Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2009年12月

日ごとの聖句401 まことの光 2010/1/3〜9

2010年1月3日(日)降誕後第2主日          ヨハネ1:9
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

1月4日(月)                 ヨハネ1:10‐11
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

1月5日(火)                   ヨハネ1:12
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

1月6日(水)顕現日                ヨハネ1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

1月7日(木)                   ヨハネ1:14
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。

1月8日(金)                   ヨハネ1:14
それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

1月9日(土)                   ヨハネ1:16
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

このクリスマスの発見

このクリスマスに、聖書から三つの大きな発見をしました。

1. ベツレヘムについて

 これについては下記をご覧ください。↓

http://blog.livedoor.jp/izaya/archives/51610180.html

2. 羊飼いについて

3. 洗礼者ヨハネの「証し」について


毎年クリスマスを過し、毎年クリスマスの聖書の箇所を読み、話すのですが、今年はそこに大きな発見がありました。

「羊飼い」と「ヨハネの証し」については説教しましたので、近く掲載します。

聖書の話をする仕事をしていて、そこから新しい発見をすることほどうれしいことはありません。

クリスマス ピアノ演奏会

ベートーヴェン ピアノソナタ

 第1番ヘ短調
 第2番イ長調
 第3番ハ長調
 第4番変ホ長調

演奏・小野純子

2009年12月25日(金)
 午後6時半

右京ふれあい文化会館
 創造活動室

昨夜第1回を行いました。

深く深く谷間に下り、地球の内部にまで下って、そこに光と命の到来を感じる──そのようなクリスマス体験をしました。

当日プログラム(挨拶と解説)は以下をご覧ください
プログラム

以下はわたしがそのプログラムに書いた文です。


クリスマス ピアノ演奏会に寄せて

         井田 泉

 少年時代から、わたしの最も好きな作曲家はベートーヴェンだった。中学の音楽鑑賞の時間に交響曲第6番「田園」を聞いたのが大きなきっかけだったと思う。しかしその後、友人にモーツァルトを吹き込まれて、関心は次第にそちらに移り、またバッハの音楽、特に受難曲や教会カンタータに強く心を動かされるようになった。こうしてわたしの中では、モーツァルト、シューベルト、バッハの3名が特別な位置を占め、それに比べるとベートーヴェンはやや後退していた。

 ところがそのベートーヴェンがおよそ35年ぶりにわたしの関心の中心に戻ってくることになった。それは小野純子さんが今年の初めからベートーヴェンのピアノソナタに取り組み始めたからである。何かに強く促されるようにして、彼女は今年の元日に第1番から始め、5日には最後の第32番の終わりまで到達したという。わたしはその話を聞いて感じた──ベートーヴェンのピアノソナタは生きたマグマであって、地上に出ようとしてここにその場所を見出したのではないかと。

 1番から4番。「月光」や「熱情」など有名な曲の陰に隠れて、一般にはほとんど知られていないと思う。けれどもここには若きベートーヴェンの情熱、祈り、戯れ、決意がこめられている。単なる後の傑作への準備作品ではなく、1曲1曲がこの時にしか書けなかった特別の名曲である。光が差し、静寂に満ちた厳かな世界が広がり、天の舞踏へと誘われ、地上を造りかえるかのような杭打ちの音を聞き、夢の中で慰めを受け、命の泉が湧き溢れて奔流となる。

 あの夜、羊飼いたちは天使の知らせを聞き、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と立ち上がり、飼い葉桶の御子イエスを囲んで光と祝福を受けた。小野さんの奏でるベートーヴェンのソナタを通して、クリスマスの光と祝福に共にあずかることができればさいわいである。

京都聖三一教会 クリスマスご案内

♪ かいばおけの 干し草に
 身をゆだねる 救い主
 星は空に またたいて
 眠る み子を 見つめます
 わたしたちに ふりそそぐ
 いつくしみの まなざしに
 支えられて 祈ります
 神の国の おとずれを     聖歌 75

クリスマスキャンドル

2000年前のベツレヘムで、星が神の子イエスさまを見つめていました。光が天から降り注いでいました。
わたしたちも星に照らされるようにして、イエスさまを見つめましょう。
すると不思議なことが起こります。イエスさまから光がわたしたちに向かって差しはじめ、イエスさまが慈しみのまなざしをもってわたしたちを見つめておられるのに気づきます。
このクリスマスに神の国がわたしたちを訪れ、世界が平和の光に満たされますように。

