Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2012年10月

日ごとの聖句549 神の知恵 1 2012/11/4〜10

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2012年11月4日(日)聖霊降臨後第23主日      知恵の書1:1
国を治める者たちよ、義を愛せよ、善良な心で主を思い、素直な心で主を求めよ。

11月5日(月)                  知恵の書1:6知恵は人間を慈しむ霊である。神は人の思いを知り、心を正しく見抜き、人の言葉をすべて聞いておられる。

11月6日(火)                  知恵の書1:7 主の霊は全地に満ち、すべてをつかさどり、あらゆる言葉を知っておられる。

11月7日(水)                  知恵の書1:14
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。世にある造られた物は価値がある。

11月8日(木)                  知恵の書3:1
神に従う人の魂は神の手で守られ、もはやいかなる責め苦も受けることはない。

11月9日(金)                  知恵の書3:9
主に依り頼む人は真理を悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。

11月10日(土)                 知恵の書5:15
神に従う人は永遠に生きる。主から報いを受け、いと高き方の配慮をいただく。

「ヨハネは上から雷を鳴らして」 カルヴァン

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カルヴァンの『キリスト教綱要』を読んでいたらこんな言葉が出て来ました。

「ヨハネは上から雷を鳴らして、信仰の従順に集中しない者の頑迷をどんな稲光よりも強く打ち倒す。」(第1篇第8章11)

ヨハネ福音書著者についての発言です。

カルヴァンはヨハネ福音書の著者を12弟子のひとりヨハネと信じていました。

ヨハネはイエスによって「雷の子」と呼ばれていました。

カルヴァンは宗教改革の戦いのまっただ中にいましたから、言葉が戦闘的です。

日ごとの聖句548 平安を祈る

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2012年10月28日(日)聖霊降臨後第22主日     民数記6:24、26
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。

10月29日(月)使徒聖シモン・使徒聖ユダ日    詩編122:6-7
エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。あなたの城壁のうちに平和があるように。」

10月30日(火)                エレミヤ書29:7
わたしが、あなたたちを送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。

10月31日(水)                   ルカ10:5
イエスは言われた。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」

11月1日(木)諸聖徒日                ルカ10:6
「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」

11月2日(金)                   詩編29:11
どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

11月3日(土)                    箴言17:1
乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。

弟子たちとペトロに告げなさい

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マルコ16:1‐8

2012年4月8日
復活日
奈良基督教会にて

「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」マルコ16:7

 週の初めの日、日曜日の朝早く、マグダラのマリアたちはイエスを葬った墓に行きました。イエスのご遺体をきれいに拭って、香油を塗るためです。すると、墓の入り口を閉ざしていた大きな石が脇に転がしてありました。墓はかなり大きな横穴になっていて、その入り口が開いています。

「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。」マルコ16:5

 「白い長い衣を着た若者」とは何者でしょう。墓守でも墓盗人でもありません。マタイ福音書の同じ話では「主の天使」となっています。天使がひとりの若者の姿で現れたのです。
 ところで「天使」とは、神から遣わされて何か大切なことを伝える存在です。何を伝えに来たのか、もう一度確かめてみます。

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」16:6‐7

 イエスの復活を伝えるために、天使はここでマグダラのマリアたちを待っていたのでした。

 ここでひとつ注意を向けたいことがひとつあります。若者(天使)がこう言った言葉です。

「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」

 なぜペテロの名前だけがあげられたのでしょうか。「弟子たち」と言えば当然ペテロも含まれているはずなのに、どうして「弟子たちとペトロに」と言われるのでしょうか。これは天使の考えではなく、天使をここに遣わした方、つまり復活されたイエスさまご自身がそう伝えるようにと、天使に託されたのに違いありません。

 イエスさまは弟子たちのすべてを心にかけておられるのですが、今は特にペテロのことが気がかりだったのです。

 ペテロとはどういう人か。

 イエスさまに招かれた最初の弟子のひとりです。しかもペテロの家がガリラヤ伝道の拠点になっていました。弟子たちの中でペテロは筆頭格、一番弟子と見なされるようになっていました。そのペテロは、イエスが捕らえられたあと、ひそかに後をついて行き、大祭司の屋敷の庭まで入りました。しかし大祭司の僕たちに見とがめられて「お前はイエスの弟子だろう」と言われたとき、ペテロはそれを否定して「そんな人は知らない」と言ったのです。ペテロは外に飛び出して泣きました。

