Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2009年11月

日ごとの聖句396 治める者 2009/11/29〜12/5

2009年11月29日(日)降臨節第1主日        ミカ書4:2
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」。

11月30日(月)使徒聖アンデレ日           ミカ5:1
エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。

12月1日(火)                    ミカ5:3
彼は立って、群れを養う、主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。

12月2日(水)                  ミカ5:3‐4
今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶ。彼こそ、まさしく平和である。

12月3日(木)                   ミカ7:7
しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。

12月4日(金)                   ミカ7:14
あなたの杖をもって、御自分の民を牧(ぼく)してください。あなたの嗣業である羊の群れを。

12月5日(土)                   ミカ7:15
お前がエジプトの地を出たときのように、彼らに驚くべき業をわたしは示す。

日ごとの聖句395 インマヌエル預言 2009/11/22〜28

2009年11月22日(日)聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復
                     イザヤ書44:6
わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。

11月23日(月)              ヨハネの黙示録21:6
「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」

11月24日(火)                  イザヤ7:14
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

11月25日(水)                   イザヤ9:1
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

11月26日(木)                   イザヤ9:5
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

11月27日(金)                   イザヤ9:5
その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。

11月28日(土)                   イザヤ9:6
王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

プリモールのクリスマス2009 ──ライアーの祈り

シューベルト「ドイツミサ曲」全曲

演奏 プリモール・ライアーアンサンブル

お話 井田 泉 (京都聖三一教会牧師)

2009 年12 月5 日(土) 2:00PM

京都聖三一教会 礼拝堂
 京都市中京区聚楽廻中町45 番地


詳しくは次のご案内をご覧ください。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/izaya/PrimorChristmas20091205.pdf

ドイツミサ曲そのものについては次をご覧ください。
 解説およびドイツ語・日本語対訳歌詞を掲載しています。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/izaya/DeutschMesse.pdf

ベートーヴェンとレッシング

今、音楽に関してはベートーヴェンに一番関心がある。

『ベートーヴェンの手紙』上・下 岩波文庫

編訳者の小松雄一郎氏の解説を読んでいたら、ベートーヴェンとレッシングのつながりが書いてあって驚いた。

ベートーヴェンの音楽の先生はネーフェという人で、そのネーフェはゴットホルト・エフライム・レッシングに傾倒していたそうである。

「ベートーヴェンはネーフェからこのレッシングの思想を受け継いでいたからこそ、フランス大革命の思想を自分のものとすることができたのである」と小松氏は言う。

ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729-1781)
Gotthold Ephraim Lessing

ドイツの思想家、劇作家、批評家。
『賢人ナータン』(1779)は、ユダヤ教、キリスト教、イスラムの共存を内に含む非常に優れた戯曲。岩波文庫にある。

わたしがレッシングを知ったのは、詩人として知られるハインリヒ・ハイネの『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫)を通してである。ハイネはレッシングを、宗教改革者ルターの後継者として激賞している。

『賢人ナータン』そのものにも感動したが、同時に、解説にあった「神の左手」に強く心を動かされ、それ以来レッシングはわたしの心の友の1人である。
偶然にもわたしと誕生日が同じである(1/22)。

「神の左手」について、2008年2月16日、立教学院諸聖徒礼拝堂で開かれた<詩人尹東柱とともに>の第3部のシンポジウムで言及したことがあるので、今はそれを次に紹介する。

「ドイツにゴットホルト・エフライム・レッシングという人がいます。劇作家で思想的な本も書いていますが、彼が『神の右手と左手』ということを言っています。

「神の右手」というのは一切の真理を持つ手のことで、時には教会はそれを自分が握っていているとして、制度とか教理に人を従わせようとする。

それに対して「神の左手」に握られているのは、真理を探究しようとする熾烈な欲求です。レッシングは、場合によっては神とか教会を疑ってでも真理を問おうとする。彼は「神の左手にすがる」と言うのです。レッシングは教会に対してはかなりの抵抗、反抗しました。私はそのレッシングの「神の左手にすがる」というのが大好きです。

キリスト教だからといって一つの考え方をするわけではないので、分類されてキリスト教的の立場からはそう読めるだろうというふうにくくられるのは、私はとっても悲しいです。

