Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2011年09月

ライアーコンサート「中川貴文展 Dear World」にて

2011年 9月23日 秋分の日 午後2時から
天音堂ギャラリー「中川貴文展 Dear World」の会場で
小野純子さんのライアーコンサートがひらかれました。

天からの光を浴びて、ライアーの響きと貴文君の絵が呼応し、呼吸するかのような特別なひとときでした。

この日のプログラムは

   Invitation
   梢のまわりをたわむれる風
   森で (シュレーダーピアノ小音楽より)
   星の呼び声
   いちばんぼし〜ゆうやけこやけ(童謡)
   主はわたしの光
   プレリュード&フーガ (J.S バッハ)

詳しくは
中川貴文web美術館GON
をぜひご覧ください。

日ごとの聖句492 主を待ち望む 2011/10/2〜8

2011年10月2日(日)聖霊降臨後第16主日      イザヤ30:18
主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。

10月3日(月)                  イザヤ30:18
まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

10月4日(火)                  フィリピ3:20
わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

10月5日(水)                    ユダ1:21
神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。

10月6日(木)                   詩編33:18
見よ、主は御目(おんめ)を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。

10月7日(金)                   イザヤ25:9
「見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。」

10月8日(土)                   イザヤ25:9
「この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。」

天使ミカエル

2011/09/27
家庭集会から

(聖歌218)

聖ミカエル及び諸天使日(9月29日) 特祷
永遠にいます神よ、あなたはみ摂理によって、天使の務めと人の務めとを定められました。どうか天において常に主に仕える天使たちに命じて、地にあるわたしたちを守らせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

1. イエスさまの言葉

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」マタイ18:10

天使は神から使命を託されて小さな者を守っている。小さな者の傍らにあって、神を仰ぎ祈っている。


2. 天使

 「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。」ヘブライ1:14


・天使は神の使い。神の意志を伝え、神の裁きをなし(サムエル記下24:16)、あるいは危機にある人を救う。

・天使が神ご自身の現れであるという場合もある(士師記6:11、14)

・ガブリエル ザカリアおよびマリアに神からのお告げをもたらした(ルカ1:19、26)
・ラファエル 旧約聖書続編の「トビト書」に登場
・ウリエル  旧約聖書続編の「エズラ記(ラテン語)」に登場


3. 天使ミカエル

 ・ミカエルの意味は「たれか神のごとき(だれひとり神に似た者はない)」。
 ・言語によって「ミカエル」「マイケル」「ミシェル」「ミヒャエル」……

(1) 旧約聖書・ダニエル書における天使長ミカエル

神の民イスラエルを守り戦う

「ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。」ダニエル書10:13
「しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。」10:21
「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。」12:1

(2) 新約聖書・ヨハネの黙示録における天使ミカエル

幼子とその母を守り、悪魔と戦う

「竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。
さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。
この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」ヨハネの黙示録12:4‐9

メッセージ「天使ミカエル」

米国聖公会『祈祷書』から
The Episcopal Church "The Book of Common Prayer"

Saint Michael and All Angels September 29

(Traditional)
O Everlasting God, who hast ordained and constituted the ministries of angels and men in a wonderful order: Mercifully grant that, as thy holy angels always serve and worship thee in heaven, so by thy appointment they may help and defend us on earth; through Jesus Christ our Lord, who liveth and reigneth with thee and the Holy Spirit, one God, for ever and ever. Amen.

(Contemporary)
Everlasting God, you have ordained and constituted in a wonderful order the ministries of angels and mortals:Mercifully grant that, as your holy angels always serve and worship you in heaven, so by your appointment they may help and defend us here on earth; through Jesus Christ our Lord, who lives and reigns with you and the Holy Spirit, one God, for ever and ever. Amen.

聖三一幼稚園「園長つうしん」12号

2011/9/23

                聖三一幼稚園  井田 泉

台風15号のため9月21日は臨時休園となりました。京都市内は大きな影響はありませんでしたが、各地で被害を受けられた方々のことを思います。必要な助けが与えられますように。

子どもたちはいま運動会に向かってまっしぐら。のびのびと過ごせますように。

園長のおはなしの時間

2学期の始まりの日、親子礼拝の後にご相談しました結果、次のようなテーマでひとときを過したいと思います。お母さんはもちろん、お父さんもどうぞ。


9月29日(木)10:35〜11:20
 「ハングルの不思議な世界」


街でもよく見かけるようになった韓国の文字ハングルですが、これは15世紀に発明されたもので、10の母音字と14の子音字の組み合せからなっています。
母音字には<陰と陽><天と地と人>という意味が込められており、子音字には舌や歯などの音声器官の形を映しています。
今の韓流ブームなどまったく予想もできなかった1968年、わたしは大阪外国語大学朝鮮語学科に入学し、当時客員教授でおられた金思(キム・サヨプ)先生ほかからハングルの不思議な世界を学び始めました。
ハングルの基本をご紹介しますのでぜひお気軽にご参加ください。

(その後の予定は次のとおりです。)

10月27日(木)10:35〜11:20
 「30分でわかるイエスさまの生涯」

11月24日(木)10:35〜11:20
 「クリスマスの歌をうたおう」


三一園長つうしん12(20110923)

「わたしは生きている」

9月25日 聖霊降臨後第15主日(A年) 旧約聖書日課から


「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」

 だれが言い出したのか、この言葉はたちまちのうちに多くの人々の心を捕えました。

 はるか昔の紀元前6世紀のこと、ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、大勢の人々がユーフラテス川のほとりに強制的に移住させられました。心と生活の拠り所であるエルサレム神殿も破壊されてしまいました。絶望感と投げやりの空気が支配するなかで、ことわざが大流行しています。

「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」

 自分たちにこんな災いが臨んだのは先祖のせいだ。先祖がよくないことをしたからその報いでこうなったのだ。自分たちにはどうすることもできないし、どうしたって仕方がない。

 しかし預言者エゼキエルをとおして神さまはこう言われました。

「わたしは生きている。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。すべての命はわたしのものである。」