 取り返しのつかないことです。

 ペテロは土曜日の夜、2日前の最後の食卓でのイエスとのやり取りを思い出していたと思います。

「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく。
“わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう”
と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』
するとペトロが、『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』」14:27‐31


 ペテロはイエスを愛していました。他の弟子たちがイエスから離れ去ることがあったとしても、自分だけはどこまでもイエスについていく覚悟でした。

 しかし実際に自分がしたことは、イエスを見捨て、問われて3度も裏切りの言葉を発することでした。悔いても嘆いても取り返しがつきません。ペテロは自分を責め、自分を無価値とし、生きる資格がないと思いました。死ぬにも死ねず、生きることもできず、ずっとずっと自分を責め続けるしかありませんでした。

 しかしイエスはそのペテロを見捨ててはおられませんでした。ペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った、実際にはつまずいたけれども、あのときのペテロの真実のまごころをイエスは知っておられました。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったペテロは、実際には「知らない」と言ってしまったのですが、あのときのペテロの愛と決意をイエスははっきり感じとっておられました。

 ペテロのイエスに対する愛と真実は挫折したけれど、イエスのペテロに対する愛と真実は挫折しないのです。

 失意と自責と絶望の中にあるペテロがいとおしい。自分を信じて従ってくれたペテロが、挫折していま極度に苦しんでいるのをイエスは知っておられました。このペテロを決して見捨てない。このペテロを自責と絶望の中に放置することはできない。

ペテロをもう一度イエスは引き寄せられるのです。それをイエスはまず、天使をとおして伝えようとされます。
イエスの意志を託された天使は、墓にやってきたマリアに言います。

「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」16:7

「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」

 イエスさまはペテロを見捨てておられない。それどころが、あのときはっきりとイエスが「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われたように、天使は伝えます。

「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」

 あなたの人生はイエスを知らないと言って、挫折して、悔いてそれで終わるのではない。あなたの行くべきところに、わたしが先に行って待っている。そこでわたしがあなたを待っているから、あなたはわたしに会う。あなたの人生は挫折して終わったのではなく、挫折からあなたの新しい人生が始まるのだ。
 なぜなら、イエスが復活して、ペテロに出会おうとして待っておられるからです。
 
 もし私たちが、イエスを信じてついて行こう思ったことがあるなら、私たちはペテロです。勇気がなくて、沈黙したり、偽ったりしたことがあるとすれば、私たちはペテロです。挫折と悔いと自責を知っているなら私たちはペテロです。

 天使が「弟子たちとペテロに」と言ったように、イエスさまはわたしのことを名指しでおぼえていてくださって、わたしに会うために先に行って待っておられます。

 イエスが実際にペテロをどのように待っておられ、どのように出会ってくださったか。それはまた確かめる機会があるでしょう。

 今はただ、私たちを見捨てず、私たちに会おうとして待っていてくださる復活の主が、私たちのためにおられることを知るだけで十分です。


 祈ります。

 主イエスさま、あなたはペテロを見捨てずに、会おうとして待っておられました。あなたはわたしたちのことも見捨てずに、再び会おうとして待っていてくださいます。わたしたちのこれまでがどのようであったとしても、自分で希望を捨てず、待っていてくださるあなたに思いを向けさせてください。あなたにお会いして、あなたとともに生涯を歩むことをわたしたちは願います。どうかそのようにしてください。わたしたちのために苦難を受け、復活されたあなたのみ名をたたえます。ア‐メン

日ごとの聖句547 モーセの祈り 2012/10/21〜27

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2012年10月21日(日)聖霊降臨後第21主日       詩編90:1
【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。

10月22日(月)                   詩編90:12
生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

10月23日(火)                   詩編90:14
朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。

10月24日(水)                   詩編90:15
あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください。

10月25日(木)                   詩編90:16
あなたの僕らが御業(みわざ)を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。

10月26日(金)                   詩編90:17
わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。

10月27日(土)                   詩編90:17
わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにしてください。

『これが道だ、これに歩め──イザヤ書による説教』発売

これが道だ

井田 泉『これが道だ、これに歩め──イザヤ書による説教』が発売されました。

かんよう出版、213頁、1500円+税

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教文館で取り扱いが始まりました。
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かんよう出版に直接注文することも可能です。
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これが道だ