2009年 降臨節


               日本聖公会 京都聖三一教会
       京都市中京区聚楽廻中町45  TEL 075-841-3281
                 牧師 司祭 ヨハネ 井田 泉

☆12月20日(日)
 午前10時30分 降臨節第4主日聖餐式(総員礼拝)
礼拝後、クリスマス祝会

☆12月24日(木)
 午後6時30分 クリスマス・イブ礼拝
(キャンドルサービス)
 合唱団京都エコーが参加してくださいます。

 午後10時   クリスマス深夜聖餐式
    ライアー(竪琴)による奏楽   9:55 前奏開始

☆12月25日(金)
 午前10時30分 降誕日聖餐式

☆12月27日(日)午前10時30分
 午前10時30分 降誕後第1主日聖餐式

☆2010年1月1日(金)午前10時30分
 主イエス命名の日(元旦)聖餐式

日ごとの聖句400 初めに言があった 2009/12/27〜2010/1/2

2009年12月27日(日)降誕後第1主日        ヨハネ1:1
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。

12月28日(月)福音記者使徒聖ヨハネ日       ヨハネ1:2
この言は、初めに神と共にあった。

12月29日(火)聖なる幼子の日           ヨハネ1:3
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

12月30日(水)                  ヨハネ1:4
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

12月31日(木)                  ヨハネ1:5
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

2010年1月1日(金)主イエス命名の日        ヨハネ1:6
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。

1月2日(土)                   ヨハネ1:7
彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。

「正義の宿る新しい天と地」

今日、購入したエーバハルト・ブッシュ『バルト神学入門』(新教出版社、2009)という本をぱらばらと見ていたら、こんな言葉が目に飛び込んで来ました。

「……彼の認識によれば、神の道の目標は教会ではない、そうではなくて正義の宿る新しい天と新しい地なのだから。」

こういう言葉に出会うと元気が出ます。

「正義の宿る新しい天と新しい地」が目標。そのために教会は存在する。

これはペトロの第2の手紙3:13が出典。
「正義」は新共同訳では「義」と訳されています。

イザヤ書には次のような言葉があります。
神の霊を受けた人が自分の使命を語る言葉です。

「主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。」61:1

「……シオンのゆえに嘆いている人々に
灰に代えて冠をかぶらせ
嘆きに代えて喜びの香油を
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
彼らは主が輝きを現すために植えられた
正義の樫の木と呼ばれる。
」61:3

これはイエスがご自分のこととして語られたことでした(ルカ4:16‐21)。

「新しい天と新しい地」はイザヤ書に次のように語られています。

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない。
それはだれの心にも上ることはない。」65:17


「わたしの造る新しい天と新しい地
  わたしの前に永く続くように
あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと
主は言われる。」66:22

「ベツレヘムよ、お前の中から」

ミカ5:1、3

 東の国からやってきた博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねたとき、「ユダヤのベツレヘム」がその答でした。
「彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。……』」マタイ2:5

 その預言者とはミカという人です。イエスさまの誕生より700年くらい昔の人。今日の旧約聖書日課で、ミカの預言の言葉を聞きました。預言者は救い主の誕生について何を語ったのか。それを今日、確かめたいと思います。

「エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。」ミカ5:1


 預言者がベツレヘムに向かって呼びかけます。
「エフラタのベツレヘムよ」
 エフラタはベツレヘムの古い名前。またイスラエルのユダ族の中の一つの氏族の名前です。

 預言者をとおして神が呼びかけられます。
「エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。」


 ベツレヘムは小さな村。有力な存在ではありません。ミカの時代より300年前、このベツレヘムからダビデ王が出ました。しかしそれが何でしょうか。神は小さい存在に目を留められます。小さい者が神から呼びかけられています。
「エフラタのベツレヘムよ、いと小さき者であるあなたから、イスラエルを治める者が出る。」
 
