Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2011年03月

『弓と竪琴』2

オクタビオ・パス『弓と竪琴』からの抜き書きです。

「詩はわれわれに、われわれが真に在るところを明らかにし、われわれを本来のわれわれへと誘う。」

「詩的喜びは、創作の困難さに類似する困難さを克服することなしに享受できるものではない。参加とは再創造を意味するのであり、読者は詩人の身ぶりや経験を再生するのである。」

「創造の瞬間、われわれ自身の最も秘めたる部分が意識の表に現われ出る。」

「真の翻訳とは再創造以外の何物でもない。」

私は多少、詩の翻訳をやるので、励ましを与えられます。

オクタビオ・パス、明日3月31日が誕生日(1914年)。

『弓と竪琴』

オクタビオ・パス『弓と竪琴』
 岩波文庫、2011

メキシコの詩人、批評家、外交官 1914〜1998

詩論。どうしようもないような難解な内容ですが、洪水のように溢れ出る言葉の中にはっとさせられるものがあります。

誤解や疑問、反論など一切気にせず、思うところを思うままにどんどんと語っていくのが気持ちがよい。
正確を期し、誤解を避けようとして注釈的な言葉がやたらに入るような文章(たとえばある音楽評論家の)がうっとうしく思われてきます。

「詩は独創的にして唯一無二の創造であるが、同時にそれは、読みにして朗誦、つまり参加である。詩人は詩を創る、そして民衆は朗誦することにより、それを再創造する。詩人と読者は同一の現実の二つの契機である。」

「詩は参加においてはじめて完全に実現されるのであって、読者なき作品は、半分しかその名に値しない。」

「もし人がその突風に選ばれたとしたら、いくらそれに抵抗しようとしても無駄である。」

「詩人の使命は、聖職者と哲学者によってゆがめられた、ことばの原型を回復することである。」

「詩人は、たとえ社会という祭壇で聖体を拝領し、この上なく敬虔にその時代の信仰を受け入れたとしても、孤立した存在であり、生来の宿命によって異端者なのである。」

「ヘラクレイトスによるひとつのイメージがこの本の出発点であった。……人間を聖化し、かくして彼を宇宙に位置づける竪琴、そして人間を彼自身の外に向けて発車する。」


日ごとの聖句466 主と共に喜ぶ 2011/4/3〜9

2011年4月3日(日)大斎節第4主日       エフェソ5:8、10
あなたがたは光の子として歩みなさい。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。

4月4日(月)                  マタイ2:9‐10
東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

4月5日(火)                 マタイ5:11‐12
「わたしのためにののしられ、迫害されるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。天には大きな報いがある。」

4月6日(水)                  マタイ18:13
「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」

4月7日(木)                  マタイ25:21
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

4月8日(金)                   マタイ28:8
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

4月9日(土)                   マタイ28:9
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」(喜べ)と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

主に喜ばれることは何か?

「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」エフェソ5:10

 このように言われると、ひょっとしたら私たちは、「主に喜ばれないことをしてはいけない」「正しい良いことしなければ」「自分はそのようなことはできていない」というふうに思いがめぐっていくかもしれません。けれどもその方向は一度ストップして、「喜ばれる」「喜び」という言葉に心を向けてみましょう。

