Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2011年05月

日ごとの聖句475 祈りと祝福 2011/6/5〜11

2011年6月5日(日)復活節第7主日(昇天後主日)    民数記6:25
主が御顔(みかお)を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。

6月6日(月)                  民数記6:24、26
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔(みかお)をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。

6月7日(火)                  ルカ24:50‐51
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

6月8日(水)                  ルカ24:52‐53
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

6月9日(木)                  ヨハネ17:15
イエスは祈って言われた。「父よ、わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」

6月10日(金)                  ヨハネ17:11
「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

6月11日(土)使徒聖バルナバ日        マルコ10:14、16
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。」イエスは、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

毎日、聖書を調べていた人

使徒言行録17:1‐15

 復活節の間は使徒言行録からお話をしています。それは、イエス・キリストの復活の力が、初代の教会でどのように働いていたかを見つめたいという願いからです。

 パウロは行く先々の町でユダヤ人の会堂の礼拝に出席し、そこで福音を宣べ伝えました。内容の中心は「十字架に死んで復活されたイエス・キリストこそが、わたしたちの待ち望んでいた救い主である」ということでした。そしてそれが事実であることを、パウロは聖書(わたしたちにとっての旧約聖書)を引用して論じたのでした。

「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。」使徒言行録17:1‐3

 パウロはギリシアのテサロニケの会堂で、3週連続で説教しました。パウロはまず、同胞のユダヤ人に主イエスの福音を伝えたかったのです。彼らのうちのある者は信じて従ってくれたのですが、他方ものすごい反対と迫害が起こりました。パウロとシラスをかくまっていると思われたヤソンの家が襲われ、ヤソンと数名の信徒が暴徒に捕らえられて、町の当局者たちのところに引き立てられて行きました。当局はヤソンたちを保証金を取ったうえで釈放しましたが、これ以上の滞在は危険だと判断したテサロニケの兄弟たち(信徒たち)は、その夜、パウロとシラスをひそかに脱出させ、西の方、ベレアの町に向けて送り出しました。

 ベレアの町に入った二人は、またそこのユダヤ人の会堂に入り、説教しました。
「十字架に死んで復活されたイエス・キリストこそが、わたしたちの待ち望んでいた救い主です。その証拠は聖書の中にあります。」

 パウロはここでも聖書を引いて語りました。ベレアの人たちはどうだったか。

「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。」17:11

 ベレアのユダヤ人たちは非常に熱心に御言葉を受け入れた、と書いてあります。非常な熱心を持ってパウロの話を聞き、進んで御言葉を受け入れたのです。
 これがわたしたちの2000年前の信仰の先輩です。

 ここで注目したいのは、彼らが「毎日、聖書を調べていた」ということです。
 闇雲に信じたのではありません。聞いたことを喜び受け入れながら、疑問も迷いも持ちながら聖書を調べて確かめようとした。しかも「毎日」。

 その頃、印刷された聖書がたくさんあったわけではありません。ヘブライ語からギリシア語に翻訳された旧約聖書(七十人訳)が、このベレアの町に何冊あったか。一字一字手で書き写された聖書です。1冊の聖書を囲んで、人々は集まった。それを調べた。1冊と言っても、おそらく巻物です。モーセの律法第1巻の巻物。これは創世記です。詩編の巻物。イザヤの巻物……。だれかが朗読する。それを聞く。交代して読む。調べる。確かめる。語り合う。祈る。

 御言葉を求めての熱心がありました。聖書の中に救い主を見出す感動がありました。毎日、聖書を調べていた。一緒に集まるたびに、聖書を開くたびに、読むたびに聞くたびに、新しい発見がありました。ほかのどこにもない真理が、恵みがここにある。恵みと真理に満ちておられる救い主イエス・キリストを、聖書の中に見出したのです。

 多くの人々が信じました。ベレアに教会が誕生しました。聖書を読み、調べ、発見する喜びを共にする群れです。

 ところが、ここでも迫害が始まりました。あのテサロニケの迫害者たちが、ここまで押しかけてきて群衆を扇動し、教会をつぶそうとします。またしてもパウロたちの身に危険が迫りました。ベレアに誕生した幼い教会を守り、育みたい。しかしパウロは今は離れなければなりません。

