Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2010年03月

日ごとの聖句414 復活 2010/4/4〜10

2010年4月4日(日)復活日            ペトロ一 1:3
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。

4月5日(月)復活後月曜日            ペトロ一 1:3
神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださいました。

4月6日(火)復活後火曜日            ペトロ一 1:3
神は、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望をわたしたちに与えてくださいました。

4月7日(水)復活後水曜日            ペトロ一 1:4
神はまたあなたがたを、あなたがたのために天に蓄えられている朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

4月8日(木)復活後木曜日            ペトロ一 1:5
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

4月9日(金)復活後金曜日           ペトロ一 1:6‐7
今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明されます。

4月10日(土)復活後土曜日            ペトロ一 1:7
あなたがたの信仰は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

『フルトヴェングラー』 混沌と形象

『フルトヴェングラー』の項に「混沌と形象」を追記しました。

ベートーヴェン第7番

脇 圭平・芦津丈夫著『フルトヴェングラー』(岩波新書)の中に、ベートーヴェンの交響曲第7番、1943年のベルリンフィルを指揮したのが非常に良いと書いてあったので、何日か前探しに行った。

結局見つからず、1950年1月(わたしの誕生年月)にフルトヴェングラーがウィーンフィルを振ったものがあったので買ってきた。

ちゃんと聞く時間がなく、仕事しながら聞いたのだが、第2楽章がすばらしい。
美しく、生きた力のある演奏。

ベートーヴェンはほんとうにすごいと思う。

この曲は学生時代に友人から吹き込まれた曲である。

第7番は「舞踏の聖化」「リズムの権化」と評される、熱狂的なリズムの曲であるが、その中にあって2楽章はゆったり堂々と流れる。その中になつかしいものがこみ上げそうになる。

音楽の中には魂の故郷を感じさせるものがある。
ベートーヴェンのピアノソナタにもシューベルトの即興曲にもそれを感じることがある。


クランマーの「自由な霊」

この1週間はクランマー(英国教会第69代カンタベリー大主教)のことを何度か思いつつ過した。

http://blog.livedoor.jp/izaya/archives/51650184.html

クランマーの「儀式について」(1549年)という文章を読んで印象に残った。

「モーセの律法とは違って、キリストの福音は儀式的な律法ではない。われわれは、表象やかげにしばられてではなく、自由な霊による神礼拝である儀式、礼儀正しい秩序と敬虔な規律を維持する儀式、あるいは人に教えるための顕著で特別な表示によって神への義務を人間の暗い心に思い起こさせるような儀式に満足すべきである。」

クランマーは、従来の儀式(礼拝の仕方)を一切変えても減らしてもならないとする保守派、反対にすべての儀式をなくそうとする急進派の両方に対して、このように自分の考えを述べた。

「自由な霊による神礼拝である儀式」

これが今日でも大切だと思う。

「自由な霊」という言葉を用いて礼拝と儀式を理解しているのが特によい。

自分が司式する礼拝(聖餐式、結婚式、葬送式その他)はそのようなものでありたいと思う。

日ごとの聖句413日 苦難のとき 2010/3/28〜4/3

2010年3月28日(日)復活前主日            詩編32:7
あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって、わたしを囲んでくださる方。

3月29日(月)復活前月曜日              詩編46:2
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

3月30日(火)復活前火曜日             イザヤ25:4
まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる。

3月31日(水)復活前水曜日             イザヤ33:2
主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください。

4月1日(木)聖木曜日               イザヤ63:9
主は彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救ってくださった。

4月2日(金)聖金曜日(受苦日)          イザヤ63:9
主は彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。

4月3日(土)聖土曜日                詩編138:7
わたしが苦難の中を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。

『フルトヴェングラー』

脇 圭平・芦津丈夫著『フルトヴェングラー』岩波新書、1984、700円

ドイツの指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)についての大変興味深い本。


『フルトヴェングラーの手記』から、演奏について次のような言葉が引用されている。とても大事なことと思う。

「演奏者は、まず個々のフレーズを全体として把握し表現しなければならない。ついでフレーズを含む旋律を、さらには旋律をその一部分とする作品を全体として把握し表現すべきである。個別の要求が全体と、全体の要求が個別と互いに一致するとき、その全体は調和を保つ。必要なのは、個別と全体が生きた感情を通していることである。」

