Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2011年10月

主を畏れる人たちよ、主の憐れみを待ち望め(諸聖徒日)

諸聖徒日・逝去者記念礼拝

シラ書2:7‐11

「主を畏れる人たちよ、主の憐れみを待ち望め。」シラ書2:7

 先ほど聞きました旧約聖書続編、シラ書の箇所の冒頭です。
 今日はお手元に「京都聖三一教会関係逝去者名簿」を用意しました。およそ200名の方々の名前がご逝去の月日の順に記されています。

 ところでここに名前を記された方々はどういう方々でしょうか。

 特別な業績を上げた人一覧というのではありません。特別有名な人たちというのではありません。それではどういう人たちか。それはシラ書が語るとおり、「主を畏れた人々」「主の憐れみを待ち望んだ人々」です。

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 マリアは、「あなたは神の子を産む」という天使のお告げを聞いたとき、驚きと喜びと不安を抱えて親戚のエリサベトを訪ねました。エリサベトと出会ったとき、マリアの口から賛美の歌が溢れ出ました。夕の礼拝でも用いる「マリアの賛歌」です。

「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」ルカ1:49‐50


「主を畏れること」「主を待ち望むこと」──それこそが神さまの目に大切な、尊いことなのです。

また使徒言行録は、最初の教会の姿をこのように述べています。

「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」9:31

 「主を畏れる」ことが教会の本質を現す姿として書かれています。

この名簿に記されたわたしたちの先輩である方々は、使徒言行録に記された最初の信徒たちの姿を継承した人々です。そしてわたしたちはその姿を、その精神を、その信仰を継承するのです。

 今日のシラ書に戻ります。

「主を畏れる人たちよ、主の憐れみを待ち望め。」2:7

「主を畏れる人たちよ、主を信頼せよ。そうすれば必ず報われる。」2:8 

「主を畏れる人たちよ、主が賜るすばらしいこと、すなわち、永遠の喜びと憐れみを待ち望め。」2:9
 

「主を畏れる人たちよ」という呼びかけが、ここに3回も繰り返されています。主を畏れることが信仰の大切なあり方です。
 
 ところで、「主を畏れる」ことはわたしたちに何をもたらすのでしょうか。

 第一に、「主を畏れる」ことは、人を恐れること、世間を、世の中を恐れることからわたしたちを解放します。わたしたちは人がこわいし、世間がこわい。それは普通のことです。しかし実は、神さまのほうが人よりも世間よりもはるかにこわい。ほんとうにこわいものを知るなら、他の恐れから解放される。神を畏れて、わたしたちは人の恐れから自由にされるのです。

 主を畏れることは第二に、神さまに対してわたしたちが謙虚になることです。わたしたちはいろんなことに囲まれ、肩肘を張って生きています。自分の中心が緊張し、しばしば自分が自分でいっぱいになります。しかし主を畏れるとき、わたしたちは頭を垂れて神さまに席を譲ります。主権を神さまに明け渡します。自分が貧しい者となり、乏しい者となって、主に求めます。すると、言わばわたしたちのほうに空間ができる。自分で充満していたときは憐れみの入る余地がなかった。しかし今、神を畏れるとき、空間ができる。わたしのその空いたところに、主の憐れみが溢れるほどに注ぎ込まれるのです。

 その続き読みましょう。

「昔の人々のことを顧みて、よく考えてみよ。主を信頼して、欺かれた者があったか。主を敬い続けて、見捨てられた者があったか。主を呼び求めて、無視された者があったか。
主は、慈しみ深く、憐れみ深い方。わたしたちの罪を赦し、苦難のときに助けてくださる。」2:10‐11


 昔の人々、わたしたちに先だった人々が経験したことをわたしたちも経験していきます。わたしたちも主を畏れて、主の慈しみと憐れみを溢れるほどに受けることができますように。そしてわたしたちの後の世代に、これを引き継ぐことができますように。主を畏れて主の憐れみを受ける。これが信仰の歴史、信仰の継承です。
 
 主よ、わたしたちはあなたを畏れ、あなたの憐れみを待ち望みます。アーメン

(2011/10/30 京都聖三一教会)

ザアカイさんのおはなし

ルカ19:1-10

2011/10/27 聖三一幼稚園の礼拝で

 エリコという町にザアカイさんという人がいました。とてもお金持ちでした。でも皆から嫌われていました。なぜかと言うと、ザアカイさんは、いじわる、欲張り、けちんぼで、とてもいばっていたからです。皆はザアカイさんを見ると、逃げるようにして向こうに行ってしまいます。ザアカイさんはいばっていたけれど、お金持ちだったけれど、友だちがひとりもいなくて、ひとりぼっちで寂しかったのです。