 ベレアの兄弟たち(信徒たち──ほんとうにそれは互いに兄弟であったのです)は、すぐにパウロを海岸の地方まで案内しました。パウロを守って避難させたのです。 次にパウロが向かうのはアテネです。

 海を行ったのでしょうか。陸を行ったのでしょうか。ベレアからアテネまで、南へおよそ300km。ベレアの人々はベレア付近の海岸でパウロと別れたのではありません。

「パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。」17:15

 パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行ったのです。なぜか。ベレアの人々はパウロを愛していたからです。もっと言えば、パウロが伝えてくれた救い主イエスを愛していたからです。

 フィリピでも、テサロニケでも、そしてベレアでも迫害されたパウロ。アテネでも平穏であるはずがありません。パウロをアテネまで案内した人たちはベレアに帰って行きます。パウロはベレアの兄弟姉妹のために祈り、ベレアの信徒たちはパウロのために祈ります。

 毎日、聖書を調べていたベレアの人々の熱心とまごころが、救い主への愛が、わたしたちにも起こりますように。わたしたちも聖書の中に救い主イエスさまを発見して、一緒に喜ぶことができますように。

(2011/05/22 京都聖三一教会)

京都聖三一教会DE 落語会 6月19日(日)

京都聖三一教会は1930(いくさなし)年に聚楽廻(じゅらくまわり)中町に建てられ、満81歳を迎えます。京の街中にある木造の教会で上方落語をお楽しみください。

皆様のお越しを心よりお待ちしております。

演目・出演  

「手水(ちょうず)廻し」   露の 吉次(きちじ)
「はてなの茶碗」     桂 枝女太(しめた)
「替り目」         笑福亭 仁嬌(にきょう) 
      
2011年6月19日(日)三位一体主日
      午後2時 開演


      無料です。

◎東日本大震災の被災者の方々を覚えて
  募金にご協力をお願い致します。

「主の祈り」黙想会

京都聖三一教会黙想会 2011

わたしたちに祈りを教えてください──「わたしの主の祈り」を祈る

2011年5月22日(日) 京都聖三一教会礼拝堂

講話・井田 泉司祭
ライアーによる奏楽・小野純子さん

♪ 奏楽
♪ こどもさんびか59 「主の祈りをささげましょう」

講話機,錣燭靴燭舛魘気┐討ださい──祈れるように

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。そこで、イエスは言われた。
『祈るときには、こう言いなさい。"父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。……"』」ルカ11:1‐2

 ・イエスが祈っておられた。
 ・イエスの祈りを感じる。
 ・弟子たちがイエスに願い求める「教えてください」
  「祈りを」「祈ることを」「わたしたちが祈ることを」……

☆黙想

♪ 奏楽

講話供仝討咾け──天におられるわたしたちの父よ

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。」マタイ6:5‐9

 ・父は、わたしたちを「愛する子」として見つめ、見守っておられる。
 ・父は、わたし(たち)のことを知っておられる。
 ・父は、わたしたちに呼びかけ、またわたしたちのほうから呼びかけるのを待っておられる。
 ・この方に向かって呼びかける。「天におられるわたしたちの父よ……」

☆黙想

♪ 奏楽

講話掘,潴召聖とされますように──最後の晩餐でのイエスの祈りから

「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。」ヨハネ17:6

「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが[わたしに]与えてくださった御名によって彼らを守りました。」ヨハネ17:11‐12

「真理によって、彼らを聖なる者として[聖として]ください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます[聖(なる者)とします=聖別します]。彼らも、真理によってささげられた者となる[聖(なる者)とされる=聖別される]ためです。」17:17‐19

「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」17:26

 ・イエスはわたしたちに神の名を現し、知らせてくださる。
 ・神の名は力と命をもって働き、わたしたちを守る。

 ・神の名「主=ヤハウェ」出エジプト記3:15    
      ヘブライ語のヤハウェの子音アルファベットを
      英語アルファベットを英語に置き換えるとを
       H W H Y(←右から読む)

 ・神の名は、わたしたちに神の愛を経験させる。
 ・イエスは弟子たち(わたしたち)を限りなく愛し、
  その愛のうちにわたしたちを育むために
  「主の祈り」を教えてくださった。
 ・主の祈りを祈ることは、イエスとひとつとなること。

