ヤコブの手紙4:5
2012年9月23日
聖霊降臨後第17主日
奈良基督教会にて

わたしが10年ほど前にいた教会では、表に掲示板があって、月毎の聖句を掲げていました。書道をされる信徒がおられて、毎月大きい字で書いて持って来てくださったのです。その聖書の言葉はわたしが選んでいました。
その聖句の中には、一般の人が見てすぐわかるような言葉もあれば、これはどういう意味だろうかと思案させるようなものもありました。
やさしい、だれの心にもすぐに伝わる言葉ももちろんよい。けれどもそれだけではなく、一度聞いてわからず、二度聞いて頭をかしげるような言葉と、時間をかけて出会うことが、深いところから人を生かすのです。柔らかい食べ物だけではなく、固い食べ物もよく噛んでしっかり食べよう。聖書も同じです。
今日聞いた使徒書、ヤコブの手紙の中にあった一節は、その固い食べ物、難解な言葉のひとつかもしれません。
ヤコブとは「主の兄弟ヤコブ」、イエスさまの弟です。彼は最初のエルサレム教会で、ペテロと並ぶ指導者になりました。
「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。』」ヤコブ4:5
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」
ヤコブは聖書の引用として語っているのですが、そのように聖書に書いてあるところはどうも見つかりません。けれどもこの言葉は、ヤコブが神さまから聞き取った言葉として語っているので、ていねいに耳を傾けてみたいのです。
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」
わたしたちは、神さまを親しく感じるときもあれば、疎遠に感じることもあります。けれども今、それは横に置いて、何とここに言われているかを聞きましょう。
「神はわたしたちの内に住まわせた」
神さまがわたしたちの内に何かを住まわせた、宿らせた、というのです。神さまから来る何か大切なもの、尊いもの。それがわたしたちの内に、わたしの内に宿っている。住んでいる。神がそれをわたしの内に住まわせた。
それは何か、というと「霊」です。
神が、ご自身の大切な霊を、わたしの中に送り、わたしの内に住まわせた。わたしの内には、神さまからいただいた霊が、言い換えると命の息吹が、光が、熱が宿っている。
そのように感じてみましょう。聖書を読む時に必要なものは感性です。感受性、想像力です。
皆さんの中に、わたしの中に、神さまから吹き込まれた息吹がある。最初の人間の創造のとき、神は命の息をその人に吹き込まれました。わたしの中にもそれが吹き込まれています。わたしの中に起こる深い呼吸が神さまと通じています。
わたしの中に、神さまから照らされて宿った光がある。その光がわたしの内側で輝くなら、希望をもって前に向かって生きていけます。
わたしの中に、神さまから投げ込まれた情熱の火がある。この火はわたしの内で燃えて、神さまを愛させる。神さまのために何かしたい、という思いを起こすのです。
神さまから来た息吹と光と熱が、わたしの中に宿されている。わたしの呼吸は神さまと行き来し、神さまから光を受けてわたしも光り輝き、神さまの熱を受けてわたしも燃える。これがわたしの内に宿された神の霊です。
けれどももうひとつ注意してみましょう。
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を」と言われています。
「住まわせた」というなら、これは単に「もの」ではなく、言わば「人」です。生きた存在。自ら生きて働き、行動する人格です。わたしたちの中に、わたしの中に、神の霊が、聖霊が、生きて働き、行動する存在として住んでいる。神がわたしの内に霊を住まわせたというのです。
その霊が、聖霊が、わたしの中でわたしとともに呼吸し、わたしの中で光となり、わたしの中で情熱の火となって働いている。
そのわたしの中の霊を神が愛しておられる。深く愛しておられる。わたしの中の深いところの、わたしと一体である霊を、神は愛しておられるというのです。
ところがわたしの中で、別のわたしが、神が住まわせた霊の思いとは正反対のことをする。それがヤコブの嘆きです。ねたみ、利己心、貪欲、支配欲、自己保身……。神さまのことは二の次、三の次になり、貧しい人を軽んじ、少数者の訴えを退けます。
あるいは逆に、自分など何の意味も価値もないと思う。生きるに値しない人間だと、勝手に自分で自分を決めつけます。
するとどうなるか。あの、神がわたしの内に送り宿してくださった呼吸が弱り、光は失せ、神のために燃えていた火は消えそうになる。
どうして神がその事態を平気でおられるでしょうか。