 宿命だと考えてはならない。未来がないとあきらめてはならない。

「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。」

「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」


 神さまは「すべての命はわたしのもの」と呼びかけて慈しみの手を差し伸べ、「生きよ」と言ってわたしたちを励ましてくださいます。新しい未来は可能なのです。神さまの熱意がわたしたちに注がれて、そこからわたしたちの新しい第一歩が始まりますように。

(旧約聖書・エゼキエル書18:1‐4、25‐32)

日ごとの聖句491 天使 2011/9/25〜10/1

2011年9月25日(日)聖霊降臨後第15主日        ルカ1:30
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」

9月26日(月)                   ルカ15:10
イエスは言われた。「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

9月27日(火)                  マタイ18:10
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」

9月28日(水)                 ルカ22:42‐43
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。

9月29日(木)聖ミカエルおよび諸天使の日  ヨハネの黙示録22:1
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。

9月30日(金)                  創世記48:16
わたしをあらゆる苦しみから、贖(あがな)われた御使いよ。どうか、この子どもたちの上に、祝福をお与えください。

10月1日(土)                   詩編103:20
御使いたちよ、主をたたえよ。主の語られる声を聞き、御言葉を成し遂げるものよ、力ある勇士たちよ。

生きるとはキリスト

フィリピ1:21‐28

 7月以来、パウロのローマの信徒への手紙から8回お話ししましたが、先週でひとまず終わりました。本日から何度か、使徒書として、同じパウロの別の書簡、フィリピの信徒への手紙が選ばれています。
 今日、近づいてみたいのは、使徒書の冒頭の言葉です。

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」1:21

 このような言葉がまっすぐにわたしたちの心に響いてくればいいのですが、もしそうではなく、何のことかよくわからないと感じたとしても、少しもおかしいことはありません。

 聖書は、だれにでもいつでも当てはまるような格言集や教訓集といったものではありません。たしかにそういう言葉もたくさん含まれていて、それはわたしたちへの励ましや慰めになるのですが、特に書簡の場合は、書く側の事情と受け取る側の事情があり、そのときのその両者の関係がこうあったからこそこのように語った、ということがあります。今のわたしたちに意味がわからないことがあって当然です。

 この手紙の宛先はフィリピ教会。初めてパウロがヨーロッパに足を踏み入れて、最初に伝道したのが港湾都市フィリピでした。ここでは、パウロの説教を聞いたリディアという女性(紫の布を商う人)の熱意があって教会が始まりました。

 思い起こせば、そのフィリピでこんなことがありました。パウロがシラスとともに伝道していると、女の人がついてきて叫びます。「この人たちは皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」。初めは協力してくれているのかと思ったのですが、逆でした。毎日毎日ついてきて叫びます。「この人たちは皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」。パウロの語るのを妨害しているのです。占いの霊に取りつかれた人でした。たまりかねたパウロは「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言いました。すると霊が出て行ってその人は正気に戻りました。

 ところが、これが意外な方向に発展しました。この女の人は奴隷であって、その占いによって金儲けをしている親方たちがいたのです。女奴隷が占いをしなくなれば、金儲けができません。怒った親方たちは騒動を巻き起こし、パウロとシラスを捕らえ、二人は鞭で打たれて投獄されました。

 このパウロたちを支え、パウロの伝えた福音を信じた、リディアをはじめとする人々の祈りと決意から、フィリピ教会の基礎が固まっていきました。これは使徒言行録16:11‐40をお読みください。

 さてそのフィリピの教会の人々に向けて今、パウロは手紙を書いているのですが、どこで書いているかというと、フィリピから南東方向に海を隔てたアジア州(今のトルコ西岸)エフェソです。そのエフェソで、パウロはまた捕らえられて今は獄中にありました。エフェソの監獄から彼はフィリピの信徒たちにこの手紙を書いたのです。

 エフェソはエーゲ海に面する港湾都市です。当時の人口は約25万人だったと言われます。この町は女神アルテミスへの信仰で知られ、古くから壮大なアルテミス神殿がありました。紀元前500年の頃、その建設には120年かかったと言われています。

 そのアルテミス神殿を焼いてしまえば、後世に名が残ると考えた不届き者がいました。ヘロスタトスと言います。その男は実際にアルテミス神殿に火を付け、神殿は全焼してしまいました。怒ったエフェソの市民たちは、絶対にその名を後世に残すまいとしてあらゆる文書からその名前を消したそうですが、結局その男、ヘロスタトスの名前は歴史に残ってしまいました。アルテミス神殿はやがて再建され、以前にも増してその偉容を誇ることになりました。

 ある人はこう言っているそうです。

「わたしはバビロンの広大な城壁と空中庭園を見た。エジプトの巨大なピラミッドも見た。しかしエフェソのアルテミス神殿が雲を突いてそびえているのを見たとき、これまでの驚きは霞んでしまった。」

 アルテミス神殿に併設された劇場は当時として最大規模で、5万人を収容できたとされています。

 このようなアルテミス信仰の都市エフェソにパウロが入り、伝道しました。「神が天地と人間を造られた。神は罪と滅びに陥った人間を救うために神の子イエス・キリストを遣わされた。人間が造った像などは神ではなく、まことの神は人が手で造った神殿には住まわれない」と彼は語りました。

 パウロの伝道によって心を動かされて、アルテミスから離れ、イエス・キリストを信じる人々が増えてきました。そこで危機感を抱いたのが、アルテミス神殿の模型を造って儲けている銀細工人のデメトリオという人です。デメトリオは、このままパウロの活動を放置すれば収入が減り、とんでもないことになると考え、パウロとキリスト教に対する反対運動を組織しました。