☆黙想

☆「わたしの主の祈り」を書いてみる

♪ 奏楽

終わりのことばと祈り

主の祈り・祝祷

♪ こどもさんびか59 「主の祈りをささげましょう」

♪ 奏楽

(分ち合い)

日ごとの聖句474 ぶどうの木 2011/5/29〜6/4

2011年5月29日(日)復活節第6主日         ヨハネ15:1
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

5月30日(月)                   ヨハネ15:4
イエスは言われた「わたしはまことのぶどうの木、わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」

5月31日(火)                   ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

6月1日(水)                   ヨハネ15:7
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

6月2日(木)昇天日                 詩編80:15
神よ、天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください。あなたが御自分のために強くされた子を顧みてください。

6月3日(金)                    ミカ書4:4
人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた。

6月4日(土)                 ゼカリヤ書8:12
平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。

『韓国現代史60年』

徐仲錫『韓国現代史60年』民主化運動記念事業会・企画、文京洙訳、、明石書店、2008
を読んだ。

いま編集を進めている『日韓キリスト教関係史資料掘戮了代を知るためである。

すさまじい社会悪、権力悪のなかで、韓国の人々はほんとうによく忍耐し、闘い、民主化を勝ち取った。とうといことと思う。

大韓聖公会ソウル大聖堂がそのなかで役割を果たしている記述があり、印象的だった。

白川静の漢字論

最近、漢字学者として知られる白川静に関するものを2冊読んだ。

白川静・梅原猛『呪(じゅ)の思想──神と人間の間』平凡社ライブラリー、2011
松岡正剛『白川静──漢字の世界観』平凡社新書、2008

興味深く思ったのは、漢字が神と人との交流を現すものとして成立した、ということである。

「『風』とはただの自然現象ではなく、『霊』ですね。」

これは聖書の世界と共通している。

「賦」についての説明も興味深い。
「賦」とは自然などの美しい姿を歌い、歌うことによってその対象の持っている生命力を自分のものにする。歌う言葉の力によって対象との霊的な交通が起こり、病が治るという。

「遊」の字に関して──
「神のみが遊ぶことができた。……この神の世界に関わるとき、人もともに遊ぶことができた」
というのも大変面白い。

これに関連して松岡氏は「ユダヤ・キリスト教の神とはまったく異なる」と言われるが、私はそれは一面的に思える。

旧約聖書・箴言には次のような言葉がある。

「御もとにあって、わたし(知恵)は巧みな者となり
日々、主を楽しませる者となって
絶えず主の御前で楽を奏し
主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
人の子らと共に楽しむ。」8:30‐31


これは神と人がともに遊び楽しむ姿である。こういうところをキリスト教自身が回復すべきであると思う。

日ごとの聖句473 美しい調べ 2011/5/22〜28

2011年5月22日(日)復活節第5主日          詩編33:1
主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。

5月23日(月)                   詩編33:1‐2
主に従う人よ、主によって喜び歌え。琴を奏でて主に感謝をささげ、十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。

5月24日(火)                    詩編33:3
新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

5月25日(水)                   詩編33:4‐5
主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている。

5月26日(木)                    詩編33:6
御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象(ばんしょう)は造られた。

5月27日(金)                   詩編33:18
見よ、主は御目(おんめ)を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。

5月28日(土)                   詩編33:12
いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。

モーセの祈り──旧約聖書の祈り 2  「出エジプト記」から

2011/05/15

・神の召しへの抵抗 出エジプト記第3〜4章
・死を覚悟した執り成し 出エジプト記32〜33章

1.  モーセとその時代


2.  神のモーセに対する強制

「それでもなお、モーセは主に言った。『ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。』主は彼に言われた。『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。』モーセは、なおも言った。『ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。』主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。……」出エジプト記4:10‐14

こうしてモーセは神の召しに捕らえられ、ついに自分もそれに従うことを決意して出発します。

「主はミディアンでモーセに言われた。『さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。』モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。」4:19‐20


3. モーセの神に対する強制

モーセの留守中、民は金の子牛を作って拝むという大きな罪を犯しました。

「『今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、
どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。』」32:32

「主が、『わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう』と言われると、モーセは主に言った。『もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。』
主はモーセに言われた。『わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。』」33:14‐17

神はモーセの命がけの祈りに答え、イスラエルの民と共に行くことをあらためて約束されました。

4.  イエスの教え──しつように頼む

「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」ルカ11:8

・隣人の必要のためにしつこく祈る。
・神は決して無視されなさい。

5.  神はわたし(たち)に何かを求めておられるだろうか?
    わたしたちは神に何を求めるか?

