Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2011年07月

聖霊のうめき ローマ(4)

ローマ8:26‐34

 聖書全体は言わば巨大な宝の山です。金か銀か銅か、あるいはダイヤモンドか、おびただしい宝が地中に深く埋蔵されています。表面を見ただけでは、ちょっと歩いただけでは、それがよくわからない。けれども今わたしたちが歩いているのは、深い鉱脈が地表に出ているところです。その鉱脈を掘り進めば、すばらしい宝に行き当たり、わたしたちの人生が一変するかもしれません。聖書全体の中でも、ロマ書第8章は特別なところなのです。

「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」8:26

「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」

 どう祈っていいかわからない。イエスさまの弟子たちもその思いがあったから、イエスさまに問いかけたのでした。それに答えてイエスさまは「主の祈り」を教えてくださいました。パウロにとってもある時期、「どう祈っていいかわからない」というのが重い苦しみでした。

 祈って神さまに近づいて、神さまに解決していただかなくてはならないと思うのですが、近づけないのです。祈る言葉がない。言葉があっても空しいというか、とても無力を感じる。自分の内側もそうだし、自分をとりまくすべてももうどうしたらよいかわからない。どうすることもできない状態です。祈りの言葉はつかえて、とても神さまには届かない。神さまはどこにおられるのかわからない。

 祈っても何の手応えもなく、まったく行き詰まって、あせりと疲労と失望の中で、命がすり減ってゆく気がする。
 これはパウロ自身が経験し、多くの神さまに仕えた人々が一度は経験したことがらです。
 そういうわたし自身も、これに身に覚えがあるのです。

 今から27年くらい前のことです。当時わたしは聖公会神学院の構内に住んで、立教大学に通勤していました。文学部キリスト教学科の助手をしていたのです。そのころある問題を抱えていて、いくら祈っても事態は好転せず、祈り疲れて疲弊した状態になっていました。いつも胸の中に重苦しいものを抱えていて、祈っても甲斐がない。祈るほどに心は焼けただれるような状態でした。

 そうしたとき、キリスト教学科の読書室の本棚で見つけた1冊の本を借りて帰りました。ドイツの神学者ハンス・ヨハヒム・クラウスという人の『力ある説教とは何か』(日本基督教団出版局)という題の本でした。
 帰ってから、疲れていたので横になってその本を眺めはじめました。読んでいるうちに寝転んでいられなくなって、起き上がって真剣に読みました。それくらい自分に迫ってくるものがあったのです。

 クラウスのその本の終わりのほうは、今日ご一緒に読んだ使徒書、ローマの信徒への手紙第8章26節以下の講解(解説)でした。

 そこでわたしは初めて知ったのです。

 自分ががんばって祈らなくてもよい。祈り疲れて、それでも祈らなくてはと自分を無理強いしなくてよい。わたしのために、わたしに代わって、聖霊が祈っていてくださる、ということを知ったのでした。
 
「"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」8:26

 祈ることの無力を感じるそのわたしの中で、神の霊がわたしと共にうめいておられる。祈りにならないわたしの苦しい胸のうちを聖霊が引き受けてうめかれる。
 わたしが祈ることをやめても休んでも、聖霊はわたしの中でうめいて、神に向かって叫んでおられるのです。

 わたしからは神に届かない、わたしの祈りはとうてい神に至らない、神は沈黙しておられると失望しているとき、わたしの焦り、苦しみ、失望、悲しみを聖霊が引き受けて、うめいて神に届けていてくださるのです。わたしが自分のことを知っている以上に、聖霊はわたしのことを知っておられます。

「人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。"霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」8:27

 わたしの祈りが衰えたとき、聖霊がわたしに代わって祈ってくださる。聖霊のうめきは神に届くのです。神は聖霊のうめきをとおして、わたしの深い思いを、わたしも知らないわたしの心の奥までも、汲み取ってくださいます。神は、わたしが自分のことを知っているよりももっと深く、わたしのことを知ってくださるのです。

 聖霊がわたしのために切に祈って執り成していてくださる。──これが、わたしがその本をとおして知らされたことでした。

「"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

 厳しい状態の中に苦しんで、祈れなくても心配ありません。聖霊が祈っていてくださるから大丈夫です。疲れたときは休んで、委ねておいていいのです。

 しかしやがて聖霊はわたしを回復させてくださいます。わたしの中で神に向かってうめかれる聖霊はわたしを支えてくださり、やがて聖霊によって癒しが、治癒が起こります。聖霊のうめきはわたしを回復させてくださいます。そうしてわたしは元気づけられて、わたしはまた新しく、前とは違う思いで祈ることができるようになるのです。