 今年の聖書日課はA年で、主日の福音書はマタイによる福音書が主として朗読されます。マタイ福音書の中に「喜び」が書かれていたでしょうか。

 まず初めのほうに、遠い東の国から救い主を尋ねて危険な旅をしてきた博士たちのことが記されています。

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」2:10

 まもなく確かに救い主にお会いできることを知った彼らは、喜びにあふれました。主イエスの地上の生涯の始まる前に、救い主を迎える人々の喜びがあります。

 今度は福音書の終わりのほう、主イエスの十字架の死と葬りの後、二人のマリアが墓に行ったとき、天使が現れて主の復活を告げます。

「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」28:8

 まだ出会っていないけれど、再び主にお会いできることを知った喜びがあります。これを知らせようと二人が他の弟子たちのところへと急ぐ途上……

「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」28:9

 「おはよう」と訳された言葉は元々は「喜べ」という意味の言葉です。イエスは彼女たちと一緒に喜ぼうとして待っておられたのでした。

 マタイ福音書に沿って主イエスの生涯をたどっていくと、いろんなところに喜びが溢れています。イエスは幼子のような者の中に神の働きを見て喜び(11:25)、失われた1匹の羊を捜し見出して喜び(18:13)、また託された賜物を活用して働く者を知って喜ばれます25:21)。

「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」25:21

 この世界と私たちの人生に困難がうずまいているとしても、私たちと共に労苦し、私たちと共に喜ぼうと願っておられるイエスがおられます。

 私たちには主と共に喜ぶ日が備えられています。その日を期待して待ち望みつつ、主に喜ばれることが何かを尋ね、見出し、それを実行しましょう。

(2011年4月3日 大斎節第4主日 京都教区HPメッセージ)

チューリッヒ聖書

『チューリッヒ聖書』(2007)というドイツ語の聖書を購入しました。
ルター訳聖書とは別の、もうひとつのドイツ語聖書です。

起源はチューリッヒの宗教改革者ツヴィングリらによる翻訳だそうです。

マタイ福音書第5章の山上の説教を読んでいてびっくりすることがありました。

新共同訳聖書では
「柔和な人々は、さいわいである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)
と訳されている箇所です。

Selig die Gewaltlosen‐
 sie werden das Land erben.

「力(権力、暴力……)のない人は至福、
 その人々は地を受け継ぐ。」

「柔和な人々」というと、人の性格、態度、物腰、振る舞いをイメージしますが、die Gewaltlosen は力を持たない人、力を失った人、無力な人、心の砕かれた人……を思います。

無力な人、無力にされた人々に対してイエスさまが天の至福をもたらしてくださるというイメージ。

ほかにはヨハネ福音書の冒頭
「初めに言(ことば)があった」
のところは

Im Anfang war das Wort, der Logos,

ロゴスという言葉が明記されているのも驚きでした。

ルター訳と比べてみると興味深いことが出てくるでしょう。

聖書の学びを終えるときの祈り

全能の父なる神さま、この貴い時間をお与えくださり、聖書のみ言葉を学ばせてくださったことを感謝いたします。
今日学んだ聖書のみ言葉によって忍耐と慰めを得させてください。また聖書のみ言葉を心の内に悟り、主のみ心を行わせ、この福音をこの世と隣人に伝えさせてください。わたしたちの主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

大韓聖公会『日常祈祷書』から

聖書の学びを始めるときの祈り

永遠にして変わることのない父なる神さま、恵みと愛をありがとうございます。この時間、主の貴いみ言葉を学ぼうとしています。どうか聖霊によって目覚めさせてください。
聖書が聖霊の感動によって記録された啓示の真理であることを悟らせ、聖書をとおして閉ざされた心を開いて、熱くしてくださり、明るい知恵をお与えください。
わたしたちがあなたの貴いみ言葉を正しく知るようにしてくだり、鏡のように曇りなく照らしてください。聖書を誤って解釈して異端に陥ることがないようにしてください。主のみ心を正しく理解させてください。
聖書の学びがわたしたちの生活の道しるべとなるようにし、救いの真理を見出す道であることを教えてください。
そうして聖書の教えるところに従って体をもって実践し証しして、キリストの真理を欠けることなく世界に伝えさせてください。わたしたちの主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

大韓聖公会『日常祈祷書』(大韓聖公会出版部、2000) から

日ごとの聖句465 命の神 2011/3/27〜4/2

2011年3月27日(日)大斎節第3主日      サムエル記下22:47
主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの岩なる神をあがめよ。

3月28日(月)                   ヨハネ4:14
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

3月29日(火)                   詩編18:47
主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。