 その後、不思議な言葉が語られます。

「彼の出生(しゆつしよう)は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

 現実に世に現れるのは将来のこととしても、その出生、その始まりは古く、永遠の昔にさかのぼる。実はその方は、永遠の昔から、最初からおられたのです。
 ちょっとむつかしい話になってきたかもしれません。けれどもここから、わたしたちは聖書の深みに入って行きます。

 人間の歴史は悲しみの歴史です。このベツレヘムにも悲しい記憶があります(創世記35:16‐20)。

遠い昔、このベツレヘムに向かう道で、ひとりの女性が亡くなりました。ラケルという人です。遠い北の国から、夫ヤコブの故郷に一緒に帰るためにラクダかロバに乗って旅をしてきて、旅の途中でお産が始まりました。男の子を産んで、そして自分は息を引き取りました。亡くなる前、ラケルは残していく子を「ベン・オニ」(わが悲しみの子)と呼びました。ラケルはベツレヘムに向かう道の傍らに葬られました。ベツレヘムは悲しみの記憶の刻まれた町です。

 その悲しみはだれも拭うことはできません。けれども、ミカは不思議な言葉を伝えます。

「エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

 ベツレヘムから出る方、将来ベツレヘムから現れる方は、遠い昔、永遠の昔にさかのぼって、あらゆる人の悲しみを包み込みます。ラケルの悲しみも、その方は包み込みます。

 アダム、エバから始まった人類の歩みが悲しみと過ちの連続であったとしたら、その悲しみと過ちを、その方は全部最初から引き受けてくださる。その方は永遠の昔、人類の最初にさかのぼってそれを引き受けて、最初からすべてを更新してしまう。

 過去は取り返しがつかない。不幸な過去があるためにどうやってもそこから脱出することができないとわたしたちは思います。けれどもその方は、その過去を全部引き受けて、わたしたちの生涯の最初から、人類の歴史の始まりから新しくしてしまわれる。人類が、人が、わたしたちが、新しく生き直せるように、新しく道を通し直されるのです。
 
 3節を見ましょう。

「彼は立って、群れを養う
主の力、神である主の御名の威厳をもって。
彼らは安らかに住まう。
今や、彼は大いなる者となり
その力が地の果てに及ぶからだ。」


 その方はわたしたちのために立たれます。わたしたちを救うために立ち上がられます。その方はわたしたちを養ってくださいます。その方のもとでわたしたちは安心を、平和を与えられ、その方の力のもとに保たれ、慰められ、励ましを受けます。その方の力の中に、その方の圧倒的な影響力のもとに囲まれ、生かされます。
 これがベツレヘムから出られる方、イエス・キリストです。イエス・キリストは最初からおられた。
 「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ1:1)と言われているとおりです。

 この方は、永遠の昔にさかのぼって、人類の過去すべてを、わたしたちの過去すべてを、わたしの過去すべてを引き受けて、自分の中に飲み込んでしまわれる。そして最初にさかのぼって、新しい道を、人類のために、わたしたちのために、わたしのために通されるのです。

「エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

 ミカがこの預言をしたとき、おそらく彼はまだその意味を十分には知りませんでした。けれどもこの預言のとおりに、ベツレヘムで生涯を始められた方、イエスは、わたしたちの生涯を引き受け、ご自身の命を差し出してわたしたちを養ってくださるのです。

 イエスさまは飼い葉桶の中に寝ておられました。飼い葉桶とは家畜のえさを入れる桶です。その中のものを食べて家畜は命を養います。飼い葉桶の中のイエスさま。
「わたしの愛を受けて、わたしの命を受けて、生きなさい。」
 イエスは、ご自身の命をわたしたちのために差し出していてくださいます。

 ベツレヘムとは「パンの家」という意味だそうです。パンによってわたしたちは生きる。イエスはわたしたちのために、ご自分をパンとして差し出してくださる。ベツレヘムに生まれたイエスさまの命がわたしたちを養う。この方がわたしたちの人生の道を更新し、新しく据え直してくださるのです。

 ベツレヘムにお生まれになった主イエスさま、あなたはわたしたちの悲しみと失意と過ちの中においでになりました。あなたは永遠の昔にさかのぼって、わたしたちの悲しみと過ちと労苦を引き受けて、わたしたちのために新しい人生の道を開いてくださいます。

