻(ビジョン)を示すものです。この世界がどんなに痛みと罪と悲しみに満ちているとしても、最後は神の救いが完成する。天使と悪魔が戦い、最後は悪の力が滅ぼされて神の愛と正義と平和が実現することを告げています。

「わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。」15:2‐3

 獣と言われるのは悪魔です。竪琴は悪魔と戦う天使の戦いに参加し、真実の神の勝利を歌います。

「『全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、
驚くべきもの。
諸国の民の王よ、
あなたの道は正しく、また、真実なもの。
主よ、だれがあなたの名を畏れず、
たたえずにおられましょうか。
聖なる方は、あなただけ。
すべての国民が、来て、
  あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが、
明らかになったからです。』」15:3‐4


 竪琴は、祈り、神を賛美する。イスラエルの礼拝にとって大切な楽器でした。

 竪琴は、人の魂を慰める。サウルのことをお話ししました。

 竪琴は、悪の力と戦い、神の救いをあらわし実現していく。黙示録に語られています。

 今日、わたしたちの教会が行なおうとするライアー・コンサートが、ささやかではあってもそのような祈りと慰めと神の救いの働きの時となるように、聖霊の祝福を祈りましょう。

(2008/10/26 京都聖三一教会)

日ごとの聖句339 平和の訪れ 2008/10/26〜11/1


2008年10月26日(日)聖霊降臨後第24主日    イザヤ55:12
あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。

10月27日(月)       イザヤ57:15
わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にある。

10月28日(火)使徒聖シモン・使徒聖ユダ日   イザヤ57:15
わたしは、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。

10月29日(水)       イザヤ57:16
わたしは、とこしえに責めるものではない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように。わたしの造った命ある者が。

10月30日(木)       イザヤ57:18
わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。

10月31日(金)       イザヤ57:19
わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。

11月1日(土)諸聖徒日    イザヤ57:2
しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は横たわって憩う。

『自分の中に歴史を読む』


 阿部謹也『自分の中に歴史を読む』(ちくま文庫)を読んだ。

 しばらく前に同じ著者の『ハーメルンの笛吹き男』を非常な感動をもって読んだのだが、『自分の中に歴史を読む』も大変興味深いものだった。

「自分の意識や存在そのものが歴史のなかにある。」

「私たちは過去との真の絆を探し、《大いなる時間》のなかで生きているという自覚をもたねばならないのです。そのためには……まず自分の内奥に流れている過去を照らし出し、それを受け入れねばなりません。拒否するばあいでもその存在を知らねばならないのです。」

 歴史は、自分自身とは無関係の客観的な事実の叙述というのではなく、自分の存在や生き方と深く関連するものだ、という著者の理解は、歴史家のはしくれとしてのわたしに非常な共鳴を呼び起こす。

 少年時代に著者がカトリックの修道院で育った話も大変興味深い。

 ただ著者がキリスト教について提示している理解には疑問を感じるところがある。

「キリスト教の教義では、世界の中心は人間であるとされ、他の動植物は人間に奉仕するために作られたのであって、人間以外の動植物には霊魂はないと説かれています。」

「キリスト教会は大宇宙のもつ不可思議な神秘性を否定し、世界の構造もなりたちも、神の摂理のもとにあって明快であり、人間の信仰が不十分だから世界が見えないにすぎないと説明してきました。」

 おそらくこれは著者が事実触れてきたキリスト教、また実際の歴史の中で力を振るってきたキリスト教のありようが論じられているのであろう。

 しかしわたしは、キリスト教がこのように括られることを肯定することはできない。

 旧約聖書・コヘレトの手紙にはこういう言葉がある。

「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。」3:19

 聖書には宇宙とこの世界の神秘を語るところがたくさんあり、不可思議な神秘性が否定されているとは簡単に言えない。「神の摂理のもとにあって明快」というようなことがテーゼふうに言われると、わたしのキリスト教理解とは大きな距離があるのを感じてしまう。

 おそらく、著者が論じているようなキリスト教理解を、今日のキリスト教が自己批判的に乗り越えていくことが課題なのだろう。

 また逆にこの世界の「不可思議な神秘性」と言われるものの中には、人々を呪術や占い、縁起や習慣、制度などによって不当に束縛・抑圧してきたものがあり、福音ががそれらから人々を解放してきたことの意味を吟味すべきだと思う。

日ごとの聖句338 弱い者の砦 2008/10/19〜25


2008年10月19日(日)聖霊降臨後第23主日   イザヤ書25:1
主よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。

10月20日(月)        イザヤ書25:4
まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦。豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる。

