Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2009年10月

良い肉と古い酒──逝去者記念礼拝

「万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
主はこの山で
すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
  地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。」イザヤ書25:6‐8


 神はわたしたちのために祝宴を張り、特別に良い肉とえり抜きの酒を用意して振る舞ってくださる。わたしたちはそれに招かれている。神の前で神とともにわたしたちは喜ぶ。

 「この山」とはきっと天国のことでしょう。先に天に召された方々は、この宴を味わっておられます。

 わたしたちに嘆きと困難があることを神は知っておられます。それは「人の顔を包んでいる布」「国を覆っている布」です。これに包まれ、覆われて、わたしたちは神を仰ぎ見ることができません。わたしたちの目は、涙で、恥で、傷で、罪で覆われていて、神の御顔を見ることができません。

 けれども神はそれを放置せず、「すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる」と言われています。わたしたちのためにご自身を献げられた神の小羊イエスが、わたしたちの顔の覆いを取り除き、神を仰がせてくださるのです。

 良い肉とえり抜きの酒は天国で供されるのですが、それは天に召されてからだけのことではありません。それはすでに、地上のわたしたちにも用意されています。わたしたちのために神が地上で用意していてくださる良い肉と酒。それを受けるのが聖餐式です。パンは良い肉、ぶどう酒はえり抜きの酒です。神の愛の命がパンとぶどう酒となって、わたしたちに差し出されています。

 ここでパンとぶどう酒を受けることをとおして、わたしたちは天の祝宴に連なり、先に召された方々とひとつとなって交流するのです。それが使徒信経に言う「聖徒の交わり」です。

「これは主が語られたことである。」

 わたしたちが勝手に想像したことではなく、主なる神がそれを宣言し、それを保証し、それを実行してくださいます。その約束の中で、先に召された方々のために祈りを献げましょう。

(2009/10/24 逝去者記念聖餐式から)

日ごとの聖句392 幸い 2009/11/1〜7

2009年11月1日(日)聖霊降臨後第22主日 諸聖徒日
マタイ5:3‐4
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

11月2日(月)                  マタイ5:5‐6
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

11月3日(火)                  マタイ5:7‐8
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

11月4日(水)                 マタイ5:9‐10
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

11月5日(木)                マルコ10:13‐14
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。イエスは言われた、「神の国はこのような者たちのものである。」

11月6日(金)                マルコ10:15‐16
イエスは子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

11月7日(土)                 民数記6:24‐25
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。

日ごとの聖句391 シオン 2009/10/25〜31

 シオンはエルサレム東南の丘。そこに神殿が建てられた。住民を指す場合も。

2009年10月25日(日)聖霊降臨後第21主日      ゼカリヤ9:9
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。高ぶることなく、ろばに乗って来る。

10月26日(月)                  詩編20:2‐3
苦難の日に主があなたに答え、聖所から助けを遣わし、シオンからあなたを支えてくださるように。

10月27日(火)                  詩編48:2‐4
わたしたちの神の都にある聖なる山は高く美しく、全地の喜び。それはシオンの山。その城郭に、砦の塔に、神は御自(おんみずか)らを示される。

10月28日(水)使徒聖シモン・使徒聖ユダ日      詩編53:7
どうかイスラエルの救いがシオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、イスラエルは喜び祝うであろう。

10月29日(木)                  詩編84:6‐7
いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう

10月30日(金)                   詩編84:8
雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

10月31日(土)                  詩編102:14
どうか、立ち上がって、シオンを憐れんでください。恵みのとき、定められたときが来ました。

日ごとの聖句390 朝 2009/10/18〜24

2009年10月18日(日)聖霊降臨後第20主日       詩編5:4
主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。

10月19日(月)福音記者聖ルカ日           詩編27:4
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。

10月20日(火)                 マルコ1:35
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。

10月21日(水)                  詩編30:6
主は、命を得させることを御旨(みむね)としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

10月22日(木)                  詩編59:17
わたしは御力(みちから)をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。

10月23日(金)                  詩編90:14
朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。

10月24日(土)                  詩編143:8
朝にはどうか、聞かせてください、あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。

義の宿る新しい天と地を──「ペトロの手紙2」

 この手紙はペトロの手紙1の続編とされる。ペテロの名を用いてもっと後の人が書いた可能性が高いと言われているが、主イエスの山上の変容貌の目撃が記されていることは印象的(2:16‐18)。

