Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2012年05月

日ごとの聖句527 父と子と聖霊 2012/6/3〜9

2012年6月3日(日)三位一体主日・聖霊降臨後第1主日

DSC00897

マタイによる福音書28:19
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。」

6月4日(月)                 マタイ28:19‐20
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

6月5日(火)         コリントの信徒への手紙 13:13
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。

6月6日(水)           エフェソの信徒への手紙1:17
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにしてくださいますように。

6月7日(木)                テトスへの手紙3:6
神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。

6月8日(金)            ローマの信徒への手紙15:30
主イエス・キリストによって、また、"霊"が与えてくださる愛によってお願いします。わたしのために、神に熱心に祈ってください。

6月9日(土)                 使徒言行録2:33
それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。

『奈良の寺』

奈良文化財研究所編 『奈良の寺──世界遺産を歩く』

  岩波新書、2003

薬師寺は天皇家の寺、興福寺は藤原氏の寺、そして大安寺は国家の寺という性格を持つとのこと。

国家鎮護の仏教のあり方に共感はしないが、ひとつ心にとめたいことがある。

それは仏教信仰とその布教、事業の拡大と並行して(というか、それらの中心に)、仏教教学の本格的な研究と講義がなされていた、ということである。

日本におけるキリスト教が命を回復させるためには、中心に生きた学問がなければならないと思う。

DSC00885

天からの音、神の息──聖霊降臨

使徒言行録2:1‐2
ヨハネ20:22

  2012/05/27 奈良基督教会 


 今日は聖霊降臨日です。西暦紀元30年頃のこの時期、おそらくは5月のある日曜日に、一緒に礼拝に集まっていた人たちは予想もしなかった特別な経験をしました。そのことが起こったので、その経験を一緒にしたので、教会は内側には命が充満し、外に向かって活動を開始したのでした。

WP_000229

 その出来事を伝える使徒言行録第2章の初めを確かめてみます。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」2:1

 ユダヤの過越の祭りの翌日の日曜日から数えて50日目(ペンテコステ)。春の収穫感謝祭です。これは、主イエスの復活の日から数えて50日目でもありました。

 「五旬祭の日が来て」とありますが、自然にその日になったというのではありません。時が満ちたのです。イエスの約束を信じた最初の群れは、一日一日を祈って求めて過ごして、そうして祈りが次第に教会の中に満ちていったのです。

 「五旬祭の日が来て」という言葉の中には、時の充満、祈りの充満があります。

 イエスは何を約束してくださったのか。イエスを信じた人々は何を待ち望んでいたのか。聖霊です。イエスが最後の晩餐においても、昇天においても、繰り返し約束されたのは、「わたしは聖霊を送る」ということでした。よくはわからなかったけれど、本気で信じ、本気で祈って待ち望んでいたのが、最初の信仰の群れです。

 祈るために集まった。ただ礼拝するために集まっていたのです。聖霊を求める切実な祈り求めにおいて一つであった。これがその日の人々の姿です。

 今日わたしたちはここに礼拝するために集まりました。皆さんは礼拝堂に入られてから礼拝の開始まで、祈って待っておられたでしょうか。もしそうなら、わたしたちは最初の信仰の群れと同じものを共有しています。けれどももしそれとは別のことに気が向いていたとしたら、これは考え直してみたい。もしわたしたちが礼拝開始前にすでに祈りの空気を共有するようになったら、わたしたちの礼拝は今よりもずっと力を持つようになるでしょう。
 
「一同が一つになって集まっていると……」
 わたしたちもその姿に近づきたいと願います。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」2:1‐2

 それは突然起こりました。予定していたことではありません。その日の礼拝次第にはありませんでした。
 何が起こったかというと、天からの音が起こった。天の音が地上の集まりの中にはっきりと響いたのです。美しい音。これまでに聞いたことのない不思議な、力ある音です。

 天からの音を聞く前、人々は何を聞いていたかというと、地上の音であり、人の声です。やかましい音、静かな音。人を励ます音があり、人を威嚇する音があります。地から天に向かう祈りの響きもあります。しかし今、人々が聞くのは、天からの音です。神さまからの響きを人々ははっきりと聞く。