 ベツレヘムに来られたイエスさま、わたしたちは弱っています。わたしたちの命のパンとなってわたしたちを養ってください。あなたの力でわたしたちを保ってください。あなたの愛でわたしたちを包んでいてください。
 このクリスマスを繰り返しのクリスマスに終わらせないでください。このクリスマスを、あなたが用意してくださる新しい人生の道の始まりとしてください。
 ベツレヘムに来られた神の御子、あなたをほめたたえます。アーメン

(2009/12/20 京都聖三一教会)

ベツレヘムの人びと

12月17日、18日、教会と幼稚園で「ベツレヘム」についてお話しする機会がありました。

イエスさまがお生まれになったベツレヘムは、それまでにどのような歴史を経てきたか。ベツレヘムを旧約聖書から探ったものです。

レジュメのみですが、掲載します。

1. ラケル
「ラケルは死んで、エフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた。」創世記35:19(48:7も参照)。
ヤコブの妻ラケルはここで死に、葬られた。悲しみの記憶の地。エレミヤ31:15参照

2. ルツ
「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。」士師記1:1
「ある人」とはエリメレク。妻はナオミ。その息子マフロンの妻ルツはモアブの人(外国人)。ナオミに従ってベツレヘムに帰り、ボアズと結婚。その子孫からヨセフ(マリアの夫)が出る。

3. ダビデ
「従者の一人が答えた。『わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。』」サムエル記上16:18
イスラエル第2代の王(前1000〜961年在位)。ボアズのひ孫。

4. ミカの預言
「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」ミカ書5:1

5. イエス
  系図にルツ、ボアズ、ダビデ(マタイ1:5‐6)

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」マタイ2:1

「彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。……』」2:5

「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」ルカ2:4‐6

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。……』……羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」ルカ2:10、15

ベツレヘムは悲しみの記憶の地。貧しさと愛、労苦と祝福、信仰と神への待望の地である。その場所に、イエスは人間とこの世界の悲しみと労苦と待望を引き受けてお生まれになった。イエスは、わたしたちの破れ、苦しみ、罪、弱さを引き受け、わたしたちの間に新しい命を開始される。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」ヨハネ1:14

18世紀の「よい演奏」

岡田暁生『ピアニストになりたい──19世紀 もうひとつの音楽史』(春秋社、2008)に紹介されている次の3冊の内容が大変興味深い。

ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ『フルート奏法試論』1752
レオポルト・モーツァルト『ヴァイオリン教本』1756
カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ『クラヴィーア教本』1753/62

岡田氏の説明から──

クヴァンツは、自分の身の丈に合った自分なりの音楽の楽しみを見出す権利を、すべての人に認める。

クヴァンツが考えるよい演奏(演説)とは、「文法(句読点)をきちんの守り、はっきり聴き手に伝わるような明瞭な発音で、内容にふさわしい感情をもって、そして演奏される場にふさわしい声色で発音する」ということ。

エマニュエル・バッハによれば、よい演奏とは「楽想をその真の内容、情緒に即して聞かせる能力」であって、「音楽家は自分自身が感動するのでなければ聴衆を感動させることはできない。したがって彼は、聴衆の心に呼び起こそうとするすべての情緒のなかに自分もひたることがどうしても必要である。」

岡田氏の説明しているこれら三人の18世紀の演奏論は、今日に回復すべきものであると思う。

音楽は、内容を持ち、感情、心に関わる。
ただ上手な、正確な、(表面的に)美しい演奏では意味がない。

深い音楽は生きることに呼びかけてくる。
一時の感動、興奮で終わるのではなく、真実の生き方へと招かれる、動かされるような音楽に触れたい。

日ごとの聖句399 泉が湧く 2009/12/20〜26

2009年12月20日(日)降臨節第4主日      申命記 8:7‐8
主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、泉が湧き、地下水が溢れる土地、オリーブの木と蜜のある土地である。

12月21日(月)使徒聖トマス日          士師記15:19
彼はその水を飲んで元気を取り戻し、生き返った。それゆえ、その泉はエン・ハコレ(祈る者の泉)と呼ばれる。

12月22日(火)                 詩編104:10
主は泉を湧き上がらせて川とし、山々の間を流れさせられた。

12月23日(水)                  箴言5:15
「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。」