1. 1:1「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。」

 わたしたちは「尊い信仰を受けた」。「籤で受ける」(ランカノー)という語が用いられている(籤によって使徒が一人補充された。使徒言行録2:26)。信仰は自分の努力によって獲得したのではなく、神から恵みとして与えられた(授かった)。イエス・キリストの義(正しい働き、救いの業)なくしてはそれはありえなかった。

2. 1:2「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」

 恵みと平和は、「神とわたしたちの主イエスを知ることによって」現実になる。「イエス・キリストを知る(認識する)」ことをこの書簡は特に強調している(1:3、1:8、2:20など)。信仰は「自分で思い込む」ことではなく「相手(キリスト)を知らされて知る」こと。

3. 1:17‐18「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」

 主イエスの変容(マタイ17:1‐8、マルコ9:2‐8)を自身の目撃として記している。「天から響いてくる」声をわたしたちも聞きたい。

4. 1:19「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」

 「明けの明星」とはキリストのこと(ヨハネ黙示録22:16)。「預言の言葉」は、救い主を指し示す旧約聖書の言葉。

5.3:13‐14「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。」

 正義と平和が損なわれている世界にわたしたちは生きている。しかしそれで諦めたり屈したりするのではなく、イエス・キリストの到来(再臨)と共に実現する新しい天と地を切望し、それに向かってわたしたちは生きる。

 困難と誘惑に満ちたこの世界において確かに生きるため、救い主イエス・キリストの恵みをもっと受けること、もっとこの方を知ること──この点においてわたしたちは成長したい(3:18)。それがわたしたちと世界の幸福である。

(2009/10/11)

日ごとの聖句389 生きよ 2009/10/11〜17

2009年10月11日(日)聖霊降臨後第19主日      アモス5:4
まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。

10月12日(月)                  アモス5:14
善を求めよ、悪を求めるな、あなたがたが生きることができるために。そうすれば、主は、あなたがたと共にいてくださるだろう。

10月13日(火)                  ヨハネ11:25
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

10月14日(水)                 ヨハネ14:19
あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

10月15日(木)                   マタイ4:4
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

10月16日(金)                   詩編2:26
わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。

10月17日(土)                   詩編86:2
わたしの魂をお守りください、わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください、あなたはわたしの神。

神を見る幸い──永遠の命の祝福

 2009年10月6日、京都教区センターで開かれた京都伝道区婦人会修養会での講演です。


1.はじめに

 イエスさまは山の上で大勢の群衆を見ながら、弟子たちにこう言われました。

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」マタイ5:8

 これはだれのことでしょう。心の清い人というのは。幸いであると呼びかけられているのは。神を見ると言われているのは。
 わたしたちは、自分はそんなに心の清い者ではないから、神を見るようなことはできない。これは特別なだれかのことであって自分のことではない、と思ってしまうかもしれません。

 けれども聖書の中には、神を見た人、神の示される幻を見た人たちのことが記されています。その中から何人かの人たちが経験したことをたどってみたいと思います。かつて神と出会った人々の出来事を見つめているうちに、「神を見る幸い」がわたしたちにも近づいてくるかもしれません。
 神が見えるか見えないかの境界線近くまで、ご一緒に近づいてみたいと思います。


2.モーセ

 紀元前13世紀、イスラエルの人々はモーセに率いられてエジプトを脱出し、先祖の故郷であるカナンに向かって長い旅をしました。その旅の途中、シナイ(ホレブ)の地で、モーセはひとりで山に登り、神さまから十戒を刻んだ石の板2枚を受けてみんなの所に戻って来ます。ところがそこに彼が見たのは、早くも主なる神から離れて金の子牛を拝んで熱狂している人々の群れでした。モーセは憤りのあまり、十戒を刻んだ石の板2枚をたたき壊しました。

 神さまは、この不従順な民とはもう一緒には行かないと言われました。これを聞いてイスラエルの民は衝撃を受け、嘆き悲しみました。モーセは神に「わたしの命と引き替えにしてもいいから、この民と共に行ってください」と切に願い求めました。モーセがひとり、宿営の外に張った臨在の幕屋に入ります。臨在の幕屋とは、神さまと出会う場所として定められたテントです。

