Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2012年02月

日ごとの聖句514 祝福を注ぐ 2012/3/4〜10

2012年3月4日(日)大斎節第2主日         マラキ3:10
必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。

3月5日(月)                 詩編115:15‐16
天地の造り主、主が、あなたたちを祝福してくださるように。
天は主のもの、地は人への賜物。
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3月6日(火)        エゼキエル34:26
わたしは、彼らとわたしの丘の周囲に祝福を与え、季節に従って雨を降らせる。それは祝福の雨となる。

3月7日(水)                  ゼカリヤ8:13
今やわたしが救い出すので、あなたたちは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出しなさい。

3月8日(木)                  使徒言行録3:26
神は御自分の僕を立てて、あなたがたのもとに遣わしてくださいました。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。

3月9日(金)                   マルコ10:16
そして、イエスは子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

3月10日(土)                 ルカ24:50‐51
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

わたしのいる所に

ヨハネによる福音書17:24

「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしがいる所に、わたしと一緒におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、あなたがわたしに与えてくださったわたしの栄光を、彼らが見るためです。」(私訳)

 受難を前にして、イエスが祈っておられます。弟子たちと共にする最後の食卓でイエスが祈っておられます。
 ここでイエスはご自分の願いをはっきりと口にされました。できたらそうなってほしい、という程度の願いではなく、絶対にそれを願いそれを実現せずにはおかない、という切実な願いです。

 第1の願いは、「人々をわたしのいる所に、わたしと一緒におらせること」です。その人々とは、神から自分に託された大切な人々です。その人々と一緒にいたいとイエスは願われる。イエスがおられるところにその人々をおらせたいのです。

 第2の願いは、「わたしの栄光を、彼らが見ること」です。イエスの栄光、イエスの愛が光を放っています。イエスの輝く愛が人々を照らしています。その輝きを受けてほしい。その光を浴び、その輝きを見れば、人々はあらゆる不安と闇から解放されて平安と喜びを与えられる。その光をはっきりと見てほしい。見させたいのです。

 イエスのその願いは、わたしたちが今日記念する方々に向けられており、その方々はイエスの祈りの中ですでにイエスとともにおられ、イエスの輝きを浴びておられることを信じます。

(逝去者記念聖餐式 2012/02/25 京都聖三一教会)

新共同訳では17:24はつぎのようになっています。

「 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」

「彼らに見せるため」という表現に抵抗を感じ、今回直訳してみました。
「わたしの」「わたしに」が繰り返されてくどいと感じられる方もあるでしょうが、聖書本文の強調点に触れたいのです。

「ラビリンスによる聖地巡礼」黙想会のご案内

とき ・2012年3月11日(日)午後1時〜2時30分
ところ・京都聖三一教会


 京都聖三一教会では大斎節行事の一環として黙想会を行ないます。

 昨年12月、大韓聖公会の金弘一(キムホンイル)司祭が京都教区教役者継続教育委員会主催の黙想会で「ラビリンスの巡礼」をご紹介くださいました。今回はそれをもとに、同司祭がご寄贈くださった「クレタのラビリンスの布」をホールに広げ、そこに描かれた道を黙想しながら歩きます。
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 ラビリンスは神聖な模様で、初期のさまざまな教会で人々を霊的経験へと導くものとして用いられてきました。聖地を指して歩むラビリンスの巡礼は、道筋はわからないものの必ず目的地に至る1本道です。

 自らを省みつつ、神の国を目指して歩むわたしたちの信仰を「ラビリンスの巡礼」をとおして整えることができればと願っています。

      京都聖三一教会 牧師 司祭 井田 泉

ラビリンス巡礼者の祈り

すべての道の主である神さま
わたしは今日、ラビリンスの前に立って、
主に至る人生の旅路を描いてみます。

近道ばかりを求める性急なこのわたしは
待つことを嫌い、
直線的にのみあなたに向かって
飛び出そうとしてきました。

けれども、かぎりない忍耐の神さまは
くねくねと曲がるまったく違った道を
わたしの前に広げて示されます。

真ん中へと近づくときは喜びにわきますが
すぐに端へとはずれて行くこの道……
なにかわたしの人生と似ています。

一歩ずつ踏み歩むとき
時には目標から遠ざかるようですが、
主はいつもわたしを導いてくださいました。

驚きと神秘の神さま
このラビリンスはその神秘に
わたしをゆだねて、従う道を教えてくれます。

はっきりとはわからないのですが、
信じて仰ぎ行くこの道は、
曲がっては入り、曲がっては出ていきながら
まもなく万有の中心である主に
わたしを導きます。

(ジーン・ゾンネンバーグ)