神がわたしに与えてくださった子ら

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ヘブライ2:9‐18

2012年10月7日
聖霊降臨後第19主日
奈良基督教会にて

 わたしたちの信仰は、三位一体なる神を信じる信仰です。わたしたちは父と子と聖霊なる神を信じます。
 父なる神は「造り主」。わたしたちと世界を造ってくださった神です。
 子なる神はイエス・キリスト、わたしたちの「救い主」。わたしたちとともにおられる神です。
 聖霊なる神は、「命の与え主」。わたしたちの内側に入って、わたしの中に生きてくださる神です。

 「救い主イエス・キリストはわたしたちとともにおられる」と、わたしたちは聞いているのですが、それはどういうことなのか。2000年前にイスラエル、パレスチナで生きたイエスが、今のこのわたしたちに何の関係があるのか。それが大切です。
それを思いながら今日の使徒書、ヘブライ人への手紙(ヘブル書)第2章の言葉に耳を傾けてみましょう。

 この手紙の著者はイエスを見つめています。わたしたちも一緒に見つめましょう。

「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」ヘブライ2:9

 イエスが低くされた姿が見えます。侮られ、罵倒され、むち打たれて傷ついたイエス。犯罪人として十字架につけられて、死なれたイエス。低い者とされたイエスの姿をわたしたちは見ます。

 ところが低くされたイエスが高く上げられて、神の輝きをまとっておられるのが見える。十字架の苦難の姿と重なりつつ、輝く栄光の主の姿を著者は見ています。その苦難の死の姿と栄光の輝きが、語りかけてきます。それは、わたしたちのための苦難であり、わたしたちのための栄光であると。

「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった」
 
 わたしたちはヘブル書の著者に導かれて、イエスの姿を見つめています。わたしたちが見つめていて、イエスは見つめられている。ところが、そのイエスご自身が口を開いて語られる声がはっきりと聞こえてきました。

「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、『わたしは、あなたの名を、わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言い、……」2:11‐12

 「彼ら」とはわたしたちのことです。

 イエスはわたしたちを兄弟と呼ばれる。イエスがわたしたちをだれかに紹介してくださるとき、わたしたちのことを「これはわたしの兄弟です」「わたしの弟、わたしの妹です」と言われるのです。

 ほんとうは、それは恥ずかしいことかもしれません。わたしたちはイエスさまと弟、妹と言われるに値するか。
 「兄弟の縁を切る」という言葉があります。こんなひどいことでは、もう兄でもなければ弟でもない。姉でも妹でもない。関係がない他人だと。イエスさまはわたしたちのことをそのように見放してしまわれることもありえた。ところがそうではないのです。

「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」
わたしたちを自分の弟、妹と呼ぶことを恥とされないのです。

イエスが祈っておられる声が聞こえます。

「わたしは、あなたの名を
  わたしの兄弟たちに知らせ、
集会の中であなたを賛美します」2:12


 「わたし」とはイエスさまのこと。「あなた」とは神さまのことです。

 イエスが祈って、あなたの名を、神の名をわたしの兄弟に知らせる、と言われます。神の前に、わたしたちのことを「わたしの兄弟」と言って祈っていてくださるのです。神の名を、神さまのことをこれからもっと、わたしたちに知らせると、イエスは神に祈っておられる。イエスは、その弟であり妹であるわたしたちに神のことを知らせたいと切望し、必ず知らせると神に約束しておられます。神の名を知ることがわたしたちの力となり、救いとなることをイエスは知っておられるからです。

 イエスが祈っておられるその傍らにわたしたちはいます。わたしたちのことを祈っておられるのをわたしたちは聞きます。
「わたしの兄弟たちに」
 わたしたちは自分のことを言われている。自分のことを祈られている。恥ずかしい。もったいない。でもうれしい。

 いつの間にかイエスはわたしたちの手を取って、さらにこう祈られます。第2の祈りです。

「わたしは神に信頼します」2:13

 イエスがわたしたちの手を握って、わたしたちを捕まえつつ祈っておられるので、イエスの祈りはわたしの祈りになります。
「わたしは神に信頼します」
 ああ、わたしは神を信頼してこなかった。けれどもイエスがわたしを捕まえつつ祈られるので、それはわたしの祈りになるのです。
「わたしは神に信頼します」
 イエスとともにわたしは、いま、神に信頼します。
 
