Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2012年11月

孫のために祝福を願う祈り

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わたしの生涯を今日(きょう)まで
導かれた牧者なる神よ。

わたしをあらゆる苦しみから
贖(あがな)われた御使(みつか)いよ。

どうか、この子どもたちの上に
祝福をお与えください。アーメン

(ヤコブの祈りから 創世記48:15-16)

日ごとの聖句553 待望 2

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2012年12月2日(日)降臨節第1主日          詩編33:18
見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。

12月3日(月)                 イザヤ書30:18
それゆえ、主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。

12月4日(火)                  ヨブ記35:10
「どこにおられるのか。わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方、空の鳥によって知恵を授ける方は。」

12月5日(水)                  イザヤ書7:14
わたしの主が御自(おみずか)ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

12月6日(木)                   詩編40:18
主よ、わたしは貧しく身を屈めています。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。

12月7日(金)                 イザヤ書30:18
まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

12月8日(土)                 ゼカリヤ書7:9
万軍の主はこう言われる。「正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くありなさい。」

聖公会のロザリオ(改訂増補)

聖公会のロザリオ


 奈良基督教会では2012年11月25日(日)の午後、聖餐式をテーマとする修養会の後、20名あまりで一緒にロザリオの祈りの時を持ちました。

 ロザリオの祈りによって、言葉だけでなく身体を伴った祈りの深まりを経験することができます。

 珠(ビーズ)の数は33個あり、33年の主イエスの生涯を思います。

 まず右手にロザリオ全体を持ち、その端の十字架を左手に携えて(左右逆も可)、主の手に触れていることを感じてみます。

「父と子と聖霊のみ名によって アーメン」

 そして十字架の上の珠(招きの珠)に移ります。わたしたちは祈ることへと招き入れられました。これは祈りの初めであり終わりです。ここで、祈っておられる主イエスの傍らに招かれたことを思いつつ、主とともに「主の祈り」を唱えます。

 次にその上の大きな珠に進みます。これは、ロザリオの円環の上下左右にあって十字架を組みなす「十字の珠」のひとつです。

 十字の珠に触れつつ
「信仰の神秘。キリストは死に、キリストはよみがえり、キリストは再び来られます」
と唱えます。

 キリストの受難と復活、現在における同伴と臨在、そして将来の再臨を思います。わたしたちが祈るばかりではなく、キリストの側からの救いのわざを心と身体に受けとめるようにします。

 十字の珠の間に小さな珠が七つあります。これは天地創造の七日間を示すもので、「週の珠」と呼ばれます。七つで祈りの一束です。ロザリオを1周すると四つの祈りの花束を神にささげることになります。

 ひとつひとつの珠に触れながら、
「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)
と唱えます。
 ♪主よ、憐れみたまえ と歌うのもいいでしょう。
「キリステ・エレイソン……」を加えることもできます。

 ひとつひとつの珠に、自分の抱える課題をこめるのもよいし、また祈るべき人ひとりひとりを思い浮かべることもできます。

 次の十字の珠に至ったときは、また
「信仰の神秘。キリストは死に、キリストはよみがえり、キリストは再び来られます」
と唱えます。

 終わりに近づくにつれて、キリストの生涯が十字架に向かって切迫していくことを感じます。一周して、下の十字の珠に再び触れたとき、十字架の苦難によってわたしたちの救いが実現したことを心と身体に刻みます。

 最初の招きの珠に戻って、復活を思いつつ、
「栄光は、父と子と聖霊に。初めのように、今も、世々に限りなく アーメン」
と唱えて神に栄光を帰します。

 十字架
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがわたしたちとともにありますように アーメン」

 1回で終えることもできますし、2回、3回と繰り返すこともできます。ゆっくりと、自分の呼吸が祈りとなっていけるとよいでしょう。

 別の祈りを用いたり、またその日の意向を定めて黙想したりすることもできます。


 《主の祈りを祈るロザリオ》

 最初の十字の珠を取り、呼びかけます。
「天におられるわたしたちの父よ」

 週の珠に移り、ひとつひとつの珠に主の祈りのひとつひとつを唱えていきます。

1 み名が聖とされますように。

2 み国が来ますように。

3 み心が天に行われるとおり、地にも行われますように。

4 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

5 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

6 わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。

7 国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン


 次の十字の珠でふたたび
「天におられるわたしたちの父よ」
……

 1周する間に、主の祈りを4回繰り返すことになります。

 1回について次のように意向を決めて祈ることもできます。

自分のため
隣人(あるいは困難を抱えた人)のため
教会のため(具体的なことを思って)
社会のため。教会のため(具体的なことを思って)

 最後の十字の珠で ♪憐れみたまえ 主よ(または「信仰の神秘……」)

 後は前と同じようにして終わります。

井上靖『天平の甍』

天平の甍新潮文庫

井上靖『天平の甍』を40数年ぶりに読んだ。前に読んだのは高校生の時である。

年も進み、奈良に住んで、いっそう感じるところがある。

印象に残った一文。

「二人(栄叡と普照)は鑒真(がんじん)の同じ講義を何回も聴いたが、聴く度に新しいものを発見した」。

内容(「BOOK」データベースより)

