Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2009年04月

日ごとの聖句366 祈り──詩119編から2 2009/5/3〜9


2009年5月3日(日)復活節第4主日          詩編119:9
どのようにして、若者は、歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。

5月4日(月)                   詩編119:65
主よ、あなたの御言葉のとおり、あなたの僕に恵み深くお計らいください。

5月5日(火)                   詩編119:66
確かな判断力と知識をもつように、わたしを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じています。

5月6日(水)                   詩編119:71
卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。

5月7日(木)                   詩編119:72
あなたの口から出る律法はわたしにとって、幾千の金銀にまさる恵みです。

5月8日(金)                   詩編119:73
御手がわたしを造り、固く立ててくださいました。あなたの戒めを理解させ、学ばせてください。

5月9日(土)                   詩編119:76
あなたの慈しみをもって、わたしを力づけてください。あなたの僕への仰せのとおりに。

アンサンブルコンサート

アンサンブルクローバーコンサート

京都聖三一教会・京都聖ステパノ教会共催

~アンサンブルコンサート~
「ガリラヤの風かおる丘で」


新緑が美しく、さわやかな風が吹く季節にアンサンブルのコンサートを企画しました。大人から子どもまでお楽しみいただけるコンサートです。ぜひお越しください。

日時   2009年 5月24日(日) 
     午後2:00開演
出演   室内管弦楽団 アンサンブル・クローバー
場所   京都聖三一教会
  
主な演目
★主よ 人の望みの喜びよ、アヴェ・ヴェルム
・コルプス、G線上のアリア
★聖歌(ガリラヤの風かおる丘で、くすしきみ恵み(アメー
ジンググレース)その他
★アヴェ・マリア(グノー、シューベルト)、エーデルワイス、
ドレミのうた、雨をふらす雲 [ 楽器の紹介もあります ]

※ 入場は無料です。

日本聖公会 京都聖三一教会
〒604-8403 京都市中京区聚楽廻中町45
◆JR嵯峨野線(山陰本線)「二条」駅、
地下鉄「二条」駅から北へ徒歩10分
◆市バス「千本丸太町」から徒歩5分
(地図参照・千本丸太町西一筋下る)
電話075-841-3281

日ごとの聖句365 祈り──詩119編から 2009/4/26〜5/2


2009年4月26日(日)復活節第3主日        詩編119:2
いかに幸いなことでしょう。主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は。

4月27日(月)                 詩編119:17
あなたの僕(しもべ)のためにお計らいください。わたしは命を得て、御言葉を守ります。

4月28日(火)                 詩編119:29
偽りの道をわたしから遠ざけ、憐れんで、あなたの律法をお与えください。

4月29日(水)                 詩編119:37
むなしいものを見ようとすることから、わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って、命を得ることができますように。

4月30日(木)                 詩編119:41
主よ、あなたの慈しみと救いが、仰せのとおり、わたしを訪れますように。

5月1日(金)使徒聖ピリポ・使徒聖ヤコブ日    詩編119:50
あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう。苦しみの中でもそれに力づけられます。

5月2日(土)                   詩編119:59
わたしは自分の道を思い返し、立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。

高価な真珠

  
   ──マーガレットNちゃんの洗礼に寄せて


 今日はこれから酒井希栞(ののか)ちゃんの洗礼を行います。教名はマーガレットと名付けます。マーガレットとは「真珠」の意味です。
 マーガレット、真珠はギリシア語で「マルガリテース」と言い、新約聖書にも出てきます。

 イエスさまはこんなたとえ話をなさいました。マタイ福音書第13章です。

「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」13:45‐46

 神の国は、天国は、この真珠のようにすばらしいものです。一切を売り払ってその真珠を得たい。それほど高価で価値のあるもの。イエスさまの愛と、イエスさまがもたらしてくださった救いはそのようなかけがえのないものです。

 それを得ると人生のレベルがもう一段上がり、人生の豊かさがさらに深くなる、という程度のものではありません。イエスさまがわたしたちの間に実現してくださる神の国は、この世にはない、何にも比べることのない輝きに満ちています。
 その真珠には輝きがある。その輝きがわたしたちを照らし、包み、導くようになるのです。