さらにイエスの祈りが続きます。第3の祈りです。

「ここに、わたしと、
  神がわたしに与えてくださった子らがいます」2:13


 わたしたちは神さまを疑ってきた。わたしたちは離れていた。わたしたちは背いてきた。けれどもイエスはわたしたちを引き寄せて、今度はわたしたちのことを「子ら」、子どもたち、と言われます。
 先ほどはわたしたちのことを「兄弟」と呼ばれたのですが、今度はさらにわたしたちのことを「子ら」と言われるのです。
 しかも「神がわたしに与えてくださった子ら」だと。

 イエスが祈って言われるには、わたしたちは神からイエスに託された者だと。神から託された以上は、イエスはわたしたちのことを本気で大切にしようとされる。命がけで守ろうとされる。

 これはわたしたちの考えと違います。わたしたちは時々、イエスなしで立派であろうとします。反対に時々は、イエスなしに自分は価値なき者だと思います。しかしイエスは違う考えです。
「この子らは、神さまがわたしに与え、託してくださった者たちだ。」

 わたしたちは不熱心で、疑って、危うくて、離れて背いて、高慢であったり、卑下したりしている。しかしそんなことよりも大事なことは、このわたしたちのことをイエスが、「神がわたしに与えてくださった子ら」だと言い、そのように神に祈っていてくださることです。

 ギリシア語原文にはここに「見てください」という言葉が入っています。

 「見てください。わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」

 ここで何がわかるでしょうか。イエスはわたしたちを見放す気がない、ということです。

「わたしと、神がわたしに与えてくださった子ら」

 イエスとわたしたちが一緒にいる。イエスがわたしたちを捕らえておられるので、だれも引き離すことができません。イエスとわたしたちは一体です。イエスの祈りの中でわたしたちはイエスに抱えられています。

 病のときも、不安のときも、危機のときも、恐れのときも、死のときも、イエスはわたしたちを捕まえていて見放されない。

 これが、三位一体の第2、子なる神、救い主、わたしたちともにおられる神、ということの意味です。

 今日わたしたちは、ヘブル書の中に、わたしたちのために祈っていてくださるイエスさまの声を聞きました。


 祈ります。

 主イエスさま、あなたはわたしたちをご自分の弟、妹とし、さらにあなたの大切な子どもと呼んでくださいます。あなたはどんなときもわたしたちと共にいようとし、わたしたちを見放そうとはされません。わたしたちのほうもあなたから離れず、あなたと共にいたいと願います。わたしたちの救い主であるあなたと共に歩み、あなたと共に労苦し、あなたと共に永遠の命の喜びを味わわせてください。尊いみ名をほめたたえます。アーメン

特祷──聖餐式の学び 5

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 大栄光の歌に続き、当日の特祷がささげられます。

 祈りに先立って司式者が
 「主は皆さんとともに」
と呼びかけます。
 会衆がこれに対して
「また、あなたとともに」
と応答します。

 これは司式者と会衆が、お互いに祈りをもってあいさつを交わす場面です。

「主イエスさまが皆さんとともにおられますように」
「主イエスさまが司祭(司式者)とともにおられますように」

 こうして心をひとつにして当日の特祷をささげます。声を出すのは司式者のみですが、これは個人的な祈りではなく、教会全体の祈り、信仰をともにする群れ全体の祈りです。思いを一緒に神さまに向けることが大切です。

 「祈りましょう」

 ここで短い沈黙の祈りをしながら、言葉を待ちます。特祷の言葉は一般的な表現になっていますが、そこにわたしたちの現実を重ねてイメージすれば、祈りは生きたものとなるでしょう。

大栄光の歌──聖餐式の学び 4

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 キリエ・エレイソン(主よ、憐れんでください)に続くのは「大栄光の歌」です。

 いと高きところには神に栄光、地にはみ心にかなう人びとに平和がありますように。

 これはベツレヘム近郊の羊飼いたちが救い主の誕生の知らせを告げられたときに聞いた、「天の大軍」(天使の群れ)の合唱です(ルカ2:14)。

 この大栄光の歌をうたうとき、わたしたちはあのベツレヘムの野原の天使たちの合唱に加わって神を賛美するのです。

 全能の父、天の王、主なる神よ

と神に呼びかけ、感謝と賛美を献げます。

 次にわたしたちは、思いをイエス・キリストに向けて呼びかけます。
 
 父の独り子、主イエス・キリスト、世の罪を除く神の小羊、主なる神よ
 
 この世界とわたしたちの罪を除き、清めるために傷つき、死なれた主イエスに憐れみを祈り求めます。

 イエス・キリストよ、主のみ聖、主のみ王、主のみ聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに、最も高くおられます アーメン
 