 ほんとうに人々が必要としていたものはこれです。天からの音が人を救う。

 逆の場合がありますから注意してほしい。音は人を破壊する場合があります。必要以上の大音量は心の声を消し去ります。もっとひどくなれば魂を破壊します。しかし今、皆は、人の魂を生き返らせる天の音を聞いています。

DSC01401
 今、礼拝する人々の群れに響いてきた天からの音は、どのような音であったかを、使徒言行録は具体的に伝えています。

「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」

 「激しい風が吹いて来るような音」
 激しい風をはらんだような天の音です。天の音は風を運ぶ。この風はただ顔をなでるのではない。ただ身体を揺さぶるのではない。人々の身体と心の中に吹き込む風です。不安、恐れ、抑圧、葛藤で窒息しそうになっている人の身体と心に吹き込まれる天からの風。神の息吹です。

 神が最初の人を造られたときのことが旧約聖書の初めに書いてあります。神は土の塵で人を造られた。人の形は立派にできました。しかしその人は横たわったままで動きません。生きていなかったからです。しかし神は人が生きることを願われました。そこで……

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」創世記2:7

 この最初の人に生きる者とした神の命の息。それが今、祈ってい
る人たちに、天からの音とともに吹き込まれます。

 人を生かす命の息。それは今日の福音書にもはっきりと記されていました。

「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」ヨハネ20:21‐22

 天地創造の際、神が最初の人に吹き込こまれた命の息。復活の主イエスが弟子たちに吹き込まれた命の息。いまそれを、集まって祈っていたおよそ120人が一緒に吹き込まれる経験します。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」2:1‐2

 激しい風、神の命の息、聖霊が人々に吹き込まれました。天からの音が命の息をもたらし、人々が座っている家全体を満たしました。

 何という美しい音でしょう。何という慰めでしょう。なんという幸せでしょう。命の充満。ここに天国が到来しています。わたしを愛しておられるイエスがわたしの中におられ、わたしたちを愛しておられるイエスがわたしたちの中に臨在しておられます。それがはっきりとわかるのです。

DSC01147

 しかし、天からの音、神の息吹は、人々に天を経験させただけではありません。反対にこの地上における使命を自覚させ、励まして世界に送り出すのです。そのことは使徒言行録の続きに記されています。けれども今日はここで区切りにします。

 西暦紀元およそ30年の今頃、五旬祭(ペンテコステ)の礼拝に集まった人々は多様でした。違う出身、違う言葉、違う習慣を持った人々でした。しかしイエスの約束を信じて、一つになって祈っていました。

 あの日に礼拝に集っていた人々と、今日このペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝に集っているわたしたちとはひとつの教会、ひとつのキリストの身体の肢です。

 わたしたちも聖霊の約束を受けています。わたしたちも聖霊を祈り求めます。わたしたちにも聖霊が降臨する。それがわたしたちの未来です。

 神さまは、復活のイエスさまは、わたしたちにも命の息を吹き込もうと願っておられます。イエスは、わたしたちの抱える困難、わたしたちの不安と恐れと葛藤を知っておられます。枯渇したわたしたちのために心を痛めておられます。それだからこそ、イエスはわたしたちに聖霊を注いでわたしたちを生かそうとしておられるのです。

 今日わたしたちは、最初の聖霊降臨日に起こった出来事を聞きました。わたしたちも聖霊が与えられるように祈りましょう。

 かつて五旬祭の礼拝で一つになって祈っていた人々に聖霊を注がれた神さま、わたしたちにも聖霊を注いでください。一つになって祈る思いをお与えください。天からの美しく不思議な力ある音をわたしたちにも聞かせてください。あなたの息吹をわたしたちにうちにも吹き込んでください。わたしたちを自由にし、力づけてください。そうして主イエスがわたしたちのうちに生きておられることを、はっきりと、喜びをもって味わわせてください。アーメン

天からの音──聖霊降臨日

神学校を卒業して35年。長い間、説教し、聖書の話をしてきたが、「今になって新しく知った」ということが毎週起こる。

このところ、土曜日の夜、翌日の説教の準備をしている中で、新約聖書・ギリシア語原典の一つないし二つの単語から鮮明な印象を受けることが続いている。

WP_000204

その単語の意味や脈絡、背景を調べているうちにだんだん夜が更けてくる。
楽しい時間であるが、体力の限界を気にする時間でもある。

5月26日(土)の夜、翌日の聖霊降臨日の箇所を読んでいた。

新共同訳聖書ではこうなっている。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」使徒言行録2:1 ‐2