アブラハムの祈り──旧約聖書の祈り 1 「創世記」から

(京都聖三一教会での聖書の会のレジュメです。)

2011/03/20

ソドムのための執り成し 創世記第18章 

1. アブラハムという人
   ロトとの別れ

2. ソドムへの審判の告知とアブラハムのとりなし

「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
アブラハムは進み出て言った。
『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。』

主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。』

アブラハムは答えた。『塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。』
主は言われた。『もし、四十五人いれば滅ぼさない。』
アブラハムは重ねて言った。『もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。』
アブラハムは言った。『主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。』
主は言われた。『もし三十人いるならわたしはそれをしない。』
アブラハムは言った。『あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。』
主は言われた。『その二十人のためにわたしは滅ぼさない。』
アブラハムは言った。『主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。』」
創世記18:22‐32

3. イエスのとりなし

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:31‐32

「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」ローマ8:26

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」ローマ8:34

「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」ヘブライ7:25

4. わたしたちのとりなしの祈り

洗礼式文「祭司職」
「十字架につけられたキリストへの信仰を告白し、その復活を宣言し、ともに祭司職にあずかる者となりましょう」

聖餐式文 感謝聖別
機 屬修靴得士遒鯀り、わたしたちを神の民としてみ前に立たせ、主の祭司として主とすべての人々に仕えさせてくださいます」
供 屬錣燭靴燭舛髻△濮阿卜たせ、祭司として仕えさせてくださることを感謝し」

5. 執り成し──祭司職
神と人々(世界)の仲介をする者

日ごとの聖句472 主はわたしの羊飼い 2011/5/15〜21

2011年5月15日(日)復活節第4主日        ヨハネ10:10
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

5月16日(月)                   詩編23:1‐2
主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴われる。

5月17日(火)                    詩編23:4
死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。

5月18日(水)                  ヨハネ10:11
イエスは言われた。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

5月19日(木)                  ヨハネ10:14
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」

5月20日(金)                  ヨハネ10:16
「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

5月21日(土)                    詩編23:6
命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

彼は陰府(よみ)に捨てておかれない

使徒言行録2:31

 わたしたちは1週間前にイースター、主イエス・キリストの復活を祝ったのですが、それでイースターが終わったのではありません。始まったのです。

 イースターから、最初の教会の歴史が始まりました。復活された主イエスさまが生きて働かれたので、それに動かされて教会は発展していきました。その姿をわたしたちは使徒言行録に見ることができます。そのため復活節には必ず使徒言行録を朗読することが教会の伝統となりました。
 そこでイースターから聖霊降臨日に至る50日、この復活節の主日には、継続して使徒言行録からお話をしたいと思います。主イエスの復活の力が、どのように人々を動かしていったかを見つめてみたいのです

 今日の使徒言行録は、聖霊降臨日のペテロの説教の一部です。ペテロは他の十一人と共に立って、「声を張り上げて話し始めた」と書いてあります(2:14)。

 ペテロはイエスの受けられた苦しみ、十字架の死を語ります。

「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」2:23

 続いてペテロはイエスの復活を語ります。

「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」2:24

 ここで気づくのは、ペテロが「イエスが復活した」という表現をせず、「神がイエスを復活させた」と言っていることです。イエスは死の苦しみに閉じ込められていた。そのイエスを、神が死の苦しみから解放された、とペテロは強調します。
 
「ダビデは、イエスについてこう言っています。」使徒言行録2:25

 ペテロは旧約聖書・詩編の中に、死の苦しみの果てに陰府(よみ)に降(くだ)られたイエスの姿を見出します。
 ペテロが説教の中で引用して語った詩編の言葉を読んでみましょう。