12月24日(木)                 イザヤ41:18
わたしは不毛の高原に大河を開き、谷あいの野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする。

12月25日(金)降誕日              ヨハネ4:14
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

12月26日(土)最初の殉教者聖ステパノ日     ヨエル4:18
その日が来ると、山々にはぶどう酒が滴り、もろもろの丘には乳が流れ、ユダのすべての谷には水が流れる。泉が主の神殿から湧き出て、シティムの川を潤す。

『伝記 ベートーヴェン』

明後日、12月16日はベートーヴェンの誕生日です。
1770年なので生誕239年。

ベートーヴェンの生涯を知りたくて、『伝記 ベートーヴェン』という本を読みました。

葛西英昭著、文芸社、2008年。1500円。

文字が大きくてルビが振ってあり、読みやすい本です。

モーツァルト、ハイドン、シューベルトとの出会いの箇所が印象的でした。

また特に、ベートーヴェンと彼の最初の音楽教師ネーフェとの関係が丁寧に書かれていたのをありがたく思いました。
ネーフェは、わたしにとって重要な存在であるレッシングとベートーヴェンを結ぶ人です。
  ↓
http://blog.livedoor.jp/izaya/archives/51596395.html

伝記を読んで、ひとりの人が生きて活動するために、いろんな人との出会いや支えが大切であることをあらためて感じました。

マタイ福音書におけるペテロ

1. イエスに呼ばれて弟子となった。
 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」4:19

2. カファルナウムの自宅にイエスを迎え、義母の高熱をいやしてもらった。
 8:14‐15

3. 十二使徒のひとり(筆頭)に選ばれた。10:2

4. 大風に荒れるガリラヤ湖でイエスに会い、おぼれるところを助けられた。14:28‐32

5. イエスを救い主と告白した。
 「あなたはメシア、生ける神の子です。」16:16
 「あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」16:18

6. イエスの道を妨げようとして叱責された。16:22‐23

7. 山の上でイエスの変容を見た。17:1‐5

8. 捕らえられたイエスの後からひそかについて行き、大祭司の屋敷の庭で問われて、イエスを知らない、と言った。26:58‐75

9. 復活のイエスに出会った。28:16‐20


書類を整理していたら手書きのメモが出てきたので、それを少し手直ししてみました。いつかペテロ物語を書いてみたいと思いつつ、果たしていません。

日ごとの聖句398 義の衣 2009/12/13〜19

2009年12月13日(日)降臨節第3主日       バルク書4:21
勇気を出しなさい、子らよ、神に向かって叫びなさい。そうすれば、あなたたちは圧政から、敵の手から救い出されるでしょう。

12月14日(月)                 バルク書4:27
子らよ、勇気を出し、神に向かって叫びなさい。あなたたちを連れ去った方は、あなたたちを覚えておられます。

12月15日(火)               バルク書4:28‐29
今度は十倍の熱心さで神を求めなさい。神があなたたちを救い、永遠の喜びを与えてくださいます。

12月16日(水)                 バルク書5:1
エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。

12月17日(木)                 バルク書5:2
エルサレムよ、神から与えられる義の衣を身にまとい、頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。

12月18日(金)                 バルク書5:5
高い山に立って東の方に目を向けよ。お前の子らは、神が覚えていてくださったことを喜び、聖なる者の言葉によって集められる。

12月19日(土)                 バルク書5:9
神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、喜びのうちにイスラエルを導かれる。

ライアーによる「ドイツミサ曲」プログラム

2009年12月5日(土)午後2時から、京都聖三一教会礼拝堂でシューベルト「ドイツミサ曲」全曲の演奏会(演奏はプリモール・ライアーアンサンブル)を歌詞の朗読とともに行いました。

プリモールのクリスマス2009
――――ライアーの祈り

フランツ・シューベルト「ドイツミサ曲」

D 872(1827 年作曲)

第 1 部
第1 曲 序唱(なやみのときに)
第2曲 栄光(栄光、神にあれ)
第3曲 福音と信仰告白(世界のはじめに)
第4曲 奉献(ああ、主はみ言葉と)
第5曲 サンクトゥス(聖なるかな)