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 あるとき「イエスさまが来られたよ!」という声が聞こえてきました。皆が、イエスさまが来られたというので迎えに行きます。ザアカイさんもイエスさまを見たいと思って、急いで外に出て行きました。

 ところがもうそこは人がいっぱいです。ザアカイは困った。これではイエスさまが来られても見えない。なぜかと言うと、ザアカイさんは背が低かったからです。でもイエスさまを見たい。絶対見たい。そうだ! そこでザアカイは先回りをして走って行って、道のそばにあった大きな木に上りました。そうしてイエスさまが来られるのを待ちました。あっ、だんだんイエスさまが近づいて来られる。どんな人かな、どんな顔かな……。あっ、来られた。ちょっとどきどきしました。ザアカイは木の上からじっとイエスさまを見つめました。

 歩いて来られたイエスさまは、ザアカイのいる木のそばに来ると、ふっと立ち止まって木の上を見上げられました。イエスさまの目とザアカイさんの目が合いました。はずかしい、とザアカイさんは思いました。

 「ザアカイさん、すぐ木から降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊めてほしい」とイエスさまは言われました。

 ザアカイさんはびっくりしました。イエスさまは僕の名前を知っておられた。だれも来てくれなかった僕の家に来て泊まると言われた。ザアカイさんはうれしくイエスさまを家に迎えました。

 そしてその晩、イエスさまはザアカイさんの家に泊まられました。一緒にご飯を食べました。聖書のお話を聞きました。いろんなお話もしました。一緒にお祈りしました。ザアカイさんは、ほんとうにイエスさまが自分の友だちになってくださったので、うれしくてたまりません。それでザアカイはイエスさまに言いました。「わたしは、自分のお金の半分を貧しい人に上げます。また今まで人をだまして余計にお金を取っていたら、4倍にして返します。」

 それを聞いてイエスさまはとっても喜んでこう言われました。
「今日、この家に神の救いが来た。」

 その日から、ザアカイさんにはたくさんの友だちができました。

 神さま、イエスさまはザアカイさんと友だちになられました。イエスさまが私たちのところにも来てくださって、元気なときもさびしいときも病気のときも、どんな時でも、イエスさまが私たちの友だちでいてくださいますように。それから私たちも、できることなら、友だちのいない人の友だちになることができるようにしてください。このお祈りをイエスさまによってお願いいたします。アーメン

日ごとの聖句496 憩い

2011年10月30日(日)聖霊降臨後第20主日       詩編16:9
わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。

10月31日(月)                  詩編23:2‐3
主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてください。

11月1日(火)諸聖徒日              イザヤ14:3、7
主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る。全世界は安らかに憩い、喜びの声を放つ。

11月2日(水)                イザヤ57:18‐19
わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。わたしは彼をいやす、と主は言われる。

11月3日(木)                エゼキエル34:14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。

11月4日(金)                  マタイ11:28
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。

11月5日(土)                  マタイ11:29
わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

アンダンテ・ソステヌート(シューベルト)

わたしの大好きなピアノ曲のひとつに、シューベルトのピアノ・ソナタ第21番(D960 変ロ長調)がある。B dur (ベードゥア)と略称される。中でも第2楽章「アンダンテ・ソステヌート」は至宝のようだと以前から思っていた。

それを最近、間近に聞く機会があった。コンサートではなく、あるピアニストの音楽室である。

10日ほど前、専属調律師の勧めで新しいインシュレーターをピアノに装着することになった。ピアノはニューヨーク・スタインウェイ(1924)。

インシュレーターとは、ピアノの足にはかせる靴のようなもの。これまでは木製の小さなお皿状のものだったが、今回装着されたのは、ピアノを宙に浮かせたような感じになる、スチール製のものである。

それで装着前と装着後がどう違うか、調律師さんと一緒に聞かせてもらった。

装着前、最初に弾かれたバッハのプレリュード(平均律第1番。グノーのアヴェ・マリアに取り入れられている曲)は、これ以上何がいるかと思うほど美しかった。

数曲弾かれた後、インシュレーターの交換がなされた。WP_000049

同じ曲が弾かれる。

音の解像度が上がってより鮮明になり、焦点がくっきりし、伸びやかになる感じ。ピアノ本来の音と響きが新しく現れ出てくる印象だった。

試奏ということで、いろんな曲を聞かせてもらっていたのだが、もっとも感動したのが、上記シューベルトの「アンダンテ・ソステヌート」である。

陰府(よみ)への下降を思わせられるほど、深く暗い世界に入っていく。さまよっている魂が何かによって招かれ、集められ、包まれて、次第に引き上げられていく。音楽は次第に光を増していく。永遠の光の国、喜びの世界に、苦しんだ魂が招き入れられ、平和が満ちる……

