諸聖徒日・逝去者記念礼拝
シラ書2:7‐11
「主を畏れる人たちよ、主の憐れみを待ち望め。」シラ書2:7
先ほど聞きました旧約聖書続編、シラ書の箇所の冒頭です。
今日はお手元に「京都聖三一教会関係逝去者名簿」を用意しました。およそ200名の方々の名前がご逝去の月日の順に記されています。
ところでここに名前を記された方々はどういう方々でしょうか。
特別な業績を上げた人一覧というのではありません。特別有名な人たちというのではありません。それではどういう人たちか。それはシラ書が語るとおり、「主を畏れた人々」「主の憐れみを待ち望んだ人々」です。

マリアは、「あなたは神の子を産む」という天使のお告げを聞いたとき、驚きと喜びと不安を抱えて親戚のエリサベトを訪ねました。エリサベトと出会ったとき、マリアの口から賛美の歌が溢れ出ました。夕の礼拝でも用いる「マリアの賛歌」です。
「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」ルカ1:49‐50
「主を畏れること」「主を待ち望むこと」──それこそが神さまの目に大切な、尊いことなのです。
また使徒言行録は、最初の教会の姿をこのように述べています。
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」9:31
「主を畏れる」ことが教会の本質を現す姿として書かれています。
この名簿に記されたわたしたちの先輩である方々は、使徒言行録に記された最初の信徒たちの姿を継承した人々です。そしてわたしたちはその姿を、その精神を、その信仰を継承するのです。
今日のシラ書に戻ります。
「主を畏れる人たちよ、主の憐れみを待ち望め。」2:7
「主を畏れる人たちよ、主を信頼せよ。そうすれば必ず報われる。」2:8
「主を畏れる人たちよ、主が賜るすばらしいこと、すなわち、永遠の喜びと憐れみを待ち望め。」2:9
「主を畏れる人たちよ」という呼びかけが、ここに3回も繰り返されています。主を畏れることが信仰の大切なあり方です。
ところで、「主を畏れる」ことはわたしたちに何をもたらすのでしょうか。
第一に、「主を畏れる」ことは、人を恐れること、世間を、世の中を恐れることからわたしたちを解放します。わたしたちは人がこわいし、世間がこわい。それは普通のことです。しかし実は、神さまのほうが人よりも世間よりもはるかにこわい。ほんとうにこわいものを知るなら、他の恐れから解放される。神を畏れて、わたしたちは人の恐れから自由にされるのです。
主を畏れることは第二に、神さまに対してわたしたちが謙虚になることです。わたしたちはいろんなことに囲まれ、肩肘を張って生きています。自分の中心が緊張し、しばしば自分が自分でいっぱいになります。しかし主を畏れるとき、わたしたちは頭を垂れて神さまに席を譲ります。主権を神さまに明け渡します。自分が貧しい者となり、乏しい者となって、主に求めます。すると、言わばわたしたちのほうに空間ができる。自分で充満していたときは憐れみの入る余地がなかった。しかし今、神を畏れるとき、空間ができる。わたしのその空いたところに、主の憐れみが溢れるほどに注ぎ込まれるのです。
その続き読みましょう。
「昔の人々のことを顧みて、よく考えてみよ。主を信頼して、欺かれた者があったか。主を敬い続けて、見捨てられた者があったか。主を呼び求めて、無視された者があったか。
主は、慈しみ深く、憐れみ深い方。わたしたちの罪を赦し、苦難のときに助けてくださる。」2:10‐11
昔の人々、わたしたちに先だった人々が経験したことをわたしたちも経験していきます。わたしたちも主を畏れて、主の慈しみと憐れみを溢れるほどに受けることができますように。そしてわたしたちの後の世代に、これを引き継ぐことができますように。主を畏れて主の憐れみを受ける。これが信仰の歴史、信仰の継承です。
主よ、わたしたちはあなたを畏れ、あなたの憐れみを待ち望みます。アーメン
(2011/10/30 京都聖三一教会)