「『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。』」2:25

 ペテロが引用する詩編第16編はダビデの詩と伝えられるのですが、ペテロはここにイエスの祈りの声を聞くのです。イエスはいつも目の前に神を見ておられた。

「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。
体も希望のうちに生きるであろう。
あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。」2:25‐27

 
 十字架の上で苦しみ、死んで陰府に降られたイエスが祈っておられます。

 「陰府」とは否定的な意味で言われる死者の国です。救いなく、希望のない闇の世界。どんなにうめいても苦しんでもそこから逃れることのできない世界です。
 ペテロはこの詩編の中にイエスの声を聞いています。陰府に降られたイエスの声です。

「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
あなたの聖なる者を
朽ち果てるままにしておかれない。」2:27


 イエスが死んで、陰府に降って、捨てられたようになっておられる。救いも希望も光もない闇の世界の中に閉じ込められたイエスが祈っておられる。

 ペテロは、あの最後の晩餐のとき、「たとえ死ぬようなことがあっても従って行きます」とイエスに誓ったのに、イエスを見捨てた。そのためにイエスは死んで陰府に降られた。イエスは、神と人に捨てられたかのように、殺されて死んで、陰府に降られた。苦しみと闇を人として味わい尽くして、底なしの淵に沈まれたイエス。ペテロがイエスの死を語るとき、自分の負い目を感じて心がうずきます。

 しかしそのようにしてイエスは人の友、人の仲間となられました。苦しんで死んで、闇から逃れられない人のひとりとなられました。それは陰府に降った人々を見捨てないためです。

 あの聖金曜日の翌日、イエスは陰府の苦しみの中におられます。聖土曜日です。
 
 しかし転換が起こります。神がイエスを復活させられたのです。
 ペテロは説教を続けます。

「そして、(ダビデは)キリストの復活について前もって知り、
『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』
と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」使徒言行録2:31‐32


 先ほどペテロは詩編を引いて、イエスがいつも神を見ておられたことを語りました。

「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。」

 しかし今はペテロ自身が、主イエスを目の前に見ています。復活された主をはっきりと見ています。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」

 この「わたしたちは」は、ギリシア語原文では非常に強い表現になっています。「証人」は特別な言葉です。あることを保証し、それに対して自分が責任を持つのが証人です。神が、死んで陰府に降られたイエスを復活させられた──その事実を自分たちが命がけで保証する。そのために死んでもよい。

 もしイエスが死んでそれで終わったとすれば、ペテロは一生自分のしたことを悔いて、自分を赦すことができずに苦しみ続けることになったでしょう。しかしイエスは、ガリラヤ湖畔でペテロを待っておられて、朝の食事の用意をしていてくださった(ヨハネ21:1‐14)。復活のイエスから彼は赦しを受け、慈しみに包まれたのです。

 ところで「証人」と訳されたのは「マルテュス」というギリシア語ですが、これはやがて英語に入りました。"martyr"(マーター)、殉教者という意味です。実際にペテロは後にローマで殉教したと伝えられます。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」 

 主の復活を証しするペテロのうちに、復活の主イエスご自身が生きて働いておられます。

 祈ります。
 神さま、ペテロとともに、わたしたちも目の前に、十字架に死んで陰府に降られた主を見させてください。復活された主イエスをはっきりと見させてください。疑いや不確かな思いの中にわたしたちを取り残さないでください。わたしたちの心も喜び楽しみ、体も希望のうちに生かしてください。復活された主イエスがわたしたちの力、わたしたちの命となってくださいますように。アーメン

(2011/05/01 京都聖三一教会)

ミリアムと二人のマリア

 今日の聖書日課には三人のマリアが出て来ました。日曜日の朝早く、イエスの墓に行った二人のマリア──マグダラのマリアともうひとりのマリアです。
 さらにもうひとりのマリアがその前に登場していました。今日の旧約聖書、出エジプト記第15章20節です。

「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。」

 この「ミリアム」という名前は「マリア」と同じです。ヘブライ語のミリアムが後にギリシア語に入ってマリア(ム)となったので、実は同じ名前なのです。それで今日は二人のマリアからさらに1200年くらいも昔、紀元前1200年頃のマリア、すなわちミリアムに目を注いでみることにしましょう。