第2 部
第6曲 聖別(み弟子らにかこまれ)
第7曲 主の祈り(主のみいつのまえに)
第8曲 神の小羊 平和(主のみ言葉は)
第9曲 終曲(主はわが祈りに)

歌詞付きのプログラムは次をご覧ください。

リーフレットはここをクリック

♪ 今日、このような喜びを(バッハ)

バッハの教会カンタータ第110番の最後の曲コラールはわたしの最愛の曲のひとつです。

このカンタータは「降誕第1日」と指定されているので、降誕日12月25日の礼拝のための音楽でしょう。

この第110番、数年前にコンサートで聞き、それ以来大切な曲になっています。

Alleluja! Alleluja! Gelobt sei Gott,
Singen wir all' aus unsers Herzens Grunde.
Denn Gott hat heut' gemacht solch' Freud',
Die wir vergessen soll'n zu keiner Stunde.


(直訳)
アレルヤ! アレルヤ! 神がほめたたえられますように。
私たちは皆、私たちの心の底から歌う。
なぜなら神は今日、このような喜びを与えてくださったから。
私たちはそれをどんな時にも忘れまい。


クリスマスの喜びを歌いますが、長調ではなく短調です。
喜びの底に悲しみがあります。降誕の主イエスさまは受難を目指して来られたことを感じます。

苦難と悲しみが引き受けられているがゆえに、喜びが深いのです。

コラールはドイツ・ルター派教会の聖歌で、会衆がみんなで歌うものです。「衆賛歌」と訳されることもあります。

この歌詞はG.C.レームスという人のものだそうです。

♪ きよしこの夜 ♪

1 きよしこのよる 星はひかり
  すくいのみ子は まぶねの中に
 ねむりたもう いとやすく

2 きよしこのよる み告げうけし
  まきびとたちは み子の御前に
  ぬかずきぬ かしこみて

3 きよしこのよる み子の笑みに
  めぐみのみ代の あしたのひかり
  かがやけり ほがらかに

「きよしこのよる」聖公会聖歌第74番 讃美歌 109番

クリスマスの歌としてもっとも知られた曲で、幼稚園でも歌います。
けれども後半になると意味が意外にむつかしい。

それで試みに今の言葉にしてみました。

1 清らかな(聖なる)この夜、星は光り、救い主である神のみ子は
  飼い葉桶の中に眠っておられます。とても安らかに。

2 清らかな(聖なる)この夜、天使のみ告げを受けた羊飼たちは
  み子の前に深く頭を垂れて礼拝しました。

3 清らかな(聖なる)この夜、神の子イエス様のほほえみの中に
  神の恵みが人々に注がれる新しい時代の夜明けの光が輝いています。
  明るく晴れ晴れと。

この歌は、祈りの気持ちで静かに心をこめて歌いたいものです。

日ごとの聖句397 光を放つ 2009/12/6〜12

2009年12月6日(日)降臨節第2主日        バルク書3:9
聞け、イスラエルよ、命をもたらす戒めを。耳を傾けて、悟りを得よ。

12月7日(月)                 バルク書2:35
わたしはお前たちと永遠の契約を結び、わたしはお前たちの神となり、お前たちはわたしの民となる。

12月8日(火)                 バルク書3:14
学べ、どこに悟りがあるかを。またどこに力と知識があるかを。そして知れ、どこに命があり、どこに目の輝きと平和があるかを。

12月9日(水)               バルク書3:33‐34
その方が光を放つと、光は走り、ひと声命ずると、光はおののいて従う。星はおのおの持ち場で喜びにあふれて輝く。

12月10日(木)                 バルク書3:35
その方が命ずると、星は「ここにいます」と答え、喜々として、自分の造り主のために光を放つ。

12月11日(金)              バルク書3:38、4:2
知恵は地上に現れ、人々の中に住んだ。ヤコブよ、立ち帰ってこれをつかみ、知恵の光に目を注ぎ、その輝きに向かって歩め。

12月12日(土)                 バルク書4:4
イスラエルよ、わたしたちは幸いだ。神の御心に適うことを知っているのだから。

中庸(2)

「中庸」という言葉を意識しているが、新約聖書のパウロの言葉に適切なものがある。

コリントの信徒への手紙二 4:6

「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。」
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