 神さま、わたしたちがどう祈ってよいかわからないとき、わたしたちの中で聖霊がうめき祈っていてくださることを教えてください。聖霊がわたしたちを癒してくださり、新しく祈るわたしたちにしてくださいますように。主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン

(2011/07/24 京都聖三一教会)

共にうめきつつ待ち望む ローマ(3)

ローマ8:18‐25

 今日のこの箇所に一つの大切な言葉が3回繰り返されていました。「待ち望む」という言葉です。

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」ローマ8:19

「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」8:23

「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」8:25


 被造物は待ち望み、わたしたちも待ち望み、わたしたちは待ち望む。このことを忘れずにいたいと思います。わたしたちには将来がある。神さまが実現してくださる救いが未来にはある。過去と現在だけに縛られない。神がわたしたちにはっきりと現れてくださる未来、わたしたちが神の子としてはっきりと現れる将来があるのです。それを、わたしたちは忍耐して待ち望みます。

 ところで「被造物」という言葉をここでパウロは何度も語りました。

「被造物は切に待ち望んでいる」。8:19

「被造物は虚無に服しているけれども、同時に希望も持っている」。8:20


 ひょっとしたらわたしたちの信仰のイメージの範囲は小さすぎたかもしれません。被造物とは、クリスチャンだけのことではない。人間だけのことではない。動物も植物も、自然も、息の通っているものもそうではないものも含めて、すべての被造物が救いを待ち望んでいるというのです。わたしたちの関心を広げたい。この社会、この国、この大地から、救いを切望する呼び求めが立ち上がっています。
 パウロは、この人間の社会と自然を含む全被造物が、共にうめいているうめき声を聞いています。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」8:22

 今日まで、全被造物は共にうめき続けてきた。ずっと長い間、うめき続けてきた、というのです。

 旧約聖書の預言者の中には、大地のうめきを聞いた人たちがいます。その一人はエレミヤです。

「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。
わたしは見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。
わたしは見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。」エレミヤ4:23‐25

「それゆえ、地は喪に服し、上なる天は嘆く。」4:28


 地が喪に服し、大地がうめいているのを聞いていたエレミヤは、ユダの国が人の罪によって滅びようとするとき、大地に呼びかけて言いました。

「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け。」22:29

 人が神の言葉を拒絶したとき、エレミヤは荒廃した大地に向かって訴えるしかありませんでした。エレミヤは大地と共にうめいたのです。

 今も大地はうめいています。エレミヤの時代よりももっとひどく。砂漠化していく大地、放射能を浴びた大地はうめいています。

 エレミヤ以上に、人のうめきと大地のうめきを知っておられたイエスさまは、ご自身もうめかずにはおれませんでした。マルコ福音書にこのように書かれています。

「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、」マルコ7:32‐34

 「深く息をつく」。深い嘆息。これがパウロの「うめく」という言葉と同じなのです。「ステナゾー」という言葉です。
 耳が聞こえない、舌の回らない人のうめきに触れたイエスさまもうめかれました。

「イエスはその人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」マルコ7:34‐35

 イエスのうめきが、この人を何とかしたいという切望が、「エッファタ」(開け!)の叫びになりました。この人の耳と口は開かれました。

 ところで、この人はわたしのことではないか。神の声が聞こえない。イエスさまの声が聞こえない。舌が回らず祈れない。このわたしのために、イエスさまは天を仰いでうめかれる。神に向かって閉じられたわたしたちの耳と口を開こうとして、わたしたちを神に向かって開こうとしてうめかれる。この人に起こったことがわたしたちにも起こるように。

 わたしがうめき、イエスがうめかれます。

 神がおられるなら、イエスがうめかれるなら、うめきはうめきで終わらない。それは新しい世界の産みの苦しみです。新しい創造の始まりです。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」8:22‐23

 被造物がうめき、わたしたちも被造物のうめきと共に救いを求めてうめくとき、思いもしなかった別の存在がわたしたちの中でうめいておられるのをパウロは知ります。聖霊がうめかれるのです。そこは来主日に朗読されます。

