Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2008年11月

クリスマス・ページェントについて


 クリスマス聖劇(ページェント)の趣旨や、さまざまな役割とその意味についてご紹介します。聖三一幼稚園でのページェント用に用意し配布しているものです。

クリスマスの意味

「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」ルカによる福音書2:10

 ベツレヘムの野原で野宿をしていた羊飼いたちに、天使が伝えた言葉です。喜びの知らせが伝えられました。「民全体に与えられる大きな喜び」。だれも除外されません。「民全体」の中には、昔の人も今の人も将来の人も、私たちすべてが含まれています。

「神は独(ひと)り子(ご)を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」ヨハネの手紙 4:9

 イエスさまの弟子のひとりヨハネは、クリスマスの意味をこのように語りました。「わたしたちが生きるようになる」ことが、神が救い主をお遣わしになった目的です。神の愛が赤ちゃんという姿・形をとって地上にあらわれた。それがイエス・キリストの誕生です。この方を新しい気持で私たちの中に迎えたいと願っています。


クリスマス・ページェントの意味

 クリスマス・ページェント(聖劇)は、2000年前のユダヤのベツレヘムに起こった救い主イエス・キリストの誕生の出来事(神の私たちに対する愛の実現)を<いま、ここで>再現しようとするものです。語ること、演じること、歌うこと、祈ること、見ること、聞くことを通して、みんなでクリスマスの出来事に近づき、その場所に立ち会い、神の恵みを追体験したい――それが聖劇の願いです。

 子どもたちと先生、見に来てくださる方たちが時間と場所を共にして、2000年前の神の恵みの出来事を今の私たちのこととして共有したい。ハプニングや不十分なところがあってもいいのです。聖劇に失敗というものはありません。心をこめて一緒にその時を過ごしましょう。イエスさまは天使によって別名「インマヌエル」と呼ばれました。それは「神は私たちと共におられる」という意味です。私たちのクリスマス礼拝と聖劇の中に、神さまは、イエスさまは、一緒にいてくださいます。


聖劇の役割とその意味

ナレーター
 イエスさまのご降誕の物語(神の救いの出来事)を「語り伝える」役割です。声と言葉で、聞く人に大切な内容を「届ける」「伝える」役です。聖劇の筋道をつくっていきます。
これは音楽の場合で言うと、たとえばバッハの「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」の「福音史家」(聖書本文をそのまま歌っていく役)にあたります。その朗唱によって物語(神の救いの出来事の展開)は進められていきます。

ろば
 身重のマリアを乗せてガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで(北から南へ数10劼瞭擦里蝓)運びました。もしこのろばがいなければベツレヘムに行き着くことはできませんでした。聖書の中では、ろばはそれから約30年後に登場します。今度は、そのマリアの産んだ子、イエスさまを乗せることになります。イエスさまがエルサレムに入城されるとき、「主がお入り用なのです」と言われて連れて来られたのが子ろばでした。

マリア
 天使ガブリエルから「あなたは神の子を産む」というお告げを受けたナザレの貧しい娘です。ヨセフと婚約中であるのにヨセフと関係のない子を身ごもったことが知れれば、きびしい処罰を受ける可能性がありました。しかしマリアは恐れつつも、神の約束を信じて天使の言葉を自分の身に引き受ける決意をしました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。マリアは親戚のエリサベトを訪ねて、神の救いが自分たちを通して実現していくことを喜び合います。

ヨセフ
 大工の青年です。婚約中のマリアが身ごもったことを知って苦しみ、一度は婚約解消を決意しました。しかしそれが神の救いの働きであるとの天使の言葉を聞いて信じ、マリアを受け入れ、イエスの父となりました。ヘロデ大王が、自分に取って代わるかもしれない「新しい王となる者の誕生」を聞いて幼子を殺そうとしたとき、ヨセフはマリアとイエスを連れてエジプトに逃れ、二人を守りました。深い祈りと行動力を持った人です。

羊飼い
 聖書の世界の主役、イスラエル民族の祖先は遊牧の民でした。羊飼いはその伝統を受け継ぐ人々です。イエスさまの時代は、町の人々から軽んじられていましたが、毎日夜通し羊を守り、星を見つめつつ、聖書(旧約)に約束された救い主の到来を信じ、祈って待っていました。
羊飼いは、羊1匹1匹を知り、羊を守り、養い、導きます。旧約聖書の詩編には、神さまが私たちの羊飼いであることを歌った有名な詩があります。イエスさまは私たちすべての羊飼いになるために来られました。羊を守るために危険を顧みず、命を投げ打って死なれました。それが十字架の出来事です。