 洗礼を受けるとはそのようなことです。洗礼を受けることは、わたしが神さまのものとされること。わたしたちをこのうえなく愛してくださるイエスさまのものとなることです。

 幼児洗礼とは、そのことが自分で分かる前に、その真珠を、神の輝きを、心と体に先にいただくことです。

 イエスさまは最後の晩餐のとき、弟子たちの足を洗われました。その時、ペテロはその意味がわかりませんでした。ペテロがそれを阻もうとすると、イエスは言われました。

「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」ヨハネ13:7

 今はまだ本人は知らない。わからない。でもそれでよいのです。先に良いものが与えられる。やがて大きくなったときに、それを発見して喜ぶ。それは周りの人が知らせてあげてほしい。そのためには、皆さんが自分の洗礼の意味を知り、喜んでいることが大切です。

 人生には自分が闇に包まれているように、あるいは自分自身が闇そのものであるように感じることがあるかもしれません。しかし神さまが光でいてくださってわたしを照らし導いてくださいます。神の国の真珠は、消すことのできない輝きを持っています。将来時が満ちて、その輝きが、いま洗礼を受けるNちゃんに現れることを信じ、祈りましょう。
            2009/04/19 京都聖ステパノ教会


 新しい聖なる神の都エルサレムの情景が描かれている中に真珠が出てきます。

「また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。」ヨハネの黙示録21:21

日ごとの聖句364 主の家 2009/4/19〜25


日ごとの聖句364 主の家

2009年4月19日(日)復活節第2主日         詩編27:4
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。

4月20日(月)                詩編92:14‐15
主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとしているでしょう。

4月21日(火)                詩編118:26‐27
祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。

4月22日(水)                   詩編122:1
主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった。

4月23日(木)                   詩編122:8
わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」

4月24日(金)                  イザヤ56:7
わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

4月25日(土)福音記者聖マルコ日        ヘブライ3:6
キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

こわかったペテロ──キリスト教はこわくない


八葉会(聖公会の京都近辺八つの幼稚園と一つの保育園の集まり)での講話 2009/04/10 平安女学院大学礼拝堂にて

 今日はキリスト教の暦で受苦日(聖金曜日)、イエスさまが捕らえられて十字架の上で死なれたことを記念する大切な日です。それを記念するため、礼拝堂の布類の色(祭色)は赤になっています。それが明日の夕方になると白に代えられて、復活日(イースター)を迎えます。主イエスの復活を喜ぶ白、平和と永遠のいのちをあらわす白の色になります。

 赤は、十字架で流されたイエスさまの血の色ですが、これはいのちを捨てるまでに人びとを愛してくださったイエスさまの愛の色、燃える心、情熱の色です。

 さて今日は、聖公会というキリスト教の幼稚園・保育園で大切な働きをしてくださる皆さんと一緒に、キリスト教とはどういうものかについて、ひとりの失敗の多い人物から思い浮かべてみることにしましょう。その失敗の多い人物とは、イエスさまの一番弟子と言われたペテロのことです。今、普通に用いられる新共同訳という聖書ではペトロとなっていますが、同じ人です。

 ペテロの多くの失敗の中から一つの場面を朗読します。物語を聞きながら、その場面を思い浮かべてみてください。

 マタイによる福音書の第14章22〜33節です。

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』
 すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』
 イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。
 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。
 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
 舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」


 ペテロは夜の海、ガリラヤ湖で何を見たでしょう。

 闇です。真っ暗な海。大きな波。吹き荒れる風。舟は前後左右に大きく傾きます。無事に向こう岸にたどり着けるかどうか。転覆するのではないか。弟子たちは一緒に舟に乗っているのですが、頼りになるのはだれもなく、心配でたまりません。
 ペテロが見たのは、自分たちを呑み込もうとする恐ろしい暗闇、波と風です。

 ペテロは何を聞いたでしょうか。

 恐ろしい風の音。襲いかかる波の音。一緒に乗っている他の弟子たちの恐怖のうめき。自分の中で押し殺している自分の悲鳴です。

 弟子たちのリーダーとしてペテロは他の仲間を落ち着かせなくてはならないのですが、どうしていいか分かりません。危機を乗り切らなくてはならないのに、自分が動揺していて適切な判断をすることもできません。

 どうしてこんなことになったか。後悔が起こります。見通しが甘かった。ロープを補強しておくべきだった。舟板を直しておくべきだった……。そして何より、イエスさまに一緒に乗ってもらうのだった。後から行くと言われて、自分たちをせき立てて出発させられたのだが、あの時自分が強く反対して無理にでも乗ってもらうべきだった。