 主なる神さま、このわたしたちのうめきと世界のうめきを、ただ苦しみのうめきに終わらせないでください。神と共に生きる新しい創造の、産みの苦しみとしてください。わたしたちの耳と口を、あなたに向かって開かせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

(2011/07/17 京都聖三一教会)

日ごとの聖句483 行く道 2011/7/31〜8/6

2011年7月31日(日)聖霊降臨後第7主日     ネヘミヤ記9:12
あなたは昼は雲の柱、夜は火の柱をもってわたしたちの先祖を導き、その進み行く道を照らされた。

8月1日(月)                  イザヤ書26:7
神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。

8月2日(火)                  イザヤ書45:13
わたしは正義によって彼を奮い立たせ、その行く道をすべてまっすぐにする。

8月3日(水)                 ネヘミヤ記9:15
あなたは、彼らが飢えれば、天からパンを恵み、渇けば、岩から水を湧き出させられた。

8月4日(木)                 ネヘミヤ記9:17
しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった。

8月5日(金)                 ネヘミヤ記9:19
まことに憐れみ深いあなたは、彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。

8月6日(土)主イエス変容の日         ネヘミヤ記9:19
あなたは昼は雲の柱を取り去ることなく行く手を示し、夜は火の柱を取り去ることなく、行く道を照らされた。

日ごとの聖句482 海 2 2011/7/24〜30

2011年7月24日(日)聖霊降臨後第6主日        詩編66:6
神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。

7月25日(月)使徒聖ヤコブ日            詩編69:35
天よ地よ、主を賛美せよ、海も、その中にうごめくものもすべて。

7月26日(火)                   詩編77:20
あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。

7月27日(水)                    詩編95:5
海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。

7月28日(木)                 詩編96:11、13
天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ、海とそこに満ちるものよ、とどろけ。主を迎えて。

7月29日(金)                 詩編146:5‐6
いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人。天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神を。

7月30日(土)                   詩編146:7
とこしえにまことを守られる主は、虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。

日ごとの聖句481 海 2011/7/17〜23

2011年7月17日(日)聖霊降臨後第5主日       創世記1:10
神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。

7月18日(月)               出エジプト記14:21
モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。

7月19日(火)               出エジプト記14:22
イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

7月20日(水)               歴代誌上16:31‐32
天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ。国々にふれて言え、主こそ王と。
海とそこに満ちるものよ、とどろけ。

7月21日(木)                 ネヘミヤ記9:6
あなたのみが主。天とその高き極みを、地とその上にあるすべてのものを、海とその中にあるすべてのものを、あなたは創造された。

7月22日(金)マグダラの聖マリヤ日         詩編46:2‐3
苦難のとき、神は必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない、山々が揺らいで海の中に移るとも。

7月23日(土)                    詩編65:6
わたしたちの救いの神よ、遠い海、地の果てに至るまで、すべてのものがあなたに依り頼みます。

「アガペートス」 愛されている者

「アガペートス」というギリシア語に新しく出会いました。

このところ連続でローマ書(ローマの信徒への手紙)による説教を開始していて、言葉としても内容としてもむつかしいものに取り組んでいる気がします。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」8:14‐15

この長大な手紙をパウロはだれに宛てて書いているかというと、まだ直接出会ったことのないローマの教会の人々です。

手紙の冒頭に、差出人と宛先が記されています。

「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」1:7

パウロは「神に愛されている人々」に向けてこの手紙を書いていることがわかります。
つまりパウロは冷たい気持ちでよく知らない人々に対して議論しているのではなく、「神に対されている人々」に対して、自分も相手を大切に思い、愛しつつ、大切な内容をこの手紙によって届けようとしているのです。

この「愛されている者」をギリシア語原典聖書で確かめてみると、「アガペートス」という言葉が使われています。

ふと思い出して確かめてみると、この「アガペートス」(愛されている者/わたしが愛している者)という言葉は、イエスさまの洗礼のときに天から聞こえた声にも含まれていたのです。

「これはわたしの愛する子」マタイ3:17
「あなたはわたしの愛する子」マルコ1:11


パウロはこの手紙を書きつつ、神がローマの人々に向けて、「あなたがたはわたしの愛する者(愛する子)」と呼びかけられているのを聞いていたのです。

それに気づいたとき、この手紙をいま読んでいるわたしも、「アガペートス」(愛されている者/わたしが愛している者)」として呼びかけられているという思いが起こりました。この言葉はわたしを浸します。