 羊はその1匹1匹が羊飼いにとって大切な存在です。聖書は、私たちが神に愛されている羊であることを告げています。神は、迷った1匹を捜しに出かけ、見つけると大喜びでその羊を担いで連れて帰られる、とイエスさまは語られました。
 洗礼者ヨハネはイエスを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫びました。昔、重要な礼拝においては、犠牲の羊が献げられました。イエスさまが「神の小羊」であるとは、世の人の罪と破れと傷を自分の身に引き受けて、自分を神に献げ、それによって私たちすべてを救ってくださる、という意味です。

天使
 神さまの使いです。神からの知らせを人に伝えます。クリスマス物語では、マリアに、ヨセフに、そして羊飼いに天使が神のお告げをもたらしました。またイエスさまは、「小さな者」一人ひとりのかたわらには天使がいて、神の顔を仰いで祈っている、と語られました。天使は神と人を結ぶ存在です。

ガブリエル
 大天使のひとりです。マリアに「あなたは神の子の母となる」という大切な知らせをもたらしました。その前にガブリエルは、祭司ザカリアにも現れ、洗礼者ヨハネ(イエスさまを人々に知らせる先駆者となる人)の誕生を告げました。「ガブリエル」とは「神の人」という意味です。


 神の愛の輝きを反射しつつ、自らも光り輝きます。それぞれがかけがえのない固有の光を持っています。旧約聖書続編の中のバルク書には次のような言葉があります。
「星はおのおのその持ち場で喜びにあふれて輝き、その方(かた)が命ずると、『ここにいます』と答え、喜々(きき)として、自分の造り主のために光を放つ。」
 聖書はイエスさまを「輝く明けの明星」にたとえています。

宿屋
 マリアの出産が近づいたとき、宿屋はいっぱいで泊まる場所がありませんでした。けれども親切な宿屋さんは馬小屋に場所を用意してくれました。
聖書は「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、救い主の誕生の意味を語っています。宿屋さんは、私たちのところに来て一緒にいよう(宿ろう)とされる神の愛と、困難な中で考え工夫して、神の子のために大切な場所を用意した人々の思いと行動をあらわしています。

村の子どもたち
 救い主イエスさまは赤ちゃんとして、子どもとしておいでになりました。ベツレヘムの子どもたちはまごころからイエスさまを喜び迎えたに違いありません。
その後、成長されたイエスさまは子どもたちが大好きでした。子どもたちに手を置き、抱いて祝福されました。子どもたちの中には、大人が多くの場合見失ってしまいがちな清く貴いものがあり、子どもたちの中に愛の神さまが働いておられる──そのことをイエスさまは知って心を深く動かされたのです。

博士
 東の国で輝く星を見、何としても救い主に会いたいと願い、危険を冒してはるばる旅をしてきた占星術の学者です。彼らが赤ちゃんのイエスさまにささげたのは、黄金、乳香、没(もつ)薬(やく)です。黄金は「王」のしるし。「乳香」は良い香りを放ちながら煙のように立ち上るので、祈りをあらわします。「没薬」は胃薬として用いられるほか葬りのときに遺体に塗るものです。イエスさまが将来人々の救いのために命を捨ててくださることを暗示するものでした。

らくだ
 らくだは遠い砂漠を越えて博士たちをイエスさまの所に運びました。らくだは博士たちの祈りと願いを背に感じていたでしょう。忍耐強いらくだのおかげで、博士たちとイエスさまの喜びの出会いが可能となりました。ろばとらくだは、人の悩みと重荷を負って歩まれたイエスさまを象徴します。

聖歌隊
 ベツレヘムの野原に現れた天の大軍(天使の群れ)をあらわします。「いと高きところでは神に栄光、地に平和」と祈り歌います。私たちが聖歌(讃美歌)を歌うのは、天使の合唱に加わることなのです。白いコッターは天使の翼をあらわします。

 このようにどの役もかけがえのない大切なものです。上下や優劣はなく、実は「脇役」と思われるものの中にこそ救い主の姿があります。全員が協力することによって、神の愛の出来事であるイエスさまのご降誕の物語が完成します。「小さい者」に心を留められた神さまを思いつつ、ご一緒に一時を過ごすことができればと願っています。

ライアーのクリスマス


プリモールのクリスマス2008
プリモール☆ ライアーのクリスマス

時間:2008年12月12日(金)午前11:00より(入場無料)