3月30日(水)                    詩編42:3
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。

3月31日(木)                    詩編42:9
昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。わたしの命の神への祈りが。

4月1日(金)                    詩編84:3
主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。

4月2日(土)                  エレミヤ10:10
主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え、その憤りに諸国の民は耐ええない。

日ごとの聖句464 預言者ゼファニヤの言葉 2011/3/21〜26

2011年3月20日(日)大斎節第2主日        ゼファニヤ2:3
主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきたこの地のすべての人々よ、恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。

3月21日(月)                 ゼファニヤ3:9
その後、わたしは諸国の民に、清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える。

3月22日(火)                 ゼファニヤ3:14
娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

3月23日(水)                 ゼファニヤ3:15
主はお前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。

3月24日(木)                 ゼファニヤ3:16
その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな。」

3月25日(金)聖マリヤへのみ告げの日      ゼファニヤ3:17
「お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。」

3月26日(土)                 ゼファニヤ3:17
「主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」

祈りの集い −東日本大震災被災者の方々を覚えて−

日時 2011年3月21日(月)15:00−15:30
場所 聖アグネス教会

呼びかけ 京都伝道区長 司祭 小林聡


東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の被災者のための祈り

苦しみ悩みの内にある人々に憐みのまなざしを常に向けてくださる主なる神様、わたしたちに心を合わせ共に祈る時をお与えくださることを感謝いたします。3月11日の激しい地震、津波で被害を受けた東北や関東地方の人々のために祈ります。恐怖と孤独の内に命を落とした人々をどうかあなたが顧みてくださり、み手の内にその魂を抱き慰めをお与えください。家族を失った人々、家族の消息がいまだに分からない人々は、不安と絶望の内に日々を過ごしています。どうか一日も早く穏やかに眠れる時をお与えください。
また、地震や津波で恐ろしい経験をした人々は心に深い傷を負ったまま不便な生活を強いられています。その中でも特に病気の人やしょうがいのある人々、高齢の方々、外国人の方々、をお守りください。このような時にこそ被災地でも、遠く離れた私たちも、社会の中で弱い立場にある人々の思いを大切にし、少しでも寄り添うことができますようにお導きください。被災した人々が日常生活を取り戻すには長い年月がかかると思われますが、私たち教会に集う者がそのことを忘れることなく支えていくことができますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン
(京都教区主教作成)

今回の地震・津波の災害の中で、東北教区の現在 ― 主教メッセージ<1>―

 3月11日(金曜日)午後2時46分頃とされる今回の大地震発生、続く津波の甚大な被害から5日が経ちました。また今は福島の原発のことで、大変な騒ぎとなっています。地震の日もその後雪が降りましたが、今日もこれから気温が下がるといわれ、率直に言えば「火攻め・水攻め」の感じもします。そこに兵糧攻めも加わり、頻繁に余震を感じます。また携帯電話の充電がすぐ切れる他、電話が通ぜず、移動しようにもガソリンが補給できない等、ふだん考えなかったことが重なっています。東北教区主教座聖堂のある仙台市の中心部は、建物の崩壊もなく、外見的には落ち着いて見えます。しかしいわゆるライフライン、食糧、水の確保は誰にとっても簡単ではなく、5日が経ってだんだん整うというよりは、生活上の難しさが加わっているように思います。とくに高齢の方々はかなり不自由な生活を強いられていると感じます。同じ市内でも、場所によって水・電気・ガスが出始めた所もあれば、それらがすべて駄目というところもあります。ガスはまだだかかると言われています。また交通機関も東北新幹線の回復の見込みがたたないことをはじめ、まだまだでしょう。

