Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2010年01月

日ごとの聖句405 あなたの救いを 2010/1/31〜2/6

2010年1月31日(日)顕現後第4主日          ルカ2:22
モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。

2月1日(月)                    ルカ2:25
エルサレムにシメオンという人がいた。この人は、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。

2月2日(火)被献日               ルカ2:28‐29
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」

2月3日(水)                  ルカ2:30‐31
「主よ、今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

2月4日(木)                  ルカ2:31‐32
「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

2月5日(金)                    ルカ2:34
シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められています。」

2月6日(土)                    ルカ2:38
アンナはそのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

ニコライ・レーリヒ

友人から教えてもらったのですが、ニコライ・レーリヒ(1874〜1947)という人の絵がすばらしいです。ドイツ系ロシア人画家。

ストラヴィンスキーの《春の祭典》の着想・構想・舞台デザインに関わった美術家として有名な人だとか。

次のサイトで絵を見ることができます。

http://www.roerich.ru/main.php?id=46&s=title&d=&l=eng

旧約聖書続編・バルク書について (1)

2010/01/21

1. 旧約聖書続編について
新共同訳序文から

2. 旧約聖書続編に関する聖公会の立場
(英国教会宗教条項、通称「三十九箇条」1563)

「私たちは、教会は(ヒエロニムスが述べているように)次の諸書を生活上の模範と道徳上の教訓のために読むが、それらを根拠としてどのような教義をも定めることはしない。」
*ヒエロニムス──340頃〜420。聖書のラテン語訳「ウルガタ」の翻訳者として知られる。

3. バルクという人
ネリヤの子(エレ36:4ほか)。預言者エレミヤの協力者。20年あまりエレミヤと労苦を共にし,その活動を助けた。

エレミヤはしばしば活動を禁止され、自ら動けない状況を強いられたが、バルクはエレミヤの言葉を口述筆記し、それを人々の間で読み上げた。こうして神の言葉はその時代の人々にもたらされたばかりではなく、今日の私たちにも伝えられることになった。

○エレミヤ書第36章

4. バルク書
旧約聖書外典、カトリックでは第二正典とされている。
ネリヤの子バルクが、バビロンで、捕囚の民を励ますために記したもの(1:1)とされる。

BC628 エレミヤの召命
  622 ヨシヤ王、宗教改革を始める
  597 バビロニア、エルサレムを占領(第1回捕囚)
  593 エゼキエルの召命
  587 バビロニア、エルサレムを破壊、ユダ王国滅亡(第2回捕囚)
  538 ペルシアのクロス王、捕囚の民の帰還および神殿再建を許可

(「旧約聖書続編・バルク書を読む会」のレジュメに手を加えたものです。)

日ごとの聖句404 パウロの言葉3 2010/1/24〜30

2010年1月24日(日)顕現後第3主日       使徒言行録9:3
ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。

1月25日(月)使徒聖パウロ回心日      コリント? 10:13
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

1月26日(火)              コリント? 12:4、7
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。一人一人に"霊"の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

1月27日(水)               コリント? 13:2
たとえあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

1月28日(木)              コリント? 13:4‐5
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

1月29日(金)              コリント?13:8‐9
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

1月30日(土)              コリント? 13:13
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

怒りと悲しみのイエス

マルコ3:1‐6

 ここは2000年前のカファルナウムの町。パレスチナ、イスラエルにあるガリラヤ湖のほとりの町です。今日は土曜日で、礼拝が行われる日です。会堂にはたくさんの人が集まってきています。イエスが会堂に入られると、そこに片手の萎えた人がいました。その人も礼拝に来たのです。

 習慣として礼拝に来ているのではないことがその人の表情や様子から窺われます。この人は救いを求めています。神を求めているのです。

 ただ単に肉体的に片手の機能が失われているということではありません。この人の人生の苦労が、その動かない手に象徴されています。どんなに苦しみを重ねてきたか、今もどんなに辛い中にあるか──それをイエスは見ただけで深く感じました。こわばった体、窒息しそうな心を抱えて、ここにやってきています。けれども、ファリサイ派主導の礼拝は、神の掟を、規則を、「こうしなければならない」という戒めと教訓を説くばかりで、いよいよこの人をこわばらせ、命を枯渇させています。イエスの中に、耐えがたい思いが起こってきました。