「このままでは偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」使徒言行録19:27

 これを聞いて憤った人々は「偉大なるかな、エフェソ人のアルテミス」と叫び始めました。パウロの同行者であったガイオとアリスタルコが捕らえられ、野外劇場に引き立てられました。劇場に殺到した人々は混乱するばかりで、何のために自分たちがここに集まっているのかさえわからない始末でした。ところがやがてあることをきっかけとしてさらに興奮が湧き起こり、「偉大なるかな、エフェソ人のアルテミス」という絶叫が始まって、人々は2時間ほども叫び続けたのです。

 そのときパウロはどうなったのか、使徒言行録には何も記されていません。しかしパウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で「エフェソで野獣と闘った」(コリント一 15:32)と語っています。後にローマ皇帝がキリスト教徒を競技場に駆り出してライオンを放つということが起こりますが、それと似たようなことがあったのか、それともパウロを迫害するエフェソの人々の振る舞いはまるで野獣のようであったという意味なのでしょうか。いずれにせよ、パウロはこのエフェソにおいて野獣と闘うような迫害と拷問にさらされ、命の危険に陥ったのでしょう。

 そのエフェソの獄中から、今、パウロはフィリピの人々に励ましの手紙を書いています。読んでみましょう。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅(おど)されてたじろぐことはないのだと。」1:27‐28

 エフェソのパウロと何百キロの海を隔てたフィリピの人々の間に、深いつながりが生れています。それぞれの苦難の中で、同じ福音の信仰のために戦うことから生まれた一致と連帯です。
「わたしたちそれぞれの経験している苦難は、福音のための一つの戦いであって、キリストが共に働いておられるからたじろぐことはない」とパウロはフィリピの人々に語りかけるのです。

 迫害と苦難の中で、パウロはただ神に頼るしかなく、苦難を受けられたキリストにすがるしかありませんでした。自分が捕らえられるときにキリストが捕らえられたことを思い、自分が鞭で打たれるときキリストが鞭で打たれることをわが身に感じました。自分の魂が不安と恐れに押しつぶされて闇に落ちるとき、キリストが陰府(よみ)に降(くだ)られたことを知りました。キリストと一体となっていきます。

 自分の苦難にキリストの苦難が重なるとき、苦難を負われたキリストが自分の中におられて、自分の中で生きてくださる。人の誇りも力も尽き果てるときに、キリストがわたしとともに、わたしの中におられて、生きてくださるのです。

「わたしにとって生きるとはキリスト」1:21

 これは理屈ではありません。考えたのではありません。彼の現実からのほとばしりです。苦難の中でキリストが自分のすべてとなってくださるので、この言葉がほとばしり出たのです。

 キリストはわたしたちを求めておられます。2章で彼はこう言っています。

「そうすれば、あなたがたはとがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」2:15‐16

 人がどう思うか、自分がどう思うかはわかりません。けれども、キリストはわたしたちの中に輝きを見ておられます。よこしまな曲がった時代に──今もそうではないでしょうか──神の子として、世にあって星のように輝いてほしいと、キリストはわたしたちに願っておられます。神の国を広げる働きに加わるようにと願っておられます。

 そのためにキリストはわたしたちを招かれました。そのためにわたしたちは教会の交わりのうちに入れられました。洗礼の水を注がれて、わたしたちは神の子としての祝福を受けました。そして聖餐をとおして、キリストはわたしの中に入って、わたしの中で生きてくださいます。

「あなたの中でわたしは生きよう」
とキリストが言われる。
そのとき、
「わたしにとって生きるとはキリスト」
です。

 祈ります。
 「わたしにとって生きるとはキリスト」。主よ、どうかそのような不思議な祝福をわたしたちにも味わわせてください。苦しみを経験するとき、苦しみを受けられたキリストとひとつにしてください。アーメン

(2011/09/18 京都聖三一教会)

わたしたちは主のもの

ローマ14:5‐12

 7月から、主日の使徒書に従って続けてきた「ローマの信徒への手紙」の説教は今日が8回目、ひとまず最終回です。

 12章からキリスト者のあり方、生き方について語り始めたパウロは、今日の14章で具体的な事柄に踏み込みます。パウロはまだこの手紙の宛先であるローマには行ったことがないのですが、どの地域でもどの教会でも起こるに違いない事柄──考え方の違い、姿勢の違いから来る葛藤についてです。

 キリスト教がギリシャ、ローマ世界に広がっていったとき、信徒が直面した問題の一つは「食べること」でした。何かというと「この肉は食べてもいいのかどうか」という問題です。

 ローマにはさまざまな神々を祭るパンテオンがあり、アポロの神殿、ヴィーナスの神殿、カエサルの神殿、ジュピターの神殿、その他たくさんの神殿がありました。神殿では、おびただしいいけにえの動物が捧げられます。それがやがて市中に出回ります。言わば、異教の神々、つまりクリスチャンにとっては偶像に一度供えられた肉が町で売られている。あるいは食事に招かれたとき、そこで出される肉もそうかもしれない。それを食べることは信仰に反するのではないかと、多くの信徒が本気で心配しました。

 潔癖な人は、一切肉を食べないことにしました。ある人は反対に、そのようなことにこだわるのは愚かなことだと思いました。同じ教会の中で、違う考え方、違う生き方をしている人々が混在しています。混在しているだけならいいのですが、お互いがお互いを非難したり、ある場合には一方の立場の人々が他方を軽蔑したり威圧したりするということが生じました。パウロはこれを心配したのです。

「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」ローマ14:6

 考えの違い、立場の違いが教会の中に亀裂を生じさせる。けれどもパウロは両者を、信仰の本来のところに立ち戻らせようとするのです。

「食べる人は主のために食べる。」

 イエス・キリストを知り、信じたとき、人は自由を得たのです。ただキリストのみに捕らえられ、導かれ、キリストに従う。それ以外のあらゆるものから自由にされた。神さまから受ける自由の風を受けて、生きることを喜ぶ。
 神さまはわたしたちをあらゆる束縛、気がかりから自由にしてくださる方であることを、わたしたちはもっと知りたいと願います。