「真に交響楽的な作品、一つの絶対音楽は海のようなものである。それは大きな波で、その上には小さな波があり、そのまた上に一段と小さな波がある。われわれの目にまず映り、大半の人々が生涯もっぱら見ているものは、最も小さな波である。しかし正しい演奏には、最も大きな波を把握することが同じほど、いな何にもまして必要である。」

本の第3部は上記の二人と政治学者・丸山真男の三人によるフルトヴェングラーをめぐる座談会。
音楽そのものについても、音楽と政治とのからまりについても、啓発されるところが多い。続きを読む

信仰の継承──トマス・クランマーの殉教の日に

「どうかご自身を神にささげられたキリストの血によって、わたしたちの良心を死に至る行いから清め、あなたに仕えさせてください。」大斎節第5主日特祷から

 昨夜は春の嵐でした。わたしは夜11時頃礼拝堂に行き、ひとりの人のことを思っていました。その人は3月20日、生涯で最後の夜を過したのです。

 今日3月21日は、16世紀、聖公会の基礎を築いた中心人物というべきトマス・クランマーの殉教の日です。彼は、第69代カンタベリー大主教として英国の宗教改革を推進しました。クランマーの働きと死があって、聖公会の信仰はわたしたちのところまで継承されてきました。彼について三つのことをお話ししたいと思います。

1. トマス・クランマーは祈祷書を編集し、発行しました(1549、1552)。それまでの礼拝はラテン語で行われており、一般の人には何が語られ祈られているのか理解することができませんでした。礼拝は、それぞれがわかる言葉で、まごころからささげるはずのものだ。彼が編集した英語の祈祷書によって、一部の聖職者だけではなく、一般の信徒が身近に祈りの書を用いて信仰生活を深めて行けるようになりました。祈祷書にはおびただしい聖書の言葉がちりばめられており、人々は祈祷書によって聖書の言葉に触れることができるようになったのです。祈祷書の制定にひとつの結実を見るイングランドの宗教改革は、ヘンリー8世、そして特にエドワード6世の時期に進められたものです。

2. しかし1553年、エドワードの死後、彼の姉にあたるメアリーが女王に即位すると、彼女は宗教改革路線を否定し、カトリック復帰を進め、改革者を迫害しました。クランマーは聖職位を剥奪され(Degradation)、彼が進めた改革路線が誤りであったことを認めるように迫られました。彼は脅迫に屈して、自分がこれまで進めてきた道が誤りであったとする転向声明文を書いて署名し、赦しを求めました。しかし彼は赦されず、火刑に処せられることが決定されました。
 亡くなる前の日、彼は召し使いの少女にコインを渡してこう頼んだそうです。「わたしのために祈ってほしい。悪い司祭の祈りよりも、善き信徒の祈りのほうが大切だとわたしは思う」。

3.1556年3月21日、今から454年前の今日、衆人環視の中で彼を火刑にする儀式が行われました。クランマーの大罪を弾劾する説教が行わました。クランマーは自分の重い罪を認め、刑に服する言葉を述べるはずでした。彼は自分の誤りを認める言葉を述べていましたが、突然予定されていなかったことを語り始めました。自分は死の恐怖のために、自分の良心に反してカトリックへの転向声明文を書いたのだと。怒号と興奮の中で彼は語りつづけました。彼は鎖で柱に縛り付けられ、火が付けられました。

 彼は燃える火の真ん中に自分の右手を突っ込んで、叫びました。「恥ずべき右手、この手が罪を犯した」。それをずっと繰り返しました。そして最後は、あのステパノと同じように、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(使徒言行録7:59)と祈り、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(7:56)と言いつつ、死んでいったといわれます。

