(2010年のクリスマスの第4のメッセージです。)
ヨハネ1:1‐14
ヨハネ福音書の冒頭は不思議な言葉の連続です。哲学的な表現が並んでいて、頭で理解しようとしてなかなかわかった気がしないことがあります。
けれども今日は「言(ことば)」と訳された言葉(原語は「ロゴス」)を、1節から14節までたどってみることにします。特に「言」が主語になっているところに注目してみましょう。
1. 「初めに言があった」1節
世界の初め、宇宙の原初に、言があった。歴史が始まる前、その言が響いて世界が造られていきました。創世記の最初、「光あれ」という神の言葉を思い起こします。
まず「初めに言があった」。これが第1です。
その言には命があり、光があって、人間を照らしています。
2. 「言は、自分の民のところに来た」11節
その最初にあった言(ロゴス)はじっと動かないのではありません。「自分の民のところに来た」。物体が何かの拍子で動いたというのではありません。みずから意志を持って、決意して、自分の民のところに来た。本来、人間はこの言、この存在、この方が生きて働かれたからこそ、存在しているのです。しかし「民は受け入れなかった」。
3. しかしこの世界の拒絶、人間の拒絶に言(ロゴス)はひるまない。積極的に働きます。だれも何者も、けっして与えることのできないものを人に与えたのです。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。12節
人を神の子とする。言は人をとらえて神の子とする。呼びかけられて、愛を注がれて、人は自分からもその方を呼び、自分からもその方を愛する。高ぶることからも救われ、自分を卑下することからも解放されて、人々は自分が神の子であることを喜ぶ。神との間に幸せな交流が起こり、清められた命が充満する。自分が神の愛してくださっている子どもであることを知り、経験することは何という幸福でしょうか。言は、人々を神の子とするのです。これが第3です。
4. 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」14節
言はただわたしたちに接近しただけではなく、わたしたちに呼びかけるだけではなく、「肉となった」。神である方が人間となったのです。そして遠い別のところではなく、わたしたちの間に宿られた。わたしたちと一緒にいようとされるのです。これが第4、第5です。
「肉」は生命活動を行うわたしたち人間のからだ、肉体です。あるときは元気に力を発揮するけれど、あるときは深く傷つく。破れ、弱り、やがて息を引き取って朽ちていく。この悲しい人としての実体、ありよう、現実を、言はみずからのものとして引き受けた。
わたしたちと一緒にいようとしてみずから人間となり、肉となった方は、その生涯をベツレヘムの飼い葉桶の中に始められました。
「言」は、第1に「初めにあった」、第2に「ご自分の民のところに来た」、第3に「信じる者を神の子とした」、第4に「肉となった」、第5に「わたしたちの間に宿った」。
これがヨハネ福音書冒頭に記された神の言の働きです。
ずっとそう書いてあるから「言」と言ってきたのですが、この「言」とはキリストのことです。キリストは最初からおられて、わたしたちは元々このキリストに属するものなのです。けれども人間が背き、逆らって神から遠ざかっていったので、この方はわたしたちを迎えに来られました。
そして拒絶にあいつつも人々を呼び、招き続け、自分を受け入れた人々を神の子としていかれます。
そして究極的なことが起こりました。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」1:14
肉となった言、人となられた神。これがイエス・キリストです。
神の言は人となり、肉となったから、人の痛みを自分も痛み、人が病んでいるから自らも病み、人が苦しんで関係が破れ心も破れるからこの方の心も破れ、汗と涙と血を流して歩んで行かれます。
自ら痛んでわたしたちをやらわげようとし、自ら病んでわたしたちを癒そうとし、みずから破れて人の破れを結び合わせようとされる。
反抗する者たちの怒り、憎しみ、反抗をご自身に引き受けて、この方は十字架への道を歩まれます。
この方の誕生、この方の存在を曇りない目で見た人は思わず声を上げました。
「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネ1:14
イエス・キリストの中に神の恵みと真理が充満しています。充満はそれを見る者、それに触れる者に恵みと真理をもたらします。充満がわたしたちに押し寄せて来ます。充満は広がっていきます。神の恵みと真理の充満の中で、癒しと救いと新生が起こります。
この年の最後の主日に、神の言の受肉──神の恵みと真理の充満の出来事を聞きました。新しい年に、そのことをより深く知り、経験することができますように。