そんなイメージが起こって、涙がこぼれた。

このようなピアノをこそ聞きたいと思う。

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サマリアの女とイエスさま

 イエスさまは弟子たちと一緒に旅をして、あるときサマリアのシカルと町にやってこられました。遠い道を歩いてきたし、その日はとても暑かったので、疲れて、とてものどがかわいてしまいました。

 そこには「ヤコブの井戸」という井戸がありました。井戸というのは、地面の下のほうから水をくみ上げる穴のようなものです。上からのぞき込むと、中はとても深くて、ずっと下のほうに水があるのが見えます。でも水を汲む道具がないので、水を飲むことができません。

 町の人が来るのを待っていよう。イエスさまは疲れて井戸のそばに腰を下ろしました。

「イエスさま、町でパンを買ってきますから、ここで待っていてください」

 弟子たちは皆出かけてしまい、イエスさまはひとり、井戸のそばに座っておられました。

 しばらくするとひとりの女の人がやってきました。頭の上に桶を載せています。井戸に水を汲みに来たのです。

 イエスさまはその女の人に言いました。「水を飲ませてください」

 すると女の人はこわい顔をして言いました。「フーン、ユダヤのあなたが、サマリアのわたしに水を飲ませてくれと頼むなんて」

 実はそのころ、サマリアの人とユダヤの人とは仲が悪くて、お互いに話もしなかったのです。

 その女の人は何かとてもつらい悲しいことがあるようでした。とてもとても疲れているみたいです。

 急にイエスさまは言われました。「わたしには不思議な水がありますよ。その水を飲んだら、あなたはきっと元気になるでしょう」

 その女の人は「フーン、それならその水をわたしにください」と言いました。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」

「それならその水をわたしにください」

 イエスさまはその女の人の話をしばらく聞いた後、その人と一緒にお祈りしました。その女の人が元気になるようにお祈りしてくださいました。

 すると不思議なことに、その女の人は顔が輝いて、元気になりました。目に見えない不思議な水をイエスさまがその人にくださったからですね。

 その女の人は出かけて行って町中の人たちをつれて来ました。

 それで皆はイエスさまのお話を聞くことができてとてもうれしくて、女の人に感謝しました。

 イエスさま、イエスさまの不思議な水をわたしたちにも与えてください。疲れた人に不思議な水を与えて元気にしてください。

ヨハネによる福音書4:1‐42

(2011/10/20 聖三一幼稚園)

チャペルコンサート 「ライアーたちの祈り」 10月30日

2011年10月30日(日)午後2時から
京都聖三一教会礼拝堂にて

ライアーアンサンブル・プリモール


京都聖三一教会礼拝堂


平和への願いをこめて建てられた礼拝堂に
やわらかな響きが満ちるひとときを過ごしたいと思います。
どうぞ、お越しください。お待ちしています。 

(入場無料)

曲目

 聖歌
  (あおきまきばときよきみぎわ/ イエスきみは/ 輝く日を仰ぐとき)
 シンフォニア第3 番(J.S. バッハ)
 うたのつばさに(メンデルスゾーン)
 
 
 わらべうた(ほたるこい/ あんたがたどこさ)
 テゼ共同体のうたメドレー
 
 光の三部作(invitation/Sunrise/ Celebration)
 主はわたしの光(オリジナル)
 ドナ・ノービス・パーチェム

京都聖三一教会チャペルコンサート20111030final


ライアーは膝に乗せて奏でる小さな竪琴。
第一次世界大戦で荒廃したヨーロッパで、
自由と平和への思いを託して、
1926 年に生まれた新しい楽器です。
ライアーのあたたかな音色、透明の響きで
いろいろな曲を奏でると、
不思議なことに
曲の内側に息づいている、深く、真剣な祈りに出会い、
敬虔な気持ちに満たされます。
響きの中に光が宿りますように、
心から奏でたいと思います。
  ─ ライアーアンサンブル・プリモール(主宰: 小野純子)─                                 