天平の昔、荒れ狂う大海を越えて唐に留学した若い僧たちがあった。故国の便りもなく、無事な生還も期しがたい彼ら―在唐二十年、放浪の果て、高僧鑒真を伴って普照はただひとり故国の土を踏んだ…。鑒真来朝という日本古代史上の大きな事実をもとに、極限に挑み、木の葉のように翻弄される僧たちの運命を、永遠の相の下に鮮明なイメージとして定着させた画期的な歴史小説。

主日の聖句 2012/12/2〜2013/1/13

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12月2日から教会暦は新しい年(C年)に入ります。
主日の聖句をひとつずつ選んでみました。

降臨節第1主日(2012.12.2)
わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる。
ゼカリヤ書14:5

降臨節第2主日(2012.12.9)
エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。
バルク書5:1

降臨節第3主日(2012.12.16)
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。
ゼファニヤ書3:17

降臨節第4主日(2012.12.23)
エフラタのベツレヘムよ、お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める
者が出る。
ミカ書5:1

降誕後第1主日(2012.12.30)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
ヨハネによる福音書1:14

顕現日(2013.1.6)
彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物とし
て献げた。
マタイによる福音書2:11

顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(2013.1.13)
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。
イザヤ書42:6

日ごとの聖句552 待望 1 2012/11/25〜12/1

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2012年11月25日(日)降臨節前主日           詩編5:4
主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。

11月26日(月)                  民数記24:17
わたしには彼が見える。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏(しゃく)がイスラエルから立ち上がる。

11月27日(火)                  申命記33:7
主よ、御手をもって彼のために戦い、苦しめる者からの助けとなってください。

11月28日(水)                  申命記33:12
主に愛される者はその傍らに安んじて住み、終日、神に身を寄せて、その御守(おんまも)りのもとに住まう。

11月29日(木)                  ヨブ記16:19
このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天には、わたしを弁護してくださる方がある。

11月30日(金)使徒聖アンデレ日          ヨブ記16:20
わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。

12月1日(土)                  ヨブ記19:25
わたしは知っている。わたしを贖(あがな)う方は生きておられ、ついには塵(ちり)の上に立たれるであろう。

正義と平和 詩編85編

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韓国の「共同翻訳聖書」改訂版(2004)を読んでいたら、詩編85編13節の訳が非常に印象的だった。
直訳すると次のようである。

「正義があなたの前を歩み行き、
平和がその足跡に従って行くであろう。」


これは詩編85編の最後だが、このように訳されているものはほとんど見当たらない。

「正義は御前を行き
主の進まれる道を備えます。」85:14 新共同訳

「義は主のみ前に行き、
その足跡を道とするでしょう。」口語訳

Righteousness shall go before him; and shall set us in the way of his steps. (Psa 85:13 KJV)

Righteousness will go before him, and will make a path for his steps. (Psa 85:13 NRS)

韓国の共同翻訳と通じるのは次の関根正雄訳である。

「義はそのみ前に行き、
  安きはその歩み給う道を行くであろう。」

そこで旧約聖書ヘブライ語原典BHSを見ると、注に別の読み方として「シャローム」(平和、安き)が出ている。

「正義があなたの前を歩み行き、
平和がその足跡に従って行くであろう。」


正義と平和は必ずしも両立せず、しばしば葛藤を起こす場合があるように思う。

そのしたなかでこの詩編85:11は

「正義と平和は口づけし」(新共同訳)

と歌う。

韓国の共同翻訳は、この11節に込められた思いを14節においても反響させている。

正義の実現が平和のための道を切り開く。

私は「正義」のなかに、虐げられた人々、苦しめられた人々の尊厳と健康と権利の回復を思う。

(追記)

フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(2011=合本)では次のように訳している。

義は主の前を行き、
麗しさは主の足跡に従う。

日ごとの聖句551 神の知恵 2 2011/11/18〜24

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2012年11月18日(日)聖霊降臨後第25主日   知恵の書6:11
わたしの言葉を熱心に求め、慕うがよい。そうすれば教訓が身につくだろう。

11月19日(月)                 知恵の書6:12
知恵は輝かしく、朽ちることがない。知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。

11月20日(火)                 知恵の書6:16
知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う。

11月21日(水)                知恵の書6:20、24
知恵を熱望することは人を御国へ導く。知恵をもつ人が多ければ、世は救われる。

11月22日(木)                  知恵の書7:7
わたしは祈った。すると悟りが与えられ、願うと、知恵の霊が訪れた。

11月23日(金)                 知恵の書7:14
知恵は人間にとって無尽蔵の宝、それを手に入れる人は神の友とされ、知恵のもたらす教訓によって高められる。

11月24日(土)                知恵の書7:15 知識に基づいて話す力、恵みにふさわしく考える力を、神がわたしに授けてくださるように。神こそ知恵の案内者であられるから。