 しかし、もちろん皆さんがテレビでご覧になる被災地、とくに津波による直撃を受けた地域と人々の惨状、困難は比較になりません。避難所の生活も困難の度合いを増していると思います。非常に広範囲な被災地、地理的な問題もあり、支援もまだまだ行き届かないのだろうと思います。仙台市内・主教座聖堂にいるわたしたちも、それらの地域にはまだ直接足を踏み入れることもできずにいます。該当する地域にある教会、とくに岩手県釜石の釜石神愛教会と神愛幼児学園(保育園)のこと、福島県相馬郡新地の磯山聖ヨハネ教会については非常に心配しています。釜石は津波も園舎には達せず、一応無事ということですが、信徒方とはまだ直接安否の確認を出来ていません。磯山は海際にあり大変厳しい状況です。残念ながら(3月14日現在)すでにお一人の死亡が確認され、他の信徒ご家族についても行方不明とされています。それぞれ避難所におられることを祈っていますが、連絡がとれません。今はまた小名浜の教会が、福島原発の問題で「屋内待機」となっていますし、避難する方たちが郡山や福島に多く向かわれています。仙台基督教会信徒に、仙台市若林区や名取、七ケ浜等、津波の被害の大きな地域の人も複数あり、教会司祭は現在、全信徒の安否の確認に取り組んでいます。3月13日の主日、仙台基督教会・主教座聖堂では聖堂の使用を控え、会館にて礼拝を捧げました。教区内の教会、幼稚園については、倒壊のようなことはありませんが、それぞれ被害が伝えられています。

 多くの困難、惨状、課題があることはテレビ等でよくご覧頂いていることと思います。
同時にそうした中にあって、仙台、東北の人々の優しさや礼節のようなものに感激するほどです。地震直後、信号が切れ、警官も出ていない大きな交差点でも、渋滞した車が混乱もせず、いらいらもせず、穏やかに譲り合ってうまく流れている様子には驚きました。高齢者の方等への親切や、お互いへの配慮も目につきます。

 東北教区では、3月14日付けで「東北教区災害対策本部(仮称)」を教区会館ビンステッド記念ホールに設けました。教区主教を統括責任者とし、多くの情報や課題に対して取り組む基地としようとしています。すでに複数の信徒の方が集まり、再会を喜び、また必要な奉仕に関わってくれています。また15日付けで山形の涌井康福司祭にこの対策本部への協力を命じました。各教会、信徒の状況の確認が急務ですが、今後長く、この地域が回復していき、人々の生活が回復していくことの中で、教会として、教会の名に恥じない働きをしていくことが出来れば、この困難の中で癒しの力の一つとなり、神様の栄光をあらわす器となれるならばと願っています。
 しかし今はまだ、あまり先のことは言えません。

 海外の聖公会、カンタベリー大主教はじめ全聖公会の救援機関からの支援の申し出、東北教区と交わりを持つルイジアナ教区の教会、西ルイジアナ教区、テジョン教区からのお見舞い、支援申し出のメッセージを受けています。そして日本聖公会全教区の主教方をはじめ、各教区が最大限の関心をもって祈りを捧げてくださり、また何か支援できることがあればと考えてくださっていることを、心から深く感謝いたします。多くの友人方からも励ましをいただいています。しかし、今回の災害とそれに伴う難しい諸問題は、東北地方だけでなく、北海道から北関東教区、横浜教区の範囲、また東京都等をも広く含んでいます。わたしたちもまたお見舞いを申し上げなければならないと思います。
 これから始まる長い道のりと思います。主の御守りが人々の上にありますように、わたしたちの歩みが主のみ心にかなうものとなりますように祈ります。
  主にあって.

