Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2012年09月

ねたむほどにわたしたちを愛される神

ヤコブの手紙4:5

2012年9月23日
聖霊降臨後第17主日
奈良基督教会にて

DSC08369

 わたしが10年ほど前にいた教会では、表に掲示板があって、月毎の聖句を掲げていました。書道をされる信徒がおられて、毎月大きい字で書いて持って来てくださったのです。その聖書の言葉はわたしが選んでいました。

 その聖句の中には、一般の人が見てすぐわかるような言葉もあれば、これはどういう意味だろうかと思案させるようなものもありました。

 やさしい、だれの心にもすぐに伝わる言葉ももちろんよい。けれどもそれだけではなく、一度聞いてわからず、二度聞いて頭をかしげるような言葉と、時間をかけて出会うことが、深いところから人を生かすのです。柔らかい食べ物だけではなく、固い食べ物もよく噛んでしっかり食べよう。聖書も同じです。

 今日聞いた使徒書、ヤコブの手紙の中にあった一節は、その固い食べ物、難解な言葉のひとつかもしれません。

 ヤコブとは「主の兄弟ヤコブ」、イエスさまの弟です。彼は最初のエルサレム教会で、ペテロと並ぶ指導者になりました。

「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。』」ヤコブ4:5

「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」

 ヤコブは聖書の引用として語っているのですが、そのように聖書に書いてあるところはどうも見つかりません。けれどもこの言葉は、ヤコブが神さまから聞き取った言葉として語っているので、ていねいに耳を傾けてみたいのです。

 「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」

 わたしたちは、神さまを親しく感じるときもあれば、疎遠に感じることもあります。けれども今、それは横に置いて、何とここに言われているかを聞きましょう。

「神はわたしたちの内に住まわせた」

 神さまがわたしたちの内に何かを住まわせた、宿らせた、というのです。神さまから来る何か大切なもの、尊いもの。それがわたしたちの内に、わたしの内に宿っている。住んでいる。神がそれをわたしの内に住まわせた。

 それは何か、というと「霊」です。

 神が、ご自身の大切な霊を、わたしの中に送り、わたしの内に住まわせた。わたしの内には、神さまからいただいた霊が、言い換えると命の息吹が、光が、熱が宿っている。
そのように感じてみましょう。聖書を読む時に必要なものは感性です。感受性、想像力です。

 皆さんの中に、わたしの中に、神さまから吹き込まれた息吹がある。最初の人間の創造のとき、神は命の息をその人に吹き込まれました。わたしの中にもそれが吹き込まれています。わたしの中に起こる深い呼吸が神さまと通じています。

 わたしの中に、神さまから照らされて宿った光がある。その光がわたしの内側で輝くなら、希望をもって前に向かって生きていけます。

 わたしの中に、神さまから投げ込まれた情熱の火がある。この火はわたしの内で燃えて、神さまを愛させる。神さまのために何かしたい、という思いを起こすのです。
 
 神さまから来た息吹と光と熱が、わたしの中に宿されている。わたしの呼吸は神さまと行き来し、神さまから光を受けてわたしも光り輝き、神さまの熱を受けてわたしも燃える。これがわたしの内に宿された神の霊です。

 けれどももうひとつ注意してみましょう。

「神はわたしたちの内に住まわせた霊を」と言われています。

「住まわせた」というなら、これは単に「もの」ではなく、言わば「人」です。生きた存在。自ら生きて働き、行動する人格です。わたしたちの中に、わたしの中に、神の霊が、聖霊が、生きて働き、行動する存在として住んでいる。神がわたしの内に霊を住まわせたというのです。

 その霊が、聖霊が、わたしの中でわたしとともに呼吸し、わたしの中で光となり、わたしの中で情熱の火となって働いている。

 そのわたしの中の霊を神が愛しておられる。深く愛しておられる。わたしの中の深いところの、わたしと一体である霊を、神は愛しておられるというのです。

 ところがわたしの中で、別のわたしが、神が住まわせた霊の思いとは正反対のことをする。それがヤコブの嘆きです。ねたみ、利己心、貪欲、支配欲、自己保身……。神さまのことは二の次、三の次になり、貧しい人を軽んじ、少数者の訴えを退けます。