ここをギリシア語で見て気づいたのは「天からの音が起こった」と書いてあることである(「音が天から起こった」とも解することもできるが)。

聖霊降臨の出来事は、何よりも天からの音を聞く経験、天からの音が心と身体の中に浸透する出来事だったと気づいた。

天からの音は激しい風(神の息)を運ぶ。

こうして翌日の説教の中核が決ったのでした。

「あなたが何を行なおうと」ルター聖書から

5月22日の朝、礼拝堂でいつものように聖書日課をルター訳ドイツ語聖書で読んでいたのですが、ヨシュア記1:9ではっとしました。

神がモーセの後継者モーセを励まされるところです。

WP_000701


Der HERR, dein Gott, ist mit dir in allem, was du tun wirst.

「主、あなたの神は、あなたとともにおられる。あなたが何を行なおうと、そのことの中に。」



あなたが何をしようとそのことの中に、主はあなたとともにおられる。だから恐れてはならない。

日本語訳、英訳数種、またヘブライ語原典を見ると、「あなたがどこに行こうと」というのが直訳のようです。

新共同訳ではこうなっています。
「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

ルターはしかし、ここを「あなたが何を行なおうと」と訳しました。

ルターは時々、直訳から離れて大胆な訳し方をします。

けれどもわたしが感じるのは、それは決して恣意的なものではなく、ルターが自分の働き、取り組みの中で、その聖書の箇所をそのように聞きとった、ということだと思います。

それでわたしは、自分と他の人の大切なことへの取り組みと実現のために祈ったのでした。

『日本海軍はなぜ過ったか』

澤地久枝・半藤一利・戸皸貔
『日本海軍はなぜ過ったか──海軍反省会400時間の証言より』
  岩波書店、2011

日本海軍は


印象的な言葉を引用する。

「組織というのは不思議なくらいに、少し飛び抜けて一歩進んだ人はいらないのです、邪魔なんですね。排除の論理というか、……排除の精神が働くんです。」(半藤)

「組織には権限があるんですね。ところが、組織というものは当然、思考能力がないんですよ。思考能力は個々の人間が持つんです。ですから、個々の思考能力を持つはずの人間が考えることを放棄して、組織の決定に無批判に従ったら、人間としての存在意義がなくなるわけです。……おかげで、責任も組織に行ってしまい、個人としては誰も責任を取らなくなる。」(戸癲

「わたしがこだわっているのは、15歳で戦死した人がいるという事実です。10代の戦死者は日本にもアメリカにもいます。」(澤地)

今に呼びかける痛切な指摘だと感じます。

次のところに紹介があります。

『日本海軍はなぜ過ったか──海軍反省会400時間の証言より』

日ごとの聖句526 聖霊降臨 2012/5/27〜6/2

2012年5月27日(日)聖霊降臨日        使徒言行録2:1‐2
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

ペンテコステ鳩

5月28日(月)                 使徒言行録2:3
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

5月29日(火)                 使徒言行録2:4
すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

5月30日(水)                使徒言行録2:14、16
ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」

5月31日(木)                 使徒言行録2:17
神は言われる。終わりの時にわたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

6月1日(金)                  イザヤ書32:15
ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。

6月2日(土)                  イザヤ書32:16
そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。

わたしたちのために祈ってくださるイエス

使徒言行録1:15〜26
ヨハネ17:11〜19

WP_000691

 今日は最初に使徒言行録が朗読されました。このように始まっていました。

「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。」1:15

 「そのころ」とはいつのことなのでしょうか。

 それは、ちょうど今頃のことです。今頃というのは、主イエスが復活の後、40日にわたって弟子たちの前に現れて、ご自分が生きていることを示されてから天に昇られたその後です。

