Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2010年04月

日ごとの聖句418 マリアの賛歌 2010/5/2〜8

  母の日を前に、イエスの母マリアの賛歌を選びました。

2010年5月2日(日)復活節第5主日           ルカ1:47
わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

5月3日(月)                   ルカ1: 1:48
神は身分の低い、この主のはしために、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。

5月4日(火)                  ルカ1:49‐50
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。

5月5日(水)                  ルカ1:51‐52
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げられます。

5月6日(木)                    ルカ1:53
主は飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。

5月7日(金)                   ルカ1:54 主はその僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。

5月8日(土)                    ルカ1:55
主がわたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

幼稚園の礼拝

今日は幼稚園全体の合同礼拝。

年少の子どもたちが礼拝堂に入るのは2回目です。

先に礼拝堂に行って準備。
窓から見えるイチョウの木が緑の枝をぐんぐん広げています。

復活のろうそくに点火し、前の右側、オルガンの前の椅子に座り、気持ちの準備。

コロイという小さな木の縦笛を取って音をそっと出してみます。
子どもたちが安心して静かな暖かい気持ちで礼拝できるように、空気をつくることが願いです。

子どもの聖歌から「夜明けの星が」「サントサント」「雨をふらす雲」を吹いている間に子どもたちが次々と階段を上って礼拝堂に入ってきます。

今日は「お祈り」についてのおはなし。
子どもたちがよくおはなしを聞いてくれるのでほんとうに感心します。

この時期は礼拝と礼拝堂の紹介を兼ねて、「礼拝堂──神さまのお部屋」「お祈り」「十字架」「聖書」「ろうそく──光」「お花」……と1週ずつ話していきます。

礼拝の中で4月のお誕生日を迎える子どもたちのために祝福の祈り。

終わると、礼拝堂入り口に立って、出て来る子どもたちと手を振ってあいさつします。

準備はおなはしと笛の準備はなかなか大変ですが、園長としての幸せを感じるひとときです。

礼拝堂はここをクリック

手になつめやしの枝を持ち

ヨハネの黙示録7:9‐17

 ローマ帝国の迫害を受けて地中海のパトモス島に閉じ込められた長老ヨハネは、ある日曜日に祈っているうちに、霊に満たされて、魂は天に引き上げられました。彼が見たのは、天上でささげられている礼拝でした。

 礼拝は地上で行なわれているだけではありません。わたしたちのささげる地上の礼拝は不十分で欠けのあるものです。けれどもわたしたちは、礼拝において天とつながっています。天で行なわれている言わば完全な礼拝と、地上でささげるわたしたちの礼拝は一つにつながっているのです。

 この聖餐式の感謝・聖別の祈りの中で、こう唱えます。

「ゆえにわたしたちは、み使いとみ使いのかしら頭および天の全会衆とともに、 主の尊いみ名をあがめ、常に主をたたえて歌います
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神……」

 天の会衆と一緒に礼拝していることをこのようにはっきりと表現します。

 さて天に引き上げられたヨハネは、こう語ります。今日の使徒書です。

「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』」ヨハネの黙示録7:9‐10

 手になつめやしの枝を持った大勢の群衆。どこかで聞いたことはないでしょうか。なつめやしは英語でPalm。Palmは「しゅろ」とも訳します。しゅろとなつめやしは親類です。

 4週間前の3月28日、復活前主日(Palm Sunday しゅろの主日)、わたしたちはこの礼拝堂でしゅろの枝の葉を手にして礼拝しました。エルサレムの群衆がイエスを歓呼して迎えたことを記念して、わたしたちもイエスさまを喜んで迎えたのです。

 ヨハネの黙示録と同じヨハネの名前の付く福音書、ヨハネによる福音書第12章にこう記されています。イエスさまのエルサレム入城の場面です。

「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』」12:12‐13

 イエスを王とし、救い主として熱狂的に迎え入れた群衆の声が、この日曜日、エルサレムにこだましました。しかしその四日後、イエスを歓迎する声は聞こえない。反対に「殺せ、殺せ、十字架につけよ」という群衆の声がエルサレムに響き渡りました。

 なつめやしの枝を持ってイエスを喜び迎えた人々はどうなったのでしょうか。
 その人たちの一部は、「十字架につけよ」と叫んでイエスを死に追いやりました。なつめやしの枝を持って歓迎したことなど覚えていません。