「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。」

 この肉が偶像に捧げられたものかどうか、気にする必要などない、というのがその人々の考えです。パウロは、その立場を尊重します。しかしその立場そのものが絶対なのではありません。その人々が神に感謝してそうしていることに心を向けよう。「主のために食べる。」その思いと姿勢がキリストに向かっていることが重要です。それを大切に認め、尊びたいのです。

 一方、別の立場の人がいます。

「また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」

 この人たちのことを硬直しているとか不自由だとか非難すべきではない。この人たちは信仰的良心から、神へのまごころからそうしているのです。

 例えばローマにはカエサルの神殿があります。ユリウス・カエサル(英語ではジュリアス・シーザー)は100年ほど前の英雄で、ローマ帝国の基礎を造った大人物です。しかしそれが神でありえようか。いくら英雄であっても、軍事力と政治力に長けた人間に過ぎない。もっと言えば多くの人の命を奪った権力の権化です。そのカエサルを神として拝み、それにいけにえを捧げ、そうすることでカエサルの威光を借りて自己の安泰を図り、さらに富と権力を握ろうとする人々──主として貴族、大金持ち、高位の軍人や政治家ですが──そのありようの汚さ、精神の退廃に耐えられない思いをしている信徒たちがいます。

 まして自分たちは、聖餐をとおしてキリストの尊いからだを自分のうちにいただく者です。ひとたびカエサルに捧げられた肉を食べることによって、自分たちのキリストへの信仰の姿勢が身体ごと損なわれるのではないか。そういう不安がありました。その人たちが肉を食べないのは、「主のために食べない」。キリストを思って食べない、食べることができないのです。この人たちも神に感謝して生きている。その思いと姿勢を尊ぶべきだ、とパウロは言うのです。

 巨大な帝国の首都ローマにおいて、キリストへの熱心を持った最初の信徒たちはいつ大規模な迫害にさらされるかわかりません。事実、その後キリスト教迫害が起こり、パウロもペテロも殉教することになります。
 続きを一緒に読んでみましょう。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」14:7‐8

 肉を食べる人にもキリストへの熱い思いがあり、肉を食べることのできない人にもキリストへの切なる思いがある。考え方の違い、立場の違い、生き方の違いがあっても、「主のために生き、主のために死ぬ」という覚悟と情熱を持っていることをお互いに尊ぶべきではないか。キリストへの思いから離れて議論だけに陥れば、信仰は神から離れて人間中心になり、教会は分裂する。
 
 パウロがこのように、まだ出会いもしていないローマの信徒のことを心配して心を砕いて手紙を書いているとき、突然、深い思いに満たされました。

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

 以前、パウロが手紙を書いている(語っている)最中、急に心が高まって祈りが起こった箇所があることをお話ししました。今、手紙を書きながら、彼はキリストの声を聞くのです。

「あなたがたはわたしのもの、わたしの愛するもの。たとえどんなことがあっても、あなたがたが生きるにしても、死ぬにしても、あなたがたはわたしのもの。わたしはあなたがたを見捨てない。」

 肉を食べる人に対しても、食べない人に対しても、また今手紙を書いているパウロに対しても呼びかけてくださるイエス・キリストの声が聞こえる。それが手紙のここに書き込まれました。

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
 
 キリストが呼びかけ、キリストが引き寄せておられます。考えの違いがある。立場の違いがある。けれどもまず、わたしたちの思いがこのキリストに向いているかどうかを確かめよう。

 今のわたしたちはどうでしょうか。パウロの呼びかけが、わたしたちの思いと生活を、キリストのもとに呼び返してくれることを願います。パウロが聞いたに違いないキリストの声を聞きたいと願います。

「あなたがたが生きるにしても、死ぬにしても、あなたがたはわたしのもの。」

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」


 祈りましょう。
 主イエス・キリストよ、わたしたちはあなたのものです。わたしたちに呼びかけ、わたしたちを捕らえ、治め、導いてください。主のもとに戻らせてください。何かをしようとするとき、主のためにさせてください。また考えや立場の違う人々の中にも、主を思う信仰を見出させてください。アーメン

(2011/09/11 京都聖三一教会)

サムエルさんのおはなし

(2011/09/16 聖三一幼稚園)

                        サムエル記上第1、3章から

 遠い昔、イエスさまよりももっとずっと昔のお話です。

 シロという町があって、そこにはみんなが集まって礼拝する礼拝堂がありました。

 その礼拝堂を守っているおじいさんがいました。エリという名前の先生で、神さまのご用をする祭司さまでした。

 そのおじいさん、エリ先生がある日、礼拝堂に行ってみると、女の人がいます。目を閉じて、口だけがもぐもぐと動いています。エリ先生はじっと見ていましたか、その女の人は目を閉じたまま、ずっともぐもぐしていました。
 ははーん、この女の人はお酒に酔っているな、とエリ先生は思って、言いました。

「これこれ、いつまで酔っているのか。しっかりしなさい。早く酔いを覚ましなさい」

 するとその女の人は言いました。

「いいえ、祭司さま、わたしはお酒に酔っているのではありません。とても悲しいことがあって神さまにお祈りしていたのです。わたしは子どもがほしいのですが与えられなくて、それで神さまが子どもを与えてくださるように一生懸命お祈りしていたのです。」

 よく見ると、その女の人は涙を流していました。

「そうだったか。間違えてわたしが悪かった。安心して帰りなさい。神さまがどうかあなたの願いを聞いてくださいますように。かわいい赤ちゃんが生まれますように。」とエリ先生はお祈りしてくださいました。

 その女の人はハンナさんという名前でした。

 それからしばらくしてハンナさんに男の赤ちゃんが生まれました。神さまがお祈りを聞いてくださったのですね。サムエルという名前をつけました。サムエルさんは大きくなると、あのおじいさん、エリ先生のそばにいてお手伝いをするようになりました。