 あるいは逆に、自分など何の意味も価値もないと思う。生きるに値しない人間だと、勝手に自分で自分を決めつけます。

 するとどうなるか。あの、神がわたしの内に送り宿してくださった呼吸が弱り、光は失せ、神のために燃えていた火は消えそうになる。
 どうして神がその事態を平気でおられるでしょうか。

 たとえばわたしが、信頼するだれかに大事なものを託したとします。大事なあなたに大事なものを託す。大切に保っていてほしい。それはわたしの形見、わたしの分身のようなものだから大事にしてほしい。それは使えば使うほど力を発揮する。あなたに託すこれが、あなたを守り、あなたを生かすのだから、と。ところがその相手が、せっかくわたしがその人に託した大事なものを粗末にして、ほこりまみれにし、ゴミ同然にしてしまったら、わたしはどう思うか。悲しい。腹が立つ。その人のことを大切に思っていれば思っているほど、耐えがたい思いがする。

「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」

 ヤコブが言うのは、神さまはそういう思いをわたしたちにしておられる、ということです。

 あなたを心から愛するがゆえに、わたしはわたしの霊をあなたの内に住まわせた。わたしの息吹をあなたに吹き込み、わたしの光をあなたに宿らせ、わたしの情熱をあなたに注いだ。それなのに、わたしがあなたに託したその息吹は、その光は、その情熱はどうなったか。あなたの内に住まわせた霊はどうなったか。

 神さまにとってわたしたちはどうでもよいものではなく、大切なもの。切実な愛の対象です。神がわたしの内に住まわせてくださった霊は、神さまの分身です。神はねたみを起こされる。神よりもこの世のほうに心を奪われてしまっているわたしたちがねたましい。自分で自分のことを否定的に決めつけているわたしたちがねたましい。神さまはわたしたちを独占したいのです。中途半端ではなく、もう一度、神はわたしたちを完全に捕らえたい。わたしたちがまっすぐに神さまのほうを向いて、託された霊を大切に、それを中心にして生きてほしい。

「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」

 ヤコブの手紙をとおして、神は読者の信仰と生活を再建しようとされました。かつてそうであり、今もそうです。

 神はわたしたちを求めておられます。わたしたちに住まわせた霊がわたしたちの内で生きるように。神からの息吹によってわたしたちが息を吹き返すように。神からの光がわたしたちの内にあって輝くように。神の情熱の火がわたしたちの内で燃えるように。
 
 祈ります。
 神さま、あなたはわたしたちの内にあなたの霊を住まわせてくださいました。それなのにわたしたちがそれを粗末にしてきたことを懺悔いたします。あなたの愛がわたしの内に燃える、そのようなわたしたちにしてください。あなたの霊が生きて働く教会にしてください。そのためにわたしたちは自分をまっすぐにあなたに差し出します。主イエス・キリストによって。アーメン

日ごとの聖句544 ヤコブの手紙 2 2012/9/30〜10/6

DSC09514

2012年9月30日(日)聖霊降臨後第18主日    ヤコブの手紙1:21
悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

10月1日(月)                ヤコブの手紙1:22
御言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わる者になってはいけません。

10月2日(火)                ヤコブの手紙1:25
自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人。このような人は、その行いによって幸せになります。

10月3日(水)                ヤコブの手紙1:27
みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。 

10月4日(木)                ヤコブの手紙2:5
神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。

10月5日(金)               ヤコブの手紙3:17
上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。

10月6日(土)                ヤコブの手紙4:8
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。心の定まらない者たち、心を清めなさい。