 このように、三位一体の交わりのうちにおられるイエス・キリストを賛美する高揚のうちに、大栄光の歌は閉じられます。

日ごとの聖句546 主を待ち望む 2012/10/14〜20

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2012年10月14日(日)聖霊降臨後第20主日     詩編130:1
【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

10月15日(月)                   詩編130:2
主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

10月16日(火)                  詩編130:3-4
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。

10月17日(水)                   詩編130:5
わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。

10月18日(木)福音記者聖ルカ日           詩編130:6
わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。

10月19日(金)                   詩編130:7
イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。

10月20日(土)                   詩編130:8
主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる。

日ごとの聖句545 ヤコブの手紙 3 2012/10/7~13

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2012年10月7日(日)聖霊降臨後第19主日    ヤコブの手紙4:10
主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

10月8日(月)               ヤコブの手紙4:11-12
兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。裁きを行う方はおひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。

10月9日(火)                ヤコブの手紙5:7
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。

10月10日(水)               ヤコブの手紙5:11
忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。

10月11日(木)               ヤコブの手紙5:13
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。

10月12日(金)               ヤコブの手紙5:14
あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

10月13日(土)               ヤコブの手紙5:15
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。

ロザリオと主の祈り

近くの書店でこんな本を見つけた。

来住英俊『目からウロコ  ロザリオの祈り・再入門』 女子パウロ会、2012(改訂)

教えられるところが多かった。
これを読んでいて、聖公会のロザリオの1連(十字ビーズ1個と週ビーズ7個)計8個を、主の祈りのひとつずつに当てはめて祈ることができると感じた。

  次の写真はわたしが使いはじめたロザリオ。WP_001026



1 天におられるわたしたちの父よ、

2 み名が聖とされますように。

3 み国が来ますように。

4 みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

5 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

6 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

7 わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。

8 国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

これを4回繰り返すと、ロザリオを1周することができる(1環)。


その人はわたしたちの味方

マルコ9:38─41

2012年9月30日
聖霊降臨後第18主日
奈良基督教会にて

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「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」9:38

 今日の福音書に登場したのは、イエスの弟子ヨハネです。ヨハネは、ゼベダイの息子で、ヤコブの弟。イエスの12弟子のひとりでした。

 イエスはヤコブとヨハネに、「ボアネルゲス」というあだ名を付けられました(マルコ3:17)。「雷の子ら」という意味です。この兄弟には気性の激しいところがあって、時々それが爆発し、雷を落とすようなことがあったからでしょう。今日の箇所にもそれが現れています。

 ヨハネは、イエスがしばしば悪霊を追い出し、人を癒されるのを目撃しました。そればかりではなく、しばらく前、イエスによって宣教のために派遣されたとき、ヨハネは、自分の祈りと言葉と手によって、悪霊が追放され、病人が癒されることを経験しました(マルコ6:7‐13)。彼は、イエスの名が力をもって自分とともに働くのを知ったのです。イエスの名は特別な名であり、その名によって力ある働きをさせられるのは特別なこと。そのようにイエスの名を預かった自分たちは、特別な存在だと思いました。

 ところが、今日ヨハネは、イエスに直接従っている自分たちとは別に、イエスの名前を用いて同じようなことをしている者に出会いました。

「勝手なことをするな! するなら自分たちについて来い!」

 ヨハネは怒り、雷を落としました。ところがその人はついて来ようとはしません。彼は憤りに満ちて、そのことをイエスに報告しました。
「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

 それに対してイエスは言われました。

「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」9:39─40

 ヨハネにとっては「イエスと行動を共にしている自分たちに従ってくるかどうか」が問題でした。ところがイエスにとっては「神の業を行っているかどうか」が大切でした。イエスは、ご自分の名前を使って悪霊を追い出しているその人の中に、神さまのために働く人をご覧になったのです。
 