 そのイエスを遠巻きにして見つめている一群の人々がいます。イエスが何をするかを窺っている人々です。イエスを憎んでいます。イエスが民衆の心をつかみつつあることが許せません。今が格好のチャンスかもしれません。もしイエスが、この手の萎えた人を癒すなら、安息日の掟を破って神の命令に背いた者として処罰できるはずです。今日は安息日であって、働いてはならず、病気を治療することも許されない日なのですから。

 聖書本文を読んでみましょう。

「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」マルコ3:1‐2

 「注目していた」というのは、興味本位で見ていたというのではありません。「イエスを訴えようと思って」、悪意をもって、イエスを陥れようとして、様子を窺っているのです。

 イエスはその人の負っている苦しみと重荷を見て、心が激しく動いています。けれども人々は、その人のことなどはどうでもよくて、ただイエスが安息日の決まりを守るか、破るか、に注目しています。なんという冷たい心でしょう。

 しかしあぶない。ここは静かに立ち去ったほうがよい。悪意を持った人々の罠にわざわざかかる必要はない。また別の日にこの人と出会うこともきっとあるでしょう。イエスよ、自分を危険にさらしてはいけない! 何を言わず何もせずに立ち去ろう──これがイエスのことを心配する人たちの思いです。

 「真ん中に立ちなさい」とイエスはその手の萎えた人に言われました。

 これまでずっと、この人は世の中でも、礼拝する会堂でも、片隅に置かれてきたのではないでしょうか。自分でも自分を小さくして、身を固くしてちぢこまるようにしてきたのではないでしょうか。しかしイエスはこの人を真ん中に呼び出されました。あなたこそが神の愛を受ける人です。あなたこそが、自分の人生の主人公として生きるべき人なのです。

 「(真ん中に)立ちなさい」。「立つ」と訳された言葉(ギリシア語「エゲイロー」)には、「目覚めさせる」「起き上がらせる」「本来の良い状態へと回復させる」「復活させる」という意味があります。

 神があなたを造り、命を与え、祝福された本来のあなたを取り戻そう。価値あるあなた、尊いかけがえのない存在として、世界の真ん中に立って、神の愛の光を浴びるのはあなたなのです。

 その人はイエスに呼ばれて真ん中に出てきて、イエスの前に立ちました。この人にはこれまで経験したことのないような気持ちが起こっています。息が詰まっていたのが、息を吹き返し始めています。

 しかし、イエスは人々の冷たい視線を感じます。取り巻く人々の何という空気でしょう。(この人は安息日の掟を破ろうとしている!)という非難、憎しみ、憤りが渦巻いています。人を生かさない心と空気。これが人を窒息させ、人を殺してしまうのです。

「そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。」3:4

 神は、人を休ませるために、人が息を吹き返すために、命を回復させるために安息日を定められたのです。それなのにこの人々は、安息日の掟を盾にして、人を窒息させようとしている。

 「彼らは黙っていた。」

 ものすごいかたくなさです。イエスの言うことは本来的に正しいから反論はしない。しかし考えを変える気はないから押し黙っています。

 イエスの中に感情が湧き溢れてきます。

「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。」3:5

 ここにイエスの憤りがはっきり書いてあります。
 イエスは愛の人であると一般に理解されています。それは間違ってはいません。けれども、イエスはいつも優しいわけではない。いつも穏やかであるわけではない。人々の冷酷、無慈悲、世の中の理不尽に対して、絶対に許すことができないという怒りがイエスを捕らえるのです。

 「イエスは怒って人々を見回し」た。
 同時にイエスには悲しみが溢れてきます。何というかたくなさ。あなたがたも神が愛して造り、祝福された存在ではないか。それがどうしてそのようにかたくなになってしまうのか。

 イエスの怒りとイエスの悲しみは、同じところから発しています。それは、人を、人の命を、魂を愛するイエスの愛から来るのです。

 人の命を抑えつけ、押しつぶす力への怒りと、そのような状態に陥りながらその自分がわからない人々のありようへの悲しみが、同時にイエスの中に湧き起こっています。

「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」3:5

 イエスに呼びかけられ、求められ、引き出されてこの人は手を伸ばしました。イエスは手を伸ばしてその人の手を取られました。

 この人の手は回復しました。同時にこの人の存在も回復しました。この人の魂は息を吹き返しました。

 その手の萎えた人とは、わたしです。あなたです。わたしたちのことです。イエスはわたしたちを呼び、「真ん中に立ちなさい」と言われます。わたしたちを真ん中に立たせて、「手を伸ばしなさい」と言われます。ちぢこまったわたしの手をイエスが取ってくださる。わたしも手を伸ばして、わたしにも解放が起こります。わたしの魂も吹き返し、新しく生き始めます。わたしの手は、よい働きをするでしょう。