 焼かれて灰となった彼の身体の中で、心臓だけは焼けていなかったと伝えられます。心臓はハートです。彼を滅ぼそうとした火も、彼の魂を滅ぼすことはできなかったのです。

 トマス・クランマーを記憶し、その信仰を継承したいと思います。三つのことを呼びかけたい。

 第一に、祈祷書を大切しましょう。わたしたちの祈祷書は、クランマーの祈祷書が元になり、改訂が重ねられて作られたものです。祈祷書には、だれもがよく祈り、神を知り、信仰を深めることができるようにと願ったクランマーの切なる願いがこめられています。祈祷書を活用して自分の信仰の養いとすること、一緒に祈ることを大切にすること。クランマーが人々の信仰の成長を願い、その助けとなろうとしたように、わたしたちも他の人の信仰の助けとなることができますように。

 第二に、悔い改めて真実に神に立ち返りましょう。クランマーは信念を貫徹した殉教者というのではなく、恐れ、迷い、転向を誓うなど、人としての弱さを持った人間でした。けれども彼の良心はうずいて、最後に真実を叫んで死んでいきました。わたしたちも弱く、過ちを重ねるかもしれません。けれども良心の痛む者でありたいと思います。そしてほんとうに大切なときに、はっきりと信仰を表わすことができますように。

 第三に、決意して主を呼びましょう。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と、ステパノが殉教したときの祈りをクランマーも祈りました。わたしの霊は主のもの。主イエスは呼び求めるわたしたちを放置なさいません。わたしの心を、わたしの魂をご自身のものとして引き受けてくださいます。

(2010/03/21 京都聖ステパノ教会)

ごとの聖句412 詩編の祈り 2010/3/21〜27 (註釈付)

2010年3月21日(日)大斎節第5主日          詩編39:13
主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしは御(み)もとに身を寄せる者、先祖と同じ宿り人。

3月22日(月)                  詩編63:3、5
今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。

3月23日(火)                  詩編63:7‐8
床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。あなたは必ずわたしを助けてくださいます。

3月24日(水)聖マリヤへのみ告げの日        詩編66:20
神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれませんでした。

3月25日(木)                   詩編69:14
あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに、わたしに答えて確かな救いをお与えください。

3月26日(金)                   詩編102:18
主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした。
3月27日(土)                   詩編141:2
わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください。

さまざまな祈り

今週の聖書の言葉から、祈りについて思いを深めてみましょう。
祈りの中にはどのようなものが含まれるでしょうか。
「 」はここに見られる例です。

1. 呼びかけ 「主よ」

2. 願い 「耳を傾けてください」

3. 賛美 「あなたをたたえ」

4. 感謝 「わたしの祈りを退けることなく」の背後には感謝があります。

5. 自分についての告白 「宿り人」

6. 神の存在、業への言及あるいは信頼の告白
「主は祈りを侮られませんでした。」

7. 動作 「手」……

8. 比喩 「立ち昇る香り」……

『グレン・グールド 孤独のアリア』

ミシェル・シュネデール著『グレン・グールド 孤独のアリア』ちくま学芸文庫、1995(千葉文夫訳)を長い中断の後に読み終えた。

カナダのピアニスト。1932〜1982。

死後、彼の部屋のベッドの傍らには、使い古された聖書と夏目漱石の『草枕』があったという。

日ごとの聖句411 ヨセフ 2010/3/14〜20

2010年3月14日(日)大斎節第4主日         創世記49:22
ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は石垣を越えて伸びる。

3月15日(月)                  創世記49:25
どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。

3月16日(火)                  申命記33:13
ヨセフのために彼は言った。主の祝福がその土地にあるように。天からは露の賜物、下は横たわる淵の賜物があるように。

3月17日(水)                 マタイ2:13‐14
主の天使がヨセフに言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げなさい。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去った。

3月18日(木)                 マタイ2:20‐21
「起きて、イスラエルの地に行きなさい。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。

3月19日(金)聖ヨセフ日               詩編80:2
イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ、御耳(おんみみ)を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください。

3月20日(土)                  ゼカリヤ10:6
わたしはユダの家に力を与え、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す。

