Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2010年10月

日ごとの聖句444 魂の幸い 2010/10/31〜11/6

2010年10月31日(日)聖霊降臨後第23主日      シラ書34:14
主を畏れる人の霊は生き永らえる。自分を救ってくださる方に、信頼しているから。

11月1日(月)諸聖徒日              シラ書34:16
主を畏れる人は何事にもおびえることがなく、決して臆病風を吹かさない。主にこそ彼は信頼しているから。

11月2日(火)                 シラ書34:17、19
主を畏れる人の魂は幸いである。主の目は、主を愛する者の上に注がれている。

11月3日(水)                  シラ書34:19
主は、力強い盾、堅固な支え、熱風から守る避難所、真昼の日ざしを防ぐ陰、転ばないように防ぎ、倒れないように助ける者。

11月4日(木)                  シラ書34:20
主は彼らの魂を昂揚させ、目に輝きを与え、健やかな命と祝福を授けられる。

11月5日(金)                  シラ書35:17
主はみなしごの願いを無視されず、やもめの訴える苦情を顧みられる。

11月6日(土)                シラ書35:20‐21
御旨(みむね)に従って主に仕える人は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行く。

ぶどうの木の下の平和を──司馬遼太郎『坂の上の雲』の危うさ

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』が評判である。昨日(10月21日)の新聞に大きな広告が載っていたので書店に行って購入した。『文藝春秋「坂の上の雲」 日本人の奇跡』(12月臨時増刊号)。「世界が驚愕した偉大なる日本人」「10人のリーダー『決断の極意』」「私の中の『坂の上の雲』」などの見出しが躍っている。

 ふと横を見ると『週刊 司馬遼太郎6 「坂の上の雲」の世界【青春編】』というのが積んである。「日本人の美しい心を再発見してほしい」「『坂の上の雲』が描いた凛とした日本人の精神」……。頁をくっていると、「これまで『坂の上の雲』は単行本と文庫本を合わせると累計1800万部以上出版されている『国民小説』である」という言葉が目に飛び込んできた。『坂の上の雲』は昨年、今年、来年と、3年にわたってNHKスペシャルドラマとして放映されるという。

 日本聖公会京都教区では有志で「韓国訪問分ち合いの会」というのを3ヵ月に1回程度続けているが、前回の9月16日、京都復活教会信徒の松本明さんに「司馬遼太郎の『坂の上の雲』見られる日本優越史観を問う」という題でお話しいただいた。松本さんのお話の一部をご紹介したい。

○これは「少年の国=日本」がひたすら「坂の上の雲」を目指し、「満州」の支配を目論んだ「世界一の陸軍国」ロシアを破り、世界の「一等国」に仲間入りした「明るい明治」の一大イベントとして描く。日露戦争はロシアの侵略を打ち砕いた「祖国防衛戦争」とする史観に貫かれている。

○今年、2010年は「日韓併合」から100年に当たる。1905年日露戦争に勝利を収めた日本は、同年11月に「第2次日韓議定書」を締結し、当時の「大韓帝国」の外交権を奪い、日本の保護国とし、「韓国統監府」を漢城(現ソウル)に置いた。

○日清・日露両戦争とも主たる戦場は、朝鮮であり、「満州」でありました。つまり、司馬遼太郎の目には踏みつけにされた朝鮮・中国民衆への苦しみが写っていません。

○日本は明治維新以来、1910年の「日韓併合」に至るまで、自国の「利益線」として朝鮮を我が物にしようと狙っていました。司馬遼太郎氏が描く「明るい明治」は朝鮮人にとっては「悪夢の時代」です。

 松本さんのご指摘に従って私も文庫本『坂の上の雲』を開いて見た。このように書かれている。

「日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにそのときから他国(朝鮮)の迷惑の上においておのれの国の自立をたもたねばならなかった。」

「日本は、その歴史的段階として朝鮮を固執しなければならない。もしこれをすてれば、朝鮮どころか日本そのものもロシアに併呑されてしまうおそれがある。この時代の国家自立の本質とは、こういうものであった。」