聖公会の葬儀──式文に見るいくつかの特徴

2012/09/23
奈良基督教会にて

WP_000499

聖公会の葬儀──式文に見るいくつかの特徴

1. 逝去に際しての祈り──「死に臨んでいる人のための嘆願」(祈祷書342頁)から

・「重荷からの解放」「罪の赦し」「永遠の平安」が明確に祈られる。
・父と子と聖霊なる三位一体の神のみ名による呼びかけ。
・憐れみ深い救い主のみ手に「ゆだねる」祈り(「逝去直後の祈り」)。A Commendatory Prayer

(司祭不在のときは、信徒が用いることができる。その場合、344頁下と345頁の上の祈りは「あなた」の代わりに「わたしたち」と言う。)


2. 納棺の祈り(「葬送の儀」4頁)

・ここには、主の十字架と復活による救いの確認とともに、故人の洗礼、聖餐による養いを含む信仰の歩みへの想起がある。短いが、豊かで切実な祈りである。

式文から
「どうかこの人の耐え忍んださまざまな悩みと苦しみをおぼえて、この人の目から涙をことごとく拭い去ってください。アーメン」


3. 通夜の祈り

【主の愛のうちにみ言葉と詩と祈りをもって主のみ前で逝去者をしのび、葬送の心の備えをする集まりである。】

・祈りのうちに悲しみを共にする。
「イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。」ヨハネ11:36

・主の祈りの後、七つの中から選択し、組み合わせて用いる。
 それぞれは、聖書、詩編、祈り(および教話)からなる。

式文から
「全能の神、慈悲の父よ、悲しむ者にみ力を与えてくださいますように切にお祈りいたします。」382頁
・残された人びとのために祈る。

「すべての人の父なる神よ、世を去った兄弟(幼子)のために祈ります。主の平安を彼に与え、永遠のみ光をもって彼を照らし……」384頁
・逝去者の魂のために祈る。ほとんどのプロテスタント教会ではこの祈りをしない。

「殊に兄弟(──)を通してその交わりが豊かにされたことを感謝いたします。」390頁

「父なる神よ、主の僕、愛する兄弟(幼子)(──)を世の造り主、慈悲深い主にみ手にゆだね、彼を尊い者としてくださるようにお願いいたします。どうか世の罪を除かれる神の小羊の血で洗い、この世で受けた汚れを清め、傷のない者としてみ前に立つことができるようにしてください。……」396頁

「……よい模範を残した僕らの跡を踏み、」399頁
・信仰(生き方)の継承

 
4. 葬送式

【わたしたちはこの式によって、世を去った信徒をみ手にゆだね、終わりの日の復活の喜びを待ち望みつつ、愛と感謝の交わりをともにするのである。】

告別の祈り
 「あわれみ深い神よ、この世の旅路を終えた僕(──)を主の慈しみにより、光と喜びのみ国に導いてください。また、わたしたちも、いよいよ信仰に励み、ついにみ国において、ともに主の栄光にあずかり、永遠の喜びを感謝することができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」
 ・キリストによって、死は永遠の生命への門出。

○聖公会の式文は全体によく整えられている。長い歴史の中で形成され、錬られてきたものの豊かさがある。

○一般的ではなく、「この人」の生涯を大切に思い、清めと癒しと永遠の命を祈り求めつつ、主にゆだねる。

○葬儀におけるみ言葉、祈り、聖歌は、福音のメッセージを具体的に味わう機会でもある。

○一連の祈り、プロセスを経て、悲しみ、祈り、惜しみつつ、慈しみ深い全能の神に故人をゆだねる。祈りの一連の過程を共にすることを通して、わたしたちは深い慰めと支えを主から受ける。これは聖餐式と共通する聖公会の礼拝の大切な特徴。