「その人はわたしたちの味方なのだ」

 このときヨハネは、その人も同じ仲間、イエスの弟子であることを知ったのでした。ヨハネは、イエスの弟子として、大切なことを学んだのです。

 けれども、それでヨハネの性格が寛容になったか、怒りを爆発させるのを抑えるようになったか、というと、そうではありませんでした。
 今日読んだのはマルコによる福音書ですが、同じ話がルカ福音書にも記されています。そのルカ福音書では、今日の出来事のすぐ続きにこんなことが書いてあります。

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。」ルカ9:51‐55

 今度は兄弟ヤコブと一緒です。サマリアの村人たちがイエスを歓迎しなかったのは、理由がありました。当時、サマリア人とユダヤ人は大変仲が悪かったのです。イエスはガリラヤ出身ですが、ユダヤ人であることに変わりはありません。イエスは、ユダヤ人の聖地エルサレムを目指している。それだけでサマリア人には不愉快なことだったのです。

 けれどもヨハネとヤコブの考えは違います。イエスさまは、自分の命の危険を冒してエルサレムに向かっておられる。この旅の果て、イエスはエルサレムで殺されるかもしれないのです。しかもイエスさまは、ユダヤ人とは犬猿の仲であるサマリア人に対しても、これまでまごころを尽くしてこられた。今回もそうです。普通のユダヤ人ならサマリアの村を通らないように迂回するのに、イエスはサマリアを大事に思われたからこそ、この村を通られた。それなのにこの村のやつらは、水一杯よこそうとはしない。

 イエスを愛するがゆえに、ヨハネとヤコブは怒りを爆発させました。

「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」

 これがボアネルゲス、雷の子です。彼らの怒りはある意味で正しい。不十分ながらも、イエスの思いと決意を受けとめたがゆえの怒りなのですから。しかし「イエスは振り向いて、二人を戒められた」。強く彼らを叱責されました。滅ぼすことがイエスの目的ではないのです。

 それからしばらくしてイエスは、72人の弟子たちを選んで任命し、町や村々に派遣されました。そのとき、イエスはこう言われました。

「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」ルカ10:5‐6
 
 行く先々で平和を祈り求めるように。そこに平和をもたらすように。そこに平和の子を見出すようにと、イエスは弟子たちに求められました。「平和の子」とは、平和への願いを同じくする人のことです。願いを共有する人、神のための協力者を見出すようにと、イエスは願っておられます。

 このとき、ヨハネもヤコブと一緒に遣わされて、行く先々で平和を祈り求めることを実行したに違いありません。

 わたしたちも2000年後のイエスさまの弟子です。わたしたちも行く先々で「この家に平和があるように」「ここに平和がありますように」と祈り求めたい。電車でも、バスでも、職場でも、どこでも。わたしたちは主イエスによって遣わされた平和の使者です。

 今日の聖書から、二つのことを大切に心にとめましょう。

 第1に、イエスは、ボアネルゲス(雷の子)と呼ばれるほどに憤りやすいヨハネとヤコブを弟子とし、ご自分の側近とされました。人格円満ではなく、欠点のある人を招いて、そばに置かれたのです。

 わたしたちもそうです。人柄がよいから、欠点がないから、優秀だから、わたしたちが招かれたのではありません。欠点の多い、過ちをしばしば犯す、そのようなわたしたちをこそ、イエスは招いて、ご自分の弟子としてくださったのです。

 第2に、イエスは、弟子たちを育てていかれます。正しいことのために憤るのは悪いことではありません。正義感が強くて不当なことを許せないヨハネとヤコブを、イエスは弟子の中の弟子として選ばれました。彼らにはまごころと情熱があるのです。しかし彼らの憤りは、破壊の方向に働く危険があります。激しい思いが人を滅ぼす方向に働くのではなく、平和を造り出す方向に働くように、イエスは彼らを導かれました。

 わたしたちもそうです。イエスさまはわたしたちそれぞれに目を留め、わたしたちの中に良い可能性を見出して、それを育んでくださいます。

 わたしたちは主の弟子です。一度弟子になればそのままというのではなく、正しいことをし、それ以上に間違いを犯し、そうした中でイエスによって育まれて成長していくのです。

 祈ります。
 主イエスさま、あなたはわたしたちに目を留め、わたしたちを招いて弟子としてくださいました。あなたが最初の弟子たちを育てられたように、わたしたちを弟子として育ててください。わたしたちの中にあなたが見ていてくださるまごころを育て、小さな情熱を育んでください。平和を祈り求め、平和をもたらす者としてください。アーメン

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