Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2009年03月

キリストは祈りと願いをささげ


 わたしたちは今年と来年のテーマを「祈り」として、祈っておられるイエスさまに関心を向けています。

 イエスは時折、人里離れたところで祈っておられました。12弟子を選ぶときはひとり山に行って、徹夜で祈ってから選ばれました(ルカ6:12‐13)。

 ひとり祈っておられるイエスの祈りを、だれか聞いたでしょうか。

 ひとり祈られるイエスの祈りの声は、静かで穏やかなものであったように、わたしたちは何となく想像しているかもしれません。

 ところがイエスの祈りはそのようなものだけではなかった。イエスの祈りの激しい声を聞いた人たちがいました。今日の使徒書にこうありました。

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」ヘブライ5:7

 イエスは肉において、つまり人として、肉体をもって生きておられました。人として、血と汗と涙をもった人間として生きておられました。そのイエスが、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈っておられた、というのです。

 イエスは苦しんでおられる。泣きながら祈っておられる。
 だれかがそれを聞いて無視できなくなって、尋ねてみます。

 なぜそんなに泣いているのか。何がそんなに苦しいのですか。

 するとイエスはこちらを見て、深い目をされました。

 「あなたのゆえに」

 イエスは、勝手に個人的な事情で泣いておられるのではありません。人がかたくななので、人が自分のことでいっぱいになり、あるいは人のことをとても気にしているけれども、神のことは気にかけていないので。

 たくさんの言葉を人には、また自分には発するのに、神に向かっては発しないので、わたしは悲しい。

 わたしがこれほどあなたのことを気にかけて、心からあなたを招いているのに、まるで聞こうとしないのが苦しい。

 フィリポがイエスに「御父を示してください」と言ったとき、イエスはフィリポにこう言われました。
「フィリポ、こんなに長い間わたしと一緒にいるのに、何もわたしのことがわからないのか。」(ヨハネ14:8‐9)

 あなたがたはわたしのことが分からず、分かろうともせず、全然別の価値観で生きている。
 心の底では不安で、不満であるのに、わたしのもたらす喜びは受け入れようとせず、救いから離れていってしまっている。

 イエスは、わたしのために苦しみ、わたしたちのゆえに泣いておられるのです。

 けれどもイエスは、たとえそのようなわたしたちであったとしても、わたしたちを見捨てられません。

「 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」ヨハネ12:32

 自分で来ることのできないわたしたちを、イエスはみずから引き寄せてくださるというのです。
 イエスはわたしたちを十字架の上からご自分のもとに引き寄せてくださいます。

 わたしたちは、それに気づいたら、こちらからも祈る者となりたい。

 主イエス・キリストよ、わたしたちがどんなに遠くみもとを離れており、あるいはどんなに近くみもとに留まっておりましょうとも、わたしたちを引き寄せてください。あなたのみもとまで完全に引き寄せてください。

 わたしたちがあなたから離れて、この世のせわしなさの中に、思い煩いの中に、そしてたんなる人間的栄光の中にいるとき、そこからわたしたちを引き寄せてください。

 わたしたちが世から捨てられ、人から誤解され、孤独の中に捨てられたようになっているとき、わたしたちをみもとに引き寄せてください。

 また立ち返りを必要としている人々のためにもお願いします。主よ、その人々を滅びの道から真理の道に連れ戻してください。迷う者を導き、よろめく者を励まし支えてください。

 教会の働きに仕えようとする者を、みもとに引き寄せてください。人々を主のみもとに引き寄せようとして労している働き人を祝福してください。

 また主がみずからみもとに引き寄せておられるのに、自分を勝手に無力なつまらない者と考えてしまって、自分にも与えられている光栄ある務めをむなしくすることがないようにしてください。
 これはキルケゴールの祈りです(『キリスト教の修練』)。

 主イエスさま、わたしたちを愛し、わたしたちのために苦しみ泣かれるほどに心を砕いていてくださるあなたの思いと業を、わたしたちがむなしいものとすることがないように、わたしたちを引き寄せてください。アーメン

(2009/03/29 京都聖三一教会)

日ごとの聖句361 「知恵の書」から 2 2009/3/29〜4/4


2009年3月29日(日)大斎節第5主日       知恵の書7:11
知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。知恵の手の中には量り難い富がある。