 ある晩のこと、サムエルが寝ていると、「サムエル、サムエル」と呼ぶ声がしました。サムエルさんはエリ先生のところに走って行って言いました。

「エリ先生、ご用ですか。呼ばれたので参りました。」

「わたしは呼んでいない。帰って寝なさい」

 戻って寝ると、また「サムエル、サムエル」と呼ぶ声がしました。サムエルがまたエリ先生のところに走って行くと、「わたしは呼んでいない。早く寝なさい。」

 サムエルが戻って寝ると、また「サムエル、サムエル」と呼ぶ声がしました。今度こそ間違いないと思って、急いでエリ先生のところに行きました。

 エリ先生はわかりました。これは神さまがサムエルを呼ばれたのだ、と。エリ先生は言いました。

「サムエルよ、今度もし呼ばれたら、『主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております。』と言いなさい。」

 サムエルさんが戻って寝ていると、4度目にまた「サムエルよ、サムエルよ」と呼ぶ声がしました。

 サムエルさんは起きて、エリ先生に言われたとおりに返事しました。

「主よ、おはなしください。僕(しもべ)は聞いております。」

 そうしたら、神さまの声が聞こえてきました。呼ばれたのは神さまだったのです。神さまはサムエルさんに大切なお話をしてくださいました。

 サムエルはこうして神さまの声を聞く人になり、神さまの言葉を皆に伝える大事なお仕事をするようになりました。そうしてサムエルは神さまの言葉によってイスラエルの人々を守り導いたのでした。

 神さま、昔ハンナさんのお祈りを聞いてくださったように、わたしたちのお祈りもお聞きください。サムエルさんが神さまの声を聞いたように、わたしたちもやさしい神さまの声を聞くことができますように。神さまの言葉によってわたしたちみんなを守り導いてください。おうちの人みんなも、おじいちゃんもおばちゃんのこともお守りください。震災や台風の被害にあった人びとのこともお守りください。このお祈りを主イエスさまによっておささげいたします。アーメン

詩編第45編

2005/11/02

1. 「わたしの作る詩」45:2

この詩編の初めと終わりに、作者は詩人としての自分の思いを表現している。


2. 「あなたは人の子らのだれよりも美しく」3

この詩編は「王の婚礼の歌」と言われる。「あなた」とは王のこと。
10節から王妃のことが歌われる。

3. 「真実と謙虚と正義を駆って」5

イスラエルの王は、神から、民を守り治める使命を託された者。
自分の力、富、威光の増大を目的としてはならない(現実にはそれを目的にする王がほとんどであった)。

4. 「神の祝福を受ける方」3

「あなたにあなたの神は油を注がれた」8
これはここで直接歌われた実際の王を越えて、イエス・キリストを指し示す。

イエスは私たちの王。東方の博士たちの献げた宝物のひとつは黄金。これは王のしるし。「イエスさま、私たちのほんとうの王になってください」という祈りが込められている。

ローマ総督の兵士たちはイエスに赤い外套を着せ、茨の冠をかぶせ、葦の棒を持たせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱した(マタイ27:27-37)。

「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」ヨハネ19:19

彼らは自分では知らずして、イエスが王であることを示していた。
イエスは自ら苦難を負って私たちを守り、救い、治める方。

神の祝福を受け、私たちに祝福を注がれる。

イエスは聖霊を受け、私たちに聖霊を注がれる。

日ごとの聖句490 真実の神 2011/9/18〜24

2011年9月18日(日)聖霊降臨後第14主日       申命記32:4
主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方。

9月19日(月)                 イザヤ書65:16
この地で祝福される人は、真実の神によって祝福され、この地で誓う人は真実の神によって誓う。初めからの苦しみは忘れられる。

9月20日(火)                  マルコ16:20
主は弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

9月21日(水)福音記者使徒聖マタイ日       マタイ22:16
「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。」

9月22日(木)                 コリント一 1:9
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

9月23日(金)                コリント一 10:13
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさいません。

9月24日(土)                コリント一 10:13
神は真実な方です。試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

<中川貴文展 Dear World> 2011/9/18〜24

皆さま

主の恵みと平和をお祈りします。

2011年9月18日(日)から9月24日(土)、大阪なんばの天音堂(あまねどう)ギャラリーで<中川貴文展 Dear World>が開かれます。

天音堂
open 13:00 - 19:00 (最終日 - 17:00)  ※会期中無休

〒550-0015 大阪市西区南堀江1−18−27−611
     四ツ橋セントラルハイツ 6F 611号室

 Tel 06-6543-0135 Fax 06-6543-4025
 E-mail amanedo@yahoo.co.jp

貴文君は京都市立芸術大学(日本画専攻)在学中の2008年4月27日、にわかに永遠の国に旅立ちました。残された作品は、真実を切に探究する青春の息吹を伝えながら、人が生きることについてかけがえのない何かを呼びかけてくるようで、ぜひご覧いただきたいと願っています。

期間中、9月23日(金、秋分の日)の午後2時から小野純子さんによるライアーのミニコンサートが同ギャラリーで開かれます。貴文君のお母さんである中川悦子さんは、小野純子さんの主宰されるライアーアンサンブル・プリモールのメンバーで、わたしもその仲間のひとりです(ライアーは1926年に誕生した竪琴です)。

曲目は
プレリュード/アルマンド(バッハ)
森で(シュレーダー)
星の呼び声/梢のまわりをたわむれる風/主はわたしの光
(小野さんのオリジナル)
わらべうた

などが予定されています(無料)。

小野純子さんは滋賀県大津市比叡平在住で、日頃から音楽に真摯に取り組んでおられ、また、平和への思いをわたしと共有しています。小野さんのライアーに感じるのは、深い静けさの中から生れるあたたかく力強いいのちの現れです。

京都で昨年8月に、また東京で今年5月に行われた貴文君の作品展でも小野さんはライアーを奏でられましたが、そのとき作品と響きの不思議な交わり起こり、生きた呼吸を感じる特別の時間でした。

貴文君の作品、またライアーの響きにふれていただくことを心から願い、ご案内いたします。

次のブログをご覧ください。
   ↓
中川貴文web美術館GON
小野純子 ♪ 山の音楽室より
中川貴文展 - Dear World - 「銀座 煉瓦画廊 に行きました。」
中川貴文展(煉瓦画廊) エンディングコンサートの印象