(2010/12/26 京都聖三一教会)
ヨハネ1:1‐14
ヨハネ福音書の冒頭は不思議な言葉の連続です。哲学的な表現が並んでいて、頭で理解しようとしてなかなかわかった気がしないことがあります。
けれども今日は「言(ことば)」と訳された言葉(原語は「ロゴス」)を、1節から14節までたどってみることにします。特に「言」が主語になっているところに注目してみましょう。
1. 「初めに言があった」1節
世界の初め、宇宙の原初に、言があった。歴史が始まる前、その言が響いて世界が造られていきました。創世記の最初、「光あれ」という神の言葉を思い起こします。
まず「初めに言があった」。これが第1です。
その言には命があり、光があって、人間を照らしています。
2. 「言は、自分の民のところに来た」11節
その最初にあった言(ロゴス)はじっと動かないのではありません。「自分の民のところに来た」。物体が何かの拍子で動いたというのではありません。みずから意志を持って、決意して、自分の民のところに来た。本来、人間はこの言、この存在、この方が生きて働かれたからこそ、存在しているのです。しかし「民は受け入れなかった」。
3. しかしこの世界の拒絶、人間の拒絶に言(ロゴス)はひるまない。積極的に働きます。だれも何者も、けっして与えることのできないものを人に与えたのです。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。12節
人を神の子とする。言は人をとらえて神の子とする。呼びかけられて、愛を注がれて、人は自分からもその方を呼び、自分からもその方を愛する。高ぶることからも救われ、自分を卑下することからも解放されて、人々は自分が神の子であることを喜ぶ。神との間に幸せな交流が起こり、清められた命が充満する。自分が神の愛してくださっている子どもであることを知り、経験することは何という幸福でしょうか。言は、人々を神の子とするのです。これが第3です。
4. 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」14節
言はただわたしたちに接近しただけではなく、わたしたちに呼びかけるだけではなく、「肉となった」。神である方が人間となったのです。そして遠い別のところではなく、わたしたちの間に宿られた。わたしたちと一緒にいようとされるのです。これが第4、第5です。
「肉」は生命活動を行うわたしたち人間のからだ、肉体です。あるときは元気に力を発揮するけれど、あるときは深く傷つく。破れ、弱り、やがて息を引き取って朽ちていく。この悲しい人としての実体、ありよう、現実を、言はみずからのものとして引き受けた。
わたしたちと一緒にいようとしてみずから人間となり、肉となった方は、その生涯をベツレヘムの飼い葉桶の中に始められました。
「言」は、第1に「初めにあった」、第2に「ご自分の民のところに来た」、第3に「信じる者を神の子とした」、第4に「肉となった」、第5に「わたしたちの間に宿った」。
これがヨハネ福音書冒頭に記された神の言の働きです。
ずっとそう書いてあるから「言」と言ってきたのですが、この「言」とはキリストのことです。キリストは最初からおられて、わたしたちは元々このキリストに属するものなのです。けれども人間が背き、逆らって神から遠ざかっていったので、この方はわたしたちを迎えに来られました。
そして拒絶にあいつつも人々を呼び、招き続け、自分を受け入れた人々を神の子としていかれます。
そして究極的なことが起こりました。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」1:14
肉となった言、人となられた神。これがイエス・キリストです。
神の言は人となり、肉となったから、人の痛みを自分も痛み、人が病んでいるから自らも病み、人が苦しんで関係が破れ心も破れるからこの方の心も破れ、汗と涙と血を流して歩んで行かれます。
自ら痛んでわたしたちをやらわげようとし、自ら病んでわたしたちを癒そうとし、みずから破れて人の破れを結び合わせようとされる。
反抗する者たちの怒り、憎しみ、反抗をご自身に引き受けて、この方は十字架への道を歩まれます。
この方の誕生、この方の存在を曇りない目で見た人は思わず声を上げました。
「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネ1:14
イエス・キリストの中に神の恵みと真理が充満しています。充満はそれを見る者、それに触れる者に恵みと真理をもたらします。充満がわたしたちに押し寄せて来ます。充満は広がっていきます。神の恵みと真理の充満の中で、癒しと救いと新生が起こります。
この年の最後の主日に、神の言の受肉──神の恵みと真理の充満の出来事を聞きました。新しい年に、そのことをより深く知り、経験することができますように。
(2010/12/26 京都聖三一教会)