「わたしはある」

出エジプト記3:12‐15

 神には名前があります。名前があるから、わたしたちは神の名を呼ぶことができます。もしそうでなかったら、神はわたしたちにとってあいまいなものとなり、神を呼ぶことも頼りないものとなるでしょう。神の名が神の本質を現しています。名前が、神がどのような方かを現しているのです。

 今日の旧約聖書は、イスラエルの出エジプトの旅路で、神の名(固有名詞)がモーセに示された箇所です。
 
「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』
モーセは神に尋ねた。『わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、“あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです”と言えば、彼らは、“その名は一体何か”と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。』
神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。“わたしはある”という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」出エジプト記3:12‐14

 モーセに示された神の名は「わたしはある」という名前です。「わたしはあるという者だ」。

 不思議な、また奇妙な名前です。けれどもこれこそが、神さまの本質を現しています。

「わたしはある」

 この名前は、より鮮明に簡潔に言い直されました。それは15節に「主」と訳されています。

「神は、更に続けてモーセに命じられた。『イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるがわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名。』」3:15

 「主」と一般名詞として訳されていますが、本来のヘブライ語原文は「ヤハウェ」という固有名詞です。伝えられてきたヘブライ語本文は母音が記されず、子音4文字のみが記されています。英語のアルファベットに当てはめると“YHWH”。これがモーセに示された神の名、固有名詞です。

 ところが神の名を口にすることは畏れ多いので、聖書の朗読の際、この神の名の固有名詞に代えて「アドナイ」という一般名詞で代用されました。「アドナイ」は「主」「ぬし」「あるじ」「主人」といった意味の一般名詞です。

 長い年月が過ぎるうちに、YHWHの神の名をどう発音するかがわからなくなってしまいました。これら四つの子音に母音を補ってはじめて発音ができます。

 それでeoaを補って“YeHoWHa”(エホバ)と読むとかなり長い間理解されていました。ところがその後の研究でaaeを補って“YaHaWHe”(ヤハウェ)と読むのが正しい、というのが定説になりました。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(ヤハウェ)」とわかるように訳しておいてほしかったと思います。

 モーセに示された神の名は「ヤハウェ」。「わたしはある」という意味です。

 ヤハウェ、「わたしはある」「わたしはあるという者」「ありてある者」──どういうことでしょうか。

 それはまず「絶対にある」という意味です。
 先ほどの12節で神はモーセに言われました。
「わたしは必ずあなたと共にいる。」
 「あなたの歩みと共に、あなたの人生と共に、あなたの労苦と共に、わたしは必ず一緒にいる」と神はわたしたちに対しても言われます。

 ヤハウェ、「わたしはある」の第二の意味は、「あらしめる」「新しく生み出す」「創造する」ということです。神は新しいわたしを造り出してくださる。新しいわたし(たち)の人生の歩みを、神が造り出してくださるのです。

 この名をとおして、神はご自身がどのような方であるかを、モーセに、イスラエルの民に、そしてわたしたちに現してくださいました。

 ところでヘブライ語で書かれた旧約聖書は、後に地中海世界で広く読まれるためにギリシア語に訳されました。おそよ70名の学者が翻訳に関わったので「70人訳」、LXX(セプチュアギンタ)と呼ばれます。その70人訳ギリシア語聖書で先ほどの「わたしはある」
というというところを見ると、「エゴー・エイミ(ホ オーン)」と書いてあります。

「エゴー・エイミ」。「エゴー」は「わたし」、「エイミ」は「ある」ないし「である」。“I AM”です。

 この「エゴー・エイミ」(わたしはある。I AM)が新約聖書に出てきます。イエスの言葉です。旧約聖書と新約聖書は、「エゴー・エイミ」、この神の名でつながっているのです。

 ヨハネ福音書第18章を開いてください。イエスさまがゲッセマネで祈っておられるうちに、イエスを捕らえようとして大勢の兵士たちがやって来ます。

「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」18:3‐6

 イエスは自分を捕らえに来た人々に対して、「わたしである」と言われました。これが「エゴー・エイミ」です。

 イエスが「わたしである」(あるいは「わたしはある」)と言われたとき、人々は後ずさりして地に倒れました。この言葉を発せられたイエスのうちに、神がおられます。イエスの言葉とともに神の名が発動して、悪しき力を圧倒したのです。

