Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2011年08月

日ごとの聖句487 憐れみ 2011/8/28〜9/3

2011年8月28日(日)聖霊降臨後第11主日     コリント二 4:1
わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。

8月29日(月)                  コロサイ3:12
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

8月30日(火)                  テモテ一 1:2
信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。

8月31日(水)                   テトス3:5
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。

9月1日(木)                  ヘブライ2:17
イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

9月2日(金)                  ヘブライ4:16
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

9月3日(土)                  ペトロ一 1:3
神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、イエス・キリストの復活によって希望を与えてくださいました。

矢内原伊作『ジャコメッティ』

矢内原伊作『ジャコメッティ』みすず書房、1996

アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti)
1901年10月10日 - 1966年1月11日。スイス出身の彫刻家、画家。

哲学者、矢内原伊作はジャコメッティのモデル(ポーズ)を長期に務めた。

矢内原の文(日記等を含む)によって、芸術家ジャコメッティの苦悩といのちの営みがよく伝わってくる。

「見えるものを見える通りに実現しようとするこの試みは死に至るまで撓(たゆ)みなく激しく続けられた。」
(著者によるジャコメッティの略年譜から)

ヤナイハラの肖像

日ごとの聖句486 復活を求める祈り 2011/8/21〜27

2011年8月21日(日)聖霊降臨後第10主日       イザヤ26:7
神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。

8月22日(月)                   イザヤ26:8
主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます。

8月23日(火)                   イザヤ26:8
あなたの御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願いです。

8月24日(水)使徒聖バルトロマイ日         イザヤ26:9
わたしの魂は夜あなたを捜し、わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。

8月25日(木)                  イザヤ26:13
わたしたちの神なる主よ、あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちは、あなたの御名だけを唱えます。

8月26日(金)                  イザヤ26:19 あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。

8月27日(土)                  イザヤ26:19あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。

第35回 敗戦記念日祈祷集会

日 時:2011年8月15日(月) 18:00〜
場 所:池袋聖公会

18:00〜 敗戦記念日礼拝(夕の礼拝)
.
18:30〜 記念講演

「悔い改めからの出発 日本聖公会の戦争責任に関する宣言1996」
      .講 師:井田 泉 司祭
    (京都聖三一教会牧師、聖公会平和ネットワーク共同代表)
.
19:30〜 懇親会 ー「すいとん」の用意がありますー
             平和を祈る夕べのひととき、共に語りましょう

主催:池袋聖公会   共催:日本聖公会東京教区 正義と平和協議会
日本聖公会東京教区 池 袋 聖 公 会

 〒170-0021 東京都豊島区西池袋5-24-5  池袋西口より徒歩15分
 TEL 03-3986-4709    FAX 03-3986-4180
 東京メトロ有楽町線・副都心線要町駅下車 6番出口より徒歩1分  

http://www.nskk.org/tokyo/church/ikebukuro/index.html

「(愛する)兄弟サウル」

新約聖書・使徒言行録第22章に、パウロが自分の回心のことを語る場面があります。

「ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。 この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。
兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』
するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。」22:12 ‐13

今朝の日課でこの箇所をルター訳ドイツ語聖書で読んでいたら、こう書いてありました。

Saul, lieber Bruder……
(サウル、愛する兄弟)

このように lieber 「愛する」という言葉が付いています。
ギリシア語原典や英語のいくつかの聖書なども見たのですが、皆「兄弟サウル」となっていて「愛する」にあたる言葉はありません。

ルターはときどき、翻訳しつつ自分の中に湧き起こってくる感情を訳文に込めることがあるようで、これもその一つの例なのでしょう。あるいはドイツ語の特徴の反映でもあるのでしょうか。

恐ろしい迫害者であったサウルにアナニアが呼びかける。アナニアをとおしてイエスさまが「愛する兄弟サウル」と呼びかけられたのを感じます。

もう一つのドイツ語聖書、チューリッヒの宗教改革者ツヴィングリに発するという「チューリッヒ聖書」の最新版がどうなっているか見てみました。

Saul, mein Bruder……
(サウル、わたしの兄弟)

「愛する」という言葉はないけれども、mein 「わたしの」という言葉が入っています。

「愛する兄弟サウル」
「わたしの兄弟サウル」

逐語訳としては厳密ではないとしても、付加された一語から翻訳者(宗教改革者)の思いに触れ、それをとおしてささやかながら2000年前の聖書の現場を新しく経験する。

聖書を読むことの楽しさです。

日ごとの聖句485 平和を望む方 2011/8/14〜20

2011年8月14日(日)聖霊降臨後第9主日       詩編35:27 わたしが正しいとされることを望む人々が、喜び歌い、唱えますように、「主をあがめよ、御自分の僕の平和を望む方を」と。

8月15日(月)主の母聖マリヤ日           詩編37:37
無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。

8月16日(火)                  詩編55:19 主は、闘いを挑む多くの者のただ中から、わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。

8月17日(水)                    詩編85:9
わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

8月18日(木)                   詩編85:10 主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。

8月19日(金)                 詩編85:11‐12
慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。

8月20日(土)                   詩編122:8
わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」

屠られる羊──キリストによって示された神の愛 ローマ書(5)