「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」出エジプト記33:9‐11

 神さまは顔と顔を合わせてモーセに語られた、と。これは普通はあり得ない、特別のことです。

 モーセがイスラエルの民を救うため、自分の命をかけて神に祈り求めたとき、神はご自身をはっきりモーセに現されました。顔と顔を合わせて出会い、語られました。モーセは神の顔を見、神の声を聞いたのです。
 そのしばらく後を読むと、神はモーセに次のようにも言われています。

「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」出エジプト記33:20

 先ほどの箇所は、緊急の特別事態の中で神が直接ご自分を現されたということなのでしょう。
 神さまはもう一度モーセを山に呼び寄せ、新しく十戒を刻んだ石の板を授けられます。

「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。」出エジプト記34:29‐30

 なぜモーセの顔は光を放っていたのでしょう。それは神の顔の光がモーセの顔を照らしたからです。神の顔の輝きがモーセの顔に反射して輝いたのです。

 わたしたちには、そのようなことはあり得ないのでしょうか。もし神がわたしたちに対してほほえんでくださるなら、わたしたちの心は柔らかくなる。神の愛の光をわたしたちが受けるなら、わたしたちの顔も輝き始めるのではないでしょうか。

 3日前の土曜日、10月3日は満月でした。わたしは翌日4日の日曜日の夜に美しく輝く月を見ました。月は太陽の光を反射して輝いています。神の光を反射して輝くことがわたしたちにも起こりますように。

 神を見る、というと考えられない気がしますが、イエスさまを見る、と言ってみたらどうでしょうか。イエスさまの降誕、成長、祈りと働きの中の姿、受難、葬り、復活……。その姿を見つめる。

「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」ヨハネ一3:2

 御子をありのままに見るなら、御子に似た者になる、と言われています。イエスさまをありのままに見つめ続けているうちに、どことなくイエスさまに感じが似てくる。そんなことがわたしたちに起こればどんなにいいでしょうか。


3.バラム

 モーセに導かれたイスラエルの民は長い旅路を経てヨルダン川の東南、モアブの野に到着しました。モアブの王バラクはイスラエルの人々の数と力に恐れを抱き、イスラエルを呪って追い出してしまいたいと考えました(アメリカのバラク大統領の名前と似ていますが、綴りが違っていて関係はありません)。そこでバラク王は、超能力者、霊能者、透視者として評判の高いバラムという人の力を借りようと考えました。モアブからはるか北の方、ユーフラテス川のほとりにあるペトルの町までバラクは使いを遣わし、多くの贈り物をしてバラムを招こうとしました。

「この民はわたしよりも強大だ。今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいたい。そうすれば、わたしはこれを撃ち破って、この国から追い出すことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、わたしは知っている。」民数記22:6

 バラムはしかし、利益のためにすぐに依頼者のために動くことはしないのです。バラムはモアブのバラク王の使いに言います。
「今夜はここに泊まりなさい。主がわたしに告げられるとおりに、あなたたちに伝えよう。」民数記22:8
 主なる神のみ心は何か、神が何と言われるか。それをバラムは聞こうとするのです。

 神はバラムにこう言われました。

「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。」民数記22:13

 バラムは朝起きると、使いの人たちに言いました。「自分の国に帰りなさい。主は、わたしがあなたたちと一緒に行くことをお許しになりません。」
 報告を受けたモアブのバラク王は、もう一度、前よりも多くの、位の高い使者を遣わして言いました。

「どうかわたしのところに来るのを拒まないでください。あなたを大いに優遇します。あなたが言われることは何でもします。どうか来て、わたしのためにイスラエルの民に呪いをかけてください。」民数記22:16‐17

 実は、これはバラムにとって誘惑の危機です。求められるとおりに出かけて、形だけイスラエルを口で呪って帰ってくれば事は済むのではないか。そうすれば求めに応じたことになり、多くの富を得ることができて、自分の名声も上がるのではないでしょうか。どうなろうと結果に責任を負う必要はない。いやしくも一国の王の求めを拒否すれば、自分の身に危険が及ぶかもしれません。

 その夜、神はバラムに「行ってよい」と言われました。

 バラムは翌朝起きると、ろばに鞍をつけ、モアブの使いと共に出かけました。
 続きを読んでみましょう。

「ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった。主の御使いは彼を妨げる者となって、道に立ちふさがった。バラムはろばに乗り、二人の若者を従えていた。主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見たろばは、道をそれて畑に踏み込んだ。バラムはろばを打って、道に戻そうとした。」民数記22:22‐23