 先週の木曜日がその昇天日でした。今日は主イエスの昇天の後の主日。昇天後主日です。

 イエスを天に送った弟子たちは、エルサレムのある場所に集まって、毎日熱心に祈っていました。「120人ほどの人々がひとつになっていた」と書いてあります。

 120人ほどの人々は単に群れて集まっていたのではありません。この人たちは同じ所にいます。ただ同じ場所にいるというだけではなく、同じ境遇に立ち、同じ思いでいます。

 イエスという犯罪人として処刑された者を信じ、それによって世間から怪しまれ、迫害の危険にさらされている、という境遇です。不安と恐れを抱えています。

 力を持っているわけではありません。強い一致で団結しているというふうではありません。ひとつ間違えばこの集団は壊滅してしまうかもしれない危うさを抱えています。

 けれどもここに集まっている人々には、イエスを慕う思いがあります。イエスが約束されたものを祈り求める思いがあります。イエスを慕う思いと祈りによって、この人たちは結ばれているのです。

 わたしたちは今日、ここに集まって来ました。どういう思いを持って集まって来たのでしょうか。イエスを求めて来たのではないでしょうか。祈るために来たのではないでしょうか。イエスを慕う思いで、イエスを愛する思いで、礼拝に向かいたいと思います。

 この最初の弟子たちの群れにとって絶対に必要なことがふたつあります。

 一つは、この群れの中で主イエスの復活の記憶が生き生きと保たれていることです。そのために群れの指導者を補充しなくてはなりません。ユダが抜けて11人となった弟子たちのリーダーをもうひとり選んで12使徒を回復しようとします。その際にペテロが皆に呼びかけた言葉はこうです。

「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」使徒言行録1:21‐22

 「だれか一人が加わって、主の復活の証人になるべきだ。」

 手腕や能力がある人というのではなく、主イエスの復活をはっきりと示す人が必要でした。そこで候補が絞られ、そして最後はくじで選ばれたのがマティアという人でした。

 もう一つは、イエスが最後の晩餐のときも、天に昇られるに際しても、祈って待っているように言われた聖霊を祈り求めることです。

 イエスの復活の記憶があいまいになり、聖霊を求めることがなくなってしまえば、この群れは力を失い、離散してしまうかもしれません。

 しかしこの群れはイエスの復活の記憶を生き生きと保とうと努め、聖霊を求めて祈り続けました。そして主イエスの昇天から10日後、この祈りの群れの上に神さまから大きな力が注がれました。それを記念するのが次の主日、聖霊降臨日です。

 ここまでお話ししたのは、人々の側、弟子たちの側からです。しかし今日はそのこと以上に、この群れのためにイエスが祈っていてくださったことを心にとめたいのです。

WP_000694


「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」ヨハネ17:11

 今日の福音書の冒頭です。これは最後の晩餐の席でのイエスの祈りです。イエスは生きておられる間、最後の最後まで危うい弟子たちを守るために祈っておられました。ばらばらになりそうな弟子たちのために祈っていてくださいました。弟子たちの傍らで祈ってくださいました。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。」17:15‐16

 この祈りは最初の弟子たちのためだけの祈りではありません。イエスは、2000年後の弟子であるわたしたちのためにも祈っていてくださいます。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」

 主イエスはわたしたちが悪の力にさらされているのをご存じです。誘惑の危険があるのを知っておられます。この地上でしっかりと生きていくことができるように、イエスは祈っていてくださいます。

 さて、今日は昇天後主日であることを最初に心を向けました。イエスが天に上られるとき、どのような姿であったかを確かめておきたいと思います。

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」ルカ24:50‐51

 背を向けて、弟子たちを見捨てて天に昇られたのではありません。イエスは両手を上げて(片手ではなく「両手」であることがギリシア語原文を見るとわかります)、弟子たちを祝福して、祝福しながら天に上げられました。

「わたしがみんなのために祈っている。わたしがあなたがたを祝福しつづけている。わたしがみんなを守っている。たとえ目に見えなくなっても、あなたがたを支え続けている。」

弟子たちが見つめていたのは、イエスが自分たちを祝福しつづけていてくださる姿です。イエスの姿が見えなくなっても、弟子たちの目に焼き付いたのは、イエスが両手を挙げて祝福してくださる姿でした。