 その後はどうなったでしょう。

「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」3:6

 彼らの計画はやがて実を結びます。2〜3年後にイエスは捕らえられ、ローマ帝国への反逆罪と、神への冒涜罪に問われて、十字架にかけられます。

 けれどもイエスは、この人々をも見捨てられませんでした。
 片手の萎えた人を愛されたイエスは、自分を死に至らせた人々をも回復させるために、涙のみではなく血をも流さなくてはなりませんでした。十字架の上で。

 祈りが起こります。

主イエスよ、わたしたちが人から、社会から抑えつけられ、あるいは自分でも自分を抑えつけて萎縮してしまうとき、わたしたちを真ん中に立たせ、回復させてください。手を伸ばすようにおっしゃってください。わたしたちの手を取ってください。
わたしたちが人に対して無関心になり、あるいは憎しみをもって人の存在を滅ぼすような方向に走るとき、わたしたちを憐れんでください。怒りと悲しみに溢れられたあなたがわたしたちをとらえて、回復させてください。アーメン

(2010/01/13 同志社大学京田辺チャペルアワー)

日ごとの聖句403 主は堅固な支え 2010/1/17〜23

2010年1月17日(日)顕現後第2主日         シラ書13:14
眠りから目を覚ませ。生涯、主を愛せよ。主に呼びかけて、救いを求めよ。

1月18日(月)                 シラ書3:17、19
子よ、何事をなすにも柔和であれ。そうすれば、施しをする人にもまして愛される。神の奥義は柔和な人に現される。

1月19日(火)                   シラ書4:28
真理のためには、命がけで戦え。主なる神も、お前に味方して戦ってくださる。

1月20日(水)                  シラ書17:21
主は情け深く、お造りになったすべてのものをみそなわし、見捨てたり、見殺しにしたりはせず、大切に慈しまれる。

1月21日(木)                  シラ書17:22
人の親切を、主は、御自分の瞳のように大事にされる。主は、御自分の息子や娘たちに、悔い改めの心を分かち与えられる。

1月22日(金)                 シラ書34:14-15
主を畏れる人の霊は生き永らえる。自分を救ってくださる方に、信頼しているから。

1月23日(土)                シラ書34:17、19
主を畏れる人の魂は幸いである。主の目は、主を愛する者の上に注がれている。主は、力強い盾、堅固な支え。

羊飼いの焚き火

ルカ2:8‐20

 ベツレヘム郊外で野宿していた羊飼いたちは、焚き火にあたりながら話をしていました。遠い昔から伝わる先祖たちの話です。

 燃える焚き火を見ながら、火のことが話題に出ます。

「わしらイスラエルのそもそもの始まりはアブラハムだ。アブラハムも羊飼いだった。アブラハムはこのベツレヘムから南のほう、ヘブロンに暮らしていたとき、ずっとつらいことが多くてとても苦しんでいたそうだ。神のお告げがあって、羊と牛を神に献げて、それから二つに切り裂いて、向かい合わせにして置いたと。ひどく疲れてアブラハムは眠ってしまったそうだ。日が沈んで、恐ろしい暗闇になったとき、突然、燃えるたいまつが現れた。そのたいまつは、二つに分けておいた動物の間を通って行った。その時に、アブラハムははっきりと神さまが生きておられることがわかった、と。」

 別の羊飼いが言います。

「わしらの先祖のモーセも羊飼いだった。モーセが羊の群れを連れて、シナイ山に登ったとき、燃えている柴を見た、と。いつまでもそれが消えないので、不思議に思って近づいてみると、『モーセよ、モーセよ』と呼ぶ声がして、それが神の声だった。それがわしらの祖先のエジプト脱出の始まりだった。」