         2011年9月12日

               京都聖三一教会
                   司祭 井田 泉

「神なき知育は…」

社会福祉法人富山聖マリア会のニュースレター『らくえん』の第255号(2001.9.1)に高木栄子さんという方が「神なき知育は…」という文を書いておられます。

その中で松本直治『原発死 一人息子を奪われた父親の手記』のことが触れられていてとても大切な内容と思いますのでご紹介します。

「神なき知育は…」

聖霊──聖書の中から

これはライアーアンサンブル・プリモールの2011年夏の合宿で話したもののあらましです。

合宿の内容などについては次をご覧ください。
2011 夏の合宿


聖霊──聖書の中から

1. 天地創造

聖書の中には「聖霊」「神の霊」がいろんな箇所に出て来ますが、まず聖書の最初の書物である「創世記」の初めにこう書いてあります。

「初めに、神は天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」創世記1:1‐3

現実は混沌と闇であったとしても、そこに神の霊が働いていて、光と新しい世界を創造しようとしています。
「霊」は「風」とも「息」とも訳せる言葉(ルーアハ)です。


2. 人間の創造

神が人間を造られる場面は次のように記されています。

「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」創世記2:7

初め、人間の形はできたけれども、息が通っておらず(生きておらず)、動きませんでした。人が生きることを願われた神は、その人の鼻に命の息を吹き込まれました。すると人は生きた者となりました。息が通い、血液が循環し、起き上がって活動しはじめます。人は、呼びかけ、応答する者となったのです。
わたしたちの中にも、神の命の息が吹き込まれています。


3. 荒野を緑の園とする神の霊

旧約聖書に登場する預言者のひとり、イザヤの言葉を集めた「イザヤ書」の中には次のような光景(ビジョン)が描かれています。

「ついに、我々の上に
霊が高い天から注がれる。
荒れ野は園となり
園は森と見なされる。
そのとき、荒れ野に公平が宿り
園に正義が住まう。
正義が造り出すものは平和であり
正義が生み出すものは
とこしえに安らかな信頼である。
わが民は平和の住みか、安らかな宿
憂いなき休息の場所に住まう。」イザヤ書32:15‐18


  「ついに……」。苦しみと困難が果てしなく続くかと思われたのですが、「ついに……」
荒廃した世界、枯渇した魂に、神の霊が高い天から注がれます。この霊によって豊かな緑の世界が回復され、森のように広がっていきます。社会に公平と正義と平和が実現し、人々の間に信頼が回復します。神の霊によって魂を潤された人は、根源から力づけられて生きることができます。
  このイザヤ言葉によって、わたしは幾度も支えられてきたのでした。


4. 復活のイエスさまの息

十字架に死なれたイエスは三日目よみがえり、おびえて閉じこもっていた弟子たちのところに来られました。

「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。ヨハネ20:22

イエスはご自分の息吹=聖霊を弟子たちに与えられました。息吹を受けた弟子たちは恐れから解放され、慰め
と励ましと、積極的に生きる力を与えられました。聖霊は弟子たちの内側から働きます。こうして弟子たちは、彼らに託された大切な使命を果たして生きていきます。

わたしたちもまた聖霊を注がれ、音楽をとおし、あるいはさまざまなことをとおして、託された大切なことを実現していくのです。

(2011/08/24 関西セミナーハウス)

ギデオンさんのおはなし

(2011/09/08 聖三一幼稚園)

                 旧約聖書・士師記6:1-24

 昔々、神さまを信じるイスラエルの人はとてもとても困っていました。何かというと、その頃、隣にミディアンという強い国があって、そのミディアン人が時々襲ってくるのです。

 ミディアン人が来ると、大切に育てた麦を取っていく。食べ物も、羊も牛もろばも何でも取って行ってしまうのです。イスラエルの人々はミディアンが怖ろしくて、山に隠れたり洞穴に隠れたりしていました。そしてイスラエルの人々は毎日神さまに、「神さま、わたしたちを助けてください。怖ろしいミディアン人からわたしたちを守ってください」とお祈りしていました。

 そのころイスラエルの国にギデオンという人がいました。畑に麦が実ったので麦を集めて、家の奥のほうに隠れて麦を打っていました。ミディアン人がいつ来るかととても心配しながら麦の穂(粒)を集めていたのです。

 ふと気がつくと、杖を持った人が立ってこう言いました。

「勇気あるギデオンさん、神さまがあなたと共におられます」

 ギデオンは言いました。

「とんでもありません。わたしはぜんぜん勇気なんかありません。ご覧ください。わたしはミディアン人が怖ろしくて、ここに隠れながら麦を打っているのです。」
 するとその人は言いました。

「大丈夫。ギデオンさん、あなたのその力を持って行きなさい。あなたの力でミディアン人を追い払うことができます。あなたはイスラエルの人々を助けることができます。」

「とんでもありません。わたしは弱くて力がありません。とてもそんなことはできません。」

「ギデオンよ、大丈夫。わたしが一緒にいるから、あなたはミディアン人を追い払うことができる。」
「神さま、そんなことができるでしょうか。とてもとても心配です。ほんとうに神さまが一緒にいてくだるなら、それがはっきりわかるようにしてください。今、供え物を持って来ますから、少し待っていてください。」

 ギデオンさんは大急ぎで家に帰って、肉とパンとを天使に差し出しました。

 天使は言いました。「それをこの岩の上に置きなさい。」

 ギデオンさんはそのとおりにしました。天使は持っていた杖を伸ばして、その岩の上の肉とパンに触れました。すると岩から火が燃え上がって、肉もパンも燃え上がってしまいました。

 ギデオンさんはとても驚きました。

「ギデオンよ、大丈夫。心配しないでよい。これは神さまが一緒におられるしるしです。」
 こうしてギデオンは元気づいて、やがてミディアン人を追い払い、イスラエルに平和をもたらしたのでした。