私は自分なりの──他の方はどう読まれるかわかりません──私の自分なりの受けとめを作品一つひとつに対してしたのであって、それを『キリスト教の人間はこう読むのだろう』というふうに分類して終わるのではなくて、私が提出した読み方に対して皆さんはどういう風に思われるか。賛成でも反対でもどんな風でもいいんですけれど。

わたしの一つ一つの読み方に対して皆さんはどんな風に受け止められるかということを大事にして欲しいなと思います。」

<詩人尹東柱とともに>でのわたしの講演は次をご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/izaya/archives/51232826.html

中庸

わが属する聖公会という教会は「中道」「中庸」の教会と言われてきた。

ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の中間に位置し、両者を橋渡しする教会と説明される。

わたしの神学生のころの印象で言うと、その中庸・中道が「ああでもあればこうでもない」ような、立場のはっきりしない印象が拭いがたく不満を感じてきた。

その後「中庸」についての積極的な意味を感じたのは、音楽評論家・吉田秀和氏が指揮者カール・リヒターについて論じている次の言葉である。

「カール・リヒターは、中庸の音楽家だろう。……中庸というのは、しかし、折衷的というのではない。これはむしろ、とてもむずかしい行き方である。

「……バッハというきわめて複雑な現象の中で、どれかに重点を置くことはあっても、そのために別の面を切り捨てはしない態度と関係のある中庸である。だから、むしろ、ある時は一方、ある時は他方に傾きはするが、しかし、全体の均衡は破らない。そういう態度というほうが正確かもしれない」。
『吉田秀和作曲家論集6 バッハ、ハイドン』46頁(音楽之友社、2002)

 聖公会のあり方について非常に参考になる発言と感じる。


最近読んだ岡田暁生『ピアノを弾く身体』(春秋社、2003)にも次のような言葉があった。

「アリストテレスは『徳』(アレテー)を『中庸』(メソテース)としたが、中庸の『中』(メソン)とは単に二点間の中心を意味するのではなく、様々な要因が絡み合うなかで捕捉されるべき最適点を意味する。」

わたしなりに一応のまとめをすると、中庸とは、そのときどきの強調は大切にしながら、しかし一方を重視、強調したとき、他方を決して軽んじない、ということである。

中国の古典に『中庸』がある。これからも学んでみたい。



イエスさまの手──子ども祝福式によせて

「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」
     マルコによる福音書10:13〜16


 イエスさまは子どもたちが大好きでした。子どもたちもイエスさまが大好きでした。
 人々はそれを知っていて、子どもたちをイエスさまのところに連れて来ました。イエスさまにさわってほしかった、祈ってほしかったのです。
 弟子たちが通せんぼしましたが、イエスさまは弟子たちを叱って子どもたちを招かれました。

 イエスさまの手に、何か力が働いています。イエスさまの両手は、何かをしたがっています。不思議な力が働いて、その手は何かをしたいのです。
 何をしたいのか。追い返したいのではなく、招きたい。避けるのではなくさわりたい。子どもたちを守りたい、祝福したいのです。

 イエスさまが子どもたちに手を触れられたとき、イエスさまの手から温かいものが伝わって、子どもたちの心は温かくなりました。からだも温かくなりました。イエスさまが祝福の祈りをしてくださったとき、子どもたちはしあわせ、イエスさまもしあわせでした。
 子どもたちはうれしかったし、周りの大人もうれしかったし、イエスさまもうれしかった。みんなで喜んで神さまに感謝しました。

 イエスさまの手がわたしたちに触れて、わたしたちみんなを祝福してくださいますように。

(2009/11/8 京都聖三一教会 2009/11/15 京都聖ステパノ教会)

クリスマス・ページェントについて 2009 (1)

 クリスマス聖劇(ページェント)の趣旨や、さまざまな役割とその意味についてご紹介します。

クリスマスの意味

「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」ルカによる福音書2:10

 ベツレヘムの野原で野宿をしていた羊飼いたちに、天使が伝えた喜びの知らせです。「民全体に与えられる大きな喜び」。「民全体」の中には、世界中の人、大人も子どもも、昔の人も今の人も将来の人もすべての人が含まれています。
 さまざまな困難や争い、悲しみや孤独を抱えているわたしたちのために、わたしたちを救おうとして神の子が来られるのです。