 けれども別の人たちがいたはずです。4日前にイエスを喜び迎えて、今もイエスを心から愛している人たちです。エルサレムの力ある人たちがイエスを捕らえて命を奪おうとするとき、この人たちは無力でした。今は心の中でなつめやしの枝を振りながら、イエスを支持しています。しかしイエスを守ることはできませんでした。悲しみと悔いが残ります。

 イエスが十字架に死んで、復活して昇天されてから数十年後、パトモスのヨハネは天に引き上げられて天上の礼拝を見つめています。なつめやしの枝を持った人々はだれなのか。数十年前の日曜日、イエスのエルサレムの入城をなつめやしの枝を持って歓呼して迎えた人たちなのか。それともまったく違う人々なのでしょうか。

 見ていると、天上の礼拝をしている指導者のひとりがヨハネに問いかけました。

「すると、長老の一人がわたしに問いかけた。『この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。』そこで、わたしが、『わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです』と答えると、長老はまた、わたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。』」7:13‐14

 彼らは大きな苦難を通って来た者たち、その衣を小羊の血で洗われた者たちだというのです。イエスを信じ、イエスを愛して迫害を受けた人たちです。イエスの受難のとき、心の中でなつめやしの枝を打ち振って、イエスを愛しつつもイエスを守ることのできなかった人たち。無力を嘆き、自分を責めていた人たちもここにいるのでしょうか。

 「わたしの羊!」というイエスの声が聞こえます。今日の福音書です。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らはけっして滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」ヨハネ10:27‐28

 イエスを愛しつつ何もできず、悲しんで自分を責めていた人々に対して、イエスは言われます。

「わたしはそのあなたがたのために死んだ。わたしがあなたがたを愛して、あなたがたのために血を流した。わたしがあなたがたを招いた。」

 天上の礼拝を見ていたヨハネは知りました。

 彼らは罪も負い目もない人たちではありません。罪も負い目もないなら小羊の血によって清めていただく必要はありません。しかし小羊イエスさまの血によって、罪も咎も責めも負い目も拭われ清められて、今は喜びにあふれてなつめやしの枝を持って礼拝をささげているのがこの人々です。その中には確かに、かつてエルサレムに入城されるイエスをなつめやしの枝を持って喜び迎えた人たちが加わっているのです。

 「彼らはその衣を小羊の血で洗って白くした」

 この人たちはただ清い人たちというのではない。世の悪と、自分の中の悪によって、闘いと葛藤の中で、ずたずたに破れ汚れてしまった人たち。しかしイエスがこの人たちを引き受けられた。彼らはイエスに頼った。イエスの血によってその衣を、自分自身を清められ、癒されたのです。

 わたしたちもあるときは無力です。イエスさまを無視したり裏切ったりするかもしれない。世の悪と自分の悪によって、闘いと葛藤の中でずたずたに破れ汚れてしまうかもしれません。しかしイエスさまの血によってわたしたちは赦され、清められて、今とこれからを生きるのです。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしはあなたがたを知っており、あなたがたはわたしに従う。わたしはあなたがたに永遠の命を与える。あなたがたはけっして滅びず、だれもあなたがたをわたしの手から奪うことはできない。」

 わたしたちも心になつめやしの枝を持ってまごころから主を礼拝し、自分と世の力を乗り越えて行きましょう。

「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」黙示録7:10

(2010/04/25 京都聖三一教会)

日ごとの聖句417 主の祈り 2010/4/25〜5/1

2010年4月25日(日)復活節第4主日       ユダの手紙1:20
愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下(もと)に祈りなさい。

4月26日(月)福音記者聖マルコ日          ユダ1:1‐2
神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

4月27日(火)                    ルカ11:1
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

4月28日(水)                    ルカ11:2
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇(あが)められますように。御国(みくに)が来ますように。』」

4月29日(木)                    ルカ11:3
「父よ、わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」

4月30日(金)                    ルカ11:4
「父よ、わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」

5月1日(土)使徒聖ピリポ・使徒聖ヤコブ日      ルカ11:4
「父よ、わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」

ティベリアス湖畔のイエス

  ヨハネ21:1‐14

 シモン・ペテロが「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちが「わたしたちも一緒に行こう」と答えました。