案内チラシはここをクリック

日ごとの聖句495 小さい者 2011/10/23〜29

2011年10月23日(日)聖霊降臨後第19主日      イザヤ11:6
狼は小羊と共に宿り、豹(ひょう)は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く。

10月24日(月)                   ルカ9:48
イエスは言われた。「わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

10月25日(火)                   ルカ9:48
イエスは言われた。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

10月26日(水)                  マタイ25:40
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

10月27日(木)                   詩編131:2
わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。

10月28日(金)使徒聖シモン・使徒聖ユダ日     マタイ21:15
イエスがなさった不思議な業を見て、子どもたちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言った。

10月29日(土)                  マタイ21:16
「神は、幼子や乳飲み子の口から、賛美の歌が湧き出るようにされた。」

神のものは神に

マタイ22:15‐22

 わたしたちはこのように祈っています。

「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」

 主の祈りの六つの祈りの、最後の祈りです。

 イエスさまがこの祈りを祈るようにと弟子たちに教えられたのは、弟子たちに危険があるのを知っておられたからです。誘惑に陥る危険、悪にさらされる危険、あるいは自分自身が悪に染まり悪に陥る危険──この危険がわたしたちに迫るのを、イエスははっきり見ておられます。

 イエスご自身が誘惑あるいは試みを受け、悪にさらされました。今日の福音書がその箇所です。

「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。」22:15‐16

 ファリサイ派の人々はイエスを罠にかけようとたくらんでいます。ここはエルサレム神殿の境内です。ファリサイ派と普段は反目しているヘロデ派の人々も一緒になって、イエスを陥れようとしています。

「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」22:16

 言葉巧みにイエスに言い寄って来ました。

「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方である……」

イエスはほんとうにそのとおりなのですが、それがファリサイ派にもヘロデ派にも憎らしいのです。真実と真理は見せかけと偽りを暴きます。

「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」22:17

 当時、ヨダヤはローマ帝国の支配下にあって、ローマに税金を納めなければなりませんでした。その際、ローマが作ったデナリオン銀貨を使うことが定められていました。だれもがデナリオン銀貨を使わざるを得ません。

 デナリオン銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。その銘は「神とされたアウグストゥスの子、皇帝ティベリウス・アウグストゥス」と刻まれています。つまりローマ皇帝は神格化されていたのです。デナリオン銀貨の通用するところ、そこはローマ皇帝の支配するところであり、その支配の下にあるすべての者は皇帝を神聖なる存在として崇めなければならない。

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 しかし皇帝を神格化することはイスラエルの信仰の掟に反します。偶像を認めたことになるからです。

 イエスが皇帝への納税を認めれば、ファリサイ派はイエスを「神に背いて偶像を崇拝する者」として糾弾することができます。イエスが納税を認めなければ、ヘロデ派がイエスを「ローマ皇帝への反逆者」として訴えることができるのです。罠です。どう答えても身が危うい。悪がイエスを捕らえようとしています。

「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。』」22:18

 「悪意」と訳された言葉は、単純に「悪」とも訳せます。「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」の「悪」です。「試そうとする」─誘惑、試みです。自分を陥れようとする悪と試みを経験されていたから、イエスは主の祈りの第6をわたしたちに教えられたのです。この祈りによってイエスはわたしたちを守ろうとされます。

「『税金に納めるお金を見せなさい。』彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。 彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」22:19‐21

 お前たちは皇帝の肖像と銘を刻んだデナリオン銀貨を用いているではないか。それならそれを皇帝に返してやれ。

 こうして言葉巧みにイエスを罠にかけようと迫ってきた人々の誘惑の言葉を、イエスははねかえされました。

 しかしそれだけではありません。

「神のものは神に」

 イエスの内からひとつの呼びかける声が響いています。

「あなたは神のもの、あなたがたは神のもの……」

 あなたは皇帝のものではない。あなたは本来悪に属するものではない。あなたは神のものであるのに、あなたは神に愛されているもの、神の似姿として造られているのに、どうして人を罠にかけて人を陥れるような悪の道具になっているのか。あなたは神に愛されている神のものなのだから、神に帰りなさい。神に自分を返しなさい。それすればあなたのほんとうの人生の道が開ける。

「彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。」22:22

 彼らは苦々しい思いで立ち去ったのでしょうか。それとも、思いがけず自分の心に迫ってきた神の呼びかけにどうしてよいかわからない思いでたち去ったのでしょうか。

 今日の旧約聖書の言葉を聞きましょう。

「わたしは暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。
あなたは知るようになる
わたしは主、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神である、と。」イザヤ45:3