   2011年3月15日

                       日本聖公会東北教区
                        主教 ヨハネ 加藤博道

カール・バルト「決断としての宗教改革」の結び

カール・バルトの講演「決断としての宗教改革」(1933、ベルリン)を読み、大変励まされる気がしました。

これはヒトラーの率いるナチのドイツ支配と、それに自分を一致させていこうとする当時の教会のあり方に対し、断乎として否!を提示したものです。

この最後は、宗教改革者カルヴァンの言葉で締めくくられています。

「教会の改革は神の業であって、人間的な希望や思いには依存していません。それゆえ、人は、そのために何かをなしうる可能性に関しては、人々の善意とか時代情勢の変化などといったものを待つのではなく、むしろ、絶望のただ中をくぐり抜けつつ突破せねばなりません。神は、ご自身の福音が説教されていることを欲しておられるのです。この誡めに聴き従い、そして、神が私たちを呼び出されるそこに向かって歩もうではありませんか! その成果はどういうものであるだろうか、などということについては、私たちは問う必要がないのです。」

この言葉を、必ずしも「教会の改革」ということに限定せず、今の時代の中で新しく聞きたいと思います。
こういう真理、真実そのものからの響きが今の時代には希薄であり、それだからこそその響きを回復したいと願います。

東北関東大震災 首座主教メッセージ

日本聖公会 主教会議長
首座主教 ナタナエル 植松 誠

2011年3月13日

東北地方太平洋沖地震に関してのお願い

大斎節に入って間もない3月11日午後2時46分、三陸沖を震源に国内観測史上最大の M9.0 の大地震が発生し、それに続く津波、火災などにより広範囲にわたる地域で甚大な被害がもたらされています。またまったく予測範囲を超えた地震によって、福島第1原発で爆発があり、第1原発と第2原発周辺には避難指示が出されています。これらはテレビなどの映像によって、詳細に、繰り返し私たちの目に入ってきます。今、誰もが、今回の地震と津波、火災による被害の大きさに、信じられない思いで、言葉を失っていると思います。崩壊した家々、津波によって呑み込まれていく町々、消火できない状況の中で燃え続ける家々、そして、被災された方々。愛する家族を失ったり、その行方が不明で必死に探しまわっている方々、一瞬のうちに家、財産などすべてを失った方々の姿に、また津波で壊滅状態になった市街の光景に、私たちの心は張り裂けそうな思いです。
……

全文はここをクリックしてください。

日ごとの聖句463 誘惑からの救い 2011/3/13〜19

2011年3月13日(日)大斎節第1主日          マタイ4:1
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた。

3月14日(月)                   マタイ6:13
あなたがたはこう祈りなさい。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

3月15日(火)                   ルカ22:40
いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。

3月16日(水)           ガラテヤの信徒への手紙6:1
だれかが何かの罪に陥ったなら、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。

3月17日(木)             ヘブライ人への手紙2:18
事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

3月18日(金)                   マタイ4:10
イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

3月19日(土)聖ヨセフ日              マタイ4:11
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

尹一柱「たんぽぽの笛」

尹一柱は尹東柱の弟です。
尹一柱氏のご子息である尹仁石氏が、2011年2月20日に行われた「詩人尹東柱とともに」(詩人尹東柱を記念する立教の会)で講演されました。

この集いの資料が送られてきて、その中に「たんぽぽの笛」(日本語訳)が載っていました。
確かめると以前に尹仁石氏からいただいた尹一柱詩集『童画』の中に「たんぽぽの笛」を見つけたので、私なりに訳してみました。


たんぽぽの笛

日の光が温かい兄さんの墓の横に
たんぽぽが1株立っています。

1本には 黄色い花
1本には 白い種。

花は摘んで胸に挿し
種は息で吹いてみます。
かるくかるく
空に消える種。

──兄さんも 黙って行きましたね。

目を閉じて吹いてみるたんぽぽの笛
兄さんの顔 はっきりと浮かびます。

飛び立った種は
春になれば広い野原に
また咲くでしょう。
兄さん、その時は
わたしたちも会えるでしょう。

(1952年の詩だそうです。「種」と直訳しましたが、見えるのは白いわたげです。こういうことも翻訳がむつかしいところです。)