シラ書2:7‐11
「主を畏れる人たちよ、主の憐れみを待ち望め。」シラ書2:7
先ほど聞きました旧約聖書続編、シラ書の箇所の冒頭です。
今日はお手元に「京都聖三一教会関係逝去者名簿」を用意しました。およそ200名の方々の名前がご逝去の月日の順に記されています。
ところでここに名前を記された方々はどういう方々でしょうか。
特別な業績を上げた人一覧というのではありません。特別有名な人たちというのではありません。それではどういう人たちか。それはシラ書が語るとおり、「主を畏れた人々」「主の憐れみを待ち望んだ人々」です。

マリアは、「あなたは神の子を産む」という天使のお告げを聞いたとき、驚きと喜びと不安を抱えて親戚のエリサベトを訪ねました。エリサベトと出会ったとき、マリアの口から賛美の歌が溢れ出ました。夕の礼拝でも用いる「マリアの賛歌」です。
「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」ルカ1:49‐50
「主を畏れること」「主を待ち望むこと」──それこそが神さまの目に大切な、尊いことなのです。
また使徒言行録は、最初の教会の姿をこのように述べています。
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」9:31
「主を畏れる」ことが教会の本質を現す姿として書かれています。
この名簿に記されたわたしたちの先輩である方々は、使徒言行録に記された最初の信徒たちの姿を継承した人々です。そしてわたしたちはその姿を、その精神を、その信仰を継承するのです。
今日のシラ書に戻ります。
「主を畏れる人たちよ、主の憐れみを待ち望め。」2:7
「主を畏れる人たちよ、主を信頼せよ。そうすれば必ず報われる。」2:8
「主を畏れる人たちよ、主が賜るすばらしいこと、すなわち、永遠の喜びと憐れみを待ち望め。」2:9
「主を畏れる人たちよ」という呼びかけが、ここに3回も繰り返されています。主を畏れることが信仰の大切なあり方です。
ところで、「主を畏れる」ことはわたしたちに何をもたらすのでしょうか。
第一に、「主を畏れる」ことは、人を恐れること、世間を、世の中を恐れることからわたしたちを解放します。わたしたちは人がこわいし、世間がこわい。それは普通のことです。しかし実は、神さまのほうが人よりも世間よりもはるかにこわい。ほんとうにこわいものを知るなら、他の恐れから解放される。神を畏れて、わたしたちは人の恐れから自由にされるのです。
主を畏れることは第二に、神さまに対してわたしたちが謙虚になることです。わたしたちはいろんなことに囲まれ、肩肘を張って生きています。自分の中心が緊張し、しばしば自分が自分でいっぱいになります。しかし主を畏れるとき、わたしたちは頭を垂れて神さまに席を譲ります。主権を神さまに明け渡します。自分が貧しい者となり、乏しい者となって、主に求めます。すると、言わばわたしたちのほうに空間ができる。自分で充満していたときは憐れみの入る余地がなかった。しかし今、神を畏れるとき、空間ができる。わたしのその空いたところに、主の憐れみが溢れるほどに注ぎ込まれるのです。
その続き読みましょう。
「昔の人々のことを顧みて、よく考えてみよ。主を信頼して、欺かれた者があったか。主を敬い続けて、見捨てられた者があったか。主を呼び求めて、無視された者があったか。
主は、慈しみ深く、憐れみ深い方。わたしたちの罪を赦し、苦難のときに助けてくださる。」2:10‐11
昔の人々、わたしたちに先だった人々が経験したことをわたしたちも経験していきます。わたしたちも主を畏れて、主の慈しみと憐れみを溢れるほどに受けることができますように。そしてわたしたちの後の世代に、これを引き継ぐことができますように。主を畏れて主の憐れみを受ける。これが信仰の歴史、信仰の継承です。
主よ、わたしたちはあなたを畏れ、あなたの憐れみを待ち望みます。アーメン
(2011/10/30 京都聖三一教会)