 後悔、混乱、自責、葛藤、恐怖……

 私たちには何か思い当たらないでしょうか。

 幼稚園・保育園でむつかしい事態に出会うとき、こうしたことがないでしょうか。

 わたしたちは何を見るでしょう? 何を聞くでしょう?
 わたしたちも見ます。暗闇、風、波。わたしたちも聞きます。人が自分を責める声、自分で自分を責める声。不満、怒り、失望、孤独、恐怖……

 この海の上のこわさは、わたしたちの経験するこわい現実のようです。
 
 暗い海の上をだれかが近づいて来ます。恐ろしい。弟子たちは幽霊だと思って叫び声を上げました。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 イエスさまの声です。

「安心しなさい。」
 しっかりしなさい。勇気を出せ! 安心せよ。

「わたしだ。」
 わたしがいる。わたしがついている。

「恐れることはない。」

 イエスの声を聞き、ペテロは海の上にイエスの姿を見て、イエスにすがりたいと思いました。

「主よ、あなたでしたら」

 暗いからよく見えない。けれどもほんとうにイエスさまなら、ほんとうにあなたがイエスなら……。イエスに間違いないと思いつつ確かめています。

「主よ。」
 呼びかけます。

「そちらに行かせてください。」
 あなたのところに行きたい。あなたにすがりたいのです。

「来なさい」。
 イエスは招かれます。イエスの招きの声は、人を立ち上がらせる力がある。踏み出させる力があるのです。
 「来なさい」と言われてペテロは歩み出しました。イエスの方に向かって進みます。

 ところが風に気を取られてイエスから目を離しました。
 「強い風に気づいて」(30節)と訳されているのは、ギリシア語原文を確かめると「強い風を見てとなっています。強い風を見た。波を見た。自分を呑み込もうとする逆巻く海、真っ暗な恐ろしい海を見ました。たちまちおぼれかけます。

「主よ」
 イエスさまを呼びます。「主よ」と呼ぶのは28節に続いて二度目です。呼ぶことが大事。イエスを呼ぶことが祈りです。

「主よ、助けてください」

「イエスはすぐに手を伸ばしてペテロを捕まえ……」

 ここでおぼれさせるわけにはいかない。しっかり生きて働いてもらわねばならない。イエスさまにとって大事な弟子なのですから。

「イエスはすぐに手を伸ばしてペテロを捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」


 「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。叱責です。しかしイエスさまは苦々しく思ってペテロを叱責されたのではありません。あなたは信じてよい。わたしがいるのに、どうして疑う必要があろうか。

 ここからキリスト教幼稚園、キリスト教保育園、キリスト教保育のイメージをはっきり受け取ってみたい。

 入園式。新学期を迎えています。子どもたちを迎えて、わたしたちは一緒に舟に乗って出発します。卒園の日まで、園を送り出すまで、一緒に舟の旅をします。向こう岸まで安全に届けなくてはなりません。好天気、のどかな日もあります。しかし逆巻く波、うなる風、闇の中で途方にくれ、恐怖におびえることもあるかもしれません。
 ペテロのことを思い浮かべながら、わたしたちにも関係のあることとして、四つくらいにまとめてみます。

1.こわいことがいろいろある。これが現実です。

2.イエスが近づいて来て声をかけられる。イエスさまの励ましの声を聞く。
「安心しなさい。わたしだ。恐れるな。」

3. それに励まされて踏み出す。ところがおぼれかける。失敗する。
 わたしたちはちゃんとしなければならない、正しく立派にやらなくてはならないと思う。そうして固くなったり萎縮したりしてしまうのではないでしょうか。しかしペテロの例からすれば、失敗したってよいのです。失敗を恐れず、よいと思うことを大胆にやってはどうでしょうか。失敗してこそイエスの弟子です。

4.失敗して、あぶなくなってイエスを呼ぶ。呼んで助けてもらう。これがキリスト教です。

 イエスの手がわたしを捕まえて舟に乗り込ませる。
 イエスさまがペテロを見ておられます。ペテロはイエスの手を見ます。イエスの顔を見ます。そうして、わたしのことをけっして見捨てられないイエスさまを知ります。