日ごとの聖句513 神の国を求める 2012/2/26〜3/3

2012年2月26日(日)大斎節第1主日       エゼキエル34:11
まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。

2月27日(月)                   マタイ6:33
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

2月28日(火)                   マタイ6:34
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
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2月29日(水)                    ルカ6:20
イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」

3月1日(木)                   マルコ10:14
イエスは弟子たちに言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである。」

3月2日(金)使徒聖マッテヤ日         ローマ14:17、19
神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。だから平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

3月3日(土)                 マタイ13:45‐46
天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

嵐を静めたイエスさま

(幼稚園の礼拝でのお話です)

マルコ4:35‐41

ずっと昔、36年くらい前ですが、そのころ先生はまだ学生で、将来牧師になるために東京の学校の寮に暮らしていました。

ある晩、風邪を引いたのかとてもしんどくて具合が悪くて、部屋のベッドに横になっていました。
横になっていてもとても苦しくてしんどかったのです。身体が苦しいだけではなくて、とても心配なことがあって心の中が嵐です。頭がぐるぐる回るような感じでした。

そうするうちにふと、聖書の話を思い出しました。

「向こう岸へ渡ろう」とイエスさまがおっしゃって、弟子たちみんなはイエスさまと一緒に舟に乗り込みました。もう夕方でだんだん暗くなってきています。弟子たちは舟を漕いで、舟はずっと沖へ沖へと進んで行きます。もう真っ暗です。

ゴーゴー ビュービュー
風が吹き始めました。

ゴーゴー ビュービュー
ひどい風で舟が揺れます。波が舟に打ち寄せてきます。

ガリラヤ湖の朝
ゴーゴー ビュービュー
ドシーン ドブーン
舟が大きく揺れて立っていられません。
海の水が舟の中に入ってきます

ドーン グラグラ
ドブーン グラグラ
こわい! このままでは舟はひっくり返って沈んでします。死んでしまう。

イエスさまは?

イエスさまは、舟の中で寝ておられました。

弟子たちはイエスさまを起こして叫びました。
「イエスさま、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」

するとイエスさまは起き上がって、風を叱って湖に
「黙れ、静まれ」
と言われました。

すると風も波もすーっとおさまって、海は静かになりました。

「黙れ、静まれ」というイエスさまの声がはっきり聞こえて、そのとき先生はイエスさまに叱られたと思いました。心が静かになりました。身体も楽になりました。

イエスさまが一緒にいてくださることを忘れていた。
どんなことがあっても、どんなときにも、イエスさまが一緒にいてくださることがわかったのです。

イエスさま、どんなときにも、どんな心配な困ったことがあっても、一緒にいてわたしたちを守ってください。アーメン

(2012/02/23 聖三一幼稚園)

荒野での誘惑

主イエスが荒野で悪魔に試みられたことを、マルコ福音書の新共同訳はつぎのように伝えている。

「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」
1:12- 3

しかしこれをギリシア語原文で確かめると、ずいぶん荒っぽい表現がされている。

直訳に近い形にすると……

「そしてすぐに霊は彼を(普通の世界から)投げ出して、荒野の中へと投げ込む。
「彼は四十日間荒野におられ、サタンによって試みられた(誘惑された)。そして野獣と一緒におられ、そして天使たちが彼に仕えていた(未完了形)。」