ローマ8:35‐39

 イエスさまは、大勢の群衆が自分の後を追ってくるのをご覧になりました(マタイ14:13)。その人たちの求めは、それぞれ違うかもしれません。けれどもそれぞれに重荷を抱えて、求めて、イエスを追って来ています。
わたしたちもそうでしょうか。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ……」マタイ14:14

 イエスはわたしたちをご覧になります。冷たい目ではなく暖かい目で、無関心の目ではなく心配の目でご覧になります。わたしたちとわたしたちの抱える重荷をご覧になったとき、イエスの胸が詰まり、心臓は鼓動し、はらわたは動きます。イエスを求めてすがろうとする者を、イエスは深く憐れまれる。重荷を負ってイエスに近づく人はさいわいです。イエスの憐れみを受けるからです。その人たちの中に皆さんもいて、わたしもいます。

 聖書の中で、特別の重荷を負った人のひとり。それが今日5回目のお話をするパウロです。

 皆さんは詩編を読まれるでしょうか。わたしの願いは、皆さんが聖書を、ことに詩編をご自分の友としてくださることです。詩編の中にはわたしの友がいる。わたしが言葉にしたくてできないことを、詩編は代わりにしてくれています。重荷がひどく、苦しみが深いほど、詩編の中にわたしの友を、否、わたし自身を見出すことになります。

 今日のパウロがそうでした。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
『わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』
と書いてあるとおりです。」ローマ8:35‐36


 ここでパウロが引用したのは詩編44:23です。これを引用したのは、これは自分のことだ、自分のうめきだ、とパウロが感じたからです。何という言葉かもう一度確かめてみます。

「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」

 「あなたのために」。あなたとは神さまのことです。神さまのおかげで、神のせいで、わたしたちは一日中死にさらされて、屠られる羊のように見られている、というのです。

 神さまに従ったせいで、神さまからいただいた仕事のせいで、神から課題を引き受けさせられたために、死ぬほどの目にあっている。自分がそう感じるだけではなくて、人から見ても自分は屠られる(殺されていく)羊──自分はそのように見られているというのです。

 この手紙を書いたパウロに何があったのでしょうか。彼はユダヤ人よりもむしろ外国人に、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるという使命を神から与えられた人でした。その使命を果たしていく中で彼は何を経験したか、というと、多くの喜ばしい働きの実りとともに、非難、中傷、妨害、裏切り、分裂、投獄、鞭打ち、船の難破、剣による殺害の危機など、際限のない苦難でした。

 詩編の引用の直前にパウロは「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(ローマ8:35)と語っていますが、これは誇張ではなく、彼が実際に経験してきたことを述べているのです。

 彼は数百年昔の詩人の言葉(詩編第44編)の中に自分自身を見出しました。自分は死にさらされ、屠られつつある羊だ。

 ところがパウロはここで、死にさらされ、屠られた羊をはっきり見ます。自分ではなく、十字架に死なれたイエス・キリストです。

「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」

 これは、自分以前にキリストのことではないか。神さまのために福音を宣べ伝え、苦しみを受け、捕らえられてゴルゴタの死刑場に引いて行かれた方。この方こそ、死にさらされ、人々の見つめる中で、ほんとうに屠られる羊となられた。
 この詩編の言葉からキリストの声がする。

「……あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている。」

「あなたのため」とは、自分、パウロのため。わたしの救いのために、キリストは屠られてさらし者となられた。屠られた神の小羊キリストから、無限の愛がパウロに流れ込んできます。

 パウロはかつて自分が別の手紙で「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた」(コリント一 5:7)と述べたことを思い出したかもしれません。

 さらにまた同じ言葉が響きます。

「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている。」

 この「わたしたち」の中には、キリストと共に自分もいる。キリストと自分が一緒に声を上げている。パウロはこうして、自分とイエスさまが苦難において一体であることをあらためて知ったのではないでしょうか。

 苦難が深いほど、傷が深いほど、キリストが自分の苦難、自分の傷を引き受けてくださっているのを知ります。キリストがどんなときもわたしたちを愛して、わたしたちを捕らえていてくださる。わたしが滅びないように、わたしが間違った方へ行かないように、キリストがわたしを抱えて離されない。

 パウロひとりのことではありません。わたしたちがイエスを求めたのであれば、わたしたちはイエスの憐れみを受けています。イエスの名によって洗礼を受けて、イエスの働きと苦難と、死と復活に合わせられたわたしたちを、神は見捨てられません。

 続きをご一緒に読んでみましょう。

「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」8:37‐39

 神はわたしたちをけっして見捨てられない。見放されない。どんなものもわたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

(2011/07/31 京都聖三一教会)

日ごとの聖句484 平和 2011/8/7〜13

2011年8月7日(日)聖霊降臨後第8主日     民数記25:12‐13
「見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を授ける。彼がその神に対する熱情を表し、罪の贖いをしたからである。」

8月8日(月)                   士師記6:24
ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。

8月9日(火)                サムエル記上25:6
「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。」

8月10日(水)                   ヨブ記25:2
恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ、天の最も高いところに平和を打ち立てられる。

8月11日(木)                    詩編4:9
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです。

8月12日(金)                   詩編29:11
どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

8月13日(土)                 詩編34:13‐15
喜びをもって生き、幸いを見ようと望む者は、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ。
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