 その時代、エジプトに暮らしていたイスラエルの人々は強制労働に従事させられ、エジプトの巨大な力によって迫害、侮辱、虐待に苦しめられていました。さらにエジプトの王ファラオは、「イスラエルの家に男の子が生まれたら一人残らずナイル川に放り込め」という命令を出しました(出エジプト記1:22)。

 ある家に男の子が生まれました。その子かかわいかったので、お母さんは3ヵ月の間隠しておきました。しかしもう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだ籠を用意して、その男の赤ちゃんを入れて、ナイル川の葦の茂みに置きました。

 その赤ちゃんに姉がいました。ミリアムです。まだ10歳にもなっていなかったかもしれません。一緒について行った少女ミリアムは、立ち去ることができず、遠くから弟がどうなることかと様子を見つめていました。どんなに心配で、どんなに祈っていたことでしょうか。

 そこにファラオの王女が水浴びにやってきました。葦の茂みに籠を見つけ、開いてみると男の赤ちゃんがいて、泣いていました。そのとき、ミリアムは王女のところに行って言いました。「この子にお乳を飲ませる女の人を呼んできましょうか」。王女が「そうして」と答えたので、ミリアムはほんとうのお母さんを呼んできました。こうしてその子モーセは実のお母さんに育てられ、やがて大きくなると王女に引き取られて、イスラエルの人でありながらエジプトの王子として成長したのです。これがモーセです。このようにしてモーセの姉ミリアムは、幼いながら弟モーセの命を助けたのでした。
 
 モーセはエジプトの王子として成長したけれども、自分がイスラエル人であることを知っていたので、彼の心はエジプトとイスラエルの間で葛藤して苦しんだと思います。やがてモーセは殺人事件を起こしてしまいました。街を歩いていたとき、同胞のイスラエルの一人がエジプト人の監督に虐待されているのを見て、憤りを抑えることができず、エジプト人を殴り殺してしまったのです。もうエジプトにいることはできません。ファラオはモーセを殺そうとし、モーセはエジプトを脱出してひとり遠くミディアンの地に逃れました。モーセは40歳でした。

 姉のミリアムはどうしていたでしょうか。聖書には何も書かれていませんが、モーセの逃亡を助けたことは十分考えられます。殺人犯として指名手配されたモーセの姉として、ひどい迫害に遭ったかもしれません。行方不明となった弟モーセの身を案じ、案じ、悲しんで、ミリアムは毎日祈っていたことでしょう。

 それから40年が過ぎました。一日も忘れることなく祈り続けたミリアム。どんなにつらい40年だったでしょうか。モーセは戻ってきました。再会を喜び合ったでしょう。ミリアムはモーセの決意を聞かされました。虐待され続けているイスラエルの人々をエジプトから脱出させる、という途方もない計画です。神がそれをモーセに託しておられるのだと。ミリアムは決意してモーセに協力します。

 非常な苦労と戦いの末、ついにファラオはイスラエルを去らせることを許可したので、モーセはイスラエルの人々を率いてエジプトを脱出し、先祖の土地を目指して出発しました。ところが、ファラオは心変わりして軍隊をもって追跡し、背後から襲いかかろうとしました。
 前は海、後ろに迫るのはエジプトの軍隊。イスラエルの内部にはモーセをののしる叫びが上がっています。モーセはただ神に向かって叫ぶしかありません。絶体絶命の窮地に立ちました。これが今日の旧約聖書の場面です。

「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。」出エジプト記14:21‐23

 そのとき、海の水が逆流してきてエジプトの軍隊を呑み込みました。イスラエルは奇跡的に救われたのです。
 ここでかつてモーセの命を救ったミリアムが、80年ぶりに表に現れます。

「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。」出エジプト記15:20

 「女預言者ミリアム」。聖書に出てくる最初の女預言者がこのミリアムです。なぜ彼女は預言者と呼ばれたのか。それはミリアムが神の言葉を人々に伝え、人々はミリアムの口をとおして確かに神が語られるのを聞いたからです。神はモーセをとおして語り、モーセをとおして働かれました。ミリアムはそれに献身的に協力したでしょう。しかしミリアムはただ協力者、脇役として弟モーセを助けたのではなく、彼女自身が神の声となり、神の手となって行動したのです。