 このような断定的な言い方によって多くの日本人は説得され、共感してしまうかもしれない。しかし司馬氏に決定的に欠落しているのは、松本さんが言われるように踏みつけにされた側の視点である。「他国(朝鮮)の迷惑の上においておのれの国の自立を」と言うが、「迷惑」を受ける側は受けても仕方がない程度にしか見られておらず、尊厳ある固有の主体的存在とは認識されていない。

 司馬遼太郎は大阪外国語大学の出身であり、私の先輩に当たる。しばらく前、大阪外大(現在は大阪大学外国語学部)の同窓会誌「咲耶」が送られてきた。開くと、6月に行われた大阪大学司馬遼太郎記念学術講演会「近代日本の原風景」のことが記されていたが、その報告は「文と武がほどよく調和していた明治期の話題で盛り上がった」と締めくくられていて、どこにも日本が強いた隣人、隣国の痛みなどは顧みられていない。「外国語」を冠した大学として恥ずかしいことである。

 司馬氏はその後、在日韓国・朝鮮人との交友の中で歴史認識を変えていったとも言われ、またミリタリズムが鼓舞されるのを恐れて『坂の上の雲』の映像化を固く断っていたと伝えられる。この時期に『坂の上の雲』がもてはやされるのは大変危険なことである。

「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた。」ミカ4:4

 「坂の上の雲」に自国の栄光を求めて隣人を踏みつけてきた日本の歴史を反省し、「ぶどうの木の下、いちじくの木の下」に、脅かさず、脅かされない平和の世界を祈り求めたい。「あなたたちは互いに呼びかけて、ぶどうといちじくの木陰に招き合う」(ゼカリヤ3:10)と主が言われた日の実現に向けて私たちは努力したい。

<中塚明『司馬遼太郎の歴史観──その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』高文研、は大変有益です。>

日ごとの聖句443 神の御業(みわざ) 2010/10/24〜30

2010年10月24日(日)聖霊降臨後第22主日      ヨブ記36:24
世の人は神の御業に賛美の歌をうたう。あなたも心して、ほめたたえよ。

10月25日(月)                 詩編68:20‐21
主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。
この神はわたしたちの神、救いの御業の神、主、死から解き放つ神。

10月26日(火)                   詩編17:7
慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を。立ち向かう者から、右の御手をもって救ってください。

10月27日(水)                ネヘミヤ記9:16わたしたちの先祖は、彼らに示された驚くべき御業を忘れ、かたくなになった。しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった。

10月28日(木)使徒聖シモン・使徒聖ユダ日  サムエル記上12:16
「さあ、しっかり立って、主があなたたちの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。」

10月29日(金)                    詩編5:9
主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。

10月30日(土)                   詩編36:11
あなたを知る人の上に、慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に、恵みの御業が常にありますように。

神の顔を見たヤコブ

   創世記32:4‐9、23‐31

 ヤコブは、ヤボクの渡しを前にして恐怖に呑み込まれて進むことができませんでした。兄エサウに会うのがこわいのです。

 20年前、ヤコブは兄エサウをだまして長子の権利を獲得しました。エサウの怒りはすさまじく、身に危険を感じたヤコブは母リベカの勧めに従って逃亡し、伯父のラバンのもとで長く過し、いま20年ぶりに故郷に帰ってきたのです。

 すでにエサウには三度にわたって莫大な贈り物を届けました。家族、僕たち、家畜などはもうヤボク川の向こう岸に渡らせました。しかしヤコブはひとり後に残っていました。

 兄エサウの怒りと殺意が迫ってくるように感じ、また自分がかつて兄に対してしたことについての重い葛藤があって、川を渡ることができないのです。暗闇の中で苦しみに耐えかねてヤコブは祈りました。

「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」創世記32:10‐12

 神にすがりついてヤコブは祈りました。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘しました。その何者かとは神の御使い、否、神ご自身です。ヤコブは神と格闘して祈り、祝福を求め、ついに祝福を受けました。