一般に難解とされるローマの信徒への手紙は、このように読んでいくことができると感じます。

このような経緯を経て、説教は次のようなものになりました。この説教の中では「アガペートス」については直接言及していませんが、その響きが込められています。

http://blog.livedoor.jp/izaya/archives/51792909.html







あなたがたは神の子とする霊を受けた ローマ(2)

ローマ8:9‐11

 今、聞いた種蒔きのたとえ(マタイ13章)はよくご存じの方が多いでしょう。わたしにはひとつ心配があります。これを聞くたびに感じられるのではないか。「自分は道端ではないか。自分は石地、茨の土地ではないか。せっかくの種を枯らしてしまうのが自分ではないか」と。それはそれでよい、誠実な感じ方です。けれども今日は思い切って別の読み方をしてみたい。
 自分は種を蒔く人なのだ、と。

「わたしが種を蒔いているように、あなたがたもわたしと一緒にみ言葉の種を蒔いてほしい。命のみ言葉の種を一緒に蒔こう。そして一緒に収穫を喜ぼう」──そのようにイエスは言われるのです。

 今日はローマ書の第2回目です。今日の箇所の初めを読んでみましょう。

「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。」8:9

 パウロはこの手紙を、まだ直接出会ってはいないローマの教会の人々に宛てて書いたのですが、何語で書いたかというとギリシア語です。ここをギリシア語の聖書を開いて確かめてみたのですが、びっくりしたのはいきなり「あなたがたは(ヒュメイス)」という言葉で始まっていることです。ギリシア語では「あなたがたは」という主語はなくても十分通じるのですが、ここでパウロはぜひとも相手にこのことを聞いてほしいので、「あなたがたは」「皆さんは」と強く呼びかけたのです。
直訳しますと──

「あなたがたは(皆さんは)肉の中にいるのではなく、霊の中にいる。」

 「肉」というのは、ありのままの人間の姿、人の現実を言う言葉です。人の弱さや有限性を示す言葉です。人は悩む。人は欲に動かされる。人を気にし、自分に苦しむ。傲慢になり、あるいは反対に自分を卑下する。人を抑えつけたり、抑えつけられたりして、傷つけ、傷つけられ、病んで、いずれは滅びていく──これが肉としての人間です。ところがパウロは、「あなたがたは肉の中にいるのではない。霊の中にいるのだ」と言うのです。

 「霊」とは、神の息吹です。神の息吹を受け、神によって生かされた、自由で平和で情熱を与えられた人のあり方です。

「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。」8:9

 直訳すると──

「あなたがたは肉の中にいるのではなく、霊の中にいる。神の霊があなたがたのうちに宿っているのであれば。」

 実は、わたしたちの中には神の息吹が吹き込まれています。神の息吹がわたしたちのうちに生きて働いているとき、わたしたちは謙遜になり、自由になり、自分と人を尊びます。これが本来のわたしたちの姿、神に造られたわたしたちのほんとうの現実です。ところがわたしたちはしばしばそれを見失う。忘れてします。自分の中に神の息吹が吹き込まれていることを忘れて、窒息状態になります。自分のせいとは限りません。この世に働く力がそうさせることがあります。

 それでパウロは、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」と言って、わたしたちにそれを思い出させようとしているのです。神の霊がわたしたちのうちに宿っている。神の息吹がわたしの中に吹き込まれている。わたしたちは神の霊を宿し、神の霊に包まれている。それを思い出そう。それを取り戻そう。

 もう20年も前ですが、わたしも通勤していた時代がありました。世田谷区の聖公会神学院の構内に住んでいて池袋の立教大学まで通勤していました。満員電車が苦手でした。物理的に苦しいだけではなく、精神的に窒息しそうになる。途中で辛抱できなくなって、電車を降りて、また乗り直す、ということが何度もありました。満員電車の中で目を閉じて、草原をイメージして、谷川のせせらぎを思い浮かべて、風の音を聞くようにしたりしたことを思い出します。神の息吹を感覚として取り戻すことはとても必要です。

 14節と15節を読みます。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」8:14‐15

 わたしたちは神の子とされました。言わばわたしたちには神さまが用意してくださる証明書があって、それには「この人は神の子」と書いてあるのです。

 ところでパウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのだ」と言います。神の霊は人を解放する。「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」と言われていますが、こう言うのは実際にわたしたちがしばしばそういう状態に陥るから、閉じ込められてしまうからです。この世界には人を恐れに陥れる霊が働いている。縛り付ける力、萎縮させる力。抑圧する力が働いている。それは悪い力です。神の霊はわたしたちをその悪い力から解放して自由にする。神のみを恐れるようにして、他の恐れから解放します。