神の霊は強制的にイエスを苦しみと孤独の場所に置かれた。

サタンの誘惑にさらされ続ける40日の恐ろしい時間。しかし天使たちがイエスを支えようとしてその間ずっと仕えていた。

イエスがそばに行き

「そしてすぐに、一行は会堂を出て……」マルコ1:29

 今日の福音書はこのように始まっていました。

 何の後「すぐに」なのでしょうか。それは礼拝の後すぐに、です。

 カファルナウムの町の土曜日の会堂礼拝は、興奮のうちに終わりました。イエスの説教中に叫びだした人がおり、イエスはその人から汚れた霊を追い出したのです。その人はけいれんを起こし、大声を上げて倒れました。そしてその人は皆の前で顕著に癒されました。はっきり治癒が起こったのです。驚嘆した人々は礼拝後、口々にそのことを話題にします。大勢の人たちがイエスに近寄って、称賛したり反対に非難したりしようとします。

 けれどもイエスはそれを相手にされません。すぐに会堂を出て立ち去られました。ペテロとアンデレの家に行かれます。

「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。」マルコ1:29

ガリラヤ湖の夜明け

 やがてシモン・ペテロとアンデレの家は、カファルナウム、あるいはもっと広く言って、イエスさまのガリラヤでの活動の拠点となります。でもまだ今はそうではありません。つい最近、ペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネが弟子になったばかりなのですから。

 今日は礼拝の日でした。ペテロは結婚していて、しゅうとめと一緒に暮らしています。土曜日の会堂礼拝には、当然しゅうとめも出席するはずなのですが、今日は欠席でした。どうしたのでしょう。こう書いてあります。

「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、……」1:30

 シモンのしゅうとめは高熱を出して寝ていました。詳しいことは何もわかりませんが、少し想像してみます。

 ひょっとしたらこのしゅうとめは、夫を亡くしていたかもしれません。息子もいなかったかもしれない。娘と二人暮らしで、彼女は娘の将来をずっと心配していた。娘はようやく働き者の漁師ペテロと結婚しました。しゅうとめは娘夫婦と同居しています。「シモンとアンデレの家」と書いてあるので、しゅうとめは言わば世話になっている立場かもしれません。婿に気は使いますが、まずは安心でした。

 ところがその大事な頼みの婿が、最近仕事を捨ててしまって、ナザレのイエスという人にくっついて放浪生活のような状態になってしまった。そのイエスという人は何か新しい信仰運動を起こしていて、「神の国が近づいた」と訴えて、大勢の人が集まっている。けれども祭司様や律法学者様らはイエスのことを冷ややかな目で見ておられるらしい。しかも聞くところによれば、そのイエスの師匠であったという洗礼者ヨハネは、世の中の秩序を乱す危険人物だというので最近逮捕されたと聞きます。

 そんなイエスについて行ったらろくなことはないし、あぶない。世間体も悪いし、第一生活が成り立たなくなってしまう。しゅうとめ自身のこれからの生活も心配だし、いったい婿のペテロは娘のことをどうしてくれるのか。でも言いにくい。言っても聞いてくれない。

 ──こういう心配と葛藤が、このしゅうとめが高熱を発して寝込んでしまった原因なのかもしれません。
 
「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。」1:30

 「人々は」とありますが、何人もの人がついて来ていたとしても、ペテロ自身がその事情を打ち明けたのかもしれません。

 話を聞いたイエスは事態を理解し、家の中、しゅうとめの寝ている部屋に入って行かれました。

 しゅうとめにしたら来てほしくない人です。本来なら、会いたくないと言うところです。このイエスが災いのもとであり、この人のせいで苦しんでいるのですから。しかしかまわず、イエスは彼女のそばに行かれました。

「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」1:31

イエスは彼女のそばに行き、手を取って彼女を起こされました。

 ここで起こったのはただ熱が下がったというだけではない。病気が治ってしゅうとめがともかくも起きて生活できるようになったというだけではありません。

「熱は去り、彼女は一同をもてなした」と訳されていますが、ただお茶とお菓子を出してもてなしたというばかりではありません。

 イエスはあるとき、「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マルコ10:45)と言われましたが、「もてなした」と訳された言葉は、「仕える」と訳されたのと同じ言葉(ディアコネオー)です。彼女はイエスとその仲間たちに仕えた。奉仕をした。はっきり言えば、彼女はこれまで嫌っていたイエスの仲間となってその働きを支え始めたのです。彼女はイエスを受け入れ、婿であるペテロの新しい生き方を受け入れ、その活動を支援するようになった。