 イスラエルの人々は奇跡的にエジプトから脱出することができました。ものすごい興奮が人々を包んでいます。しかしこの興奮には危険があります。人々はモーセを英雄として祭り上げ、またやがては自分たちのことをも何か偉い者であるかのように錯覚するかもしれません。成功の興奮は分裂と破滅に至る危険があります。

 ミリアムは人々の前で小太鼓を手に取り、音頭を取って歌いました。

「主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。」15:21

 ミリアムはイスラエルの人々の心を主に向けさせました。モーセを英雄とするのではなく、自分たちの成功を誇るのではなく、エジプトから自分たちを救い出してくださった神に向かって祈り、賛美の歌をうたうように、ミリアムは人々をリードしたのでした。神が救いのわざを行われた。ここに命があり力があり、また人々の一致があります。

 このミリアムから1200年後、ミリアムと同じ名を持つ二人のマリアがイエスの墓に行きました。かつてミリアムがモーセに協力して神の救いの奇跡を体験したように、イエスを慕い求めイエスに協力した二人のマリアにも何かが起こります。

「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。……急いで行って弟子たちにこう告げなさい。"あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。"確かに、あなたがたに伝えました。』婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』」マタイ28:5‐10

 イエスはマリアたちを待っていて、「おはよう」と言われました。どれほどうれしかったことでしょうか。

 今日の使徒言行録にあったようにペテロはこう語りました。

「人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。」10:39‐40

 モーセ、ミリアムのときにそうだったように、神が行動されました。神がイエスを復活させてくださいました。それは、わたしたちが悲しみと失望の中に沈み込んで滅びてしまわないためです。
 
ミリアムの小太鼓が今も鳴っています。ミリアムの歌が今も響いています。

「主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。」

二人のマリアが喜びつつ告げています。

「あの方は死者の中から復活された」

 この三人のミリアム、マリアに励まされて、わたしたちも神の業に目を上げ、感謝と賛美を歌うことができますように。主イエスはわたしたちに会おうとして待っておられます。

(2011/04/24 京都聖三一教会)

主はわが牧者 詩編23:1

夜、礼拝堂でヨハネ第10章全体をルター訳ドイツ語聖書で朗読してみました。

ヨハネ10:14
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知
っている。」


Ich bin der gute Hirte und kenne die Meinen, und die Meinen kennen mich,

(わたしは良い羊飼いであり、そしてわたしのものを知っており、そしてわたしのものはわたしを知っている。)


イエスさまが「わたしのものを」「知っている」と言われるのです。

ギリシア語を確認すると、エゴー「わたしは」という主語が非常に強く前に出ています。ギリシア語を直訳するとルター訳とほぼ同じです。

後は次のように続きます。

10:27
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」
10:28
「 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

この後
10:31
「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」
と続きます。

「わたしは良い羊飼いであり、わたしのものを知っている」と言われた方は、それを実行するために(ご自分のものを守るために)命を危険にさらしておられたのだ、とわかりました。

そのような方としてイエスはわたしたちのためにいてくださるのです。

この箇所の元になっていると思われるのは詩編第23編の冒頭です。

「主はわたしの牧者、わたしは乏しいことがない」
詩編23:1


これをヘブライ語原文で調べました。

すると「牧者(羊飼い)」という名詞ではなく、「牧する」「世話する」という意味の動詞が使われています。

「主はわたしの牧者」というより、「主はわたしを牧される/世話をされる/草を食べさせられる」という動詞で訳す方が直訳になります。

主なる神がわたしに目を注ぎ、わたしを守り導き養われる。
神さまがわたしに働きかけてくださる、その思いと行為が原文にはこめられているように感じます。

ヘブライ語では「わたしを」は単独の目的語としては明示されていませんが、「牧する」という動詞の中に「わたし」がに含まれているようです。

旧約聖書のギリシア語訳(LXX=七十人訳聖書)では忠実に
「主はわたしを牧される(世話される)」
なっています。

これを調べているあいだ、シューベルトの合唱曲「詩篇第23編」が響いていました。

黙想会「主の祈り」2011

京都聖三一教会 黙想会 2011

わたしたちに祈りを教えてください
     ──「わたしの主の祈り」を祈る

と き・2011年5月22日(日)午後1時20分〜3時
ところ・京都聖三一教会礼拝堂


講話・井田 泉司祭

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。
そこで、イエスは言われた。
『祈るときには、こう言いなさい。
“父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。……”』」ルカ11:1‐2