3月30日(月)                知恵の書7:14
知恵は人間にとって無尽蔵の宝、それを手に入れる人は神の友とされ、知恵のもたらす教訓によって高められる。

3月31日(火)                知恵の書7:15
知識に基づいて話す力、恵みにふさわしく考える力を、神がわたしに授けてくださるように。

4月1日(水)                 知恵の書7:16
すべては神の手の中にある。わたしたち自身も、わたしたちの言葉も、どんな考えも、仕事の知識も。

4月2日(木)                 知恵の書7:22
知恵には、理知に富む聖なる霊がある。この霊は単一で、多様で、軽妙な霊、活発で、汚れなく、明確で、善を好む、鋭敏な霊。

4月3日(金)                 知恵の書7:23
この霊は、堅固で、安全で、憂いがなく、すべてを成し遂げ、すべてを見通す霊である。この霊は、ほかの理知的で、純粋で、軽妙なすべての霊に浸透する。

4月4日(土)                 知恵の書7:25
知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する純粋な輝きであるから、汚れたものは何一つその中に入り込まない。

フィリポの聞いたイエスの祈り


「イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」ヨハネ6:10‐11

 今年と来年、わたしたちの教会では祈りを学び、深めたいという目標を持っています。
 今日の福音書には、祈っておられるイエスの姿がありました。イエスは感謝の祈りを唱えられました。
 もし、わたしたちが祈るだけではなくて、イエスさまご自身が祈られる祈りを聞いたとすれば、わたしたちの祈りは変わるのではないでしょうか。

 この山の上で、食前のイエスの祈りを聞いたひとりは、12弟子のひとりフィリポです。
 フィリポは、イエスに問われました。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」ヨハネ6:5

 フィリポはとても困りました。男だけで5000人、ということは、女性と子どもを含めて1万人以上。食べ物の供給は不可能です。
 ここで心にとめたいことがあります。それは、イエスが空腹の人たちのことを本気で心配しておられることです。悩みを抱えてイエスを求めて来た人たちです。
「この人たちがかわいそうだ。このまま空腹で帰らせたら、途中で疲れ切ってしまうだろう」とイエスは思われたのです。ここではありませんが、別の箇所にイエスはそう言われたと書いてあります(マルコ8:2)。

 イエスはフィリポに向かって言われました。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。あなたはどうするか。」
 イエスが本気であるのを知り、フィリポは自分の責任を感じてほんとうに困惑しました。

 弱っている人々。求められる解決。しかし現実の事柄の大きさ、課題の重さに対して自分はあまりに無力です。
 こう思うと、フィリポの困惑は他人事ではなくなってきます。現実と課題は迫ってくるのにそれを解決する力はない。途方に暮れてしまいます。

 ある少年が大麦のパン五つと魚二匹を提供してくれました。しかし「このように大勢の人では、何の役にも立たない」と別の弟子は言います。しかしイエスはそれを受け取られました。
 
 イエスは群衆を座らせるように言われました。人々は草の上に座ります。今は祈る時です。神に思いを向ける時です。1万人の人たちが静まりかえります。群衆の真ん中でイエスは祈り始められます。人々と共にイエスが祈っておられる。そのイエスの祈りをフィリポは聞きます。

 悩みを抱えた人々、飢えた人々の現実を前にして、何とかしたいと思いつつ、いま差し出されたものを大切に受け取って感謝の祈りをされるイエスの声を、フィリポは聞いています。

 「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱え」

 このときイエスは何を感謝されたのでしょうか。イエスの感謝の祈りとはどのようなものだったのでしょう。

 少年が差し出してくれた五つのパンと二匹の魚。それが感謝です。その少年の優しい心が感謝です。神さまの言葉を求めて、飢えてでもイエスのもとに集まってくる人々のゆえに感謝です。この大勢の人々と一緒に、神に求めて祈ることができるのが感謝です。不可能にもかかわらず、イエスの問いかけから自分の責任を感じて、困惑しているフィリポの真心に感謝です。
 そして目には見えなくても、どんなに困難が大きくても、なお決してわたしたちを見捨てられるはずのない、わたしたちを愛していてくださる神に感謝です。
 