 彼女の人生の転換が起こりました。彼女自身がイエスを受け入れ、イエスの働きに加わったのです。

「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」1:32‐34

 ペテロとその妻、つまりはペテロのしゅうとめの家は、こうしてイエスの働きの拠点になっていきます。彼女の家にいるイエスのもとに、病気の人、悪霊に取りつかれた人たちが大勢連れて来られます。戸口には町中の人が群がり集まっています。イエスの癒しと救いの業がここで起こっています。

 ペテロを娘に迎えたことはよかった。イエスさまを迎えたことはよかった。神さまの働きに加えられたことをしゅうとめは実感します。最高の喜びです。

 わたしたちも心配や葛藤を抱えて、どうしたらよいかわからない事態に陥ることがあるかもしれません。けれどもそのことをイエスに聞いていただきましょう。自分のことも、身近な人のことも。

「人々は早速、彼女のことをイエスに話した。」

 それが始まりでした。

「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」

 イエスに聞いていただき、知っていただいたとき、イエスがそばに来てくださいました。
 

 祈ります。

 主イエスさま、わたしたちも心配なこと、解決できないで苦しんでいることをあなたのところに持っていきます。どうかそれを聞き、わたしたちのそばに来てください。そうしてわたしたちの手を取って起こしてください。あなたの働きに加わることの喜びを味わわせてください。アーメン

(2012年2月5日 顕現後第5主日 京都聖三一教会)

日ごとの聖句512 主を尋ね求める 2012/2/19〜25

2012年2月19日(日)大斎節前主日           詩編27:8
心よ、主はお前に言われる、「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔(みかお)を尋ね求めます。

2月20日(月)                    詩編9:11
主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。
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2月21日(火)           詩編40:17
あなたを尋ね求める人が、あなたによって喜び祝い、楽しみ、御救いを愛する人が、主をあがめよといつも歌いますように。

2月22日(水)大斎始日 (灰の水曜日)        詩編119:10
心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから、迷い出ることのないようにしてください。

2月23日(木)                エゼキエル34:16
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。

2月24日(金)使徒聖マッテヤ日            哀歌3:25
主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。

2月25日(土)                  ゼカリヤ8:21
一つの町の住民は他の町に行って言う。『さあ、共に行って、主の恵みを求め、万軍の主を尋ね求めよう。』

日ごとの聖句511 創造 2 2012/2/12〜18

2012年2月12日(日)顕現後第6主日         詩編102:19
後の世代のために、このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」

2月13日(月)                 イザヤ書65:18
わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。
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2月14日(火)        詩編104:30‐31
あなたは御自分の息を送って彼らを創造し、地の面を新たにされる。主が御自分の業を喜び祝われるように。

2月15日(水)        詩編148:3、5
日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。

2月16日(木)                  イザヤ書42:5
神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。

2月17日(金)                  イザヤ書43:1
あなたを造られた主は、今、こう言われる。「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

2月18日(土)                  イザヤ書45:8
天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。わたしは主、それを創造する。

尹東柱 詩碑献花式 2012/2/11

尹東柱 詩碑献花式(来日・京都70周年)のご案内です。       

主催・尹東柱を偲ぶ会/同志社コリア同窓会

2012年2月11日(土)午後2時

同志社大学今出川キャンパス

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総合司会    朴煕均

第1部 詩碑献花式(詩碑前) 午後2時〜
1. 開会            
2. 会長挨拶          崔龍漢
3. 聖書朗読・祈祷       崔忠植
4. 「序詩」朗読(原詩と伊吹郷訳) 一同で
5. 献花
(案内)

第2部 詩の朗読と講演(神学館チャペル) 午後2時45分
1. ライアー奏楽   ♪星の呼び声  小野純子

2. 詩の朗読とライアー(曲・小野純子)

         朗読(日本語) (韓国語)
「序詩」     井田 泉   韓相敦  ♪梢にたわむれる風
「星を数える夜」 中川悦子   金吉良  ♪
「弟の肖像画」  中川悦子   韓相敦  ♪
「十字架」    松本あかね  金吉良  ♪
「白い影」    松本あかね  韓相敦  ♪
「新しい道」   中川悦子   金吉良  ♪