 わたしたちのためにも、イエスが祈っていてくださることを知りましょう。最後の晩餐のときにそうであったように、イエスはわたしたちを守ろうとしてわたしたちの傍らで祈ってくだいます。また天からも、イエスはわたしたちを祝福しつつ祈っていてくださいます。

 イエスの祈りに支えられ、守られて、わたしたちは祈りつづけ、礼拝をしつづけるのです。
 わたしたちも、約束の聖霊を待ち望みます。

 祈ります。
 主イエスさま、あなたはわたしたちの傍らにいてわたしたちのために祈っていてくださり、また天からもわたしたちを祝福しつづけていてくださいます。あなたの祈りと祝福を受け、それに支えられて、わたしたちがまっすぐにあなたの道を歩むことができるようにしてください。尊いあなたの御名をほめたたえます。アーメン

 (2012/05/20 高田基督教会)

原発の問題について

原子力発電の恐ろしさと再稼働推進の問題を楽しくわかりやすくえぐる動画です。

YouTube から

「絶対原子力戦隊スイシンジャー」

小出裕章氏の説明は明快です。
「スイシンジャー 異形編」

日ごとの聖句525 昇天の後 2012/5/20〜26

2012年5月20日(日)復活節第7主日(昇天後主日)  使徒言行録1:9
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

5月21日(月)                 使徒言行録1:10
イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。

WP_000655

5月22日(火)                 使徒言行録1:11
「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

5月23日(水)               使徒言行録1:12‐13
使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。

5月24日(木)                 使徒言行録1:14
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

5月25日(金)                エゼキエル書37:5
これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」

5月26日(土)               エゼキエル書37:10
わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。

「たんぽぽの笛」──尹東柱と尹一柱

 今から60年前の1952年、詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の弟である尹一柱(ユン・イルジュ)は「たんぽぽの笛」という詩を書いた。

たんぽぽ

 たんぽぽの笛

日の光が温かい兄さんの墓の横に
たんぽぽが1株立っています。

1本には 黄色い花
1本には 白い種。

花は摘んで胸に挿し
種は息で吹いてみます。
かるくかるく
空に消える種、

──兄さんも 黙って行きましたね。

目を閉じて吹いてみるたんぽぽの笛
兄さんの顔 はっきりと浮かびます。

飛び立った種は
春になれば広い野原に
また咲くでしょう。
兄さん、その時は
わたしたちも会えるでしょう。


 「種」と直訳したが、たんぽぽの白い綿毛のことである。吹く息に乗って飛んで行く綿毛のかなたには、7年前に福岡で獄死した兄が待っている。綿毛の種が地に落ちて、やがて芽を出し、ふたたびたんぽぽの花となって咲く時、必ず再会することができる。

 「たんぽぽの笛」から14年前の1938年、20歳の兄・尹東柱は10歳の弟・一柱を「弟の印象画」という詩に書き留めた。

 弟の印象画

赤い額に 冷たい月が差し
弟の顔は 悲しい絵だ。

歩みを止め
そっと幼い手を握って
「お前は大きくなったら何になる」

「人になる」
弟の悲しい ほんとうに悲しい答だ。

そおっと 握っていた手を放し
弟の顔を もう一度見つめる。

冷たい月が 赤い額に濡れ、
弟の顔は 悲しい絵だ。


 「たんぽぽの笛」を書いたとき、弟は14年前の月明かりの下での兄の顔と手の感触を、兄の問いと、「人となる」と言った自分の答を、思い出していただろうか。

 後に尹一柱は、大韓イエス教長老会の機関誌『基督公報』(1965.2.20)に「兄、尹東柱──彼の20周忌に」という文を寄せた。

「卒業する頃にはキルケゴールを愛読し、彼の友人であったM牧師との対話で神学にも深い造詣を示し、また信仰から離れていなかったことを示したといいます。今も忘れられないのは、ある冬休みのクリスマスの日、寒い夜明けに私の手を引いて教会に出席し、敬虔な雰囲気に浸って帰る彼の姿です。」

「彼が1944年に日本の福岡刑務所に収監されていくらもならないころ、英韓対照新約聖書を送ってほしいと言うので送ってあげたことがあります。1945年2月16日、彼の獄中で29歳[訳者注、数え年]という短い生涯を終える時まで、この『主の御言葉』を唯一の友として永遠の世界に近づいて行っただろうと信じるのです。」