「主よ、わたしたちに祈りを教えてください。」
弟子のひとりがイエスさまに求めた願いは、わたしたちの願いでもあります。

主日の午後のひととき、祈っておられるイエスさまの傍らに近づき、わたしたちもイエスさまから祈ることを学びましょう。

日常、繰り返し用いている「主の祈り」の意味を新しく受けとめ、それを自分のものとして祈るために、「わたしの主の祈り」を作る試みもしてみたいと思います。どなたでもご参加ください。

♪ 今年も小野純子さんにライアーの奏楽をお願いしています。

第3回 聖公会平和ネットワーク全国の集い 2011/5/2〜4

「第3回 聖公会平和ネットワーク全国の集い」が5月2日(月)〜4(水)、浅草聖ヨハネ教会を会場に開かれました。

「貧困と災害」について松井範惇さん(小金井聖公会、帝京大学教授)のお話を、「『日の丸・君が代』と信教の自由」について井黒豊さん(松戸聖パウロ教会、東京都立淵江高校教員)のお話を伺い、学び合いました。

小人数ながら聖公会平和ネットワークの存在意義を再確認する大変意味深い集まりとなりました。

特に日の丸・君が代の学校現場での強制の現実を焦点として、集い参加者一同の名で声明文を作成し、閉会聖餐式で朗読し、神さまにおささげしました。この内容は多くの方々に共有していただきたく思います。

聖公会平和ネットワーク
 共同代表 司祭 井田 泉  司祭 李民洙


聖公会平和ネットワーク第3回全国の集い
声明文


わたしたちは、この集いを通して、東京都教育委員会2003年10月23日通達に拠る、東京都の学校での「日の丸・君が代」強制(特に「君が代」を立って歌うことの強制)に、教員として対峙しているレビ井黒豊さんの証言を聞き、その痛みを受け止めました。また、参加した数人の証言を通して、おなじような痛みや苦しみが多くあることを知りました。

また、聖書と礼拝を通して、「立つJということが、私たちの信仰において深い意味を持つものであることを学びました。

わたしたちは、信仰によって「日の丸・君が代J強制に従うことができない人々を見過ごすことはできないと感じ、ともにありたいと願い、祈ります。

そして、聖公会平和ネットワークにつながる私たちは、「日本聖公会の戦争責任に関する宣言」(日本聖公会1996年第49(定期)総会)を継承しつつ、この課題を担い、

1. 聖公会の信徒として、「日の丸・君が代」強制に向き合い、いま法廷に立っている井黒豊さん、岸田静枝さんを支援します。

2. 神に愛され神に仕える者として、この問題を引き起こしている権力・閣の力に、共に立ち向かいます。

3. 正義と平和についての福音のメッセージをさらに探求し、その実践に取り組みます。

2011年5月4日
聖公会平和ネットワーク第3回全国の集い参加者一同


日本聖公会1996年第49(定期)総会「日本聖公会の戦争責任に関する宣言」については次をご覧ください。
   ↓
http://www002.upp.so-net.ne.jp/izaya/NSKKSensekiketsugi1996.pdf

「なぜドイツは脱原発に踏み込んだか」

池住義憲氏のメール通信「なぜドイツは脱原発に踏み込んだか」(2011年5月5日)

重要な内容と思いますのでご紹介します。
                 
次のサイトをご覧ください。
   ↓
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/f832a8907cc88df70b9299a4558a124b

日ごとの聖句471 パン 2011/5/8〜14

2011年5月8日(日)復活節第3主日      使徒言行録2:46‐47
彼らは家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた

5月9日(月)                   マルコ6:41
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。

5月10日(火)                   ルカ24:30
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

5月11日(水)                   ルカ24:35
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

5月12日(木)                 使徒言行録2:42
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

5月13日(金)                   ヨハネ6:35
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。」

5月14日(土)                   ヨハネ21:9
さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
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 『日韓キリスト教関係史資料』第3巻の編集
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奈良基督教会牧師
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