 ここで大切に聞きたいのは、「あなたがたは神の子とする霊を受けた」という言葉です。
あなたは神の子。しかしただそういう者にされたというだけではなく、「神の子とする霊を受けた」。これは、神さまからの直接の働きかけを受けたということです。神はわたしを神の子とするとき、わたしに目をとめてくださった。わたしを大切な存在と見てくださった。わたしを呼んでくださった。

「あなたはわたしの愛する子」。

 これはイエスさまが洗礼を受けられたとき、天から響いた神の声と同じです。

 あなたはわたしの大切な子ども。あなたはかけがえのないわたしの子、わたしの喜び。あなたの喜びがわたしの喜び。あなたの苦しみはわたしの苦しみ。あなたが好きで、大切で、たまらない。あなたを失うようなことがどうしてできようか。

 神さまがわたしたちを愛して「わが子」としてくださるその愛と感動がわたしたちの中に注ぎ込まれた。「神の子とする霊を受けた」とはこのことです。

 それでわたしたちのほうも神さまに対して心の扉が開かれて、神を呼ぶ。あなたはわたしの神、わたしたちの神。大切な、とうとい、愛する天の父として神を呼ぶのです。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」8:14‐15
 
 わたしたちは、神の子イエス・キリストとともに神の子とされたから、キリストと共に歩む。まっすぐに神の国を目指して歩みます。この世界に神の国のしるしを実現するために、キリストと共に神の言葉の種を蒔き、キリストと共に労苦する。そしてキリストと共に収穫し、神の国の実りを共に喜ぶのです。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」8:17

 わたしたちは神の国をキリストと共に受け継ぐ者、神の国の宝を共に受け取る者です。

 神さま、あなたはわたしたちをあなたの愛する子とし、「神の子とする霊」を注いでくださいました。わたしたちのうちに新しく、あなたの愛される子を呼び覚ましてください。恐れを取り除き、自由にしてください。そしてわたしたちのほうからもあなたを呼ばせてください。まっすぐに神の子の道を歩ませてください。主の御名によってお願いいたします。アーメン

(2011/07/10 京都聖三一教会)

日ごとの聖句480 命を得させる神 2011/7/10〜16

2011年7月10日(日)聖霊降臨後第4主日        詩編42:3
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。

7月11日(月)                   詩編22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下った者も御前(みまえ)に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得るでしょう。

7月12日(火)                   詩編33:19
主は彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。

7月13日(水)                 詩編33:20‐21
我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。

7月14日(木)                   詩編143:11
主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ、恵みの御業によって、わたしの魂を災いから引き出してください。

7月15日(金)                   詩編56:14
あなたは死からわたしの魂を救い、突き落とされようとしたわたしの足を救い、命の光の中に、神の御前を歩かせてくださいます。

7月16日(土)                  詩編66:9‐10
神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。

「だれがわたしを救ってくれるのか」  ローマ(1)

ローマ7:21‐8:6

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」マタイ11:25‐26

今日の福音書によれば、イエスさまは「幼子のような者」の中に尊いものを見ておられました。もう少し正確に言うと、神が幼子のような者に、もっとも大切なことを、真理を示しておられるのを知ってイエスは感動されました。それは、世の知恵ある者、賢い者には隠されていると言われるのです。

幼子のような者とは、たとえば泣く者です。泣かずに自分を固く保って、神さまの恵みと真理に出会えずにいるよりは、むしろ泣く者となって神さまの恵みと真理に出会いたい。

この前の主日から9月の半ばまでの2ヵ月あまり、主日の礼拝では使徒書としてパウロ書簡のひとつローマの信徒への手紙(ローマ書)が朗読されます。それでその期間、ローマ書からお話しすることにします。

 わたし自身について言えば、このローマ書は特別なものです。ローマ書があったから死なずにすんだ、生き延びてこれたと思うくらい大切なものです。

パウロは、泣かなかった時代には神の恵みと真理に出会いませんでした。優秀で熱心で立派であったとき、彼はキリストに出会わなかった。逆に迫害した。しかし彼は人生の旅路の途中で泣くことになりました。そのときに、パウロはイエス・キリストに出会った、イエス・キリストに満ちている恵みと真理に出会うことになったのです。