 聖書にはこう記されています。

「ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」創世記32:31

 普通は見ることを許されない神の顔を、ヤコブは見たというのです。ヤコブの見た神の顔はどのような顔だったのでしょうか。

 求め訴える者に対応し格闘する真剣な顔
 切を赦し、祝福する温かい顔
 新しい歩みへと促す希望の顔
──だったのではないでしょうか。

 ヤコブはこれによってヤボクの渡しを渡り、兄エサウと再会します。ヤコブは兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏しました。エサウは走ってきてヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣きました。そのときヤコブには、エサウの顔は神の顔のように見えたといいます。

 ヤコブは神との格闘に果てに、神から赦しと祝福を受け、謙遜な者に変えられ、前に向かって進む勇気を得たのでした。

 イエス・キリストはわたしたちが神の祝福を受けることを願われました。そのゆえに受難の前、ゲッセマネでわたしたちのために神と格闘してくださいました。わたしたちもイエス・キリストをとおして、ヤコブの見た神の顔を仰ぐことができますように。

(日本聖公会京都教区HPメッセージ 聖霊降臨後第21主日 2010/10/17)

リストが記したショパンの最期

10月17日はショバンの逝去記念日です。

フレデリック・フランソワ・ショパン

1810年3月1日〜1849年10月17日

ショパンとは対比的に語られるフランツ・リストですが、彼はショパンを敬愛し、ショパンの伝記を書いています。

英訳は
Life of Chopin

ショパンの死の直前のところをリストは次のように書いています(要旨)。

……
死を悟ったショパンは旧知のポーランド人、ヤロヴィツキ司祭をすぐに呼んでほしいと頼
み、ヤロヴィツキは臨終前の聖餐(たぶんそれとともに告解と塗油──注・井田)を授けた。

ショパンはその後しばらくして、友人ひとりひとりをベッドのそばに呼び、祝福を祈り、
神の恵みが下るように切に祈り求めた。友人たちは膝を折り、頭を垂れていた……
……

リストがこのように書き伝えたのは、リストにとってこのことが大切だったからに違いありません。

調べて見ると次のようです。
1849年
10月15日(月)上記のことはこの日です。リストが「月曜日」と書いています。
10月16日(火)実質的な最後の日
10月17日(水)午前2時、逝去

日ごとの聖句442 導き手 2010/10/17〜23

2010年10月17日(日)聖霊降臨後第21主日    使徒言行録5:31
神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。

10月18日(月)福音記者聖ルカ日         ルカ1:78‐79
高い所からあけぼのの光が、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。

10月19日(火)                マタイ12:18、20
見よ、わたしの選んだ僕。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。

10月20日(水)              ペトロの手紙一 3:18
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。

10月21日(木)                ユダの手紙1:20
しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下(もと)に祈りなさい。

10月22日(金)              ヨハネの黙示録7:17
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。

10月23日(土)                   ローマ5:2
わたしたちは、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

日ごとの聖句441 憐れみ 2010/10/10〜16

2010年10月10日(日)聖霊降臨後第20主日       マタイ5:7
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

10月11日(月)                 イザヤ書49:10
彼らは飢えることなく、渇くこともない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

10月12日(火 )                   詩編4:2
呼び求めるわたしに答えてください。神よ。苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください。

10月13日(水)                   詩編30:11
主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。

10月14日(木)                   詩編57:2
憐れんでください。神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし、あなたの翼の陰を避けどころとします。

10月15日(金)                 イザヤ書49:13
天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった。

10月16日(土)                 ヘブライ2:17
それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

あなたにゆだねられている良いものを

テモテ二 1:14

「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」テモテ二 1:14

 あなたには良いものが与えられている。あなたにゆだねられている良いものがある。神さまが良いものをあなたに託しておられて、それが守られ、生かされ、発揮されるようにと願っておられる。