 主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっている。けれどもバラムにはそれが見えないのです。

 道を進んで行くバラムは、自分を守ること、富と名声を得ることに思いが傾いていて、神を見失っています。このまま行けば恐ろしいことになる。神の怒りがバラムに対して燃え上がっています。

 ろばはバラムを乗せたままうずくまってしまいました。バラムは怒りを燃え上がらせ、ろばを杖で打ちました。そのとき、ろばが人間の口を利きました。

「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。」民数記22:28

 バラムとろばが厳しいやりとりをしていたそのとき、主がバラムの目を開かれました。バラムは、主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ちふさがっているのを見ました。彼は身をかがめてひれ伏しました。バラムはおののきました。神に反することをすれば命を取られるかもしれません。

 バラムはモアブに到着しました。モアブのバラク王はバラムを案内して、バモト・バアルの山に連れて行きました。

「ここからイスラエルを呪ってもらいたい。」

 山の上からは宿営しているイスラエルの民を見渡すことができます。バラムはバラクに、七つの祭壇を築き、牛と羊を献げるように求めて、神が告げられる言葉を待ちました。その結果、バラムは、イスラエルを呪うように求められていたのに、反対にイスラエルを祝福してしまったのです。
 モアブの王は憤りましたが、バラムはこう答えます。

「主がわたしの口に授けること、わたしはそれだけを忠実に告げるのです。」民数記23:12

 王の要求に反すればバラムは殺されるかもしれない。けれどもそのように言ったのです。
 バラク王は、今度はピスガの山の頂にバラムを連れて行きました。七つの祭壇を築かせ、牛と羊を献げる。そこでもまた、バラムはイスラエルを祝福してしまいました。

 しかしバラク王は諦めません。どうしてもバラムにイスラエルを呪わせなくてはならないのです。バラクは第三の山、ペオルの頂にバラムを連れて行きました。

 そこからは荒れ果てた地を見下ろせます。荒れ果てた地に、今イスラエルが宿営している。呪うにふさわしい場所です。今度こそバラムにはイスラエルを呪ってもらいたい。
 バラムは顔を荒れ野に向けました。

「バラムは、イスラエルを祝福することが主の良いとされることであると悟り、いつものようにまじないを行いに行くことをせず、顔を荒れ野に向けた。バラムは目を凝らして、イスラエルが部族ごとに宿営しているのを見渡した。神の霊がそのとき、彼に臨んだ。 彼はこの託宣を述べた。
 ベオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。
 神の仰せを聞き、全能者のお与えになる幻を見る者
 倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。」民数記24:1‐4


 ここから託宣の内容が語られます。

「いかに良いことか、ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住む所は。
それは広がる谷、大河の岸の園のようだ。それは主が植えられたアロエの木のよう。水のほとりの杉のようだ。
水は彼らの革袋から溢れ、種は豊かな水を得て育つ。」民数記24:5‐7


 人間の目、肉の目には荒れ野の中に宿営する、貧しく疲れたイスラエルしか見えません。けれどもバラムの目にはその奥に別のものが見えるのです。
 荒れ野の中に、緑豊かな園が見えます。豊かな水を得て育つ木々が見えます。荒廃した大地に、緑の園が広がっていく。美しく広がる命の豊かな世界です。

 神さまはわたしたちをご覧になったとき、わたしたちの中に何を見られるでしょうか。悩みを抱えて疲れたわたしたち、困難の山積した教会。けれどもそのわたしたちの中に、ひょっとしたら美しく豊かに広がる緑の園を、神さまは見てくださるかもしれません。
 
 イスラエルを呪うために招かれたバラムは、バラク王から三度も執拗に呪うことを迫られ、反対に三度もイスラエルを祝福しました。
 バラムとはいったい何者か。バラムについて紹介されている言葉に注意しましょう。

「ベオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。」民数記24:15

 バラムの目はいつも澄んでいたのではありません。モアブの王バラクに招かれて出発したとき、彼の目は濁っていて、主の御使いが抜き身の剣を手にして立ちふさがっているのが見えませんでした。その危機のとき、ろばが口を利いて自分の危機を悟りました。自分は根本的に間違っていた。バラムは苦しんで、悔いて祈って、そうして新しく澄んだ目を与えられたのではないでしょうか。