 場所はティベリアス湖畔。ティベリアス湖とはガリラヤ湖の別名です。この弟子たちの故郷、またイエスさまの故郷の湖です。
 一緒に行った弟子たちの名前が記されています。

「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子」ヨハネ21:2

 全部で7名です。

 一晩中苦労しました。徒労でした。その晩は1匹も魚がとれなかったのです。
 苦労してその結果が空しかったとき、体が疲れるのはもちろんですが精神的な疲労、失望が大きいものです。疲れ果てた弟子たちは、夜明けの湖の舟の中で、口をきく気力もなくへたり込んでいます。

 岸辺に人影があります。だれかはわかりません。

「子たちよ、何か食べるものがあるか」
と呼びかける声が岸の方から聞こえました。

「ありません」
と弟子たちは答えました。

「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」
 すると大量の魚が網にかかりました。

「主だ!」


 この聖書の箇所を昨夜、ギリシア語原典でいくらか詳しく読んでみました。
「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」
 これは直訳すると「岸へと立たれた」です。やって来てそこに立たれた、ということです。

 イエスはたまたまそこに立っておられたのではありません。健康のために朝の散歩をしておられたのではありません。この弟子たちを捜しに来られた。そして弟子たちを見つけて、そこに立たれたのです。

 「子たちよ」と呼びかけられます。「子たちよ」とは何か。大の大人7人に向かって「子たちよ」とは何事でしょうか。聞いた側からしたら不自然な、あるいは不快な言葉だったかもしれません。しかしイエスさまはこう呼びかけたかったのです。

 わたしが愛してきた弟子たち。わたしを愛してくれた弟子たち。わたしを信じ従って、わたしと一緒に苦労した者たち。わたしのために苦しんでくれた者たち。わたしはあなたがたをけっして失うことはできない。わたしの大切な子どもたち。

 「子たちよ」 この一語に、イエスの愛がこもっています。

 呼びかけられた舟の中の弟子たち7名のうち、5名は名前がわかっています。

 シモン・ペトロ。彼はイエスが捕らえられたとき、後からこっそりとついて行って大祭司の館の庭に入りました。「お前はイエスの仲間だろう」と問われたとき、「違う。そんな者は知らない」と言いました。最後の晩餐のときにイエスが言われたとおりに、3回もイエスを否んで、鶏が鳴くのを聞いて、泣いたのがペテロです。

 トマスとはだれか。彼は最後の晩餐のとき、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません」と言いました(ヨハネ14:5)。わからなくて不安で苦しみました。イエスの復活を信じることができず、「その手を見なければ、そのわき腹に手を入れてみなければ決して信じない」と言ったのは彼でした(20:25)。信じられなくて迷って苦しんだのがトマスです。

 ガリラヤのカナ出身のナタナエル。彼は最初フィリポからイエスのことを聞いたとき、「ナザレから何のよいものが出るか」と、あざけるようなことを言いました(ヨハネ1:46)。

 ゼベダイの子たち。ヤコブとヨハネの兄弟です。この二人は、イエスさまと一緒に旅をしてサマリアの村を通ったことがありました。そのサマリアの村人たちがイエスを迎え入れようとしなかったので二人は憤り、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ってイエスさまから叱られました(ルカ9:54)。この二人にイエスさまは「雷の子ら」というあだ名を付けておられました(マルコ3:17)。また彼らは、イエスが栄光の座に着かれるとき、イエスの右と左に座らせてほしいと願い出て、他の弟子たちの怒りを買いました(マルコ10:37)。

 ペテロもトマスもナタナエルも、ヤコブもヨハネも、恥ずかしい過去を持っています。イエスさまの弟子にふさわしくない言葉を発し、ふさわしくない振る舞いをしてきた愚かで罪深い者たちです。

 その弟子たちをイエスは捜しに来られました。「子たちよ」と呼びかけられました。愚かな子がかわいい。失敗をする弟子たちがいとおしい。

「子たちよ、何か食べるものがあるか」
 単に食べ物のあるなしを質問されたのではありません。原文の意味合いを意識して訳すとこんなふうです。「食べ物はないのか」「魚はとれなかったのではないか」。

 イエスは、知らないから質問されたのではありません。何もとれなかったに違いない。食べ物はないに違いない。疲れ果てているに違いない──そのように弟子たちのことが心配で、心が痛んで尋ねられたのです。