 モーセの話が続きます。

 しばらくして別の羊飼いが言いました。

「ダビデ王も元は羊飼いだった。このベツレヘムに家があって、羊の群れの世話をしていたとき──ひょっとしたら、この野原かもしれんぞ──その時に使いが来て、『預言者のサムエル様が呼んでおられるから、すぐに帰って来るように』と。ダビデはサムエルから油を注がれて、イスラエルの王様になった。」

 するとだれかがダビデの作ったという詩編を歌い始めました。

「主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ」詩編23:1

 羊飼いたちは一緒に歌います。

主はわが飼い主 われは羊
み恵みによりて すべて足れり
緑の牧場に われを伏させ
憩いの水辺に 伴いたもう
主はわが魂 生きかえらせ
正しき道へと 導きたもう
死の陰の谷を 行くときにも
わざわい恐れじ 主ともにます
……(聖歌461)

 苦労があるけれど、主がおられるから大丈夫。心配が多いけれど、神が導いてくださる。
けれどもいつ、救い主は来られるのか……。

 そうして夜は更けていきました。寒い冬の野原。焚き火が暖かです。火の周りに身を寄せて、かろうじて寒さをしのいでいます。

「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」ルカ2:9‐16


 飼い葉桶の中のイエスを囲んだとき、深く深く暖かでした。イエスさまが焚き火のようになって、わたしたちを暖かくしてくださいます。どんなに心が冷えて、生きていることが危うくても、イエスさまの中に燃える火が、わたしたちを暖めます。イエスさまの傍らにいるかぎりは、大丈夫。凍えて死ぬことはありません。イエスの愛の火が、わたしたちのうちに燃えて、それが永遠にわたしの中に燃え続けて、わたしたちを励まし続けます。

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」ルカ2:20

(2009/12/25 京都聖三一教会)

日ごとの聖句402 主を畏れる 2010/1/10〜16

2010年1月10日(日)顕現後第1主日・主イエス洗礼の日
シラ書1:1、5
すべての知恵は、主から来る。主と共に永遠に存在する。
知恵の泉は、いと高き所にいます神の言葉。

1月11日(月)                   シラ書1:10
主は、すべての人々に分に応じて知恵を与え、主を愛する者には惜しみなくそれを与えられた。主を愛することこそ、輝かしい知恵。

1月12日(火)                 シラ書1:11‐12
主を畏れることは、誉れと誇り、幸せと喜びの冠である。
主を畏れることは、心を楽しませ、喜びと、幸福をもたらす。

1月13日(水)                  シラ書1:18
主を畏れることは、知恵の冠。平和の花を咲かせ、健康を保たせる。主への畏敬と知恵こそは、平和をもたらす神の賜物。

1月14日(木)                   シラ書2:6
主を信頼せよ。そうすれば必ず助けてくださる。お前の歩む道を一筋にして、主に望みを置け。

1月15日(金)                   シラ書2:9
主を畏れる人たちよ、主が賜るすばらしいこと、すなわち、永遠の喜びと憐れみを待ち望め。

1月16日(土)                   シラ書2:18
「わたしたちは、自分を、人の手にではなく、主の御手にゆだねます。主の憐れみは、その尊厳と同じく、偉大なのですから。」

わたしたちの救いのためのイエス

ルカ2:21

「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。」ルカ2:21

 今日、1月1日は主イエスの誕生から8日目です。この日、かつて天使ガブリエルがマリアに告げたとおりに、幼子はイエスと名付けられました。

 私たちの名前に意味があるように、「イエス」という名前にも意味があります。私たちの名前に、それを名付けた人の願いが込められているように、イエスの名前にも願いが込められています。だれの願いでしょうか。それは神の願いであり、同時に人の願いです。

 イエスとは「主は救い」という意味です。言い換えると、「神は救う」という意味です。
 人は救われなくてはならない。この世界は救われなくてはならない。それを願い、実行しようとされる神の意志がこの名に込められています。この世界を何とかしてほしい、わたしを救ってほしい、という人の願いがこの名に込められています。

 「主は救い」「神は救う」という意味の名を付けられたイエスは、神の救いを人のところにもたらすために天から地上においでになりました。

 神の子が人となってこの地上においでになったのは、目標があります。目的があります。イエスはベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中に隠れてしまわれたのではなく、そこからやがて歩み出て、目標を探し、目的を実現しようとされます。
 その目標とはだれか。それは私たちです。私たちを目指して、イエスは来られたのです。目的は何か。私たちを救うことです。「私たち」と言ったのですが、もっと言えば、「わたし」です。