3. 講演「尹東柱(ユンドンジュ)と尹一柱(ユンイルジュ)──詩に現れた兄弟の思い」
  井田 泉(京都聖三一教会牧師)

  
 尹一柱「たんぽぽの笛」          ♪  

4. ライアー奏楽   ♪無伴奏チェロ組曲から「プレリュード」

5. 「新しい道」    ♪ 

6. ♪いつくしみ深き(讃美歌312、讃頌歌487) オルガン伴奏
 
             午後4時30分終了予定

黙想から祈りへ──黙想への招き(2)

聖公会神学院の1998年度の開始に際して行なった黙想講話の続きです。

1998.4.27

聖歌 増補版 25 主はわがかいぬし

祈り

前回、イエスの母マリアのことから黙想を考え始めました。天使から、羊飼いから、イエスから聞いたことを、当惑したり不思議に思ったりしながら、心に納めて思いめぐらす――そういうマリアのことを心にとめたのです。そのマリアが新約聖書の中で最後に登場するのは、使徒言行録1:14です。主イエスの昇天のすぐ後の場面です。

「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」1:12-14

イエスを見送った弟子たちの群れ、イエスのいのちとイエスの願いを受け継いで生きて行こうとする人々の中に、マリアの姿があります。マリアは祈っています。思いめぐらすことから祈ることへ、ということを今日は考えてみたいと思います。

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「キリスト者は、一日の中で、ひとりでいるための一定の時間を必要とする。」

ボンヘッファーはそのように言っています。(ボンヘッファー『共に生きる生活』新教出版社、1975、「3 ひとりでいる日」から)

もう少し続きを聞きましょう。

「それは、次の三つの目的のためである。すなわち、(1) 聖書を読み、思いめぐらすこと、(2) 祈ること、(3) とりなしのためである。」

「聖書を読み、思いめぐらすこと」――これが狭い意味での黙想です――、「祈ること」、「とりなしをすること」。この三つがキリスト者の日ごとの黙想の時間に見出されなければならない、と彼は言います。

この黙想の時間を一日の中で確実に確保せよ。これは神と人に仕えようとする者の責任に属することである。同時にこれは、自分が神の恵みに出会うことである。――そのようにボンヘッファーは強く勧めています。

さてボンヘッファーの挙げた三つのことを心にとめてみたい。

第一は、聖書を読み、思いめぐらすこと。

研究のためではなく、何かをだれかに話すためではなく、まったく自分のために……。聖書の言葉が私個人に何を語りかけてくるのだろうか。それを静かに待つ。期待して、願って待つ。神様が御言葉をとおして聖霊を送ってくださるように、私たちに神様が言葉を聞かせてくださるように、私たちの心が御言葉に向かって開かれるように。そのような祈りをもって黙想を始めます。

詩編143編を開きましょう。

「わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。」143:5

昔のイスラエルの詩人がそのように語っています。祈っています。昔のその人のこと、その人の思い、その人の置かれた状況を思ってみたい。

そしてまた、「わたし」を、自分自身のこととして思ってみたい。「あなたのなさったこと」、神様が私に対してなさったことは何であったか。神様は私に対して、確かに良いことをしてくださったのではなかったか。それを思い返したい。あるいはその中には、辛いことも含まれていたかもしれない。

(沈黙)

聖書の言葉を思いめぐらすことから、私たちは祈りへと導かれます。

第二は、祈ること。

黙想から祈りが与えられます。

黙想が私の心をなごませ、平和と祝福を与え、自然に祈りへと導いてくれることがある。一般的な、イメージのはっきりしない祈りではなく、今思いめぐらした聖書の言葉が、何らか具体的なイメージと内容をもった祈りへと、私たちを促してくれることがある。

神様が私にしてくださったことを思い返したとき、忘れていた喜びが呼び覚まされることがある。神様への感謝と讃美を心から捧げることが起こる。魂がうるおされる。そういうことがあるでしょう。黙想の与える祝福のひとつです。

しかし、そのようにはならないこともあります。黙想が深まらないことがある。落ち着けないことがある。あるいはまた、私に対する神のわざを讃美するのではなく、反対に今の自分の現実を思って、嘆きが増し加わることがある。