 そもそもこの舟に乗り込ませて、向こう岸に向けて送り出したのはイエスです(マタイ14:22)。

「二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」
 おぼれそうになったペテロを、イエスさまが捕まえてもう一度舟に乗り込ませました。風は静まって、舟にイエスを迎えて、力を与えられて、新しい旅が始まります。

 ひとつひとつの園が舟。子どもたちを運ぶ舟です。それが九つある。船団という言葉があります。八葉会、九つの園全体が船団をなしています。同じ目的を持って、同じ目的地に向かって、子どもたちを乗せて旅をしています。ひとつの舟の危機は全体の危機。ひとつの園の喜びは全体の力です。

 失敗しないように気をつけて緊張して萎縮するのではなく、良いと思うことを大胆にやって、失敗したら叫んで、イエスに助けてもらう。

「安心しなさい。わたしだ。恐れるな。」
 イエスさまのこの声を頼りに、新年度、乗り出した舟を進めて行きましょう。
 

そこでお目にかかれる

 
 週の初めの日の朝ごく早く、二人のマリアとサロメがイエスの墓に行きました。イエスの体に油を塗ってきれいに葬り直すためです。気がかりは、墓の入り口をふさいでいる大きな石のことでした。ところが来てみると、どうしたことかその大きな石は脇へ転がされており、墓の中に入ると白い長い衣を着た若者がいてこう言いました。若者とは天使でしょうか。

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」マルコ14:6‐7

「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。……」

 なぜ、特に「ペテロ」の名が挙げられたのでしょうか? 弟子たちの中にペテロは含まれているはずなのに。その白い長い衣を着た若者は、イエスの思いを伝える代弁者なのでしょうか。とすればイエスは、特にペテロのことを心にかけておられるということでしょうか。

 夜が明けて次第にあたりは明るくなってきます。春の朝のすがすがしい空気。緑が目に鮮やかに入ってきます。暖かな光と風……
 しかしこの時、この瞬間、ペテロはどうしていたのでしょう。
 ペテロは、暗黒の中で息を詰めて、心も体もこわばっていました。
 自分だけはイエスさまについて行くはずだった。ほかのだれが逃げようと裏切ろうと、自分だけはイエスと共に行くつもりでした。
「たとえみんながつまずいても、わたしはつまずきません。」
 二、三日前に自分が言った言葉がよみがえってきます。

 恐ろしい。イエスを捕らえて殺した人びとが自分を捕らえに来るかもしれない。身を隠しています。しかし恐ろしいのは外からの迫害だけではない。それよりももっと、自分自身が恐ろしい闇です。自分が苦しみです。イエスを見捨てた。誰よりも大切な人を裏切って死なせた。後悔と自責でペテロの心は破れています。生きていても死んだと同じ。自分は生きるに値しない人間です。

 しかしイエスは、ペテロを忘れておられませんでした。
 あの夜ガリラヤの湖の舟の中で、ペテロは他の弟子たちと共に、逆巻く波と風の中、恐怖におののいていました。イエスが近づいて行かれたとき、それをイエスと知ったペテロが何と言ったかを、イエスは覚えておられます。

「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」(マタイ14:29)

 イエスが「来なさい」と言われると、ペトロは舟から降りて水の上をイエスのところに来ようとしたのです。損得も危険も可能かどうかも何も思わず、ただイエスのところに駆け寄りたかった。そのペテロを、イエスは覚えておられます。
 しかしペテロ風を見て恐ろしくなり、おぼれかけた。

「主よ、助けてください!」

 そのとき、ペテロがどんなに切にイエスを呼んでその手にすがったかを、イエスはご自分の手と体と心に覚えておられます。イエスは手を伸ばしてペテロを捕まえ、舟に乗り込ませられました。

 ペテロがどんなにイエスを愛し、慕っていたかを、イエスは知っておられました。

 裏切ったことの後悔。自分がイエスを死なせたという自責。彼の心は絶望と自責で破れています。今、ペテロはおぼれています。いちばん危ないのはペテロです。
 絶対にペテロを見捨てることはできない。あのときつかんだペテロを離さない。イエスは決意しておられます。

「弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」

 ペテロはイエスを失った。しかしイエスはペテロを失ってはおられない。ペテロの人生はここから始まるのです。
 イエスはガリラヤに行かれます。ペテロを見捨てて行かれるのではありません。ペテロが必ず行くはずの場所に、ペテロより先に行かれる。先導されるのです。そして再びペテロはイエスを見る。イエスに会うのです。
 今は暗黒しか見ない彼の目は、まもなく必ずイエスを見るのです。

 わたしたちはペテロです。行き詰まり、絶望し、負い目を持ち、自分を責め、闇を知っているなら、わたしたちもペテロです。
しかしイエスさまはわたしたちを見捨てられない。あなたの道をわたしが先に行く。あなたはわたしが行く道を歩む。そしてあなたは必ずわたしを見る。あなたは必ずわたしと会う。

 イエスは墓にはおられない。しかし墓を包む朝の光と春の風は、闇の中のペテロを包んでいます。復活されたイエスさまと共に、わたしたちの新しい人生の道が始まります。
(祈り)

              (2009/04/12 京都聖三一教会)

山のいただきで


マルコ9:2‐9

 今日は大斎前主日。今週25日水曜日から大斎節に入ります。4月12日のイースターまでのおよそ40日、イエスさまの40日の荒野での試練を思いつつ過ごしたい。十字架に死んで復活されたイエスさまに、40日後に新しく出会うことを願い、それを目標とし、それに備えて、希望をもって進みたいと思います。

 先日の総会で話がありましたが、わたしたちの教会はこの1年、またこの大斎節を「祈りを学び、深める」ことを共通の目標としました。一人で祈り、一緒に祈ることを深めていきたい。ところで、わたしたちの前にイエスさまご自身が祈っておらた。その姿が、今

「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」マルコ9:2‐3

 イエスさまの姿が三人の弟子たちの前で変わった。イエスの変容は祈っておられる中で起こったのです。今日読んだのはマルコ福音書ですが、ルカ福音書ではそれがはっきりと記されています。

「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」ルカ9:28‐29

 この箇所を読むと思い出すことがあります。今から24年前の1985年3月17日の主日、韓国聖公会のソウル大聖堂で聞いた説教です。

 その前の年、1984年から日韓の聖公会の交流が正式に始まり、両方の聖公会に日韓・韓日協働委員が立てられました。わたしは日本側協働委員のひとりとして、その年1985年秋に開かれる第2回日韓聖公会宣教セミナーの準備のためにソウルを訪問していたのです。35歳でした。ソウル大聖堂の主任司祭は朴鍾基(パクチヨンギ)神父。朴鍾基神父は韓国側協働委員のひとりでした。それで日曜日に、日本からの韓国を訪問した3名は、朴鍾基神父の司式されるソウル大聖堂の聖餐式に参加したのです。

 500人くらい集まった、けれども静かに落ち着いて進んでいく歌ミサでした。
 そのときの説教が、ちょうどルカ福音書による主イエスの変容貌の箇所でした。
 わたしは韓国語を読むのはある程度できるのですが、聞くのは苦手です。皆目わからないこともよくあります。ところがその日の朴鍾基神父の説教は鮮明にわたしの耳と心に入ってきました。

 その要旨はこんな内容でした。

 イエスが祈っておられるうちにその姿が変わった。この出来事から学ぶことが三つある。

 第一に、祈りは生活を変える。もしわたしたちの信仰と生活が少しも変わらなくて力がないとすれば、それは祈りがないからだ。祈ることがわたしたちの姿を変え、信仰と生活を変える。

 第二に、祈りは神秘的体験を与える。神秘的体験といっても特別なことである必要はない。イエスさまに近づきたい、イエスさまの思いとひとつになりたい、という願いをわたしたちが持つようになるなら、それも重要な神秘的体験である。ミサにあずかることも神秘的体験である。ミサにおいて、わたしたちはイエスさまとひとつにされるのだから。

 第三に、神秘的体験を与えられたわたしたち、ミサにあずかったわたしたちはそのままそこにとどまるのではない。イエスが変容という神秘的体験をされた山から下って行かれたように、わたしたちもまたここからこの世に出て行くように促される。信仰は自分の中に、自分の満足の中にとどまるのではない。神さまのために、隣人のために、ここから派遣されて出て行くのだ。

 これがその日の説教の要旨です。わたしはあまりに印象が強かったので、それを後からノートに書き付けたのです。昨夜探したら出て来たので、このようなご紹介をすることができたのです。