 「わたしは主」「わたしが主」とここに4回も繰り返されています。

「わたしが主、ほかにはいない」45:5、6

「わたしが主、これらのことをするものである。」45:7


 「わたしが主」と言われる方は手を伸ばして、「あなたがたはわたしのものだ」と言われます。
 イエスさまはわたしたちにも言われます。

「あなたは神のもの、あなたがたは神のもの」

 あなたはわたしのものだから、わたしのもとにいなさい。あなたがたはわたしのものだから、わたしと労苦と喜びを共にして、永遠の祝福を受けなさい。

 主イエスさま、あなたはわたしたちが他のだれのものでもなく、神のものであることを教えてくださいました。わたしたちを試みと悪から守ってください。あなたとともに祈り、あなたとともに歩んで、永遠の命に至らせてください。アーメン

(2011/10/16 京都聖三一教会)

キルケゴールと大谷長先生


 夕食後、夕刊を見ていたら「小出版社23年の信念 キルケゴール著作全集完成」という記事が目にとまった(朝日新聞2011/10/17)。

「福岡市のわずか4人の出版社が23年がかりで、デンマークの哲学者キルケゴール(1813〜55)の著作全集15巻を完成させた。」

 出版社は創言社。発端は1986年、大阪外国語大学名誉教授の大谷長(まさる)氏から「日本初のデンマーク語からの直接訳の全集を出したい」と持ちかけられたことだという。

 わたしは1968年、大阪外国語大学朝鮮語学科に入学。学園紛争を経験する中で生きる意味と目的を見失い、必死の思いで足がかりを求めていた。大学3年の頃、キルケゴールと出会い、寸暇を惜しむようにして彼の著作(主として岩波文庫版)を読みふけっていた。

 1971年、4年生の春、卒論のテーマを「朝鮮キリスト教史」としようとしていたころ、新年度履修要項の専門科目の中に「キルケゴール『死に至る病』購読」とあるのを見つけた。担当はデンマーク語学科の大谷長先生。専門科目は学科の枠を越えて履修するようになっていた。

 まるで自分のために用意された科目のように思えた。小さい教室に学生は10人もいただろうか。テキストは岩波文庫版の『死に至る病』。大谷先生はデンマーク語原典に基づいてしばしば岩波文庫版(ヒルシュ訳ドイツ語版からの重訳)の間違いを指摘しながら講義を進めていかれた。

 『死に至る病』は当時のわたしにとっては極めて難解な本であったが、大谷先生の講義の助けを受けて、次第にのめり込むことになった。1年近く、わたしはこの岩波文庫版を聖書とともにいつも鞄に入れて持ち歩いていたと記憶する。

「決定的なことはこうである、──神にとっては一切が可能である。……しかり! 信ずるというのは実に神を獲得するために、正気を失うことにほかならない。」

 『死に至る病』はわたしの人生に深刻な影響を与えた。もしこれと出会っていなければ、あのように自分の不信仰に打ちのめされることはなかっただろうし、また打ちのめされることがなければ、長い迷いから脱してイエスさまのもとに帰る道を見出せなかったかもしれない。

 この後、キルケゴールの『キリスト教の修練』によって彼の影響はわたしにとっていよいよ決定的になり、それは数年後の聖職志願に間接的につながることになったと思う。

 とてもおとなしくて恥ずかしがりだったわたしは、大谷先生の一言も聞き漏らすまいと講義を聴き、ノートをとり続けていたのに、何の質問もしなかったし、先生も進んで学生に近づこうとされるタイプではなかった。

 先生はキルケゴール著作全集の完成を見ることなく、1999年に逝去されたという。教室に学んでから40年ぶりに先生のお名前を新聞に見出し、インターネットで先生の写真を見つけて、懐かしさと感謝の思いからこの短文をしたためた。

 岩波文庫版『死に至る病』は、オーム社の破れたカバーのついたまま、今も本棚に並んでいる。

日ごとの聖句494 知恵と恵み 2011/10/16〜22

2011年10月16日(日)聖霊降臨後第18主日      箴言2:1‐5
わが子よ、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。

10月17日(月)                   箴言2:6、8
知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。主は、主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる。

10月18日(火)福音記者聖ルカ日          ルカ2:40、52
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

10月19日(水)                 箴言2:10‐12
知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜びとなり、慎重さがあなたを保ち、英知が守ってくれるのであなたは悪い道から救い出される。