 神によって清められた目は、神がイスラエルを祝福しておられる現実を見ました。見たことを告げるしかありませんでした。

「神の仰せを聞き、全能者のお与えになる幻を見る者。
倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。」民数記24:4


 バラムは苦しんで倒れ伏し、そうして神によって目が開かれました。全能者、神が与えておられる祝福の現実と希望の将来。その光景が彼の目に映ります。

 モアブの王バラクはバラムに対して激怒し、手を打ち鳴らして言いました。

「敵に呪いをかけるために招いたのに、見よ、お前は三度も祝福した。自分の所に逃げ帰るがよい。お前を大いに優遇するつもりでいたが、主がそれを差し止められたのだ。」民数記24:10‐11

 殺されたくなかったら、さっさと消え失せろ!、ということです。

 神の託宣が臨んだので、彼は述べて言いました。

「ベオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。
神の仰せを聞き、いと高き神の知識を持ち、全能者のお与えになる幻を見る者。
倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。
わたしには彼が見える。しかし、今はいない。
彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。
ひとつの星がヤコブから進み出る。」24:15‐17


 「わたしには彼が見える。」
 バラムが澄んだ目で見た「彼」とはだれでしょうか。バラムはその方を仰ぎ見ています。今ではなく、間近にではなく、遠い将来に、しかし確かに来られるその方を、バラムは倒れ伏すほどに苦しみ、焦がれるようにして待ち望んでいます。星が進み出るとは何でしょうか。星が導いてくれるのでしょうか。それともその方自身が星なのでしょうか。

 ここから新約聖書につながります。


4.三人の博士とシメオン

 かつてバラムが倒れ伏しつつ仰ぎ見たその方は、およそ1200年後に地上においでになりました。

 「ひとつの星がヤコブから進み出る」とバラムが言ったように、星に導かれて、バラムと同じくユーフラテス川のほとりから、三人の学者がその方を尋ね求めて旅しました。
 クリスマス物語に登場する博士たち。新共同訳聖書には「占星術の学者」と書いてあります。バラムの流れを汲む人たちかもしれません。星を見つめ、星によって世界と人間のことを占う。普通の人には見えない現実を見ようとするのが占星術の学者です。

 バラムが倒れ伏しつつ目を開かれて、はるかに後の救い主を仰ぎ見たとすれば、博士たちはその方に会いたいと恋い焦がれて、同じユーフラテス川のほとりから旅してきました。バラムよりもはるかに遠い道を、東から西へ、そして北から南へ旅して、ベツレヘムに来たのでした。
 マタイ福音書を読んでみましょう。

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」マタイ2:9‐10

 星を見てうれしかった。救い主へと先に立って導いてくれる星を見て喜びに溢れました。でもそれは序幕です。ほんとうに見てうれしかったのは次の節です。

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」2:11

 バラムが荒れ野の中に緑豊かな園を見たように、博士たちは貧しい飼い葉桶の中に神の子を、この幼子から始まる祝福の新しい世界を見て、喜びに溢れました。

 信仰とはこういうことではないでしょうか。肉の目に見えないものを信仰の目は見るのです。荒れ野の中に緑の園を、失望の現実の中に神の確かな希望を見るのです。

 ベツレヘムに生まれた幼子は、生後数十日して、両親に抱かれてエルサレムの神殿に連れて行かれ、そこで神に献げられました。そのとき、ひとりの年老いた人が聖霊に導かれて神殿に入って来て、幼子を見ました。

「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』」ルカ2:28‐32


 1200年前にバラムが霊の目で見た方を、今シメオンは現実に見ています。
 この幼子の中に、シメオンは神を見た。神の救いを見たのです。


5.おわりに

 神を見る、と言うとあまりに遠いことのようであっても、神の子イエスさまを見ることは遠くありません。

 わたしたちは教会に集まるとき、どういう気持ちで集まるでしょうか。バラムが仰ぎ見た方を、博士たちは慕い求めて、焦がれるようにしてイエスのもとに来ました。わたしたちもそのようでありたいと思います。

 わたしたちがイエスを求めて集まり、その集まりの中にイエスが来られる。これが礼拝です。イエスがわたしたちの中に来られるばかりではなく、わたしたちの心と体の中に入って来られる。浸透される。これが聖餐式です。