 その問いかけに対する弟子たちの返事は一言、「ない!」です。「ウー」というギリシア語。弟子たちはそれがイエスさまだとわかっていませんでした。

 弟子たちが岸に上がってみると、炭火が起こしてありました。冷えた体が暖かい。火の上には魚がのせてありました。パンもありました。疲れ切った空腹の弟子たちのために、イエスは朝の食事を用意して待っていてくださったのです。

「今とった魚を何匹か持って来なさい」
「さあ、朝の食事をしなさい」


 疲れた弟子たち。徒労を味わった彼ら。それはわたしたちのことではないでしょうか。恥ずかしい過去を持つ弟子たち。それはわたしたちのことではないでしょうか。にもかかわらずイエスが大切に思い、「子たちよ」と呼びかけてくださる相手。それはわたしたちのことです。

 立派でない、恥ずかしい過去を持ち、疲れ、徒労と失望を味わうわたしたち。そのわたしたちを愛して、イエスはわたしたちを捜しに来てくださり、わたしたちに呼びかけて現状を尋ねてくださり、そして「舟の右側に網を打ちなさい」となすべきことを示して促してくださいます。今朝、イエスさまはわたしたちのために火を起こし、朝の食事を用意して待っていてくださいました。それがわたしたちが共にいただく聖餐です。

 イエスさまが弟子たちを最初に呼ばれたとき、「あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と言われました(マルコ1:17)。

 わたしたちの隣人も疲れているのではないでしょうか。欠乏しているのではないでしょうか。魂は渇いているのではないでしょうか。イエスさまの愛と命によってわたしたち自身が十分に満たされますように。同時に、わたしたちだけにとどまるのではなく、わたしたちが隣人にイエスさまの愛と命を伝えていくことができますように。

(2010/04/18 京都聖ステパノ教会)

ライアーコンサート「星の呼び声〜宇宙に響く音の世界」

2010年7月1日(木)19:00
 京都市北文化会館 創造活動室

2010年7月3日(土)15:00
 比叡平 小野 音楽室

コンサートライアー演奏:小野純子

ご案内はここをクリック

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主の傷に触れたトマス

ヨハネ20:24‐29

 イエスは弟子たちのところに来てその真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、そう言って手とわき腹とをお見せになりました。弟子たちは、主を見て喜んだ、と記されています。

 その時その場にいなかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。

 それが復活日。それから1週間後、というと今日がその日ですが、もう一度イエスは弟子たちのところに来られて、「あなたがたに平和があるように」と言われました。その時はトマスも一緒にいました。イエスはトマスに言われました。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」

 イエスのその手は十字架に打たれて傷ついた手、そのわき腹は槍で突き刺されたわき腹です。

 同じヨハネ福音書は、イエスの死の後を次のように語っています。

「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」ヨハネ19:31 ‐34

「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」

 これは単に事実経過を報告しているのではなくて、ここには意味が込められています。

 血は命、清めを意味します。
 水も命、渇きを癒すものです。
 イエスの流された血と水は、わたしたちを罪から清め、渇きを癒し潤します。

 わき腹から流れ出たイエスの血と水は、流れて地に落ちました。それで消滅したのなら、イエスの血と水は空しい。けれどももし地に落ちたその血と水が、大地を清め、潤すのであれば、この世界は救われる。イエスの流された血と水は、この世界と人々を救おうとして生きて働くのです。

 ところでトマスはどういう人だったのでしょうか。トマスは、イエスと一緒に死ぬことを決意した人でした。

 同じヨハネ福音書11章に、ラザロの重い病が伝えられる場面があります。イエスの愛しておられたラザロが重篤です。しばらくしてイエスは「もう一度、ユダヤに行こう」と言われました。弟子たちは反対します。「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。
 イエスがあらためて「さあ、彼のところに行こう」と言われたとき、トマスは口を開きます。

「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」ヨハネ11:16

 大事な一語が新共同訳では訳されていません。「彼と一緒に」。
 直訳するとこんなふうです。
「わたしたちも行こう。彼と一緒に死ぬために。」

 トマスは自分のためにイエスさまを必要としていました。わたしのためのイエス。けれどもそれだけではありません。トマスはイエスのために、イエスさまと一緒に死のうとするのです。イエスのためのわたし。