 神さま、わたしたちが怖いとき、守って助けてください。もしだれかが困って助けがいるとき、わたしたちに楚の人を助けてあげる力と勇気を与えてください。このお祈りを主イエスさまによっておささげいたします。アーメン

日ごとの聖句489 祝福 2011/9/11〜17

2011年9月11日(日)聖霊降臨後第13主日       詩編29:11
どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

9月12日(月)                    詩編3:9
救いは主のもとにあります。あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように。

9月13日(火)                  エレミヤ17:7
祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。

9月14日(水)                    詩編5:13
主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。

9月15日(木)                    詩編67:2
神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きを、わたしたちに向けてくださいますように

9月16日(金)                    詩編67:8
神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように。

9月17日(土)                  エレミヤ4:2
もし、あなたが真実と公平と正義をもって「主は生きておられる」と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。

「迫害する者のために祝福を祈りなさい」 ローマ(7)

ローマ12:14

 キリスト教を世界に広めたパウロは、決して温和な人ではありませんでした。
 彼はその生涯において少なくとも2度、非常に激しい怒りを発したことがあります。ひとつは回心前です。彼が熱烈に信奉していたユダヤ教の中にイエス派というのが起こりました。このイエス派(イエスを救い主と信じる一派)をパウロは激しく憎み、燃える情熱と怒りによってこれを撲滅しようとしました。キリスト教の迫害者サウロです。

 回心後、彼はそれまでとは反対に熱烈なキリスト教伝道者になりました。パウロの長い伝道者としての歩みと働きは、たえず反対と迫害にさらされていました。ひとつはキリスト教の外からの迫害です。都市の有力者、ユダヤ教の指導者、群衆、さらにはローマ帝国によって、彼は憎まれ、迫害され、ある場合には命を狙われました。投獄され、鞭で打たれ、石を投げられました。

 けれども彼にとってもう一つ耐えがたかったのは、キリスト教内部、教会内部からの迫害です。パウロは元々はキリスト教迫害者であり、また生前のイエスさまとの直接の関係を持ってはいなかったことも理由になって、陰に陽に非難を受け、妨害、中傷にさらされました。特に彼の心にとげのように刺さったのは、彼が諸教会から献金を受けて伝道のために用いたことを、「お金をかすめとった」「だましとった」と非難されたことです。

 このような非難、中傷によって、パウロはどれほど傷つき、失望し、あるいは憤りを燃え上がらせたことでしょう。

 今日の使徒書でパウロはこう言っています。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『"復讐はわたしのすること、わたしが報復する"と主は言われる』と書いてあります。」ローマ12:19

 これはパウロにとって他人事ではなく、復讐したいという思いにかられてきた自分に対する戒めでもあったのではないでしょうか。
 その前の14節を読みましょう。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」12:14

 新共同訳では「祝福を祈りなさい」となっていますが、単純に訳せば「祝福しなさい」です。「迫害する者を祝福しなさい。」

 単に耐えるのではなく、赦せというのでもありません。もっと積極的な求め、呼びかけです。「迫害する者を祝福しなさい。」

 ところで「祝福」というのは聖書の中で非常に重要な言葉です。聖書の最初、創世記第1章から出てきます。

「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。』」創世記1:21‐22

 神が生き物を造られたとき、まずなさったのは、ご自分が造られたその生き物を祝福することでした。
 さらにもう少し後を読んでみましょう。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」1:27‐28

 神が人を造られたとき、まずなさったのは、ご自分が造られた人を祝福することでした。生き物も人間も、神の祝福を受けて生きはじめたのです。神は生き物と人間の存在を望み、それを喜び、それを祝福されました。聖書は最初から最後まで、神の祝福を告げています。神の祝福は、聖書全体を一貫して響きつづける中心テーマです。神は創造の初めから今日に至るまで、世界とわたしたちを祝福しつづけておられます。

 新約聖書に目を移しましょう。イエスさまは子どもたちを抱き、手を置いて祝福されました(マルコ10:16)。また地上の生涯を終えて天に昇られるとき、両手を上げて弟子たちを祝福し、祝福しながらその姿は見えなくなりました(ルカ24:50‐51)。

 そのイエスの祝福が自分に注がれているのをパウロは感じます。
 彼がかつてイエスを信じる者たちを迫害し、ダマスコのクリスチャンたちを一網打尽に捕らえようと道を急いでいたとき、彼は光を受けて倒れました。彼は、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞きました。
 自分は罪のない人を苦しめて、死にさえ追いやった……。彼は自分の誤りを知り、自責の思いにかられて自分を保つこともできませんでした。目は見えなくなり、食べることも飲むこともできませんでした。

 三日たってアナニアという人が訪ねてきて、手を置いて祈ってくれました。

「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」使徒言行録9:17

 アナニアの手と祈りをとおしてイエスの祝福が彼の中に流れ込み、充満しました。祝福は、パウロの中にただ留まったのではありません。イエスの祝福は彼を再生させるとともに、彼を祝福の器としました。彼は主の祝福を人にもたらす者とされたのです。

 世界と人間の創造の時から開始された神の祝福の運動(ムーブメント)は、このようにしてパウロに至り、彼を動かしました。パウロの祈りと働きをとおして神の祝福は広がっていきます。

「祝福せよ。迫害する者を祝福せよ。呪うのではなく祝福せよ。」

 彼の中にイエスの声が響くのです。そのたびに、イエスの祝福が彼のうちによみがえるのです。
 
 イエスの祝福はパウロのみならず、わたしたちにも注がれています。神はわたしたちの存在を望み、わたしたちを喜ばれます。イエスさまはわたしたちを祝福し、わたしたちをとおしてその祝福を広げていこうとされます。迫害する者もそれを阻止することはできません。