10月21日(火)        イザヤ書25:5
あなたは雲の陰が暑さを和らげるように、異邦人の騒ぎを鎮め、暴虐な者たちの歌声を低くされる。

10月22日(水)        イザヤ書25:6
万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

10月23日(木)        イザヤ書25:7‐8
主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。

10月24日(金)        イザヤ書25:8
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。

10月25日(土)        イザヤ書25:9
見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

力と愛と思慮分別の霊──「テモテへの手紙2」

テモテはパウロの同労者。パウロは今、囚われの中にあり、殉教を覚悟しつつ、「愛する子」(1:2)、愛弟子であるテモテにこの手紙を書き送る。

1. 1:3‐4「わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。」

 パウロはテモテのために祈っている。パウロはテモテの涙を覚えている。それはテモテの信仰の真実、まごころからの愛の現れとしてパウロの心に刻まれたものであった。

2. 1:6‐7「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」

 これは聖職按手にあたるが、同時に信徒按手(堅信)にもつながる。手を置いて祈られることによってわたしたちは聖霊を受けた(受ける)。それはイエスに注がれ、イエスをとおして働かれた神の霊である。

3. 1:14「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」

 わたしたちには神から良いものがゆだねられている。それを見出し、確かめ、大切に守るべきである。聖霊はわたしたちのうちに宿り、わたしたちが自分で守れない、守ろうとしない大切なものを守ろうとされる。

4. 2:9「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」

 神の言葉はそれ自身が命を持っていてみずから働く。ヒトラーのナチズム(全体主義)に抵抗する告白教会の指導者として逮捕・投獄されたマルチン・ニーメラー牧師は、この言葉を自分の拠り所としていた。

5. 4:17‐18「しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。」

 「獅子の口」という言葉から、パウロがどんなに非難、嘲笑を浴び、暴力と迫害に苦しんできたかが窺われる。しかし神は彼を守って来られた。

 この書簡は人間の悪の現実について実に辛辣に表現している(2:26、3:8ほか)。しかしその悪を超えて神の霊が働いてくださるから、福音の宣教に励むべきことを呼びかけている(4:2)。

(京都聖三一教会 聖書の会 2008/10/12)

憲法と平和の福音

  
2008年10月12(日)から翌13日(月)にかけて<聖公会平和ネットワーク・全国の集い>が京都聖三一教会を会場に開かれました。

初日の夜にしたわたしの講演の概要(レジュメ)を掲載します。
全文は原稿が整ったら載せる予定です。


 憲法と平和の福音

1.はじめに──麻生太郎新首相の所信表明演説から 2008.9.29


「かしこくも、御(ぎよ)名(めい)御(ぎよ)璽(じ)をいただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました。」

・危機にさらされる「主権在民」

「申し上げます。日本は、強くあらねばなりません。強い日本とは、難局に臨んで動じず、むしろこれを好機として、一層の飛躍を成し遂げる国であります。」

「わたしは、日本国と日本国民の安寧にとって、日米同盟は、今日いささかもその重要性を失わないと考えます。事が国家・世界の安全保障に関わる場合、現在の国連は、少数国の方針で左右され得るなど、国運をそのままゆだね得る状況ではありません。」

・いっそうの軍事化


2.日本国憲法の精神──三つの幹

 「主権在民」

 「戦争放棄・絶対平和」

 「基本的人権の保障」 思想、良心、信教の自由が含まれる

日本国憲法 前文

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

<平和的生存権>
 これが脅かされ、奪われつつあるのが、今日の状況。


3.ルカ福音書における平和の使信   福音記者聖ルカ日 10月18日

(1)ザカリアの歌 洗礼者ヨハネの誕生

「1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。
1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」

(2)降誕、天使の合唱

「2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

(3)福音の宣言──ナザレでの礼拝

4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:21「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

・抑圧からの解放と自由

・イザヤ61:1‐2の預言の実現
61:2‐3「嘆いている人々」
「彼らは主が輝きをあらわすために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。」

(4)エルサレム入城

19:38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
19:42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」

・イエスの嘆き──平和の破壊の予見

(5)復活

24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

・平和の呼びかけと実現

4.おわりに──聖書と憲法に通底する平和への決意と情熱

「神の憐れみの心」(ルカ1:78)──平和の道に導こうとされる神の情熱と決意。

・主権者、平和実現の担い手としてのわたしたち。聖霊はわたしたちの主体性を喚起する。

日ごとの聖句337 平和の神は 2008/10/12〜18


2008年10月12日(日)聖霊降臨後第22主日    フィリピ4:4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

10月13日(月)      フィリピ4:5
あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

10月14日(火)      フィリピ4:6
思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

10月15日(水)      フィリピ4:7
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

10月16日(木)      フィリピ4:8
すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきことを心に留めなさい。