 イエスが祈り、皆が一緒に祈っているうちに、ほんとうに感謝が起こってきました。フィリポの心にも感謝が生じて、溢れてきました。このフィリポの、無力な者の困惑をも大切なものと受けとめて、祈りのうちに感謝に変えてくださるイエス。このイエスに支えられて共に祈ることができるのは何というさいわいでしょう。

 イエスさまは、わたしたちの献げる五つのパンと二匹の魚を喜んで受け取って祝福してくださいます。神さまと人々のために何かしなければと思うわたしたちの労苦と困惑をとうといものと見てくださいます。み言葉を、命の糧を求めて来るわたしたちを喜ばれるのです。

 2000年後の群衆であるわたしたち、2000年後のフィリポであるわたしたち。そのわたしたちのためにイエスは祈り、わたしたちと共にイエスは祈ってくださり、わたしたちに命の糧を満たしてくださいます。

(祈り)
    (2009/03/22 京都聖三一教会)


(食事の席でのイエスの祈り)
最後の晩餐におけるイエスの祈り
 守ってくださるようにと祈ってくださるイエスの祈り ヨハネ17
ティベリアス湖畔での朝の食事でのイエスの祈り

日ごとの聖句360 「知恵の書」から 1 2009/3/22〜28


2009年3月22日(日)大斎節第4主日        知恵の書1:6
知恵は人間を慈しむ霊である。神は人の思いを知り、心を正しく見抜き、人の言葉をすべて聞いておられる。

3月23日(月)                 知恵の書1:7
主の霊は全地に満ち、すべてをつかさどり、あらゆる言葉を知っておられる。

3月24日(火)                 知恵の書1:14
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。世にある造られた物は価値がある。

3月25日(水)聖マリヤへのみ告げの日      知恵の書3:1
神に従う人の魂は神の手で守られ、もはやいかなる責め苦も受けることはない。

3月26日(木)                 知恵の書3:9
主に依り頼む人は真理を悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。

3月27日(金)                 知恵の書6:16
知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う。

3月28日(土)                 知恵の書7:7
わたしは祈った。すると悟りが与えられ、願うと、知恵の霊が訪れた。

憲法と平和の福音 (4)

4.おわりに──聖書と憲法に通底する平和への決意と情熱

 ザカリアは「神の憐れみの心」(ルカ1:78)と歌いました。彼によれば、神の憐れみは溢れ出て、わたしたちを平和の道に導こうとされるのです。ここに神の情熱と決意があります。神の情熱と決意はそれに触れるわたしたちの中にも情熱と決意を引き起こします。別の言い方をすれば、聖霊はわたしたちの主体性を喚起するのです。

 先ほど、憲法の語るとおりわたしたちが主権者であると言いました。あのエマオの弟子たちは、復活のイエスに出会って、再び長い山道を歩いて危険なエルサレムに戻り、経験と思いを分かち合いました。復活の主によって主体的を呼び覚まされ、励まされた信仰者の姿です。憲法の精神を実現するのは、主権者、平和実現の担い手としてのわたしたち、主体性を呼び覚まされたわたしたちなのです。

 主権、平和、基本的人権の中身である自由。ルカ福音書をとおして見たように、憲法の三つの根幹は、聖書の福音の中核をなしています。

 イザヤ書からクリスマスに関係する箇所のひとつを聞きましょう。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、『驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君』と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」9:5‐6


 平和の君、救い主イエス・キリストを地上に送ってくださった主の熱心がわたしたちのうちに働いて、わたしたちを平和の実現のために熱心に祈り働く者としてくださいますように。

(これは京都聖三一教会で開かれた聖公会平和ネットワーク・全国の集いでの講演に加筆したものです。2008/10/12)

日ごとの聖句359 あなたの手の業を 2009/3/15〜21


2009年3月15日(日)大斎節第3主日     出エジプト記20:2
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

3月16日(月)                 申命記28:12
主は、恵みの倉である天を開いて、季節ごとにあなたの土地に雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。

3月17日(火)                 申命記33:11
主よ、彼の力を祝福し、その手の業を受け入れてください。

3月18日(水)                 申命記33:12
主に愛される者はその傍らに安んじて住み、終日、神に身を寄せて、その御守(おんまも)りのもとに住まう。