「はかりしれない主の愛」

はかりしれない主の愛が
あなたを わたしを つつみます
「おそれることは何もない
わたしはあなたとともにいる」

ふかくふかくかぎりなく
愛はこころのすみずみを
甘い蜜で満たします
清い光で照らします

愛にまさるものはなく
愛がすべてをつつむとき
真の平和 おとずれる
まことの命 生まれます

愛を知らずに生きている
たましい求めてイエスさまは
涙流して叫ばれる
わたしのもとにおいでなさい

イエスさまあなたのふところに
どうか憩わせてください
そして祈らせてください
世界に平和 来ますよう

2011/3/4

作者   anonymous

わたしたちの土台であるイエス・キリスト

コリント一 3:11

 パウロが伝道して土台を据えたいくつもの教会のうち、もっともパウロを困らせ苦しめたのはコリントの教会です。ギリシャのアテネに西の方に位置する大都市コリント。ここの教会は大きく成長しましたが、内実からすると非常にむつかしい問題を抱えていました。一言で言うと病んだ教会です。

 第1に、教会内の党派争い、分裂と争いです。
 第2に、教会のこの世化、悪い意味での世俗化です。この世の価値観が教会に浸透してしまった。どういうことかと言いますと、社会的地位のある人、お金のある人が幅をきかせている。力を持たない人、貧しい人は隅のほうに追いやられている。世の中で立派とされることが教会でも立派とされ、人間的な誇りが支配してしまっているのです。イエスの願いや目的とは正反対です。
 第3に、福音の本質が見失われ、信仰が混乱してしまっている。その一つは「イエス・キリストの復活」の否定です。
 第4に、礼拝が無秩序になり混乱している。祈りの熱狂の中で「イエスは呪われよ」(アナテマ・イエスース)と叫ぶ人がいる。

 このような事態に陥ったコリントの教会の様子を知らされたパウロは、とても心配しました。パウロはこの教会のために心配し、憤り、心から祈り、そして手紙を書きました。

 パウロはコリントの教会が本来の教会として回復してほしいと切に願ったため、極めて率直な手紙を書きました。これを読んだコリントの教会の主立った人たちは、自分たちが批判されたと腹を立て、パウロを非難するに至りました。そこでパウロはもう一度手紙を書きました。

 パウロが土台を据えた教会のうち、もっとも長い手紙を2回も彼から受け取ったのはこのコリントの教会です。

 自分が心血を注いで土台を据えたその教会から非難される。これほど悲しいことはありません。しかしここに至ってもパウロはコリントの教会を見捨てませんでした。パウロの中になおコリントの教会に対する愛が燃えていたからです。それは神さまが、どんなに病んだ、混乱した教会であったとしても、見捨てずに愛しておられることの証拠です。神さまは見捨てられないのです。
 パウロは二度目の手紙でコリントの人びとにこのように書いています。

「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」コリント二 2:4

 ところでわたしは先ほど、「パウロが土台を据えた教会」と言いました。今日の使徒書にその言葉が出てきました。

「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。」コリント一 3:10

 パウロは、自分がこのコリントの教会の土台を据えたとはっきり言っています。しかも「熟練した建築家のように」。自分のあるだけの能力と経験を投入して、切に祈って、すばらしい神さまの家を建てようと、彼は教会の土台を据えたのでした。

 わたしは11年前まで東京にある聖公会神学院の教師をしていました。非常勤の時期も含めて15年以上、その構内にある校宅に住んでいました。一戸建ち、庭付きの広い良い家でした。けれども老朽化して次の台風で倒壊するのではないかというほど危険になり、校宅を立て直すことになりました。わたしたちはしばらく学校の外のマンションに住んで、そこから学校に通い、毎日新しい家の工事の様子を見ていました。

 驚いたのは、土地をものすごく深く掘っていたことです。2階建ての家にこんなに深く掘るのかというほど、深く土を掘ってそれから土台を据えていました。それで新しい家に住んでからは安心感がありました。
 パウロは言わばそのように地を深く掘って、コリントの教会の堅固な土台を据えたに違いありません。ではその土台とは何でしょうか。