10月17日(金)      フィリピ4:9
わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

10月18日(土)福音記者聖ルカ日      フィリピ4:1
わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

ライアー・コンサートご案内 10月26日(日)


LeierConcert20081026


光、空に満つ 〜 ライアーの響き

2008年10月26日 (日)
13:30〜14:30
 (開場13:00)

京都聖三一教会 礼拝堂


1926年にドイツで生まれた小さな竪琴ライアーは、うつくしい響きの楽器です。
秋の午後、ライアーの響きをご一緒に楽しみましょう。
空に満ちる光がわたしたちにも降り注ぎますように。

演奏 : 小野純子

曲目 : バッハ プレリュード ハ長調 
シンフォニア 11番
アルマンド(フランス組曲より)
ブラームスのこもりうた
血しおしたたる
いつくしみ深き
バッハ 主よ、人の望みの喜びよ
光、空に満つ(聖歌6) 
        ほか

演奏者紹介

京都市出身、滋賀県大津市在住。15年あまり前にライアーと出会う。ライアーの響きがもたらす世界に感動し、学びを深めながら、ピアノ、ライアーを中心に指導、演奏活動を行っている。ライアーの会プリモール主宰。

日本聖公会 京都聖三一教会 ・ 聖三一幼稚園

〒604-8403 京都市中京区聚楽廻中町45

JR嵯峨野線「二条」駅、地下鉄「二条」駅から北へ徒歩10分
市バス「千本丸太町」から南西へ徒歩5分
(千本丸太町一筋西下る)

TEL/FAX 075-841-3281
johnizaya@gmail.com

バッハのカーロフ聖書


ヨーハン・セバスチャン・バッハはルター派教会の信徒であり、特にライプチッヒのカントール(音楽監督)時代は礼拝音楽全体に責任を負っていました。

バッハがルター訳ドイツ語聖書を用いていたこと、特にカーロフという人がルター訳に註解を付したいわゆる「カーロフ聖書」を愛読し、それに書き込みをしていたことが知られています。

先日、川端純四郎『J.S.バッハ──時代を超えたカントール』の文献表にカーロフ聖書が含まれていたのでアマゾンで検索してみました。日本のアマゾンにはありませんでしたが、アメリカのアマゾンに中古で発見。勇気を出して注文してみたところ何のトラブルもなく、1週間後に航空便で届きました。

"J.S. Bach and Scripture: Glosses from the Calov Bible Commentary"
Robin A. Leaver; Hardcover; $195.00

1985年、アメリカの Concordia Publishing House から出版。

全体で191ページ。思ったより薄いですが、A4に近い大判。バッハの書き込みやアンダーラインをしたページの写真(ファクシミリ版)がたくさん収められ、自筆を見ることができると同時に、書き込まれたドイツ語、その英訳、その箇所のカーロフの註解本文を英訳で読むことができます。またその箇所がバッハの作曲したカンタータなどのどれと関係しているかなどの説明もあります。

つまりこれによって、バッハの精神、信仰に触れることができるのです。

わたしが最初に眺めたのはファクシミリ35番。

次の言葉にバッハは「NB」(注意)と記し、アンダーラインを引いています。

Ich wil dich verlassen/ noch von dir weichen.

「わたしはあなたを見捨てない、またあなたから離れない。」


旧約聖書・ヨシュア記1:5です。

バッハはこの言葉を自分に呼びかける神の言葉として聞き、さらにこの言葉を彼の音楽をとおして、礼拝に集まるライプチッヒの人々に呼びかけていたのでしょう。
これはカンタータ56、58番に用いられていると説明があります。

「わたしはあなたを見捨てない、またあなたから離れない。」

遠い時代、荒野を旅する民の指導者ヨシュアに呼びかけ、300年近く前にバッハに呼びかけ、ライプチッヒの人々に呼びかけた神の言葉は、今わたしたちにも呼びかけています。


アッシジのフランシス「平和の祈り」

  
 アッシジのフランシスがささげたと伝えられる「平和の祈り」というのがあります。

主よ、
わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのあるところに愛を、
争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところに喜びを、
  蒔くものとしてください。

聖なる主よ、
慰められるより慰めることを、
理解されるより理解することを、
愛されるより愛することを、
  より多く、わたしが求めますように。

わたしたちは、与えることのなかで受け、
ゆるすことのなかでゆるされ、
死ぬことのなかで
新しく生まれて永遠のいのちに至るのですから。

主キリストによって。アーメン


 フランシス(フランチェスコ)はイタリアの修道士。フランシスコ修道会の創立者です。1182年に中部イタリアのアッシジで生まれました。今日「平和の祈り」を紹介しようと思って今朝調べたところ、何と今日10月3日が天に召された日なのです。782年前です。