 尹東柱は「人になる」ことの困難な時代に、人としてまっすぐに生きようとして、この日本の国によって人生を断ち切られた。今日、「君が代」を立って歌うことに良心の抵抗を感じる人にまで、権力を用いてこれを強制することは、当時と同じく「人になる」ことを許さない行為である。

 「思いやりの心そなえ、深く思う人になれ」(聖歌413)と、主に招かれたわたしたちは、たんぽぽの種に未来を信じた人のことを決して軽んじない。

聖公会生野センター『ウルリム』第55号 2012年6月20日発行

フレーベル「母の歌と愛撫の歌」

今日は親愛幼稚園母の会総会がありました。

近代幼稚園の創始者とされるフレーベルの「母の歌と愛撫の歌」(約50の詩と歌)から最初の曲「母」のごく一部を紹介しました。

DSC01716

歌詞に「信仰・希望・愛」が出て来ます。

フレーベルがはっきりとキリスト教精神によって幼稚園を創始したことを知らされます。

日ごとの聖句524 イエスの昇天 2012/5/13〜19

2012年5月13日(日)復活節第6主日         ヨハネ14:16
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

5月14日(月)                  ヨハネ15:26
わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるだろう。

DSC01713

5月15日(火)                   ルカ24:49
わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。

5月16日(水)                   ルカ24:50
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。

5月17日(木)昇天日                ルカ24:51
そしてイエスは、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

5月18日(金)                 使徒言行録1:8
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。あなたがたは地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

5月19日(土)                   ローマ8:34
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

わたしたちも一緒に行こう──フィリポとイエス

本日(2012/05/01)夜、奈良基督教会で奈良YMCA創立50周年感謝礼拝が行なわれました。
その際の説教を掲載します。

ヨハネ21:1‐14

「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」ヨハネ21:1‐3

 7人のイエスさまの弟子たちが夜、漁に出かけました。しかし、その夜は何もとれませんでした。

「ほかの二人の弟子」というのがだれかはわかりません。けれどもわたしはこれを今日は、12弟子の中のフィリポと、アルファイの子ヤコブではないかと想像してみたいのです。というのは、今日、奈良YMCA創立の記念日である5月1日は、教会の暦では「使徒聖フィリポ・使徒聖ヤコブ日」なので、それと重ねてみたいのです。

 今日は奈良YMCA創立50周年を意識しながら、その二人のうちのひとり、フィリポという人を、ヨハネ福音書をたどりながら見つめてみることにします。

WP_000627

 12弟子のひとりフィリポが最初に出てくるのはヨハネ福音書第1章です。

「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。」1:43

 ここで気づくのは、「フィリポがイエスに出会った」とは書かず、「イエスがフィリポに出会った」と書かれていることです。「出会って」と訳されていますが、「見出した」「見つけた」という意味合いの言葉です。主導権はイエスにあるのです。イエスがフィリポを「この人」と見出した。この人は、必要な大事な働きをわたしと一緒にする人だと、イエスが見出されたのです。

 50年前の奈良YMCAの始まりも同じではないでしょうか。イエスが、ある人たちを見出されて、その人たちが決意して従って、その歩みが始まった。

 イエスはフィリポに、「わたしに従いなさい」と言われました。そのとき、フィリポの方もイエスを「この方こそ」と信じて、決意して従ったのでした。フィリポはイエスを、イスラエルが待望してきた救い主に違いないと信じたのです。

 そこでフィリポは、友人のナタナエルにイエスを引き合わせなければならないと思い、ナタナエルを見つけて言いました。

「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」1:45

 ナタナエルはフィリポのいうことを信用しませんでした。しかしフィリポは諦めません。

「来て、見なさい。」1:46

「来て、見なさい。」

 フィリポはナタナエルをイエスのところに引っぱって行きました。意外にもイエスは、ナタナエルのことを知っておられました。

「わたしはあなたがいちじくの木の下にいるのを見た。」1:48
 ナタナエルはいちじくの木の下で何をしていたのか。おそらく聖書を読むか祈っていたのでしょう。

 たちまちナタナエルはイエスの真実の弟子となったのです。

 フィリポはナタナエルに熱心に働きかけることにより、重要な仲介者の役割を果たしました。

WP_000624
 フィリポが登場する第2の場面は、ガリラヤ湖を渡った向う側です。

「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、……」6:1‐5

 大勢の群衆がイエスを求めて追いかけて来ていました。食べることを置いてでもイエスさまの話を聞きたい、イエスさまの手に触れてほしいと願っていました。

 イエスは目を上げて群衆がろくに食事もせずにここまで自分を追って来ているの見て、心配されました。弱っているに違いない。イエスはフィリポに尋ねられます。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」