あの詩編143編の人の場合はどうだったでしょうか。

「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。」143:6

神がなさったことをひとつひとつ思い返しつつつ、この人の心はうるおっていません。神様のことを思ったとき、自分の状態がどんなに悲しいものであるかをいっそう強く感じるしかありませんでした。「渇いた大地のようなわたしの魂」。けれども、ほかにどうしようがあるでしょうか。

「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。」

少し一般的に言いますが、黙想から祈りへと導かれるというとき、それは幸いな経験として与えられる場合と、反対に自分の思いとしては辛さを感じつつ、しかし祈るしかどこにも救われようがない、という場合と、両方があると思います。その間の幅があると思います。

そして辛い方、否定的に思える場合もまたけっして意味のないことではなく、逆にそのことをとおして、神の前に自分の姿があらわとなり、神との関係を回復させられる、そういうかけがえのない意味を持っています。

この143編の人はそのような中にあったのではないでしょうか。

この人は、神の前に自分をさらしながら神の名を呼びます。

「主よ、早く答えてください。わたしの霊は絶え入りそうです。」143:7
 
聖書の言葉から祈りが与えられる。あるいはまた、自分でその祈りの言葉を見出そうとすることもよいでしょう。聖書の言葉と、与えられた祈りを、紙に書くことはよいことです。

黙想と祈りに続くのはとりなしです。

第三は、とりなしです。

これまではほとんど自分のことに集中してきたのですが、すでに黙想の中で自然にだれか気がかりな人のことが思い浮かんだかもしれません。そうであったとしてもそうではなかったとしても、黙想の最後は、人のことを神の前におぼえます。自分が黙想をとおして幸いと感じられる時を過したのであれば、人のために幸いを祈ります。反対に、辛いと感じたのであれば、人の辛さ、人の困難をより強く思って祈ります。

出エジプト記によれば、昔、祭司アロンは、身にまとうエフォドの両肩のひもに、そして胸当てのところに、イスラエルの12部族それぞれの名を刻んだ石を身につけて、主の前に立ったと言います(出エジプト記28:6-30)。

主の前にイスラエルの子らをおぼえるためにそうしたというのです。とりなしとはそのように具体的なことなのだと思わされます。

主イエスは私たちのことを神の前におぼえてくださっている。

私たちもまた、主イエスのとりなしの働きにあずかりたい。具体的な人の名を神の前におぼえて、とりなしをする者でありたい。これを継続的に着実にするために、手帳かノートをそのために用意するのがよいでしょう。

黙想と祈りととりなしと。これは個人の黙想の時です。このような時を持ちつづけるとき、私たちは個人として神の前に落ち着かせられ、強められていきます。と同時に、私たちの共同生活にも良い作用を及ぼすことになるでしょう。

黙想から祈りへ。自分の祈り、自分のための祈りを大切にしたい。そしてとりなしの祈りへと進みたい。祈りととりなしのために、しばらくの時間を過しましょう。

(沈黙)

祈り

主の祈り

見ること、聞くこと、感じること――黙想への招き(1)

これは聖公会神学院の1998年度の開始に際して行なった黙想講話です。
 
1998.4.20

聖歌 増補版 8 神の息よ

祈り

月曜日の朝、私たちはここで共に黙想の一時を持ちます。今日と来週の月曜日と2回、黙想について、あるいは礼拝について、いくらかのことをお話ししながら、黙想の時を過してみたいと思います。

ルカ福音書は、主イエスの母となったマリアについて、彼女が何かを思いめぐらしていることを記しています。

まず、お告げのところです。

「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」ルカ1:28-29

それからイエスが生れたとき、羊飼いがやってくる場面です。

「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」ルカ2:18-19

イエスの12歳のとき、エルサレムに巡礼した時のことです。

「イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。」ルカ2:49-51

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天使から驚くべきことを告げられたとき、羊飼いたちの話を聞いたとき、神殿でイエスの言葉を聞いたとき、マリアはその場ですぐに納得して受け入れたのではありませんでした。反対に納得がいかないからそれを拒む、ということでもありませんでした。意外なこと、受け入れがたいことを、しかし心に納め、思いめぐらしていた。