「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」コリント一 3:10‐11

 「イエス・キリストという既に据えられている土台」
パウロが据えたのはイエス・キリストという土台です。イエス・キリストが教会の土台です。この土台は命なきものではなく、命ある、生きた土台です。問題に満ちたコリントの教会にも、わたしたちの教会にも、イエス・キリストが土台としていてくださるのです。

 イエス・キリストはわたしたちの教会の土台であると同時に、イエス・キリストはわたしたち一人ひとりの存在、わたしたち一人ひとりの人生の土台です。底なしの淵に沈んでしまうように思うことがあったとしても、その下に、その底に、わたしたちの足もとに、イエス・キリストが土台としていてくださいます。

 パウロはコリントの教会のために涙を流して祈りました。
 わたしたちの教会とわたしたちの人生の土台であるイエス・キリストは、わたしたちのために涙だけではなく、血を流して祈ってくださいます。わたしたちを回復させ、わたしたちの将来を形成していこうと、イエスは心を砕いていてくださいます。イエス・キリストがわたしたちのための確かな土台です。

 祈りましょう。
主イエス・キリストよ、あなたがわたしたちの教会の土台であり、またわたしたち一人ひとりの人生の土台でいてくださいます。あなたの土台の上にわたしたちの教会を築かせてください。尊いあなたの土台の上にわたしたちの人生の道を歩ませてください。アーメン

(2011/02/20 京都聖三一教会)

日ごとの聖句462 主イエスとともに 2011/3/6〜12

2011年3月6日(日)大斎節前主日          マルコ1:38
イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」

3月7日(月)                 マルコ5:41‐42
イエスは子供の手を取って、「タリタ、クム」(少女よ、起きなさい)と言われた。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。

3月8日(火)                   マタイ14:27
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

3月9日(水)大斎始日 (灰の水曜日)         マルコ4:39
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。

3月10日(木)                    ルカ9:18
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。

3月11日(金)                   ルカ24:29
二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

3月12日(土)                マタイ28:18、19 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

あなたをわたしの手のひらに刻みつける

イザヤ49:16

 今日は、本日の旧約聖書日課の中から、ただ一つの節だけに集中して、そこに何が書かれているのか、何が言われているのかを確かめてみたいと思います。

「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。」イザヤ49:16

 「見よ」という呼びかけが聞こえます。「見よ!」「見なさい!」と言って迫ってくる声があります。それで人々はその声を聞き、目を開いて見ます。目の前に差し出されているのは手です。両手が開かれて、二つの手のひらが目の前に差し出されています。

 見ていると、片方の手が動いて、もう片方の手のひらに何かを書き込みました。よく見ると、手のひらに何かが書き込まれたというだけではなく、手のひらに食い込むようにして、刻みつけられています。見るといつのまにか片方だけではなく、両方の手のひらにくっきりと刻みつけられた何かがあります。刻みつけられたのは何か。よく見ると、それはわたしの名前です。わたしの名前がその手のひらに刻みつけられていて、その手のひらは傷ついています。

 その方が言われます。
「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。」

 そう言われるのは神さまです。神さまがご自分の手のひらを傷つけてまで、わたしの名前をそこに刻みつけられた。名前だけというのではありません。わたし自身が、わたしそのものが、その手のひらに引き寄せられて、その手のひらの肉の中に刻みつけられて食い込んでしまった。
 「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつけた。」

 なぜ神はこのようなことをされるのでしょうか。それは、神さまがわたしたちを絶対に忘れないためです。わたしたちを絶対につかんで離さないためです。忘れないよう、離さないように、わたしたちをご自分の手のひらに刻みつけられる。

 けれども神さまはわたしたちを忘れられるはずはないのです。ところがわたしたちはしばしば、神さまがわたしたちを忘れておられるかのように思ってしまう。神さまに見捨てられているかのように考え振る舞っている。それが神さまには耐えられないので、神さまはわたしたちをご自分の手のひらの中に刻みこんで、み手のうちに保たれるのです。そうしてわたしたちを忘れていないことを示されます。
 