3月19日(木)聖ヨセフ日            申命記33:13
ヨセフのためにモーセは言った。主の祝福がその土地にあるように。天からは露の賜物、下は横たわる淵の賜物があるように。

3月20日(金)                  ルツ記2:4
ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。

3月21日(土)                  ルツ記2:20
ナオミは嫁に言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」

憲法と平和の福音(3)

3.ルカ福音書における平和の使信

 さて、以上のような憲法の精神と聖書の福音がどのようにつながっているか、というのが今日の主題です。聖書全体にわたってお話しすることはできませんので、ルカによる福音書に絞りたいと思います。今週の土曜日、10月18日は福音記者聖ルカ日です。

(1)ザカリアの歌 洗礼者ヨハネの誕生

 ルカ福音書に最初に「平和」が出て来るのは、洗礼者ヨハネの誕生物語です。祭司ザカリアは天使によって口を封じられていたのですが、子どもが生まれ、天使に告げられたとおりに「この子の名はヨハネ」と板に書いたとき、口が開き、舌がほどけ、神を賛美して言いました。祈祷書の「朝の礼拝」でも用いられる「ザカリヤの賛歌」の終わりのほうです。

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。」ルカ1:76‐79

 幼子は救い主のために道を整える者となる。神はこの世界と人への愛のゆえにこの地上の現実を放置することはできない。神の憐れみは溢れ、光となって暗闇と死の陰に苦しむ者を照らし、「我らの歩みを平和の道に導く」。
 救い主の到来の意味と目的はわたしたちを平和の道に導くことなのです。

(2)降誕、天使の合唱

 ルカ福音書で2番目に「平和」が出て来るのはクリスマス物語です。ベツレヘム近郊の羊飼いたちが、夜、羊の群れの番をしていました。主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れます。天使は言います。

「『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
『いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。』」2:10‐14

 「地には平和」。天使の合唱は、平和を奪われ、脅かされている人々の願いを代表しています。救い主の降誕は、地上に平和をもたらそうとされる神の意志の実現の開始なのです。

(3)福音の宣言──ナザレでの礼拝

 それから30年が過ぎ、イエスは公に活動を開始されました。あるとき故郷ナザレに来て、安息日の会堂礼拝に参加されました。聖書の朗読しようとして立たれ、預言者イザヤの巻物を開くと、こう書いてある箇所が目に留まったのでそこを読まれました。

「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」4:18‐19

 ここには「平和」という言葉は出て来ませんが、「解放」「回復」「自由」が語られています。これらと平和とは一体であって、憲法の精神と通じています。

 聖書を朗読した後、イエスはイザヤの巻物を係の人に返して座られるのですが、その朗読をとおして聖書の言葉が会堂に集まっている人々の心に強く響いたため、何かを語ってくれることを期待して人々の目がイエスに注がれました。そこでイエスは話し始められました。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」4:21

 福音の宣言です。抑圧からの解放と自由──これがイエスの存在とともに、その言葉とともに、いま実現し始めた。このためにこそイエスは来られたのです。

 ところで、ここで朗読されたのはイザヤ書61:1‐2です。かつて預言者をとおして語られたことが、いまイエスによって現実となる。イザヤ書とルカ福音書を読み比べると少し違っているところがあります。

 イザヤ書の方を途中から読んでみます。

「主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知して
嘆いている人々を慰め
シオンのゆえに嘆いている人々に
灰に代えて冠をかぶらせ
嘆きに代えて喜びの香油を
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
彼らは主が輝きを現すために植えられた
正義の樫の木と呼ばれる。
彼らはとこしえの廃虚を建て直し
古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、
代々の荒廃の跡を新しくする。」61:2‐4

 2、3節に「嘆いている人々」が2回出て来ます。嘆いている人々をこそ、神が目に留められる。慰めと賛美を与えられる。そればかりではありません。

「彼らは主が輝きをあらわすために植えられた
正義の樫の木と呼ばれる。」

 嘆いている人々こそ、主なる神の輝きをあらわす存在。そのために植えられた正義の樫の木。しっかりと立って主の正義をあらわし、荒廃した世界を復興させる主体となる、というのです。