 1205年、彼はサン‐ダミアノ教会で祈っていたとき、十字架から呼びかける声を聞きました。

「わたしの教会を建て直してほしい」

 そこで彼は、あばら屋のように荒れた礼拝堂の修復に取りかかりました。煉瓦を積み、柱を建て直します。けれども後に彼は、「わたしの教会」というのが、もっと広いもっと深い意味で言われたのであることを理解するようになります。

 フランシスについては言い伝えられる話がいくつもあります。その一つは、アレッツォという町の話です。

 あるとき、アレッツォの町は内部抗争が激しく、暴行、殺戮が絶えませんでした。フランシスが見ると、町の上空に悪魔がいて、町の人どうしを争わせているのがわかりました。そこでフランシスは弟子に命じて、悪魔を追放するように言いました。自分も祈り、弟子たちも祈って、そうして悪魔は追放され、町には平和が取り戻されたといいます。

 1223年、多くの困難を抱えたフランシスはラ・ヴェルナ山にこもり、祈りの日々を過ごしました。そうしたある日、彼はキリストの五つの傷跡の刻印を受けました。五つの傷とは、キリストが十字架に付けられたときに受けた両手と両足、そして槍で突かれた胸の傷です。同じところに彼も傷の刻印を受けたというのです。それが9月14日の聖十字架頌栄日とも、その前とも言われます。

 アッシジのフランシスは、1226年10月3日、世を去りました。44歳でした。

「没我と清貧に生き、すべてのものを兄弟・姉妹と呼び、喜びに包まれ、平和を願い、自然をこよなく愛したフランチェスコは落日のごとく消えた。翌日から新たに、より明るく輝くために。」

 川下 勝氏はこのように記しています(『アッシジのフランチェスコ』清水書院「人と思想シリーズ」)。

 ところで彼は亡くなる前、弟子たちの前で詩編142編を歌ったそうです。

「声をあげ、主に向かって叫び
声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。
御前にわたしの悩みを注ぎ出し
御前に苦しみを訴えよう。

わたしの叫びに耳を傾けてください。
わたしは甚だしく卑しめられています。
迫害する者から助け出してください。
彼らはわたしよりも強いのです。
わたしの魂を枷から引き出してください。
あなたの御名に感謝することができますように。」
  142:2‐3、7‐8

 
 これは彼の生涯の苦しみと、そこからの訴えと祈りだったでしょう。

 その後、彼は弟子たちとともに「太陽の賛歌」を歌いました。

「わたしの主よ、あなたは称えられますように、
すべてのあなたの造られたものと共に……
太陽は美しく、……あなたの似姿を宿しています。
……」


 太陽、月、星、風、水、火、大地……。あらゆる被造世界をとおして神が賛美されるようにと歌います。

 「平和の祈り」はフランシス自身が直接つくったものではないとも言われます。しかし彼の平和を切に願い求める精神がこの祈りに結晶したものであることは変りありません。

 最初に紹介した「平和の祈り」はわたしの訳です。すでにいくつもの訳があり、また歌にもなっています。わたしはある英語版を見ていて、生かされていない言葉があると感じて少し訳し直してみました。

「慰められるより慰めることを、
理解されるより理解することを、
愛されるより愛することを、
わたしが求めますように。」
と普通は訳されています。

 これを読むと、自分が慰められること、理解されること、愛されることを否定ないし放棄しなければならないという気がするかもしれません。けれどもその英訳を見ると、慰められること、理解されること、愛されることを断念したり放棄したりする必要はない。自分が慰められること、理解されること、愛されることは必要な、大切なことなのです。けれどもそこだけに留まるのではなく、それ以上に自分から人を慰める者となりたい、理解する者、愛する者となりたい。それを祈り求めるのです。それでわたしは「より多く」という言葉を入れたのです。

「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。」

 道具は英語では instrument。道具、器、そして楽器の意味もあります。わたしたちの楽器、ライアーが平和を実現する道具となりますように。わたしたちの楽器、音楽をとおして、平和が実現していきますように。

 平和の祈りを一緒に唱えましょう。

主よ、
わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのあるところに愛を、
争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところに喜びを、
  蒔くものとしてください。

聖なる主よ、
慰められるより慰めることを、
理解されるより理解することを、
愛されるより愛することを、
  より多く、わたしが求めますように。

わたしたちは、与えることのなかで受け、
ゆるすことのなかでゆるされ、
死ぬことのなかで
新しく生まれて永遠のいのちに至るのですから。

主キリストによって。アーメン


  (2008/10/03 ライアー・アンサンブル「プリモール」での講話)
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