 先ほどの礼拝で一緒に唱えた詩編第27編の言葉を見ます。

「わたしは主に一つのことを願い求める? 生涯、主の家を住まいとし
主の麗(うるわ)しさを仰ぎ見て? 主の宮で思うことを」詩編27:5‐6

「わたしは堅く信じます? 神に生きる人びとの中で、神の美しさを仰ぎ見ることを」詩編27:17


 神さまは美しい。詩人はそう歌っています。神のうるわしさを見ることは至福、それを仰ぎ見て生きることは最上の幸福です。

 わたしは礼拝の中で神の美しさを感じることがあります。聖餐式で感謝聖別の祈りをするとき、ぶどう酒を湛えたチャリス(聖杯)が美しいのです。この世のものならぬ美しさ。パンとぶどう酒のうちに、そこにイエスさまが愛と命をもって臨在される。司祭はパンを掲げ、杯を掲げます。これを「エレベーション」“elevation”と言います。イエスさまの祝福に満ちた臨在を一緒に仰ぐためです。その場面では顔を上げて一緒に見つめてください。
 
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」マタイ5:8

 わたしたちも神を見るように招かれています。けれどもそれにはわたしたちの目から曇りが、濁りが清められなくてはなりません。バラムが苦しんで倒れ伏して、新しくされたように、わたしたちも新しくされて、澄んだ目を与えられて、神のうるわしさを仰ぎ見たいと願います。

 神さまはご自身をわたしたちに現したい。イエスさまは神さまをわたしたちに示したい、見せたいのです。そのためにイエスは、清くないわたしたちの曇りと汚れと罪をご自分の身と魂に引き受けて、十字架にかかって血を流し、地に倒れ伏してくださいました。

 「世の罪を除く神の小羊よ、憐れみをお与えください」

 聖餐を受ける前のこの祈りを大切にしたい。イエス・キリストが、わたしたちの心と目を、わたしたちの存在全体を清めてくださいます。
 
 モアブの王はイスラエルを呪おうとしました。しかしバラムはイスラエルを祝福しました。

 だれかがわたしたちを呪おうとしているか。押しつぶそう、滅ぼそうとしているでしょうか。「呪う」という表現は極端ですが、しかし人が、世間が、あるいは自分自身が自分を否定し、押しつぶすということはあるのではないでしょうか。

 しかしいかにバラクがイスラエルを呪おうとしてもバラムが祝福したように、いかに人が、自分が自分を呪ったとしても、イエス・キリストはわたしたちが呪われることを許されない。わたしたちをどんなことがあっても祝福してくださるのです。

 荒れ野のようなわたしたち、またわたしたちの教会の中に、イエスさまは水のしたたる緑の園を見ておられます。

 イエス・キリストがご自分の命をかけて、死んで倒れ伏して、そして復活してわたしたちを祝福してくださる祝福は、今のこの地上の生涯を守るだけではありません。病と老いと死を超えて、永遠の命にまでわたしたちを導きます。

「わたしは堅く信じます? 神に生きる人びとの中で、神の美しさを仰ぎ見ることを」詩編27:17

 神の美しさを仰ぎ見るのは、この地上の生涯においては断片的かもしれません。しかし永遠の命はここで始まって、主のみもとで完成に至ります。
 この世を去って後も、神に生きる人びとの中で、もっとはっきりと神の美しさを永遠に仰ぎ見る。これがわたしたちに与えられた神の約束です。それを「わたしは堅く信じます。」


 主なる神さま、あなたを見る幸いを与えてください。主の流された血によってわたしたちを清めて、澄んだ目を与えてください。この世の与えることのできない永遠の命の中にわたしたちを生かしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

日ごとの聖句388 主はわたしの力 2009/10/4〜10

2009年10月4日(日)聖霊降臨後第18主日        詩編8:2
主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます

10月5日(月)                  詩編18:2、4
主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。

10月6日(火)                 詩編18:33、36
神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を完全にし、救いの盾をわたしに授け、右の御手(みて)で支えてくださる。

10月7日(水)                   詩編21:14
御力(みちから)を表される主をあがめよ。力ある御業(みわざ)をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。

10月8日(木)                   詩編22:20
主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください。

10月9日(金)                   詩編23:4
死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの杖がわたしを力づける。

10月10日(土)                   詩編28:7
主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。
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