(4)エルサレム入城

 それからおよそ3年が過ぎ、イエスの生涯は終わりに近づきます。イエスはそこで最期を迎えることを覚悟してエルサレムに近づかれます。

「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
『主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。
天には平和
いと高きところには栄光。』」19:37‐38

 あの降誕のとき、ベツレヘム郊外に響いた天使の合唱がここにこだましています。ただ、微妙な違いがあります。あのときは
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ」
であったのが、ここでは
「天には平和」
と歌われています。

 ルカから離れますが、ヨハネの黙示録には天における天使と悪魔の戦いが描かれている箇所があります。

「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」12:7‐9

 天からは悪の力が突き落とされた。天にはすでに実現している平和が、イエスとともにここ、地上にも実現するように──その願いが「天には平和、いと高きところには栄光」という賛美になったのでしょう。

 あるいは、まだ天では戦いが続いていることを感じ、天に平和が実現することを文字どおり祈り求めているのかもしれません。天の平和が地上の平和をもたらす。いずれにせよ、イエスのエルサレム入城に際して、平和の実現が祈られ、歌われた。今がその時なのです。

 ヨハネの黙示録はローマ帝国のキリスト教迫害のもとで書かれた一種の秘密文書です。ローマ皇帝は自らが神であると称し、帝国は皇帝を礼拝することを強制しました。国家権力は悪魔的力を振るい、真実に生きようとする人々を迫害している。しかし必ず悪の勢力は天から投げ落とされ、滅ぼされる。最後は神の正義と平和が世界を覆い、人の目から涙がぬぐわれる。

 日の丸、君が代の強制に苦しめられている方々のことを思うとき、聖書はその大きな味方として呼びかけてきます。

 ルカ福音書に戻って先ほどの続きを読みましょう。

「『天には平和
いと高きところには栄光。』
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください』と言った。イエスはお答えになった。『言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。』」19:38‐40

 平和を求める祈りと賛美を沈黙させることはできない、とイエスは言われたのです。

 その後、イエスは泣かれます。

「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。』」19:41‐44

 「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……」。

 洗礼者ヨハネの誕生に際して父ザカリアが歌った「平和の道」が、今はイエスの口から嘆きと涙とともに語られます。平和への道を確立することがイエスの悲願であった。しかし「神の訪れてくださる時」をわきまえないために、世界は戦争と破壊に向かって突き進んでいる。イエスはそれを予見して泣かれたのでした。今の日本のこの現実を前にしてイエスは泣かれるのではないでしょうか。

 しかしルカ福音書はこれで終わるのではありません。

(5)復活

 イエスの十字架の死から三日目の日曜日の午後、ふたりの弟子がエルサレムを脱出してエマオの村目指して歩いていました。そこに見知らぬ人が道連れとなりました。話しながら何時間もかかって山道を下っていきます。夕暮れになってエマオに到着。弟子たちはその人を家に迎え入れました。夕食の席でその人がパンを取り、祝福してそれを裂いたとき、弟子たちはそれがイエスであるとわかりました。疲れているはずなのに二人はすぐに家を出発して、先ほど来た山道を何時間もかかって引き返し、エルサレムの仲間を訪ねます。道であったこと、パンを裂いてくださったときにイエスとわかったことなどを話していたとき……

「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」ルカ24:36

 イエスが平和を呼びかけられます。平和の呼びかけは弟子たちの中に平和をもたらします。

 その誕生の前から、わたしたちを平和の道に導く方として歌われた救い主イエスは、平和の道の実現のためにいのちをささげ、復活して平和を呼びかけられます。このようにルカ福音書は、平和の主イエス・キリストを最初から最後まで指し示しているのです。

(次回で完結)
憲法と平和の福音(4)

日ごとの聖句358 祝福の約束 2009/3/8〜14


2009年3月8日(日)大斎節第2主日       申命記28:6、8
あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。主は、あなたの手の働きすべてに対しても祝福を定められる。

3月9日(月)                  創世記49:25
どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。

3月10日(火)                 創世記48:15
わたしの生涯を今日まで、導かれた牧者なる神よ。祝福をお与えください。

3月11日(水)                 創世記48:16
わたしをあらゆる苦しみから、贖(あがな)われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に、祝福をお与えください。

3月12日(木)                民数記6:24‐25
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔(みかお)を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。