 エリコの町にザアカイという人がいました。ルカ福音書第19章に出て来る話です。ザアカイとは「清い」「正しい」という意味です。名前に反して、清くも正しくもない人でした。立場を利用し、権力をふるって私腹を肥やしていました。人々から嫌われていました。お金と社会的地位と力(能力、権力)はありましたが、孤独でした。平安がありませんでした。

 エリコの町にイエスが来られると聞きました。ザアカイはイエスに関心がありました。うわさを聞いていました。イエスは「徴税人や罪人の仲間(友)」だと(7:34)。どういうことかよくわかりません。でも一目見てみたい。

 道は人でいっぱいです。ザアカイは、これではいけないと思いました。背が低いのでこのままではイエスを見ることができない。ザアカイは「イエスを見るために、走って先回りして、いちじく桑の木に登」りました(ルカ19:4)。お金を絞り取ることには熱心であったけれど、別なことにこんなに本気になったのは初めてです。

 イエスが通りかかられます。木の上からザアカイはイエスを見つめます。イエスは木の上のザアカイを見上げられました。目と目が合いました。群衆もそれに気づいて木の上のザアカイを見つけます。恥ずかしい。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

 人々は笑った。あざけりました。しかしザアカイはうれしかった。

 イエスがザアカイの家に入り、ザアカイがイエスを自分の家に迎えたとき、変化が起こりました。孤独であったのが孤独でなくなり、喜びも平安もなかったのに喜びと平安が与えられました。自分のことしか考えなかったのに、貧しい人のことを考えるようになりました。自分の財産の半分を差し出すと、自分から決意してそう言いました。
 イエスは言われました。

「今日、救いがこの家を訪れた。」ルカ19:9

 救いがこの家に来た。このザアカイに主の救いが実現しました。このときイエスはザアカイを目指して来られたのです。「主は救い」というイエスの名前が、その目的が、ここで彼において実現しました。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」19:10

 この年の初めの願いは、このザアカイの中に、わたしたち自身を、このわたしを見出したいということです。ザアカイの中にわたしがいる。
 正しくもなく、孤独かもしれないわたし。イエスさまはこのわたしを救うために来られたのです。
 イエスはわたしを見つめ、見出し、わたしのところに来て宿りたいと言われます。

 わたしが自分をどう思おうと、人がわたしをどのように見ていようと、イエスはわたしを大切なものとしてご覧になります。あなたはわたしの目に大切なもの。あなたは失われてはならない。
 イエスがわたしに来られ、わたしと共におられるとき、わたしはもはや孤独ではありません。イエスと喜びを共にする新しい道が始まります。

 礼拝堂聖別80周年迎えるこの新しい年に、イエスさまがこの教会の救いとなり、幼稚園の救いとなり、わたしの救いとなり、世界の救いとなってくださいますように。

(2010/01/01 京都聖三一教会)

神を深く知ることができるように

エフェソ1:17‐18

 2010年の最初の主日に、祈りを与えられます。今日の使徒書からです。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」エフェソ1:17‐18

 わたしたちの教会は京都聖三一教会。「聖三一」はHoly Trinity、父と子と聖霊の三位一体の神を教会の名前としていただいているのですが、その父と子と聖霊が今の祈りの中にありました。
 「主イエス・キリスト」「御父」「霊」。三位一体がこんなところに潜んでいます。

 パウロが祈っています。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」1:17‐18

 神が働いてくださるように、と祈っています。
 「神が」。その神とは、「わたしたちの主イエス・キリストの神」です。イエスが呼びかけて、祈っておられた神。イエスがわたしたちに示そうとされた神。イエスをとおして働いておられた神。その神が今、あなたがたに働きかけてくださるように。

 パウロは、神がどのように働いてくださることを祈っているのでしょうか。

「神があなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」。

 このようにパウロが祈るのは、それを必要としている現実があるからです。何をどうしたらいいかわからない。頭で考えてもわからず、心は落ち着かず、別のものによって引きずり回されている(エフェソ4:14)。エフェソの教会の人々はそういう状態に陥っているようで、パウロは心配でたまりません。霊が必要です。神の霊が、聖霊があなたがたの中に宿るように。聖霊が、何が大切か、どうすべきかを教えて、力づけてくださるでしょう。