 ところがわたしたちは素直ではありません。とげを持っています。神の愛に対して素直ではなく、神の招き、神の促し、神の命令に対して従順ではありません。抵抗します。無視します。反抗します。
 そのような自分を知っていたある人は、こう言いました。詩編の作者の言葉です。

「わたしは愚かで知識がなく
あなたに対して獣のようにふるまっていた。」詩編73:22


 獣のように荒れたり、反抗したり牙をむいたりする者を素手で捕まえて、ご自分の手の中に守り収めようとしたら、その手は傷つく。けれども神さまは自分の手が傷つくのをかまわず、わたしたちを捕まえて、ご自分の手のひらに刻みつけられました。

 これは遠い昔の無名の預言者が、神の愛を告げた言葉です。
 けれどもそれから数百年して、そのことは現実になりました。
 神さまは反抗する人間を愛して、ご自分のもとに引き寄せるために、人となっておいでなりました。それがイエス・キリストです。イエスが手をさしのべて人々を引き寄せようにされたとき、人々は獣のようになって反抗したので、イエスの手は深く傷つきました。

 十字架でイエスの両手は釘打たれて傷つきましたが、意味からすればイエスはご自分の手のひらを深く傷つけてまで、わたしたちを引き寄せ、ご自分の手のひらに刻みつけられたということです。

 ヨハネ福音書は、復活のイエスが弟子たちのところに来られたときのことを次のように伝えています。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」ヨハネ20:19‐20

 イエスはその両手を弟子たちに示されました。傷ついたイエスの手のひら意味はこれです。

「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつけた。」

 弟子たちを、わたしたちを愛してくださったがゆえに傷ついた両手です。
弟子たちはうれしかった。イエスは弟子たちのことを決して忘れておられません。わたしたちのことを忘れておられません。ご自分の手のひらに刻みつけておられます。

 神が、イエスがわたしたちを決して忘れず、見捨てられないのであれば、わたしたちもイエスを忘れてはなりません。
 今度はわたしたちは自分の手を見ましょう。この手は、神さまに愛されている手、守られている手です。神さまから大切なことを託されている手です。この手に、この手のひらにわたしたちも刻みたい。イエスの愛のしるしを、見えない十字架を刻みたい。この手のひらの中にイエスの名を刻みつけ、イエスの存在を刻み込みたい。そうしてこのわたしの手は、神に向かって確かな祈りの手となり、人に向かって愛の手となるのです。人を招く手、支える手、また美しい響きを生み出す手となるのです。

(2011/02/27 京都聖三一教会)

マザー・テレサに学ぶ「愛と祈りのフェスタ」

マザー・テレサ生誕100年記念写真展
プレイベント

マザー・テレサに学ぶ ≪愛と祈りのフェスタ≫ 
3月11日(金)
開場:13:00〜20:00

第一部13:30〜15:30.  第二部18:30〜19:30
北文化会館 創造活動室

 チャリティーコンサート 13:30〜
     小野純子(ライアー ソロ)
     アンサンブル・クレール (女声アカペラアンサンブル)
  
 読み聞かせ・童謡などキッズコーナー・輪になって語ろう 15:30〜
   デュオ・咲らんぼ18:30〜
    他、DVD上映、マザー・テレサのご本閲覧コーナーまど
20110311愛と祈りのフェスタ
最近の記事
Archives
最近の関心

 『日韓キリスト教関係史資料』第3巻の編集
 リコーダーの世界
 音と響き
井田 泉
奈良基督教会牧師
親愛幼稚園園長
富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
聖公会平和ネットワーク共同代表

Mail
izaya*da2.so-net.ne.jp
(*を@に変更してください)

カウンター
最新刊
『これが道だ、これに歩め
──イザヤ書による説教』
かんよう出版
213頁 1500円+税

ここをクリックして
  ←左本文をご覧ください
ブログ内検索

WWW を検索 http://blog.livedoor.jp/izaya/ を検索