場所:日本キリスト教団ゴスペルハウス

(京都市北区大宮南田尻町29-2 Tel 075-492-2633)

ライアーは膝にのせて奏でる、響きのうつくしい竪琴です。ライアー・アンサンブル・プリモールは毎月1 回、滋賀県・南草津で集まってライアーを学びつつ、アンサンブルを楽しんでいるグループです。今年も静かで温かな響きとともにクリスマスをお祝いしたいと思います。どうぞいらしてください。(プリモール主宰・小野純子)

曲目:

静かに静かに・バラが一輪・羊飼いのこども・
飼い葉桶のなかに・ゆりかごに風吹き
なやみのときに・聖なるかな
(シューベルト/ドイツミサ)
G 線上のアリア(J.S.バッハ)
主よ、人の望みのよろこびよ(J.S.バッハ)
グローリア・まきびとひつじを

演奏ライアー・アンサンブル・プリモール/ 井田泉(笛とお話)

お問い合わせ:小野純子Tel/Fax 077-529-1703
E-mail : ptjono@hera.eonet.ne.jp

日ごとの聖句344 救い主の預言 2008/11/30〜12/6


2008年11月30日(日)降臨節第1主日      イザヤ7:14
それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む。

12月1日(月)使徒聖アンデレ日        イザヤ7:14
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

12月2日(火)                イザヤ9:1
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

12月3日(水)                イザヤ9:5
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

12月4日(木)                イザヤ9:5
権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。

12月5日(金)                イザヤ9:6
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。

12月6日(土)                イザヤ9:6
王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

わたしは初めであり、終わりである


        イザヤ44:6

 今日は教会の暦の最後の主日「聖霊降臨後最終主日」(降臨節前主日)です。

 生活上の1年は12月31日に終わり、1月1日に始まるのですが、教会の暦は今週で終わり、来主日(降臨節第1主日)から新しい1年が始まります。
 この時期にわたしの心に響いてくるのは「われは初めなり、われは終わりなり」という言葉です。

「イスラエルの王である主、イスラエルをあがな贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」イザヤ書44:6


 1年の旅をしてきて、いまわたしたちはどんな状態でしょうか。

 よくやったと、よく努力した、と思うところもある。いろいろあったけれども神さまが守り導いてくださったことを思って感謝を捧げたい。

 けれどももう一歩深く現実を思うと、実は疲労と未解決のことがたまっている、ということはないでしょうか。耐えがたい困難と苦しみに直面して、救いの手がかりもないままに混乱しているということがあるかもしれません。

 わたしが時折教会関係の集まりで感じるのは、祈りがあまりにきれいすぎないか、ということです。

「日ごとのたくさんの恵みを感謝します。」そのとおりです。

「守り導いていてくださることを感謝します。」そのとおりです。

 でもそれだけか。実際は解決できない困難を抱えて、心が血を流すような現実に直面しているのに、そのことは祈らないのか。その一番苦しいこと、簡単に人には言えないことをこそ、神さまに聞いていただくべきではないでしょうか。

 さまざまな仕方で、わたしは人の、教会の、世界の、また自分自身の闇と破れに直面しています。皆さんもそうではないでしょうか。

 ほんとうはもっと、辛いことを、苦しいことを、解決できない心配を神さまに差し出して聞いていただいてよいのです。

 神さまは、わたしたちが思う以上に、わたしたちの現実を心にかけて心配していてくださるからです。

 今日の旧約聖書・エゼキエル書第34章16節で神さまはこう言っておられます。

「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」

 神が見ておられるのは、心配していてくださるのは、失われた現実、お前など無価値であり邪魔であると追い払われた現実、傷ついた人々、弱ったわたしたちです。
 そこに神さまは目をとめて、わたしたちに近づき、癒しと救いを行ない、公正を回復しようとされるのです。
 
 それならわたしたちは、わたしたちの抱えているこの現実を神さまの前に広げて、「主よ、この現実を見てください。この心の声を聞いてください」「あなたの子どもが危険にさらされているのを放置しないでください」「この現実に介入してください」と呼び求めて、神さまを動かすくらいにしてはどうでしょうか。