「祝福せよ。迫害する者を祝福せよ。呪うのではなく祝福せよ。」

 祈ります。

 神さま、わたしたちは祈ること少なく、愛することも少なく、しばしば自分と人に対する苦い思いに満たされます。けれどもあなたは、このようなわたしたちを祝福し、あなたの祝福を隣人に、世界に広げていくようにとわたしたちを招かれました。あなたの意志と願いのとおりに、呪うのではなく祝福する者にしてください。迫害する者も祝福させてください。わたしたちをとおしてあなたが祝福を広げてください。イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン

(2011/09/04 京都聖三一教会)

神の憐れみによって ローマ(6)

ローマ12:1

 7月から始めたローマの信徒への手紙による説教は今日が6回目です。使徒書に連続して選ばれているローマ書もいつの間にか半分をはるか過ぎ、12章に入りました。手紙の初めから11章に至るまで、パウロはイエス・キリストによる神の恵みと救いについて語ってきました。今日の12章からは、「勧め」が語られます。「神の救いを受けたわたしたちはこのように生きて行こう」という内容です。

 ただその前にひとつ触れておきたいことがあります。それは、パウロがこの手紙を書きながら──といっても実際は口述筆記なので「語りながら」なのですが──気持ちがこみ上げて、思わず祈りの言葉を発するところがある。今日の箇所の直前、第11章の終わりでパウロはこう言いました。

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」11:36

 わたしたちが神さまの話をするとき、信仰のことを語るとき、気持ちがこみ上げる、思いが溢れる、ということがあるでしょうか。あってほしいと願います。

 パウロはこの長い手紙、重要な福音の内容をしっかり伝えたい手紙を、頭をフル回転させて語っています。けれどもそれよりもっと大切なことは、彼が心から、言わばおなかから、全身全霊で語っているということです。

 今日の箇所の冒頭を聞きましょう。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」12:1

 ふらふらしていてはいけない。よそ見しないで、しっかりと自分を正して、神さまの前に自分をまるごとごと差し出しなさい、とパウロは強く勧めます。
 神の愛はまっすぐにあなたに向かって注がれている。それなのにあなたがどこかで遠慮したり、逃げたりそらしたりしているようでは、あなたにおいて実現しようとする神の救いが実らないではないか。礼拝をするなら、中途半端にではなく、神さまからいただくものは全部いただこう、そしてわたしたちのほうも自分を全部差し出してしまおう。キリストはご自分のいのちをパンとぶどう酒に変えて、ご自身をまるごとわたしたちに差し出してくださっている。こうして神とわたしたちはひとつとになります。

 ここでわたしたちがパウロの勧めに触れるとき、大切に聞きたい言葉があります。それは「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」という言葉です。
 この勧めを相手に向かって語りかけるとき、パウロは神の憐れみに浸されて、動かされて語っています。パウロに注がれている神の憐れみは、彼から溢れ出して聞く人に流れ込もうとしています。パウロが神から受けた憐れみは、今、人々への招き、呼びかけ、勧めになります。

 パウロが受けた神の憐れみとは何でしょうか。この手紙の第5章から確かめてみましょう。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」5:6‐8

 「わたしたち」と複数で語っていますが、これはパウロ自身のことなのです。

「まだ弱かったころ」。「不信心な者のために」。どんなに知識を積み、活動を重ねても、自分は神の愛も力も知らなかった。神を信じて従っているようであって、実は背いていたのでした。
「まだ罪人であったとき」。自分は罪人であった。自分はキリストとキリスト教徒を迫害した。ステパノの殺害に荷担した。自分自身が滅びに向かい、人も滅びに追いやっていた。無実の人の血の責任を負っている自分には、もう生きる資格も力もないと感じました。けれども

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった。」
 キリストがこのわたしを受け入れ、引き受け、憐れんで、代わりに死んでくださったので、もうないと思った自分の人生が新しく始まりました。パウロが経験した神の憐れみの事実は、あらゆる人にとっての事実なのです。

 神は憐れみの神。パウロが知ったのは憐れみの神です。人の現実を見て「あわれ」と思われる神、苦しいと感じられる神です。神は痛む人の現実を痛まれます。人が苦しんでいるとき、神ご自身に苦しみが起こり、放置できなくなるのです。神はパウロを見て憐れみを起こされました。この人が人を滅ぼし、自分も滅びつつあるのを憐れまれました。神の憐れみは彼を放置せず、彼を求め、彼を捕らえて引き寄せたのです。

 今、パウロに注がれた神の憐れみの一端をお話ししたのですが、今度はわたしに注がれている神の憐れみを知りたいと思います。わたしたちも、かつて神の憐れみを受けたのではないでしょうか。それがあって、生かされて、生きてきたのではないでしょうか。今も、現在も神の憐れみはわたしたちに注がれています。
 
 詩篇第23編6節にはこう歌われています。

「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」(新共同訳)

ある翻訳(LXX=七十人訳ギリシア語旧約聖書)はここを次のように訳しています。

「あなたの憐れみはわたしを追いかける。わたしの生涯のすべてに日にわたって。」

 神の憐れみは人を救うまで追いかける。追跡するのです。それは生涯にわたってわたしに伴います。
 
 祈ります。
 神さま、あなたが憐れみの神であることを教えてください。あなたがわたしたちに注いでくださった憐れみをはっきりと知り、それを忘れることのないようにしてください。あなたの憐れみがわたしたちを追いかけ、わたしたちの信仰と生活の中に現れますように。主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン

(2011/08/28 京都聖三一教会)

日ごとの聖句488 永遠 2011/9/4〜10

2011年9月4日(日)聖霊降臨後第12主日       創世記21:33
アブラハムは、ベエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ。

9月5日(月)                サムエル記下23:5
神は永遠の契約をわたしに賜る。わたしの救い、わたしの喜びを、すべて神は芽生えさせてくださる。

9月6日(火)                    詩編9:19
乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。

9月7日(水)                    詩編16:11
あなたは命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。

9月8日(木)                   詩編111:10
主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

9月9日(金)               コヘレトの言葉3:11
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

9月10日(土)                  イザヤ60:20
あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。
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