 このトマスがイエスを失ったことはどれほどの打撃だったでしょうか。一時的な慰め、安易な解決は彼には耐えられなかった。イエスを失ったことは全部を失ったことでした。その痛切な思いが彼の言葉に表れています。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 1週間後、イエスは再び弟子たちのところにおいでになりました。トマスを目指して来られました。トマスに語りかけられたとき、イエスはご自分の手を示し、ご自分のわき腹を示されました。

 そのとき、トマスはイエスの傷に触れたのです。物理的にではないけれど、トマスの手は、トマスの魂は、イエスの傷に触れたのです。あのわき腹から流れ出たイエスの血と水はトマスの中に注ぎ込まれて、トマスの傷を癒し、トマスの罪を清め、愛で満たした。イエスの愛の血と水は、トマスを清め、潤しました。イエスのわき腹から流れ出た血と水は、わたしのために流されたと、トマスは知りました。

 イエスはトマスに言われます。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 このとき、信じない、解決しない、疑問と葛藤の中にもがく古いトマスは死にました。イエスを信じる新しいトマスが誕生しました。

「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」20:29

 イエスがトマスを愛しておられ、トマスはその傷に触れてその愛を知ったのに、どうしてこれを教訓のように理解する必要があるでしょうか。

 あなたは見て信じた。それはよかった。しかし今後、わたしを肉の目で見なくても、わたしの愛が、あなたのために流したわたしの血と水があなたの中に注ぎ込まれているから、あなたはわたしを見なくても大丈夫。ずっとずっと、わたしを信じていなさい。

 「見ないのに信じる人は、幸いである。」冷たい教訓の言葉ではありません。わたしたちがそれを願うなら、わたしたちにほんとうにそれが必要なら、主はご自身の姿を、ご自身の傷をわたしたちに示してくださいます。トマスは願ってそれを許されました。必要ならわたしたちもそれを願いましょう。

 トマスだけではありません。イエスのわき腹から流れ出たイエスの愛の血と水は、わたしたちのうちにも注ぎ込まれています。

 イエスはわたしたちにも言われます。

「あなたは見なくても、わたしがあなたを愛しているから、あなたのために流したわたしの血と水があなたの中に流れていてあなたの命になっているから、あなたは大丈夫、信じてよい。信じていなさい。それがあなたの幸福だ。」

 「わたしの主、わたしの神よ」とトマスはイエスに答えました。
 「わたしの主、わたしの神よ」
 これがわたしたちの信仰の告白になりますように。

 わたしたちの救いのためにわき腹から貴い血と水を流された主イエスよ、あなたを賛美します。あなたの傷はわたしたちの命です。あなたの血と水によってわたしたちを清め、潤してください。あなたがわたしたちのうちに生きてください。アーメン
(2010/04/11 京都聖三一教会)


モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」

Ave verum corpus, natum さいわいなるかな、まことの おからだ、

de Maria virgine: おとめマリアより生まれた。

Vere passum, immolatum まことに苦しみを受け、犠牲となられた

in cruce pro homine: 十字架上で、人類のために。

Cujus latus perforatum,  彼の脇腹は刺し貫かれ

unda fluxit et sanguine;  水と血を流された。

Esto nobis praegustatum  わたしたちの糧となってください

in mortis examine.     死の試練に先立って。

旧約聖書続編・バルク書について (2)

BC628 エレミヤの召命
  622 ヨシヤ王、宗教改革を始める
  597 バビロニア、エルサレムを占領(第1回捕囚)
  593 エゼキエルの召命
  587 バビロニア、エルサレムを破壊、ユダ王国滅亡(第2回捕囚)
  538 ペルシアのクロス王、捕囚の民の帰還および神殿再建を許可

1. 「読んで聞かせた」1:3 「朗読しなさい」1:14

聖書の朗読
  朗読者は自分が意味を受けとめつつ、人にしっかり届けていく。

→ 祈り、嘆きが起こり、また行動が起こった。(イエスの聖書朗読はルカ4:16)

「人々は涙を流し、断食をして主に祈った。また、おのおのの分に応じて金を集め、それを……エルサレムに送った。」1:5‐7

(それは、敗戦、エルサレムの破壊、捕囚という悲劇の歴史の中で起こった出来事。)

・私たちの礼拝も、聖書の言葉によって心が動かされ、行動へと促されるものでありたい。
・個人のこと、身近なことを祈ると共に、私たちが生きている社会、歴史の痛みの中で礼拝をささげたい。