 神さまは見ない、聞かない、感じない方なのではなく、見て、聞いて、感じて、行動される神さまなのです。

 「わたしは初めであり、終わりである。」

 あなたの人生をしめくくるのはわたしである、と神は言われます。わたしが終わりである。

 わたしたちの1年の最後を締めくくるのはわたしたちではなく、神さまです。わたしたちの人生を締めくくるのはわたしたちではなく、神です。
 
 「あなたのこの1年のよかったこと、忍耐したこと、労苦したことをわたしは喜ぶ。」

 神はわたしたちを受け入れて肯定してくださいます。間違ったところを神が引き受けてくださいます。

 あなたの現実を見、あなたの声を聞き、あなたの困難と労苦を知ったわたしが、あなたのこの1年を引き受ける。わたしがあなたの責任者なのだから。

 よいことも、悪いこともキリストに集められる。キリストによって清められ、覆われて、まっさらにされて、新しい1年が始まります。

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」コリント 15:20

 「初穂」。初めです。終わりとなってくださる神は、始まりとなってくださる。わたしたちの終わりとしてわたしたちを引き受けてくださるキリストは、わたしたちの新しい初めとして、わたしたちの先頭に立ち、新しい歩みを始めさせてくださるのです。

(2008/11/23 京都聖三一教会)

Jesulein 小さなイエス


バッハのクリスマス・オラトリオ(BWV248)を少し聞きました。
六つのカンタータからなる大きな曲です。
CD2枚、全部で64トラック。

冒頭の合奏があまりに派手で、これまでもうひとつ親しめない気がしていたのですが、最初のカンタータの終曲コラールの歌詞を見て、心を動かされました。

Ach, mein herzliebes Jesulein
アッハ、マイン ヘルツリーベス イェーズライン
ああ、わたしの心の愛する(小さな)イエスさま

この Jesulein。Jesus(イェーズス=イエス) に leinをつけています。

leinは

Bach → Bächlein 小川→小さい小川! せせらぎ
Rose → Röslein ばら→小さいばら

のように、小さいもの、かわいいものを指すときに付けるものです。

「イエスちゃん」というとおかしいのですが、そういう感じ。

CDの解説についている英訳と、WEBの川端純四郎氏訳を参考にざっと訳してみました。

Ach mein herzliebes Jesulein,
ああ、わたしの心の愛する(小さな)イエスさま

Mach dir ein rein sanft Bettelein,
あなたに清くてやわらかい小さな寝床をつくりましょう

Zu ruhn in meines Herzens Schrein,
わたしの心の宮にやすんでいただくために

Dass ich nimmer vergesse dein!
わたしがけっしてあなたのことを忘れないように!

 M.ルター作詞のコラール、1535、だそうです。
  http://www.jade.dti.ne.jp/~jak2000/page002.html#248-

日ごとの聖句342 収穫感謝 2008/11/16〜22


2008年11月16日(日)聖霊降臨後第27主日    申命記11:14
わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。

11月17日(月)                ゼカリヤ8:12
平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。

11月18日(火)                詩編67:2
神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きを、わたしたちに向けてくださいますように。

11月19日(水)                詩編67:7
大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神が、わたしたちを祝福してくださいますように。

11月20日(木)                詩編67:4
神よ、すべての民が、あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって、あなたに感謝をささげますように。

11月21日(金)                詩編67:5
諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように、あなたがすべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれることを。

11月22日(土)                詩編67:8
神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように。

イエスさまの手──子ども祝福式に寄せて


「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」マルコ10:13-16


「イエスは子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」

 子どもたちを祝福されたイエスさまの手とは、どのような手でしょうか。

 それは招かれる手です。十字架を見つめてみましょう。縦と横が組み合わさっています。あれは、両手を広げてイエスさまがみんなを招いておられる姿です。「子どもたち、わたしのところにおいで」と呼びかけておられます。イエスさまの手はわたしたちを招いてくださる手です。

 イエスさまの手は、わたしたちを助けてくださる手です。

 あるときペテロは湖の上でイエスさまに出会いました。ペテロはイエスさまのそばに行きたくてたまりません。イエスさまが「来なさい」と言われたのでペテロは舟から下りて水の上を進みました。ところが強い風に気がついてこわくなり、そのとたんに沈みかけました。「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエスさまはすぐに手を伸ばしてペテロを捕まえ、助けてくださいました(マタイ14:31)。イエスさまの手はわたしたちを助けてくださる強い手です。