3月13日(金)               申命記15:10‐11
あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

3月14日(土)                  申命記28:2
あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。

眠り──旧約聖書から


旧約聖書から「眠り」に関するものを拾ってみました。
興味深いものが見つかります。聖書がお手元にある方は開いてみてください。


1. アダムは深い眠りの中で、自分からもうひとりの人が神によって造り出される経験をしました。
「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」創世記2:21‐22

2. アブラハムは深い眠りの中で、将来のことを聞かされ、神との契約の中に入れられました。
「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。」創世記15:12

3. ヤコブは眠りの中で神の臨在を経験し、神の約束を聞き、神との新しい関係に入りました。
「『見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』
ヤコブは眠りから覚めて言った。
『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』
そして、恐れおののいて言った。『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』」創世記28:15‐17


4. 詩人は眠りと覚醒をとおして神の守りと助けを知りました。
「身を横たえて眠り
わたしはまた、目覚めます。
主が支えていてくださいます。」詩編3:6

「どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」詩編121:3‐5


5. 神を畏れる知者は、満ち足りて眠りました。
「主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき
災難に襲われることはない。」箴言19:23


「働く者の眠りは快い
満腹していても、飢えていても。
金持ちは食べ飽きていて眠れない。」
コヘレト5:11


6. エレミヤは苦難の中で深く楽しい眠りを与えられ、元気を取り戻しました。
「ここで、わたしは目覚めて、見回した。それはわたしにとって、楽しい眠りであった。」エレミヤ31:26

憲法と平和の福音 (2)

2.日本国憲法の精神──三つの幹

 戦争と植民地支配、自由の抑圧の悲惨な経験から日本国憲法が生まれました。その精神を三つにまとめることができると思います。

 第一は、「主権在民」です。普通「国民主権」と言われるのですが、憲法の英語文を見ると"people"となっていて「人々」「人民」なのです。これを「国民」と限定するところに問題が生じますが、今日はこれには触れません。主権は、大日本帝国の天皇にあるのではなく、わたしたちにあるのです。

 第二は、「戦争放棄」「絶対平和主義」です。

 第三は、「基本的人権の保障」です。この中には思想、良心、信教の自由が含まれます。


 これらの憲法の精神を、前文の言葉を用いて、いま仮に一つに絞ってみたい。それは「平和のうちに生存する権利」、平和的生存権(あるいは平和的共存権)です。これが脅かされ、奪われつつある、というのが今の状況だと思います。

 「日本国憲法 前文」を確かめてみましょう。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

 「戦争の惨禍を再び繰り返さない」という決意がここにはこめられています。専制と隷従、圧迫と偏狭、恐怖と欠乏の苦い経験から、「主権在民」「戦争放棄・絶対平和」「基本的人権の保障」がこの憲法で宣言されました。しかしこれらが脅かされ、奪われつつあるのが、今日の状況です。

憲法と平和の福音(3)

憲法と平和の福音 (1)

2008年10月12日(日)、京都聖三一教会を会場に行われた聖公会平和ネットワーク・全国の集いでの基調講演を掲載します。

1.はじめに──麻生太郎新首相の所信表明演説から

 去る9月29日、麻生太郎新首相は初めての所信表明演説の冒頭で次のように述べました。

 「わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも、御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)をいただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました。」

 「御名」とは天皇の名前、「御璽」とは天皇の印(判子)です。たしかに手続き上はそうなっているとしても、それが首相就任にとって最も大事なことと受けとめ、そう発言していることに大きな問題があります。この麻生氏は、憲法の根幹、「主権在民」ということを忘れているのではないだろうか。いや、それを知りつつそれを軽んじ、御名御璽=天皇の権威の方に重心を移そうとしているのではないでしょうか。

 「かしこくも、御名御璽をいただき」と彼は言いました、「かしこくも」とは天皇陛下を畏れかしこんで、謹んで申し上げるということです。これは1945年8月15日まで、大日本帝国が滅びるまで通用した言い方です。

 「かしこくも」という言葉について一言触れておきます。大日本帝国憲法には、その本文の前、頭に「告文(こうもん=天子が臣下に告げる文)」というのがあります。その最初はこうです。