彼女の中に納められた言葉、彼女が思いめぐらす言葉は彼女の中に位置を占める。彼女の信仰の歩みは、このような思いめぐらしによって支えられ、導かれたのではないかと思うのです。このことなしには、愛するわが子の死を前にして十字架の下に立ちつづけることはあり得なかったでしょう。

詩編にはこのような言葉が出て来ます。

「わたしの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます。わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。」詩編143:4-6

神の言葉を思いめぐらすこと、神のわざをひとつひとつ思い返すことなしには、この人は苦しみに耐えることはできなかった。

聖書の黙想は、それがほんとうになされるならば、私たちに神様からの励ましと支えを与えてくれるはずのものです。言い換えれば、神様は私たちの黙想をとおして私たちに近づき、私たちを受け入れ、私たちに宿ってくださると、そのように言ってもよいかもしれません。

(沈黙)

聖書の黙想について、三つの面からふれてみたいと思います。

第一は、「見る」ということです。

心の目で見る、その場面、情景を思い浮かべる、ということです。少し昔の人のことを言いますと、イグナチオ・ロヨラ(1491頃−1556。イエズス会の創立者です。彼は『霊操』の中で、マリアとヨセフがナザレからエルサレムに向かって旅をする場面以下について、次のように言っています。

「ここで想像力を使って見るものは、ナザレからベツレヘムへの道である。道の長さと道幅を考えてみよう。道は平らだろうか。谷や山を巡って曲がりくねっているのだろうか。同様にして降誕の場所、降誕の洞窟を見よう。どのくらい大きいのだろうか、それとも小さいのだろうか。どのくらい天井が低いのだろうか、それとも高いのだろうか。どんなものが置かれているのだろうか。」
(D.C.シュタインメッツ「ルターとロヨラ」『インタープリテイション』日本版 第21号。1993.5)

このように具体的に情景を思い浮かべることを勧めています。このように心の目で思い浮かべるということは、むずかしい場合もあるし、見当違いを犯すこともあるかもしれません。けれども、想像力を働かせるということは、聖書に近づいてその中に入って行くために大変有益です。

第二は、「聞く」ということです。

耳で、心の耳で、あるいは実際に声を出して自分の体の耳で、言葉を聞くことです。聖書の中の誰かのセリフを聞く、ということもあるし、セリフに限らず語られている言葉を聞く。短い言葉を繰り返して、反芻するように聞く。あるいはまとまった流れに耳を傾ける。すでに聞いたことのある、何度も聞いて知っている言葉であっても、新しく、耳をすまして聞く。初めは、乾いた言葉、言葉だけの言葉であって、自分とは関係があるとは思えないかもしれない。けれども、時間の中で、何かが変ってくる。

第三は、「感じる」ということです。

皮膚で感じる。空気の流れ、風がほおに当る。重さを手に感じる。におい、香りを感じる。イエスの呼吸が私の呼吸に影響を及ぼす。自分の心、気持・感情に何が起こってくるかを感じる。

黙想には結論はなくてよい。心を柔らかくして、自由に過す。うまく行かないように思ってもあまり気にしない。別のことが気になったり、連想したりしたりして、また聖書の言葉に戻ってくる。短い言葉一つに立ち止まるのでよい。

しばらく実際に黙想して、今の三つの面から、自由に思いめぐらしをしてみたい。

今週の福音書、ヨハネ福音書20:19−23の言葉とともに、しばらく沈黙のうちに過してみましょう。見ること、聞くこと、感じること。その場面に近づいて、その傍らにとどまって、言葉を繰り返して、時を過します。

(朗読)

(沈黙)

祈り 主イエス・キリストよ、おいでください。弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください

主の祈り

日ごとの聖句510 創造 2012/2/5〜11

2012年2月5日(日)顕現後第5主日         創世記1:1、3
初めに、神は天地を創造された。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

2月6日(月)                   創世記1:25
神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。

2月7日(火)                  創世記5:1‐2
神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
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2月8日(水)            創世記2:3
この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

2月9日(木)                 コリント二 5:17
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

2月10日(金)                   詩編51:12
神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。

2月11日(土)               ヨハネの黙示録4:11
「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」
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