○逝去者を受け入れ、引き受け、祝福してくださるのは主なる神ご自身。神の主権的救いの業。
○会衆の参加が重要な位置を持っていることも聖餐式と共通。


葬儀において大切にしたいこと

(1)<悲しみ>
祈りのうちに悲しみを共有する(主として通夜の祈り)。肉親の死に際して、さまざまな対応に追われることが多い。そうした中で、葬儀は、思いを神とそのみ前の故人に向け、気持ちを落ち着かせ、いちばん大切なことを大切にする場。

(2)<別れ>
祈りのうちにその人を地上から天国に送る(主として葬送式。その中に「告別」が含まれる)。
司祭はその仲介者。その人のことを「引き受ける」という感覚。
葬儀を行う教会は地上(有限)と天国(永遠)が出会い、交流する所。

(3)<つながり>
その人の生涯の大切なものに心をとめ、それを残った者が記憶し継承する(精神の継承)。
 イエス・キリストに結ばれて、地上の人が天上の人のために祈り、天上の人が地上の人のために祈ってくれている。こうして天と地は支え合い、交流する。死者は生者を励ます。「聖徒の交わり」
 逝去者記念の式はこの意味を持つ。

わたしたちの味方

(2012年9月30日、聖霊降臨後第18主日の福音書から)

マルコ9:38〜41

WP_001016

「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」9:38

 ヨハネは、ゼベダイの息子で、ヤコブの弟。イエスの12弟子のひとりでした。
 イエスはヤコブとヨハネに、「ボアネルゲス」というあだ名を付けられました。「雷の子ら」という意味です。この兄弟には気性の激しいところがあって、時々それが爆発し、雷を落とすようなことがあったからでしょう。
 この聖書の個所にもそれが現れています。

 ヨハネは、イエスがしばしば悪霊を追い出し、人を癒されるのを目撃しました。そればかりではなく、イエスによって宣教のために派遣されたとき、ヨハネは、自分の祈りと言葉と手によって、悪霊が追放され、病人が癒されることを経験しました。彼は、イエスの名が力をもって自分とともに働くのを知ったのです。イエスの名は特別な名であり、その名によって力ある働きをさせられるのは特別なこと。またそのようにイエスの名を託された自分たちは、特別な存在なのです。

 ところが、イエスに直接従っている自分たちとは別に、イエスの名前を用いて同じようなことをしている者に出会いました。
「勝手なことをするな! するなら自分たちについて来い!」

 ヨハネは怒り、雷を落としました。ところがその人はついて来ようとはしません。彼は憤りに満ちて、そのことをイエスに報告しました。

「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

 それに対してイエスは言われました。

「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」9:39─40

 ヨハネにとっては「イエスと行動を共にしている自分たちに従ってくるかどうか」が問題でした。ところがイエスにとっては「神の業を行っているかどうか」が大切でした。イエスは、ご自分の名前を使って悪霊を追い出しているその人の中に、「神の国を待ち望む」(マルコ15:43)人の愛の業をご覧になったのです。
 
 「その人はわたしたちの味方」
 このときヨハネは、その人も同じ仲間、イエスの弟子であることを知ったのでした。

 イエスはきっと、わたしたちの労苦を、人よりも温かい目で肯定してくださるでしょう。わたしたちも、だれかの労苦の中に、同じ主の弟子、「わたしたちの味方」の働きを見出したいと願います。

聖公会のロザリオ

聖公会のロザリオ

 ここに紹介するのは、アメリカ聖公会のリン・ベラマン司祭が、信徒とともに十数年をかけて作ったといわれる聖公会のロザリオの祈りです。

 珠(ビーズ)の数は三十三個あり、三十三年の主イエスの生涯を思います。

 まず右手にロザリオ全体を持ち、その端の十字架を左手に携えて(左右逆も可)、主の手に触れていることを感じてみます。
「父と子と聖霊のみ名によって アーメン」

 そして十字架の上の珠(招きの珠)に移ります。わたしたちは祈ることへと招き入れられました。これは祈りの初めであり終わりです。ここで、祈っておられる主イエスの傍らに招かれたことを思いつつ、主とともに
主の祈り
を唱えます。