 イエスさまの手はやさしい手です。カファルナウムの会堂長ヤイロの12歳になる娘が重い病気でした。ヤイロがイエスさまのところに来て、ひれ伏して頼んだので、イエスさまは出かけられました。ところが途中でヤイロの家から使いが来て、「お嬢さんは亡くなりました」と言いました。イエスさまはまっすぐにヤイロの家に行き、その子の部屋に入り子どもの手を取って「タリタ、クム」と言われました。「少女よ、起きなさい」という意味です(マルコ5:41)。少女はすぐに起き上がって歩きだしました。

 イエスさまの手はやさしい手、温かい手、人をよみがえらせる手です。

 わたしたちを招いてくださるイエスさまの手、助けてくださるイエスさまの強い手、人をよみがえらせるやさしいイエスさまの手が、子どもたちを祝福してくださいますように。

(2008/11/09 のお話に少し手を加えたものです。)

御自分の憐れみによって──「テトスへの手紙」


テトスもテモテ同様パウロの同労者。パウロからクレタの教会の責任を委ねられた(主教・監督にあたると思われる)。「侮られてはならない」(2:15)と言われているので、若かったのかもしれない。

1. 1:1「わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。」

 神が使徒を選んで派遣し、また聖職を任命して派遣されるのは、「人々の信仰」と「真理の認識」のため、「宣教」(1:3)のためである。ここに目的と使命があることをパウロ自身が自分とテトスのために確認している。

2. 1:4「信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。」

 「恵み」(カリス)は、人間の力や業績、立派さによらず神から祝福として注がれ、与えられるもの。2:11‐12、3:7、16にも出て来ることに注目しよう。福音の中心、信仰生活の土台は人間のがわにではなく、神の恵みのわざ(出来事)にある。

3. 1:10「実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。」

 パウロが経験してきた、またテトスが直面している教会の大きな困難がこれ。大きくは異端の運動のこととも考えられる。教会を真の信仰共同体として保ち、形成するために、パウロはテトスに「長老たち(指導者。狭義には牧師・司祭)を立てる」ことをゆだねた(1:5)。

4. 2:11「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」

 神の恵みは変化のない「状態」のようなものではなく、出来事として現れる生きた働き。主イエスの降誕がそれであり、また十字架、復活の出来事がそれである。

5. 3:4‐6「しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」

 神の恵みのわざは、洗礼(「洗い」)という具体的な行為(礼拝儀式)をとおして現実となる。聖霊は一方で教会や制度、場所などに制約されず自由に働く(ヨハネ3:8)が、他方、洗礼という具体的な出来事をとおしても人々に注がれる。


 この手紙は「恵みがあなたがた一同と共にあるように」(3:15)という祈りで閉じられる。手紙の文は閉じられるが、神の恵みは生きて働き続ける。

(2008/11/9 聖書の会レジュメ) 

第5回山の音楽会 ヴァイオリンとピアノの午後


山の音楽会20081120
2008年11月20日(木)
  午後2:00〜4:00

大津市比叡平三丁目22−10 小野宅・音楽室

(京阪バス・比叡平3 丁目または3 丁目東下車徒歩5分)
バスは三条京阪発13:00/大津京発12:50 があります。

<入場無料です>

ヴァイオリンとピアノのしっとりとした音色で午後のひとときを過ごしたいと思います。どうぞ、いらしてください。

曲目:

 ヴァイオリンソナタト短調(G.F.ヘンデル)
 無伴奏ヴァイオリンパルティータ2 番二短調(J.S.バッハ)
 ヴァイオリンソナタ変ロ長調Kv378 (W.A.モーツァルト)
 木枯らし(前田さとこ)
  ほか

演奏: 河村典子(ヴァイオリン)  小野純子(ピアノ)

河村典子さんは、スイス・チューリヒ在住のヴァイオリニストです。日本とスイスを往復しながら、ユニークな音楽活動をされています。

お申し込み・お問い合わせ 小野純子
T/F077-529-1703
E-mail : ptjono@hera.eonet.ne.jp

河村典子さんのブログ
 ↓
http://diary.jp.aol.com/zcmcuzbfaj3y/

日ごとの聖句341 子どもの祝福 2008/11/9〜15


2008年11月9日(日)聖霊降臨後第26主日   エフェソ1:3
神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

11月10日(月)               マルコ10:13
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。

11月11日(火)               マルコ10:16
そして、イエスは子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

11月12日(水)               創世記48:15
ヤコブはヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで、導かれた牧者なる神よ。」

11月13日(木)               創世記48:16
ヤコブは言った。「わたしをあらゆる苦しみから、贖(あがな)われた御使(みつか)いよ。どうか、この子供たちの上に、祝福をお与えください。」