10月20日(木)                   箴言3:1‐2
わが子よ、わたしの教えを忘れるな。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう。

10月21日(金)                  箴言3:5‐6
心を尽くして主に信頼し、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

10月22日(土)                  箴言3:7‐8
自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり、あなたの骨は潤されるであろう。

ダビデとゴリアテのおはなし

ダビデとゴリアテ(幼稚園の礼拝のおはなし)

 羊飼いの少年ダビデは、竪琴を弾くのが上手でした。羊を守り、竪琴を弾きながら、毎日お祈りしていました。
 イスラエルの王さまサウル王の胸が苦しくなったとき、ダビデは王さまのところに呼ばれて美しい竪琴を弾いて上げたので、王さまは胸の苦しいのが治って、元気になりました。ダビデがお祈りしながら竪琴を弾いたので、お祈りの中で神さまが働いてくださったのです。

 さてダビデは今日も羊の番をしていました。するとお父さんが言いました。
「このパンをお兄さんたちに届けてやってくれ」

 そのころ、隣の国のペリシテが攻めてきたので、イスラエルの人たちは戦いに出かけ、お兄さんたちも戦いに出かけていました。
 ダビデはお父さんから預かったおいしそうな大きいパンをお兄さんたちのところに持っていきました。
 するとそこはペリシテとイスラエルの戦いの場所です。
 鎧、かぶと、剣、槍を持った人たちがいっぱい集まっています。

 すると向こうのペリシテの軍隊の中からものすごく強そうな大男が、大きな槍を持って出て来ました。

「だれかわしの相手をする者がいたら出てこい。お前たちは神さまを信じるなどと言っているが、神さまなどお前たちを守ってはくれないぞ」

 イスラエルの人々はゴリアテの大声を聞いてとてもこわくなってぶるぶると震え、逃げ出しそうになりました。

 するとダビデはサウル王のところに行って言いました。
「わたしがゴリアテと戦います。」
「何を言う。お前はまだ少年だ。とてもゴリアテの相手にはならない。」
「大丈夫です。わたしは羊を守るために熊やライオンも倒します。きっと神さまが守ってくださいます。」

 そこでサウル王はダビデに立派な鎧を着せ、兜をかぶらせ、大きな槍を持たせました。けれどもあまりに大きくて重くて、動くことができません。
「王さま、せっかくですが、これではわたしは動けません。」
 ダビデは石投げの道具だけを持って行きました。

 ゴリアテはダビデを見ると笑いました。
「お前のような子どもが何をしにきた」

 ゴリアテが大きな槍をもって襲いかかってきました。
 そのとき、ダビデは石を投げました。その石が当たって、ゴリアテはドシーンと地面に倒れてしまいました。ゴリアテが倒れたので、ペリシテ軍は逃げていってしまいました。
 みんなはイスラエルを守ってくれたダビデに感謝しました。やがてダビデは、イスラエルの人々を守る王さまになったのでした。

 聖書を開くと、ダビデのささげたお祈りがたくさん出て来ます。
「主はわたしの羊飼い。わたしは心配なことはありません。神さまがわたしを守り導いてくださるからです。」

 神さま、昔ダビデと一緒にいてくださった神さまがわたしたちと一緒にいてくださいますように。ダビデを守ってくださった神さまがわたしたちを守ってくださいますように。ダビデと一緒に働いてくださった神さまが、わたしたちと一緒に働いてくださいますように。わたしたちが困ったとき、あぶないとき、わたしたちを守ってください。心配なことのある人をどうぞ守り、助けてください。このお祈りを主イエスさまによってお願いいたします。アーメン

聖三一幼稚園 2011/10/13

日ごとの聖句493 導かれる方 2011/10/9〜15

2011年10月9日(日)聖霊降臨後第17主日        詩編25:5
あなたのまことにわたしを導いてください。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

10月10日(月)                   詩編61:3
心が挫(くじ)けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上にわたしを導いてください。

10月11日(火)                  詩編143:10
御旨(みむね)を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください。

10月12日(水)                   詩編23:3
主は、わたしの魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。

10月13日(木)                   詩編78:14
神は昼は雲をもって、夜は燃え続ける火の光をもって彼らを導かれた。

10月14日(金)                 イザヤ書30:20
あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る。

10月15日(土)                 イザヤ書55:12
あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。

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 『日韓キリスト教関係史資料』第3巻の編集
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井田 泉
奈良基督教会牧師
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富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
聖公会平和ネットワーク共同代表

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