「神は独り子(ひとりご)を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」ヨハネの手紙? 4:9

 神はわたしたちのことを心にかけ、大切に思ってくださるあまり、天からこの世界と人のありさまを見守るだけではすまず、ご自分の分身ともいうべき独り子イエスさまを送ってくださいました。わたしたちに注がれる神の愛が、天から溢れて地上の命となった──これがイエスさまの降誕の出来事です。

 わたしたちもクリスマスの出来事にこめられた神さまの愛にふれ、生きることへの励ましを受けることができますように。このクリスマスに、救い主を新しい気持でわたしたちの中に迎えたいと思います。

クリスマス・ページェント(聖劇)の意味

 クリスマス・ページェントは、2000年前のユダヤのベツレヘムに起こった救い主イエス・キリストの誕生の出来事(神のわたしたちに対する愛の実現)を<いま、ここで>再現しようとするものです。語ること、演じること、歌うこと、祈ること、見ること、聞くことを通して、みんなでクリスマスの出来事に近づき、その場所に立ち会い、神の恵みを一緒に体験したい――それが聖劇の願いです。

 子どもたちと先生、見に来てくださる方たちが時間と場所を共にし、2000年前の神の恵みの出来事を今のわたしたちのこととして共有したい。ハプニングや不十分なところがあってもいいのです。聖劇に失敗というものはありません。心をこめて一緒にその時を過ごしましょう。

 イエスさまは天使によって別名「インマヌエル」と呼ばれました。それは「神はわたしたちと共におられる」という意味です。わたしたちのクリスマス礼拝と聖劇の中に、神さまは、イエスさまは、一緒にいてくださいます。天使が告げた喜びの知らせを、わたしたちも受け取ることができますように。

日ごとの聖句393 導き 2009/11/8〜14

2009年11月8日(日)聖霊降臨後第23主日        詩編5:9
主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。

11月9日(月)                  詩編23:2‐3
主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主はわたしを正しい道に導かれる。

11月10日(火)                 詩編25:4‐5
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。

11月11日(水)                詩編48:14‐15
後の代に語り伝えよ。この神は世々限りなくわたしたちの神。死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。

11月12日(木)                  詩編66:12
我らは火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して豊かな所に置かれた。

11月13日(金)                   詩編80:2
イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ、御耳(おんみみ)を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください

11月14日(土)                詩編107:14‐15
主は闇と死の陰から彼らを導き出し、束縛するものを断ってくださった。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業(みわざ)を成し遂げられる。

「音楽を言葉で表現する大切さ」

京都新聞2009年10月28日の朝刊に「音楽を言葉で表現する大切さ」という記事があった。京都大学の岡田暁生氏のものである。

興味が湧いたのでインターネットであれこれ調べ、結局彼の本を4冊も買ってしまった。

『音楽の聴き方──聴く型と趣味を語る言葉』中公新書、2009
『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』中公新書、2005
『ピアノを弾く身体』春秋社、2003
『ピアニストになりたい──19世紀 もうひとつの音楽史』春秋社、2008

いまのところ読んだのは『音楽の聴き方』のみ。

すべて同感というわけではないが、教えられるところが多かった。

「音を慈しみながら、語るように音楽を奏でる」という言葉に共感した。

かつてわたし自身もそういう面があったが、「上手/下手」という基準で音楽を聞く傾向が一般に多いと思う。

しかしこの数年の音楽経験から、音楽が「生きているかどうか」が今のわたしにとってはもっとも大切である。
ホテルなどの朝のレストランで、CDか何かわからないが、生きていない!音楽を聞かされることがあり、ほんとうに困る。

岡田氏は『ベートーヴェン事典』(東京書籍、1999)で「演奏論──ピアノソナタ」の項を執筆している。それによればアルトゥール・シュナーベル(1882〜1951)を凌ぐ演奏は60年近くたった今も現れていないという。大胆な判断である。

『音楽の聴き方』の中に「身体を穢れたものとするキリスト教の思想」という言葉がでてくるが、これは慎重さを欠く表現である。


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