11月14日(金)               創世記49:25
ヤコブは言った。「どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。」

11月15日(土)               創世記49:25
「上は天の祝福、下は横たわる淵の祝福、乳房と母の胎の祝福をもって。」

主を信頼せよ──信仰の継承


シラ書2:7‐11、18

 今日は逝去者記念礼拝とし、特祷、聖書日課は諸聖徒日のものを用いています。
 後ほど、代祷の最初に逝去者記念礼拝の祈りをささげます。

 ところでわたしたちは今日、神さまの前に逝去者を記念する、記憶を新たにして心に留めるのですが、そのときに大切にしたいことがあります。それは、わたしたちに先立って行かれた方々のいちばんとうといものを見つめ、それを受け継ぐこと。言い換えると「精神の継承」「信仰の継承」ということです。

 今日の旧約聖書(続編)シラ書の呼びかけを聞きましょう。

「主を畏れる人たちよ、主の憐れみを待ち望め。わき見をしてはならない。さもないと、道を踏み外す。
主を畏れる人たちよ、主を信頼せよ。そうすれば必ず報われる。
主を畏れる人たちよ、主が賜るすばらしいこと、すなわち、永遠の喜びと憐れみを待ち望め。」2:7‐9


 3回も繰り返されているのが「主を畏れる人たちよ」という言葉です。わたしたちの信仰の先輩がわたしたちに呼びかけています。

「主を畏れる人たちよ、主を信頼せよ。」

 ヨナは、嵐の海で自分のことを言わねばならなくなったとき、こう言いました。

「わたしは、海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」ヨナ1:9

 主を畏れ、主を信頼すること──これがわたしたちが継承する信仰です。

 聖霊降臨日に教会が誕生したときのことが、使徒言行録にこのように記されています。

「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」使徒言行録2:40‐43


 恐れが生じた。

 自分とひとのことでいっぱいになっているわたしの中に、まったく別のものが起こって、わたしが整え直される。わたしの中で、わたしたちの中で、神さまが中心になられる。とうとい方の前に身を低くすることが起こります。
 すると、水が上から下に向かって流れこむように、慰めと励ましが神さまからわたしたちの中に流れ込みます。

 シラ書の続きを聞きましょう。

「昔の人々のことを顧みて、よく考えてみよ。
主を信頼して、欺かれた者があったか。
主を敬い続けて、見捨てられた者があったか。主を呼び求めて、無視された者があったか。
主は、慈しみ深く、憐れみ深い方、わたしたちの罪を赦し、苦難のときに助けてくださる。」2:10‐11


 わたしたちは信仰を継承し、主を畏れ主を信頼して、そして三つのものを主から受けるのです。

 憐れみを受ける。主の心臓はわたしたちのために鼓動し、主のはらわたはわたしたちのゆえに苦しみます。

 赦しを受ける。主はわたしたちの罪を赦し、新しく出発させてくださいます。

 助けを受ける。主はあやういときにわたしたちを助け、主の道を歩ませてくださいます。

 神を畏れ、神を信頼し、そして神から憐れみと赦しと助けを受ける。これを経験した昔の人たち、諸聖徒、わたしたちに先立ち行かれた方々がわたしたちに呼びかけています。「この道を歩もう」と。これを受け継ぐのが信仰の継承です。

 今日の日課には含まれていませんが、シラ書の続きにはこう記されています。

「主を畏れる人は、常に心の備えをし、主の前で、自らへりくだる。
『わたしたちは、自分を、人の手にではなく、主の御手にゆだねます。
主の憐れみは、その尊厳と同じく、偉大なのですから。』」2:17‐18


 わたしたちは、自分を、人の手にではなく、主の御手にゆだねます。御手にゆだねたら楽になる。責任は神さまが引き受けてくださるからです。

 けれどもそれはまったく何もせず、一切が停止することではありません。主の御手はわたしたちを受けとめてくださる手、憐れみの御手です。しかし主の御手は働く手です。主の手が生きて働かれるので、その御手の中でわたしたちも動かされて、何かをさせられます。主の手がわたしたちをとおして働かれます。わたしたちは徹底的に受け身であると同時に、積極的に生きるようにされるのです。

 今日、ひとりの兄弟がわたしたちと共に信仰を受け継ぐ者として招かれました。堅信を受けられます。このことを喜び感謝しつつ、一緒に主を畏れ、主を信頼する信仰の道を歩んでいきましょう。

(2008/11/02 京都聖三一教会)
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