「神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」

 わたしたちの心の目が開かれたら、何かが見えるのでしょうか。見えるのです。今の現実ではないけれども、やがて神が実現しようとされる現実が見えるのです。

 預言者エレミヤは目を開かれて、その現実を見ました。今日の旧約聖書です。

「見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し
地の果てから呼び集める。」エレミヤ31:8

 散らされた人々が帰ってくる。「わたしは」と言って、神が呼び集められます。

「その中には目の見えない人も、歩けない人も
身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。
彼らは泣きながら帰って来る。
わたしは彼らを慰めながら導き
流れに沿って行かせる。
彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。
わたしはイスラエルの父となり
エフライムはわたしの長子となる。」31:8‐9


 エレミヤが目を開かれて見た、神の幻です。神がいたわり、慰めながら、弱った人々を集め、連れて帰られる。
パウロが祈るわたしたちの主イエス・キリストの神とは、このような方です。

 信仰とは、神から二つの目を与えられることです。一つは現実を直視する目です。けれどもあまりに重い現実だけを見ていたら、わたしたちはつぶれてしまいます。神はもう一つの目、幻を見る目を与えてくださいます。将来の希望、幻(vision)を見る目です。今はそうではないけれど将来必ず実現する現実。その神の幻を見て、今を生きて行く力を与えられます。聖霊がそれをしてくださるのです。

 パウロが、わたしたちのためにも祈っていてくれます。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」1:17‐18

神を深く知ることは、船が錨を与えられるようなものです。波と風が激しく大揺れになっても、大丈夫です。

 パウロとともにイエスが祈っていてくださいます。

「どうか、わたしの神、天の父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」1:17‐18

 この祈りに支えられ、導かれてこの1年を過しましょう。

(2010/01/03 京都聖三一教会)

わたしたちはその栄光を見た

ヨハネ1:14

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネ1:14

 だれがその栄光を見たのでしょうか。「わたしたちは」と複数で言われています。
 その「わたしたち」の中にいる人、その「わたしたち」の第1の人、それは洗礼者ヨハネです。ヨハネはイエスがお生まれになる前から、イエスに出会い、イエスを知っていました。

 クリスマス物語の初めに、マリアとエリサベトの出会いの話があります。
 天使ガブリエルのお告げを聞いたマリアが、ユダの山里に親類のエリサベトを訪ねたとき、エリサベトのおなかの中のヨハネが喜んで踊りました。

「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。」ルカ1:41

 ヨハネは、イエスの暖かい光をすでにその時から受けて、喜びに溢れていました。ヨハネは生まれ出る前から、イエスを喜び証しする者として定められていました。

 イエスさまの誕生はベツレヘム、ユダの山地です。エリサベトの家とは遠くなかったかもしれません。ひょっとしたら、エリサベトは6ヵ月になる赤ちゃんのヨハネを連れて、ベツレヘムに訪ねて来たかもしれない、と想像してみます。

 ヨハネはイエスの光を浴びています。そのゆえに光なるイエスを証しします。光を受けることなしに、光を浴びることなしに、イエスを証しすることなどありえませんでした。この方のためには命を捨ててよいと思うほどに、恵みと真理に満ちているイエスを見ていました。その恵みと真理は、ヨハネに注がれていました。

 ヨハネはイエスの光を受けて、それを見つめ、それを証ししていました。光であるイエスを見つめるように、イエスの光を浴びて喜ぶように、ヨハネは人々に呼びかけていました。自分自身が、それがうれしかったから、それによって生かされて生きていたからです。

 彼は光そのものではなく、光を証しする存在です。けれどもヨハネは単に光を反射していただけではありません。彼自身が輝いていたのです。
 イエスさまはヨハネについて次のように言われています。

「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。」ヨハネ5:35

 ヨハネ自身が燃えて輝いていました。生きて輝き、光を放っていました。

 教会は光そのものではありません。光を受けて光を指し示していくものです。わたしたちは光そのものではなく、光を伝えていく者です。
 けれどもわたしたちは光を浴びます。すると反射するだけではなく、その光がわたしたちの中にも宿ります。暖かく熱いものが、わたしたちの中にも燃えて、光を放つようになります。

 イエスさまの光を浴びて自らも光を放つ──そのような祝福を、新しい年に、もっとはっきり、神さまがわたしたちに経験させてくださいますように。

(2009/12/27 京都聖三一教会)
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