 もうひとつ、大切な箇所があります。今度はマルコ福音書第6章45節以下です。

 夕方、イエスさまは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸に渡るようにと送り出されました。逆風が吹き、海は荒れて一晩中弟子たちは漕ぎ悩み、生きた気がしませんでした。夜が明けること、水の上を人影が近づいて来ます。弟子たちは幽霊だと思い、恐怖で大声を上げました。そのとき、声が響きました。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」6:50

「わたしだ」。「エゴー・エイミ」です。
「わたしだ」「わたしがいる」

 何を心配する必要があるでしょうか。イエスがおられるのに。

 主、ヤハウェ。「わたしはある」という神の名が、人となって来られたのがイエスです。

 主の名によって祈ることことは何と力強いことでしょうか。
 主の名によって歩むことは何と確かな、ありがたいことでしょうか。

「わたしは必ずあなたと共にいる」出エジプト記3:12

 これはわたしたちの人生に対する神の約束です。

 祈りましょう。

 主なる神さま、あなたは「わたしはある」というご自身の名をわたしたちに示されました。その名によって、悪しき力を圧倒してください。主イエスが嵐の海で弟子たちに呼びかけられたように、わたしたちにも「わたしだ」「わたしがいる」とおっしゃってください。わたしたちはあなたの御名によって歩みます。アーメン
(2010/03/07 京都聖三一教会)

日韓聖公会神学会(1)

「日韓聖公会神学会」というのが2010年24日から27日まで、韓国の京畿道抱川市の山井湖水(サンジョンホス)というところで開かれ、参加した。

日韓双方約20名、合計約40名。
わたしは「日韓聖公会歴史断章──詩人・尹東柱を中心として」という題で発題講演を行った。

行く前に、戸田郁子『ハングルの愉快な迷宮』(講談社+α文庫)を読み、大変面白かった。

わたしは韓国に10数回行ってはいるものの、会議ないし研修旅行ばかりで生活経験がない。そのため、難しい漢字の言葉はたくさん知っているものの、食事、衣服、住まい、人間関係など、生活に関する言葉がほとんどさっぱりわからない。

たとえば、今、食べているものの詳しい説明をしてくださっても、説明の言葉がまたわからないのである。

ところでこの本の中に「モシダ」という言葉が出て来る。「仕える」「はべる」「ご案内する」「お招きする」「推戴する」といった広い意味で、相手を敬って使われる言葉である。

今回の集まりでもこの言葉を何回が聞いた。

ある韓国の若い司祭はわたしの講演を聞いた後、「イダシンプニムル(井田神父様を──わたしは韓国に行くと「イダシンブニム」になってしまう)モシゴ」尹東柱の故郷に一緒に行きたいというのである。

新約聖書の例。徴税人ザアカイの話。

ルカ福音書19:6

日本の新共同訳では
「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」

ここが韓国語の共同訳聖書を見ると
「(イエスを自分の家に)モショッタ
となっている。

話が最初から脱線気味だが、ともかく『ハングルの愉快な迷宮』には興味深い生活の言葉がたくさん生き生きと紹介されていてとても有益である。



日ごとの聖句410 新しい歌 2010/3/7〜13

2010年3月7日(日)大斎節第3主日       コリント二 4:16
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

3月8日(月)                    詩編33:3
新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

3月9日(火)                    詩編98:1
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。

3月10日(水)                    詩編98:1
新しい歌を主に向かって歌え。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。

3月11日(木)                    箴言4:18
神に従う人の道は輝き出る光。進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。

3月12日(金)                   詩編149:1
ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。

3月13日(土)                   詩編144:9
神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい、十弦の琴をもってほめ歌をうたいます。
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 『日韓キリスト教関係史資料』第3巻の編集
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奈良基督教会牧師
親愛幼稚園園長
富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
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