たとえばわたしが、信頼するだれかに大事なものを託したとします。大事なあなたに大事なものを託す。大切に保っていてほしい。それはわたしの形見、わたしの分身のようなものだから大事にしてほしい。それは使えば使うほど力を発揮する。あなたに託すこれが、あなたを守り、あなたを生かすのだから、と。ところがその相手が、せっかくわたしがその人に託した大事なものを粗末にして、ほこりまみれにし、ゴミ同然にしてしまったら、わたしはどう思うか。悲しい。腹が立つ。その人のことを大切に思っていれば思っているほど、耐えがたい思いがする。
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」
ヤコブが言うのは、神さまはそういう思いをわたしたちにしておられる、ということです。
あなたを心から愛するがゆえに、わたしはわたしの霊をあなたの内に住まわせた。わたしの息吹をあなたに吹き込み、わたしの光をあなたに宿らせ、わたしの情熱をあなたに注いだ。それなのに、わたしがあなたに託したその息吹は、その光は、その情熱はどうなったか。あなたの内に住まわせた霊はどうなったか。
神さまにとってわたしたちはどうでもよいものではなく、大切なもの。切実な愛の対象です。神がわたしの内に住まわせてくださった霊は、神さまの分身です。神はねたみを起こされる。神よりもこの世のほうに心を奪われてしまっているわたしたちがねたましい。自分で自分のことを否定的に決めつけているわたしたちがねたましい。神さまはわたしたちを独占したいのです。中途半端ではなく、もう一度、神はわたしたちを完全に捕らえたい。わたしたちがまっすぐに神さまのほうを向いて、託された霊を大切に、それを中心にして生きてほしい。
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」
ヤコブの手紙をとおして、神は読者の信仰と生活を再建しようとされました。かつてそうであり、今もそうです。
神はわたしたちを求めておられます。わたしたちに住まわせた霊がわたしたちの内で生きるように。神からの息吹によってわたしたちが息を吹き返すように。神からの光がわたしたちの内にあって輝くように。神の情熱の火がわたしたちの内で燃えるように。
祈ります。
神さま、あなたはわたしたちの内にあなたの霊を住まわせてくださいました。それなのにわたしたちがそれを粗末にしてきたことを懺悔いたします。あなたの愛がわたしの内に燃える、そのようなわたしたちにしてください。あなたの霊が生きて働く教会にしてください。そのためにわたしたちは自分をまっすぐにあなたに差し出します。主イエス・キリストによって。アーメン
2012年9月23日
聖霊降臨後第17主日
奈良基督教会にて

わたしが10年ほど前にいた教会では、表に掲示板があって、月毎の聖句を掲げていました。書道をされる信徒がおられて、毎月大きい字で書いて持って来てくださったのです。その聖書の言葉はわたしが選んでいました。
その聖句の中には、一般の人が見てすぐわかるような言葉もあれば、これはどういう意味だろうかと思案させるようなものもありました。
やさしい、だれの心にもすぐに伝わる言葉ももちろんよい。けれどもそれだけではなく、一度聞いてわからず、二度聞いて頭をかしげるような言葉と、時間をかけて出会うことが、深いところから人を生かすのです。柔らかい食べ物だけではなく、固い食べ物もよく噛んでしっかり食べよう。聖書も同じです。
今日聞いた使徒書、ヤコブの手紙の中にあった一節は、その固い食べ物、難解な言葉のひとつかもしれません。
ヤコブとは「主の兄弟ヤコブ」、イエスさまの弟です。彼は最初のエルサレム教会で、ペテロと並ぶ指導者になりました。
「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。』」ヤコブ4:5
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」
ヤコブは聖書の引用として語っているのですが、そのように聖書に書いてあるところはどうも見つかりません。けれどもこの言葉は、ヤコブが神さまから聞き取った言葉として語っているので、ていねいに耳を傾けてみたいのです。
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」
わたしたちは、神さまを親しく感じるときもあれば、疎遠に感じることもあります。けれども今、それは横に置いて、何とここに言われているかを聞きましょう。
「神はわたしたちの内に住まわせた」
神さまがわたしたちの内に何かを住まわせた、宿らせた、というのです。神さまから来る何か大切なもの、尊いもの。それがわたしたちの内に、わたしの内に宿っている。住んでいる。神がそれをわたしの内に住まわせた。
それは何か、というと「霊」です。
神が、ご自身の大切な霊を、わたしの中に送り、わたしの内に住まわせた。わたしの内には、神さまからいただいた霊が、言い換えると命の息吹が、光が、熱が宿っている。
そのように感じてみましょう。聖書を読む時に必要なものは感性です。感受性、想像力です。