・クランマーの「儀式について」(1549年)
 聖公会の初期。最初の祈祷書編集の基本姿勢

「モーセの律法とは違って、キリストの福音は儀式的な律法ではない。われわれは、表象やかげにしばられてではなく、自由な霊による神礼拝である儀式、礼儀正しい秩序と敬虔な規律を維持する儀式、あるいは人に教えるための顕著で特別な表示によって神への義務を人間の暗い心に思い起こさせるような儀式に満足すべきである。」

 クランマーは、従来の儀式(礼拝の仕方)を一切変えても減らしてもならないとする保守派、反対にすべての儀式をなくそうとする急進派の両方に対して、このように自分の考えを述べた。

「自由な霊による神礼拝である儀式」これが今日でも大切だと思う。
「自由の霊」詩編51:14

2. 罪の告白──民族の罪 1:13、14‐2:10

嘆きの告白と人々への呼びかけ

「主がわたしたちの先祖をエジプトの地から導き出された日から今日に至るまで、わたしたちは神なる主に背き、主を軽んじて、御声に耳を貸しませんでした。」1:19

3. 目の輝き 1:12

「そうすれば、主はわたしたちに力を授け、わたしたちの目に輝きを与えてくださり」

告白と嘆きの祈りの中で主から赦しを受け、目の輝きを取り戻す。

(旧約聖書続編・バルク書を読む会 2010/04/15)

日ごとの聖句416 主の家 2010/4/18〜24

2010年4月18日(日)復活節第3主日         詩編118:26
祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。

4月19日(月)                    詩編23:6
命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

4月20日(火)                    詩編27:4
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。

4月21日(水)                   イザヤ56:7
わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。

4月22日(木)                   イザヤ56:7
彼らが献げ物をささげるなら、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

4月23日(金)                  詩編122:1、9
主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった。
わたしは願おう、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」

4月24日(土)                  詩編135:2、3
主の家に、わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ。主を賛美せよ、恵み深い主を。喜ばしい御名をほめ歌え。

日ごとの聖句415 朝の食事 2010/4/11〜17

2010年4月11日(日)復活節第2主日      コリント一 15:20
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

4月12日(月)                 ヨハネ21:1、4
イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。

4月13日(火)                  ヨハネ21:5‐6
イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。「舟の右側に網を打ちなさい。」

4月14日(水)                 ヨハネ21:9‐10
陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスは「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

4月15日(木)                ヨハネ21:12‐13
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。イエスはパンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

4月16日(金)                  ヨハネ14:19
イエスは弟子たちに「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」と言われた。

4月17日(土)               ヨハネの手紙一 4:9
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。

御子が現れるとき──「ヨハネの手紙 一」

新約聖書にはヨハネの名で呼ばれる文書が五つある。この手紙は、思想や用語(光、命、愛など)の点でヨハネ福音書と共通するところが多い。紀元100年前後に書かれたとされる。

1. 1:1‐2「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。」

 命の言葉、すなわちイエス・キリストに出会い、直接経験した者として、著者は語る。単なる想像ではない、確かな、証言せずにはおれない事柄。

2. 1: 1:7‐9「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。……自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
 罪の赦しと清め──これをわたしたちはイエス・キリストの流された尊い血によって受ける。

3. 3:2‐3「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」

 わたしたちには、イエスさまと顔と顔とを合せて出会う将来が待っている。すでに神の子とされているわたしたちは、そのとき決定的に神の子らしくされる。その日に備え、その日を目指してわたしたちは歩む。

4. 3:5、8「御子は罪を除くために現れました。」「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」

 洗礼者ヨハネがイエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言った(ヨハネ1:29)ことを想起させる。人の魂とこの世界全体から悪を除き、祝福で満たすために御子は来られた。

5.4:1‐2「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。

 大きな影響を及ぼす力の働きはさまざまにある。しかし奇跡を起こすからといってそれが神から来ているとは限らない。見分け、聞き分ける知恵と感覚が必要である。

6. 4:9「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」

 神の願いは「わたしたちが生きるようになる」こと。「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」ヨハネ14:19

「神は愛なり」はこの書簡4:16の言葉。クリスマスにおいてひとたびおいでになった神の子は、再びおいでになる。この世全体をおおっている悪い者(5:19)に屈せず、神の子を信じ、真実の神であるキリストの内に生きたい(5:20)。              
(2010/04/11)
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