 人々の必要、求め、困窮にどうやってこたえるべきか。そのことをイエスの弟子は自分の課題とすべきなのです。しかしフィリポは困惑しました。人々の求めにこたえたいと願っても、術も力もありません。無力です。悲観します。

 しかしその後、意外な展開が起こりました。少年の差し出した大麦のパン五つと魚二匹から、イエスの祝福の祈りによって、大勢の人々が満たされる結果となったのです。フィリポは、困惑と感謝と感動を経験しました。

WP_000499
 フィリポの登場する第3の場面は、イエスの受難が近づくエルサレムです。

「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。」ヨハネ12:20‐22

 ユダヤ人の過越祭の礼拝に参加するために何人かのギリシア人がエルサレムに来ています。聖書のメッセージは外国人の心にまで届いていたのですね。けれども、なぜこのギリシア人たちはイエスに会うことを願ったのでしょうか。エルサレムの神殿で行なわれる礼拝では満たされない何かがあったからに違いありません。フィリポはこのとき、何かただならぬものを感じたのではないでしょうか。ちょっとした面会程度のものではないに違いありません。

 ここで注目したいのは、このギリシア人たちがイエスに会う仲介をフィリポに求めて来たことです。

 ナタナエルをイエスに導いたのはフィリポでした。大勢の人々の求めと疲れをご覧になったイエスが、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいか」と聞かれたのもフィリポに対してでした。

 フィリポは、イエスさまの働き全体の中で、仲間内ではない、言わば外の人々、社会の人々の必要にこたえていく要の役割、また人々とイエスを橋渡しする存在になっていたのではないでしょうか。

 これはYMCAの働きと非常に共通したところがあると思います。

 またここで興味深いのは、フィリポが一人でイエスのところに行かず、仲間のアンデレと相談して、一緒にイエスに話しに行ったことです。何か重大なものを感じたからです。重要なことがらについて相談し、協力しているフィリポの様子が窺われます。

 フィリポがアンデレと一緒に行って伝えたとき、イエスはこう言われました。

「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」12:23‐26

 予感は的中しました。イエスは死のうとされている。イエスは一粒の麦として今、地に落ちて死のうとされている。フィリポはギリシア人たちの面会希望をイエスに伝えたとき、それをはっきりとイエスの口から知らされました。

 そのとき、イエスの表情が変わり、苦しみのうめきがイエスの口から漏れました。同時に、イエスがはっきりと覚悟を決められるのをフィリポは感じました。そのことはこの続きに書かれています(ヨハネ12:27以下)。

 そのときにイエスが言われた言葉を、彼は忘れることができません。

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」ヨハネ12:26

 「わたしに従え。」これはイエスが、フィリポとの出会いの最初に言われた言葉でした。

WP_000421 
 それからまもなく、最後の食卓を囲む場面となります。フィリポの登場する第4の場面は最後の晩餐です。

 イエスは長い告別の言葉を語られました。その一部を聞きましょう。

「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』」14:6‐7

 弟子たちは一心に聞いています。でも実はイエスの言われることがよく理解できません。けれどもそれを口にすることはできません。

 ところがフィリポが口を開いてこう言いました。

「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」14:8

 イエスが言われるその父なる神さまを、今イエスに示してほしい。正直なフィリポです。

 するとイエスは言われました。

「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、“わたしたちに御父をお示しください”と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのだ。』」14:9‐10

 イエスの言葉を、フィリポは黙って聞いていました。わかりたいと思ったけれど、イエスの言われることをそのとき彼は十分理解できなかったかもしれません。

「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」

そう嘆息しつつイエスは、フィリポのことを愛しておられたのではないでしょうか。当惑するフィリポ、困惑するフィリポ、わからなくて不安でそれを隠さずに言うフィリポを、イエスは愛しておられたに違いありません。