 次にその上の大きな珠に進みます。これは、ロザリオの円環の上下左右にあって十字架を組みなす「十字の珠」のひとつです。十字の珠に触れつつ
「信仰の神秘。キリストは死に、キリストはよみがえり、キリストは再び来られます」
と唱えます。キリストの受難と復活、現在における同伴と臨在、そして将来の再臨を思います。わたしたちが祈るばかりではなく、キリストの側からの救いのわざを心と身体に受けとめるようにします。

 十字の珠の間に小さな珠が七つあります。これは天地創造の七日間を示すもので、「週の珠」と呼ばれます。七つで祈りの一束です。ロザリオを一周すると四つの祈りの花束を神にささげることになります。

 ひとつひとつの珠に触れながら、
「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)
と唱えます。
「キリステ・エレイソン……」
を加えることもできます。歌うのもいいでしょう。
ひとつひとつの珠に、自分の抱える課題をこめるのもよいし、また祈るべき人ひとりひとりを思い浮かべることもできます。

 次の十字の珠に至ったときは、また「信仰の神秘……」と唱えます。

 終わりに近づくにつれて、キリストの生涯が十字架に向かって切迫していくことを感じます。一周して、下の十字の珠に再び触れたとき、十字架の苦難によってわたしたちの救いが実現したことを心と身体に刻みます。最初の招きの珠に戻って、復活を思いつつ、
「栄光は、父と子と聖霊に。初めのように、今も、世々に限りなく アーメン」
と唱えて神に栄光を帰します。

 一回で終えることもできますし、二回、三回と繰り返すこともできます。ゆっくりと、自分の呼吸が祈りとなっていけるとよいでしょう。

 以上は聖公会のロザリオを用いたひとつの方法です。別の祈りを用いたり、またその日の意向を定めて黙想したりすることもできます。

 八月二十三日、奈良基督教会では十四人が参加して行い、言葉だけでなく身体を伴った祈りの深まりを経験しました。グループでの経験があると、個人でする際にも有益です。





































































































































日ごとの聖句543 ヤコブの手紙 1

WP_000947

2012年9月23日(日)聖霊降臨後第17主日    ヤコブの手紙1:5
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。

9月24日(月)                ヤコブの手紙1:12
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

9月25日(火)                ヤコブの手紙1:17
良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父(おんちち)から来るのです。

9月26日(水)                ヤコブの手紙1:19
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

9月27日(木)                ヤコブの手紙1:21
あらゆる汚れや悪を捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

9月28日(金)                ヤコブの手紙2:1
わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。

9月29日(土)聖ミカエルおよび諸天使の日  ヤコブの手紙4:5-6
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」

日ごとの聖句542 光の子 2012/9/16〜22

WP_000993

2012年9月16日(日)聖霊降臨後第16主日       ヨハネ9:5
イエスは言われた。「わたしは、世にいる間、世の光である。」

9月17日(月)                 ヨハネ12:35-36
イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

9月18日(火)                  ヨハネ12:46
イエスは言われた。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」

9月19日(水)          コリントの信徒への手紙二 4:6
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

9月20日(木)           エフェソの信徒への手紙5:8
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。

9月21日(金)福音記者使徒聖マタイ日      マタイ5:14、16
あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。

9月22日(土)               ヨハネの手紙一 1:7
神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

近刊 イザヤ書による説教集 目次

先にお知らせした
『これが道だ、これに歩め──イザヤ書による説教』
の校正が終わりました。

かんよう出版  213頁  1500円(+税)

9月末か10月初めに発売の予定です。

WP_000925

目次は次のとおりです。

(目次)