 その年の秋の日韓セミナーは大阪で開かれ、意味深い集まりとなったのですが、それには朴鍾基神父の率直な姿勢と発言が大きく働いていたことを記憶しています。

 ところでその翌年の1986年7月、韓国の民主化運動は大きな高まりを見せ、ソウル大聖堂はそのシンボルのひとつとなりました。というのは、政府の弾圧のため集会をする場所が見つからなかったとき、ソウル大聖堂がその場所を提供したのです。集会を阻止しようとする機動隊(戦闘警察)がソウル大聖堂を三重に取り囲み、人々の出入りを遮断しました。こうしたなか、機動隊がソウル大聖堂に突入し、構内の主教館の窓と玄関を壊し、主任司祭朴鍾基司祭を殴打してけがをさせるという事態となりました。

 この後、大韓聖公会のほとんどの聖職がソウル大聖堂に1週間籠もって断食して祈祷会を継続しました。聖堂という聖域(聖なる神の領域)を侵犯した警察権力を糾弾すると同時に、そのような不義なる社会のありかたを黙認してきた自分たちのあり方を神の前に懺悔するという趣旨でした。

 朴鍾基神父はただ聖公会の内部だけではなく、韓国基督教教会協議会(NCC)の人権委員長として、身の危険を顧みずに大切な働きを続けられました。あるとき、在日韓国人の牧師がソウルのホテルに滞在していました。警察がその留守中にホテルを無断で捜索しました。朴鍾基神父はNCC人権委員長として警察に抗議し、それが無視されたので警察署長を検察庁に告発する、ということまでなさいました。神が貴い者とされた人が、地上の力によって不当にあらどられ、踏みつけられるのを彼は許すことができなかった。

 朴鍾基神父はあまりに働きすぎられたせいでしょうか、健康を損ねられて、わたしがあの説教を聞いて7年後の1992年に57歳で逝去されました。

 朴鍾基神父の追悼文集が2002年に出され、それを友人からもらったのですが、その本の題名は『麦の種の信仰者 朴鍾基』というのです。表紙に写真があります。他の人たちが向こうを向いて進んで行くのに、朴鍾基神父はひとりこちらを向いて立ち止まっています。わたしはここに現代の預言者の姿を見るのです。

 今日の福音書に戻ります。山の上で三人の弟子たちはイエスの姿が変わるのを見ました。
 信仰はイエスの姿を見つめることこそが大切です。けれども弟子たちがおびえ、あるいは感動するとき、イエスご自身が弟子たちを見つめておられます。

 変容されるイエスの姿がわたしたちの心に宿り、イエスの愛のまなざしがわたしたちの魂に入るなら、わたしたちにも変容が起こる。祈られるイエスに支えられてわたしたちも祈るなら、わたしたちも主イエスの愛の輝きはわたしたちのうちに輝くようになるのです。

 主イエスよ、山のいただきで現されたあなたの姿を仰がせてください。あなたのみ姿の光をわたしたちも宿す者とならせてください。主イエスよ、あなたを信じ、あなたに従わせてください。アーメン

(2009/02/22 大斎節前主日 京都聖三一教会)

日ごとの聖句363 「おはよう」 2009/4/12〜18


2009年4月12日(日)復活日         コリント 15:20
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

4月13日(月)復活後月曜日            マタイ28:1
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。

4月14日(火)復活後火曜日           マタイ28:5‐6
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。」

4月15日(水)復活後水曜日            マタイ28:6
「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」

4月16日(木)復活後木曜日            マタイ28:8
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

4月17日(金)復活後金曜日            マタイ28:9
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

4月18日(土)復活後土曜日            マタイ28:10
イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

日ごとの聖句362 その傷によって 2009/4/5〜11


2009年4月5日(日)復活前主日          汽撻肇1:5
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

4月6日(月)復活前月曜日            汽撻肇2:20
しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適(かな)うことです。

4月7日(火)復活前火曜日            汽撻肇2:22
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」

4月8日(水)復活前水曜日            汽撻肇2:23
この方は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅(おど)さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

4月9日(木)聖木曜日              汽撻肇2:24
キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。

4月10日(金)聖金曜日(受苦日)        汽撻肇2:24
キリストは十字架にかかられました。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

4月11日(土)聖土曜日             汽撻肇2:25
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
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井田 泉
奈良基督教会牧師
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