わたしたちは今年と来年のテーマを「祈り」として、祈っておられるイエスさまに関心を向けています。
イエスは時折、人里離れたところで祈っておられました。12弟子を選ぶときはひとり山に行って、徹夜で祈ってから選ばれました(ルカ6:12‐13)。
ひとり祈っておられるイエスの祈りを、だれか聞いたでしょうか。
ひとり祈られるイエスの祈りの声は、静かで穏やかなものであったように、わたしたちは何となく想像しているかもしれません。
ところがイエスの祈りはそのようなものだけではなかった。イエスの祈りの激しい声を聞いた人たちがいました。今日の使徒書にこうありました。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」ヘブライ5:7
イエスは肉において、つまり人として、肉体をもって生きておられました。人として、血と汗と涙をもった人間として生きておられました。そのイエスが、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈っておられた、というのです。
イエスは苦しんでおられる。泣きながら祈っておられる。
だれかがそれを聞いて無視できなくなって、尋ねてみます。
なぜそんなに泣いているのか。何がそんなに苦しいのですか。
するとイエスはこちらを見て、深い目をされました。
「あなたのゆえに」
イエスは、勝手に個人的な事情で泣いておられるのではありません。人がかたくななので、人が自分のことでいっぱいになり、あるいは人のことをとても気にしているけれども、神のことは気にかけていないので。
たくさんの言葉を人には、また自分には発するのに、神に向かっては発しないので、わたしは悲しい。
わたしがこれほどあなたのことを気にかけて、心からあなたを招いているのに、まるで聞こうとしないのが苦しい。
フィリポがイエスに「御父を示してください」と言ったとき、イエスはフィリポにこう言われました。
「フィリポ、こんなに長い間わたしと一緒にいるのに、何もわたしのことがわからないのか。」(ヨハネ14:8‐9)
あなたがたはわたしのことが分からず、分かろうともせず、全然別の価値観で生きている。
心の底では不安で、不満であるのに、わたしのもたらす喜びは受け入れようとせず、救いから離れていってしまっている。
イエスは、わたしのために苦しみ、わたしたちのゆえに泣いておられるのです。
けれどもイエスは、たとえそのようなわたしたちであったとしても、わたしたちを見捨てられません。
「 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」ヨハネ12:32
自分で来ることのできないわたしたちを、イエスはみずから引き寄せてくださるというのです。
イエスはわたしたちを十字架の上からご自分のもとに引き寄せてくださいます。
わたしたちは、それに気づいたら、こちらからも祈る者となりたい。
主イエス・キリストよ、わたしたちがどんなに遠くみもとを離れており、あるいはどんなに近くみもとに留まっておりましょうとも、わたしたちを引き寄せてください。あなたのみもとまで完全に引き寄せてください。
わたしたちがあなたから離れて、この世のせわしなさの中に、思い煩いの中に、そしてたんなる人間的栄光の中にいるとき、そこからわたしたちを引き寄せてください。
わたしたちが世から捨てられ、人から誤解され、孤独の中に捨てられたようになっているとき、わたしたちをみもとに引き寄せてください。
また立ち返りを必要としている人々のためにもお願いします。主よ、その人々を滅びの道から真理の道に連れ戻してください。迷う者を導き、よろめく者を励まし支えてください。
教会の働きに仕えようとする者を、みもとに引き寄せてください。人々を主のみもとに引き寄せようとして労している働き人を祝福してください。
また主がみずからみもとに引き寄せておられるのに、自分を勝手に無力なつまらない者と考えてしまって、自分にも与えられている光栄ある務めをむなしくすることがないようにしてください。
これはキルケゴールの祈りです(『キリスト教の修練』)。
主イエスさま、わたしたちを愛し、わたしたちのために苦しみ泣かれるほどに心を砕いていてくださるあなたの思いと業を、わたしたちがむなしいものとすることがないように、わたしたちを引き寄せてください。アーメン
(2009/03/29 京都聖三一教会)