「皇朕(わ)レ謹(つつし)ミ畏(かしこ)ミ
皇祖(こうそ)
皇宗(こうそう)ノ神霊(しんれい)ニ誥(つ)ケ白(まう)サク……」

 神聖不可侵の天皇が、臣下(家来)である国民に告げる前に、天皇の祖先である神々に告げる、という順序になっています。冒頭に「謹(つつし)ミ畏(かしこ)ミ」という言葉が出て来ます。麻生新首相は、天皇を再び神聖なものにしようとしている。これによって「主権在民」を宣言した日本国憲法の根幹精神は危機にさらされています。
 麻生氏が「かしこくも」と畏れ尊んでいるその「御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)」によって何が行なわれたか。一つを挙げておきます。

 1910年、日本は韓国(朝鮮)の独立を奪い、植民地としました。それを公に宣言した天皇の言葉、「韓国併合の詔(みことのり)」(明治43年8月29日)を紹介します。

「朕(ちん)東洋ノ平和ヲ永遠ニ維持シ帝国ノ安全ヲ将来ニ保障スルノ必要ナルヲ念ヒ又常ニ韓国ガ禍乱ノ淵源タルニ顧ミ曩ニ朕ノ政府ヲシテ韓国政府ト協定セシメ韓国ヲ帝国ノ保護ノ下ニ置キ以テ禍源ヲ杜絶シ平和ヲ確保セムコトヲ期セリ……朕ハ韓国皇帝陛下ト與ニ此ノ事態ニ鑑ミ韓国ヲ挙テ日本帝国ニ併合シ以テ時勢ノ要求ニ応ズルノ已ムヲ得サルモノアルヲ念ヒ茲ニ永久ニ韓国ヲ帝国ニ併合スルコトトナセリ……御名御璽」

 こういうところに「平和」が使われています。自分(天皇)は東洋の平和と大日本帝国の安全のために、常に韓国が禍(わざわい)と混乱の原因になっていることを顧みて、韓国を日本のものにし、その禍と混乱の源を根絶する、というのです。その詔(天皇が臣下である国民に下(くだ)す言葉)は御名御璽によって権威を持ち、効力を発揮するのです。

 韓国・朝鮮が天皇の名によって日本に併合され、天皇の名によって酷い支配を受けたことをはっきりさせておきたいと思います。1925年、ソウル(当時は京城)の南山に朝鮮神宮が創立されました。天皇の祖先とされる天照大神と、実際にその名によって朝鮮を併合した明治天皇と、この二つを朝鮮神宮の祭神とし、やがてそれを朝鮮の人々に拝むように強制しました。「一面一社」と言って村ごとに一つの神社を建てる方針が打ち出され、日本統治の末期には朝鮮全体に1000に及ぶ神社ないしそれに準ずるものが建てられていたと言われます。その全体を統括するのが朝鮮神宮でした。

 ここに持っているのは「朝鮮イエス教長老会総会会議録」です。当時のものの復刻版です。これには痛ましい記録があります。今から70年前の1938年の秋、朝鮮の長老教会総会は日本の強圧によって神社参拝を決議させられました。わたしたちの主にある兄弟姉妹はこれによって民族の誇りと信仰的良心を傷つけられました。抵抗した人は数多く、逮捕・拷問の末およそ50名の人が殉教しました。このような歴史に触れるとき、日本国憲法のもとにある首相が「かしこくも御名御璽いただき」と言うのがどれほどひどいことであるかを思わされます。

 今は麻生新首相の所信表明に関して、「主権在民」が危機にさらされていると言ったのですが、もう一つ重大な問題があります。麻生氏はこう言っています。

「申し上げます。日本は、強くあらねばなりません。強い日本とは、難局に臨んで動じず、むしろこれを好機として、一層の飛躍を成し遂げる国であります。」
「わたしは、日本国と日本国民の安寧にとって、日米同盟は、今日いささかもその重要性を失わないと考えます。事が国家・世界の安全保障に関わる場合、現在の国連は、少数国の方針で左右され得るなど、国運をそのままゆだね得る状況ではありません。」

 つまり国連よりも日米軍事同盟を優先する。アメリカと結んでいっそうの軍事化を進めるという宣言です。
(つづく)

憲法と平和の福音(2)
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