回心前のパウロはサウロと言いました。彼より1000年ほど前のイスラエルのサウル王と同じ名前です。サウロ時代、彼は自信がありました。信仰に熱心で学識にすぐれ、行動力は抜群でした。けれどもその時代には、彼は自分を見つめることを知りませんでした。自分自身に直面することを避けていたのかもしれません。しかしキリストの声を聞いて以降、彼は自分の中にあるもうひとつの自分に直面することになります。危うくおそろしい自分、自分を破滅させる自分に直面することになったのです。そのことが今日の箇所に語られています。本文を確かめてみましょう。

「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」ローマ7:22‐23

一方には神の律法を喜んでいる自分がいます。神の招きを喜び、神の言葉を聞くことを喜び、神の求められることを行うことを喜びとする自分です。ところがそれとは正反対のもうひとりの自分が自分の中に潜んでいます。このもうひとりの自分は、神を喜ばない。神の招きを喜ばず、神の言葉を聞くことを嫌い、神の求められることを避け、あるいはそれに反抗する自分です。

自分の中に神を喜ぶわたしと、神を拒むわたしがいる。わたしは矛盾と葛藤を抱えて、自分自身の心が二つの力が闘う戦場になる。しかも神を拒むわたしのほうが圧倒的に強くて、自分でそれを抑えることができません。そのわたしはわたしを捕まえて引きずっていく。闇の中に閉じ込める。破滅に向かわせます。

このようなことはわたしたちと関係がないでしょうか。だれかが、この苦しみの中にいるのではないか。パウロのような言い方はしなくても、わたしたちの近く、あるいはいくらか離れたところかもしれませんが、そのうめきがあるのではないでしょうか。わたしには他人事ではありません。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」ローマ7:24

 パウロはうめきます。そのような恐ろしい力に苦しんでいます。それが自分の中にあることを知ってうめいています。

 しかしこれはパウロだけのことではありません。実は、彼はわたしたちを、わたしたち全人類を代表してうめいているのです。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」

 ところがこれに続く言葉がまったく意外です。

「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」ローマ7:25

「しかし感謝を神に、わたしたちの主イエス・キリストによって」(直訳)

 実はパウロがほんとうに言いたかったのはこれです。悲惨を伝えたかったのではなく感謝を伝えたかった。キリストに出会って、いかに自分が惨めな人間であるかを知ったとき、同時にそれ以上に、いかに自分の上にイエス・キリストの恵みが満ち溢れるようになったかを知ってほしいのです。

 パウロはまだ出会ったことのない、将来訪問するつもりのローマの教会の人々にあててこの手紙を書いています。この手紙は個人的なものではなく、当時の世界の中心というべきローマの人々にあてて、キリストの福音の中心をまとまった仕方で伝えようとして、一生懸命書いたものです。

 その際、自分のことを棚上げして書くことはできず、自分の経てきた苦しみ、自分が通って来た闇に触れざるを得ませんでした。

 彼は自分の経てきた闇、悲惨、罪の苦しみがどのようにして克服されたかを伝えようとしているのですが、話の途中で感謝と感動が吹き出してきたのです。

神に感謝! わたしたちの主イエス・キリストによって。

話としては突然の飛躍ですが、パウロは心が高まって、思わず言ってしまったのでした。またすぐ話の流れに戻ります。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」ローマ7:24‐25

その続き、第8章の冒頭を読みます。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」ローマ8:1‐3

「神はしてくださった」

人間の悲惨と罪、自分の悲惨と罪に対する解決は、神がしてくださった。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのか」とうめいた、その答は「イエス・キリスト」です。イエス・キリストが救ってくださるのです。

「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した。」
 神のみ子が断罪されて、わたしたちの罪は取り除かれた。

今日はこれらの言葉を心にとめて、次週以降に続けます。

 パウロが自分の悲惨と救いをとおして伝えようとする福音、罪と死との法則からわたしたちを解放するという福音に、わたしたちも出会いたい。いや、すでにわたしたちを捕らえていてくださるイエス・キリストを発見したいと願います。

 神さま、パウロが伝えようとする福音の中心にわたしたちも触れさせてください。それによって悲惨と罪と死からわたしたちを解放してください。今、苦しんでいる人たちを助けてください。イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

(2011/07/03 京都聖三一教会)

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