 イエスが開かれた巻物

 1 イザヤの召命  6:1−10

 2 神のぶどう畑  5:1−7

 3 光の到来  9:1−7

 4 まつりごとはその肩にあり  9:1−7

 5 わざわいなるかな、彼らは家に家を  5:8−10

 6 わざわいなるかな、不義の判決を下す者 10:1−4

 7 気をつけて、静かにし、恐れてはならない 7:1−9

 8 主はみずから一つのしるしを 7:10−17    

 9 その上に主の霊がとどまる 11:1−5

10 この民はシロアの水を捨てて 8:1−8

11 主はわたしを捕え  8:9−15

12 教えをわが弟子たちのうちに  8:16−22

13 イザヤは裸、はだしで歩いた  20:1−6

14 これが安息だ  28:7−13

15 一つの石をすえて基とした  28:14−18

16 ああ、アリエルよ  29:1−8

17 封じた書物   29:9−12

18 これは道だ、これに歩め  30:18−21

19 見よ、主なる神は大能をもってこられる  40:9−11

20 彼の上にわたしの霊は置かれ  42:1−5

21 あなたをわたしの手のひらに刻みつける 49:16

22 天地を裂かれる神 63:15−19

 わたしの触れたイザャ書の世界

 あとがき

 説教の時と場所

ティンダル英語聖書「読者へ」

わたしは最近、聖書翻訳者ウィリアム・ティンダルへの関心が湧き起こって、1526年のティンダルの英語新約聖書を持ち歩いているのですが、その新約聖書の最後に
「読者へ」 To the Reder
という3頁ほどの文章が付いています。

WP_000988

 その最初と最後をご紹介します。

 最初は「読者よ、勤勉であれ」Geve diligence Reder という呼びかけで始まっています。

「読者よ、勤勉であれ(わたしはあなたにお勧めする)。そうすればあなたは、純粋な精神をもって、そして聖書が言うように素朴な目をもって、健康と永遠の生命の言葉に到達するであろう。この言葉によって、(もしもわたしたちが悔い改め、それらを信じるならば)わたしたちは新しく生まれ、新たに創造され、キリストの血の実りを楽しむことになる」。

 これが、命をかけて聖書を翻訳し、聖公会という教会の最初の扉を開いた人の呼びかけです。彼の訳した聖書によって言わば天が開いて、神の言葉が当時の人々に降り注ぎました。

 ティンダルはその「読者へ」という文章を
「わたしたちのために祈ってください」 praye for us.
という言葉で締めくくっています。聖書の翻訳と普及の働きは今ようやく本格的に始まった。聖書によって神さまの語りかけが人々に浸透して、ほんとうの教会が生まれてほしい。これがティンダルの切望でした。

 しかしティンダルは異端とされ、それから10年後の1536年10月6日、炎に包まれて亡くなりました。

D. ダニエル『ウィリアム・ティンダル』(田川建三訳、勁草書房、2001)は詳細な伝記で、上記の訳はほぼ田川氏によっています。

日ごとの聖句541 命の水 2012/9/9〜15

WP_000916

2012年9月9日(日)聖霊降臨後第15主日       創世記2:4-6
主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も草も生えていなかった。しかし水が地下から湧き出て土の面をすべて潤した。

9月10日(月)                   ヨハネ4:14
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

9月11日(火)                   ヨハネ7:38
イエスは言われた。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

9月12日(水)               ヨハネの手紙一 5:6
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。

9月13日(木)               ヨハネの黙示録7:17
「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。」

9月14日(金)               ヨハネの黙示録14:7
「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」

9月15日(土)               ヨハネの黙示録22:1
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
最近の記事
Archives
最近の関心

 『日韓キリスト教関係史資料』第3巻の編集
 リコーダーの世界
 音と響き
井田 泉
奈良基督教会牧師
親愛幼稚園園長
富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
聖公会平和ネットワーク共同代表

Mail
izaya*da2.so-net.ne.jp
(*を@に変更してください)

カウンター
最新刊
『これが道だ、これに歩め
──イザヤ書による説教』
かんよう出版
213頁 1500円+税

ここをクリックして
  ←左本文をご覧ください
ブログ内検索

WWW を検索 http://blog.livedoor.jp/izaya/ を検索