 パウロはテモテにこのように書き送りました。テモテは弱っているのです。若くして教会の責任を任せられ、一心に働いてきましたが、さまざまな困難に直面し、疲れて力を失っています。

 6節から読みましょう。

「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」1:6‐7

 「おくびょうの霊ではなく」と言われているのは、テモテが今おくびょうの霊に取りつかれているからです。人がこわい。世間がこわい。教会がこわい。この世の力がこわい。それに危うさを抱える自分もこわいのです。
 しかしパウロは言います。

「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」 

 わたしはあなたに手を置いた。わたしたちの教会の言葉で言えば聖職按手のことでしょう。テモテは、パウロに手を置いて祈ってもらったことをとおして神の賜物を受けた。言わば神の火を受けたのです。それはあなたの中にある。あなたには神の火が与えられている。今は隠れているかもしれないけれども、すでに与えられているのです。それを再び燃え立たせてほしい。

 手を置く。按手というのは聖職按手だけではありません。信徒按手、堅信式もそれです。わたしたちも主教の按手をとおして神の賜物を受けたのです。

 信徒だけではありません。子ども祝福式のとき、司祭は子どもたちに手を置いて祈ります。形だけではありません。神の良きものが手を置いて祈ることの中で働きます。大人も子どもも、礼拝の後のほうで前に出て祝福を受けていただくのも同じです。司祭が人を祝福するとき、それはただ一方的なのではなく、そのとき祝福する側も良きものを受けます。

 テモテよ、あなたもわたしも、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を神から受けた。わたしたちは無力であっても、そのわたしたちをとおして神が力をもって働かれる。聖霊がわたしたちを神の愛に浸す。神の霊を受けたから、あなたは自分なりに考え判断して事を進めていくことができる。
 困難は大きいと思うけれども、労苦は激しいと思うけれども、神が支えてくださるからしっかり進もう。
 
 このことはテモテについて言われたことですが、わたしたちにも当てはまります。わたしたちにも、神の良き賜物が与えられています。

けれどももう一度14節に戻りましょう。

「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」テモテ二 1:14

 「あなたに」と言われています。複数ではなく、二人称単数です。みんなのことではなく、ほかのだれかのことではなく、あなたにこそゆだねられたものがある。神さまがあなたに託しておられて、それが実現するようにと願っておられる固有の大切なものがある。それを知ってほしい。

 神さまの前に謙遜であることは大切です。自分を過大評価してはいけない。しかし反対に過小評価してもなりません。自分は何もできない、自分は何の力もない、とそう言いやすい。けれども今日わたしたちが聖書から聞くのはそうではありません。あなたには神の良きものが託されている、というのです。
 わたしたち一人ひとり、皆さん一人ひとりに神さまがゆだねておられる良いもの。それは何かを発見することができますように。
 
パウロも自分自身のこととして言います。

「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものをその方がかの日まで守ることがおできになると確信している。」1:12

 その大切なものは神さまが守ってくださるのです。

 けれどもパウロはテモテに言います。

あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」1:14 

 あなたにゆだねられた神からの賜物、大切なとうといものは神が守ってくださるけれども、しかし自分でも守らなくてはならない。粗末にしてはならない、失ってならない。それは守られて、生かされて、成長して、実現していくべきものなのです。

 神の目に大切なあなたは、神から託された良きものを大切に守ってほしい。神さまはあなたをとおしてしかできない何かを実現しようとしておられるのです。

 10月になりました。この月の最後の主日、10月31日には、京都聖三一教会のこの礼拝堂聖別80周年の記念礼拝をささげます。この教会に、この礼拝堂に神さまがゆだね託しておられるものがあります。この礼拝堂が守られ、生かされ、神の良きものが実現していきますように。

 主なる神さま、あなたがわたしたちに、またわたしたち一人ひとりにゆだねておられる良きものを大切に守らせてください。その良きものが保たれ、生かされて、実現していくようにしてください。そうしてあなたとともに喜ぶことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
 (2010/10/03 京都聖三一教会)
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