WP_000192

 イエスが十字架にかけられて死なれた後、ガリラヤ出身の弟子たちは故郷のガリラヤに帰りました。漁師だった弟子たちは漁師に戻ります。

 ある夜、7人の弟子たちはガリラヤ湖に漕ぎ出して漁を始めました。最初に読んだ箇所です。

「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」ヨハネ21:2‐3

 ほかの二人の弟子の一人がフィリポだと思ってみます。

 夜通し苦労して、1匹も魚はとれなかった。疲労困憊。徒労です。努力が報われないときの疲れはほんとうに重く、動けなくなってしまいます。彼らは舟の中に倒れ込んでいたでしょう。
 
続きを読んでみます。

「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、……」ヨハネ21:4‐5

 大の大人をつかまえて「子たちよ」とは何か。だれが呼ぶのでしょうか。

「イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。……

イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。……

イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」ヨハネ21:5‐9、12、13


 魚の焼けるにおいがします。たまらなくおいしい朝の食事です。

ガリラヤ湖の夜明け

 フィリポは思い出します。

 かつて大勢の疲れた群衆を前にして、この人たちにどこでどのようにしてパンを用意すればよいかとイエスがフィリポに問われたことを。

 大勢の人たちの必要のために心を砕くことを、フィリポは使命として受けました。しかしイエスは、ただ使命を、役割を、課題を、仕事をフィリポに与えられただけではありませんでした。
このフィリポのために、イエスは心を砕いて、疲れた自分のために、また仲間のために、朝の食事を用意していてくださったのです。

 フィリポとその仲間のほんとうの働きは、これから始まります。

 わたしたちはフィリポであり、その仲間です。奈良YMCAも最初にイエスの招きがあり、出発がありました。50年の歴史の中で、いろんな課題、労苦、困惑があったことと思います。しかしイエスは、疲れたフィリポと仲間の弟子たちのために朝の食事を用意していてくださったように、わたしたちを励まし力づけようとして、朝の食事を用意していてくださいます。

 そこから、奈良YMCAの第2の50年の働きが始まります。

 あの夜、ペテロが「わたしは漁に行く」と言うと、仲間たちは「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。

 今、イエスが言われます。「わたしは漁に行く」

 わたしたちはイエスに答えて言います。「わたしたちも一緒に行こう。」


 奈良YMCAの第2の50年の出発に、主イエスの祝福をお祈りします。


 神さま、奈良YMCAが今日、創立50年を迎えることができたことを感謝いたします。この間にささげられた多くの労苦と祈りを、あなたの目に尊いものとして祝福してください。フィリポを大切な働きのために招かれた主が、新しく人々をYMCAの働きと活動のために招いてください。その働きがあなたの喜ばれるものとなり、人々の必要にこたえるものとなるように、イエスさまと深くつながるものとなるように、力を与え、必要なものを満たしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

日ごとの聖句523 真理の霊 2012/5/6〜12

2012年5月6日(日)復活節第5主日         ヨハネ14:16
イエスは言われた。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」

5月7日(月)                  ヨハネ14:17
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
WP_000630
5月8日(火)          ヨハネ14:17
あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

5月9日(水)          ヨハネ14:18
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

5月10日(木)                  ヨハネ14:19
しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きる。

5月11日(金)                  ヨハネ14:20
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

5月12日(土)                  ヨハネ14:21
イエスは言われた。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
最近の記事
Archives
最近の関心

 『日韓キリスト教関係史資料』第3巻の編集
 リコーダーの世界
 音と響き
井田 泉
奈良基督教会牧師
親愛幼稚園園長
富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
聖公会平和ネットワーク共同代表

Mail
izaya*da2.so-net.ne.jp
(*を@に変更してください)

カウンター
最新刊
『これが道だ、これに歩め
──イザヤ書による説教』
かんよう出版
213頁 1500円+税

ここをクリックして
  ←左本文をご覧ください
ブログ内検索

WWW を検索 http://blog.livedoor.jp/izaya/ を検索