皆さんの中に、わたしの中に、神さまから吹き込まれた息吹がある。最初の人間の創造のとき、神は命の息をその人に吹き込まれました。わたしの中にもそれが吹き込まれています。わたしの中に起こる深い呼吸が神さまと通じています。
わたしの中に、神さまから照らされて宿った光がある。その光がわたしの内側で輝くなら、希望をもって前に向かって生きていけます。
わたしの中に、神さまから投げ込まれた情熱の火がある。この火はわたしの内で燃えて、神さまを愛させる。神さまのために何かしたい、という思いを起こすのです。
神さまから来た息吹と光と熱が、わたしの中に宿されている。わたしの呼吸は神さまと行き来し、神さまから光を受けてわたしも光り輝き、神さまの熱を受けてわたしも燃える。これがわたしの内に宿された神の霊です。
けれどももうひとつ注意してみましょう。
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を」と言われています。
「住まわせた」というなら、これは単に「もの」ではなく、言わば「人」です。生きた存在。自ら生きて働き、行動する人格です。わたしたちの中に、わたしの中に、神の霊が、聖霊が、生きて働き、行動する存在として住んでいる。神がわたしの内に霊を住まわせたというのです。
その霊が、聖霊が、わたしの中でわたしとともに呼吸し、わたしの中で光となり、わたしの中で情熱の火となって働いている。
そのわたしの中の霊を神が愛しておられる。深く愛しておられる。わたしの中の深いところの、わたしと一体である霊を、神は愛しておられるというのです。
ところがわたしの中で、別のわたしが、神が住まわせた霊の思いとは正反対のことをする。それがヤコブの嘆きです。ねたみ、利己心、貪欲、支配欲、自己保身……。神さまのことは二の次、三の次になり、貧しい人を軽んじ、少数者の訴えを退けます。
あるいは逆に、自分など何の意味も価値もないと思う。生きるに値しない人間だと、勝手に自分で自分を決めつけます。
するとどうなるか。あの、神がわたしの内に送り宿してくださった呼吸が弱り、光は失せ、神のために燃えていた火は消えそうになる。
どうして神がその事態を平気でおられるでしょうか。
たとえばわたしが、信頼するだれかに大事なものを託したとします。大事なあなたに大事なものを託す。大切に保っていてほしい。それはわたしの形見、わたしの分身のようなものだから大事にしてほしい。それは使えば使うほど力を発揮する。あなたに託すこれが、あなたを守り、あなたを生かすのだから、と。ところがその相手が、せっかくわたしがその人に託した大事なものを粗末にして、ほこりまみれにし、ゴミ同然にしてしまったら、わたしはどう思うか。悲しい。腹が立つ。その人のことを大切に思っていれば思っているほど、耐えがたい思いがする。
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」
ヤコブが言うのは、神さまはそういう思いをわたしたちにしておられる、ということです。
あなたを心から愛するがゆえに、わたしはわたしの霊をあなたの内に住まわせた。わたしの息吹をあなたに吹き込み、わたしの光をあなたに宿らせ、わたしの情熱をあなたに注いだ。それなのに、わたしがあなたに託したその息吹は、その光は、その情熱はどうなったか。あなたの内に住まわせた霊はどうなったか。
神さまにとってわたしたちはどうでもよいものではなく、大切なもの。切実な愛の対象です。神がわたしの内に住まわせてくださった霊は、神さまの分身です。神はねたみを起こされる。神よりもこの世のほうに心を奪われてしまっているわたしたちがねたましい。自分で自分のことを否定的に決めつけているわたしたちがねたましい。神さまはわたしたちを独占したいのです。中途半端ではなく、もう一度、神はわたしたちを完全に捕らえたい。わたしたちがまっすぐに神さまのほうを向いて、託された霊を大切に、それを中心にして生きてほしい。
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる。」
ヤコブの手紙をとおして、神は読者の信仰と生活を再建しようとされました。かつてそうであり、今もそうです。
神はわたしたちを求めておられます。わたしたちに住まわせた霊がわたしたちの内で生きるように。神からの息吹によってわたしたちが息を吹き返すように。神からの光がわたしたちの内にあって輝くように。神の情熱の火がわたしたちの内で燃えるように。
祈ります。
神さま、あなたはわたしたちの内にあなたの霊を住まわせてくださいました。それなのにわたしたちがそれを粗末にしてきたことを懺悔いたします。あなたの愛がわたしの内に燃える、そのようなわたしたちにしてください。あなたの霊が生きて働く教会にしてください。そのためにわたしたちは自分をまっすぐにあなたに差し出します。主イエス・キリストによって。アーメン