ペテロの信仰告白とイエスの叱責

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2012年9月16日
聖霊降臨後第16主日
高田基督教会にて

 イエスさまの弟子とは、教えられて、失敗して、叱られて、そうして成長していくものです。今日の福音書のペテロがそうでした。

 イエスはペテロに対して
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8:33)
とまで言われて、厳しく叱責されました。弟子ペテロの中に、イエスの道に反する決定的な誤りがあったからです。

 けれどもイエスはそのペテロを愛しておられました。そのことがあってから6日後、山の上で輝くご自身の栄光の姿を目撃させて、彼の信仰を大きく肯定してくださいました。変容貌と呼ばれる箇所です(マルコ9:2-3)。
 
 ところでご存じのように、主日の聖餐式聖書日課は3年周期になっており、今年はB年で、福音書は主としてマルコ福音書が朗読されます。

 そのマルコ福音書の中で、弟子たちのイエスさまに対する信仰がどのように成長、変化していったかを、今日は概略探ってみましょう。弟子たちは最初からイエスを神の子、救い主と信じていたわけではなく、さまざまなことを経験して、認識を深めていくのです。それはわたしたちも同じです。

 第1は、イエスに驚いて「この方はだれだろう」と恐れたり不思議に思ったりする段階、疑問を抱く段階です。

 夜、弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとして突風に遭い、舟が浸水し転覆しそうになって恐怖に陥りました。そしてイエスを必死で起こしました。イエスは起き上がって風と湖を叱りつけられました。すると風は止み、凪となりました。

「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」4:40-41

 恐れ、あるいは疑問を持つ。これが第一段階です。

 第2は、信仰告白の段階です。今日のペテロのように「あなたはメシア、救い主です」と告白するのがこれです。しかし実はこれは「中間的信仰告白の段階」といったほうが正確です。

 イエスを自分の救い主と告白することはすばらしいことです。わたしたちのまごころはイエスに届き、イエスの愛はわたしたちのうちに注がれます。イエスとわたしたちの間に交流が起こります。これはイエスさまにとって大きな喜びです。
 けれどもこれはまだ危うさを抱えています。今日の箇所です。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」8:31-33

 イエスが苦しみを受け、排斥されて殺されるなどということはあってはならない。救い主と信じる相手がそうであっては困るし、また信じる自分にも苦難がふりかかるようなことは絶対に避けたい。正直ですが、イエスさまのことがまだよくわかっていない段階です。「苦難を受ける救い主」を受け入れることができません。

 第3は、危険を冒してでもイエスに従おうとする段階です。最後の晩餐の席でペテロはこう言いました。

「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った。」14:31

 しかしこの後、危険が迫ると、ペテロも含めて弟子たち全員は逃げてしまいました。ペテロはただひとり大祭司の館の庭まで入って行くのですが、問い詰められてイエスを知らないと言ってしまいます。

 以上を振り返ってみると、これら三つの段階とも、弟子たちはイエスに叱られ、あるいは挫折してしまうのです。

 けれどもそれで終わりではありません。弟子たちは、イエスを失って悲しみ、また自分たちの弱さと卑怯を責めて泣き悲しんでいました(マルコ16:10)。そこへ、復活の主イエスに出会ったマグダラのマリアが、「イエスは生きておられる」と知らせに行きました。イエスは泣き悲しむ弟子たちを見捨てず、喜ばせようとしておられるのですが、彼らは信じることができません。

 ついに復活の主イエスご自身が弟子たちのところに行って自らを現されました(16:14)。復活の主イエスとの出会いによって、弟子たちは赦しと力と祝福を受けて、イエスの働きを広げるために出かけて行きます。そこには大きな喜びが伴っています。

 マルコ福音書の最後はこのように結ばれています。

「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」16:19-20

 わたしたちもまた、主イエスの弟子として招かれました。わたしたちもまた、主イエスの弟子でありながら、過ちを犯し、失敗し、主を裏切るようなこともしてしまいます。
 けれどもその過ちや失敗をとおして、イエスはわたしたちを育み、成長させてくださいます。

 泣き悲しんでいる弟子たちをイエスが見捨てられなかったように、たとえわたしたちが泣き悲しむことがあったとしても、イエスはわたしたちを見捨てられないのです。

 今日の旧約聖書で次のように言われていました。

「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。」イザヤ50:4


 朝ごと日ごとに、主なる神はわたしの耳を呼び覚まし、命の言葉を聞かせて、わたしたちを弟子として強め励まそうとされます。そのようにしてわたしたちも成長し、疲れた人を励ますことのできる主の弟子となるのです。

 わたしたちは今や苦難の主を受け入れ、信じて従います。復活の主が共に働いてくださいます。
 
どうか主がそのようにしてくださいますように。わたしたちがそのような弟子でありますように。

ライアーのクリスマスコンサート2012

プリモールのクリスマス2012
 
ライアーアンサンブルによるクリスマスコンサート

     ・ ・・ 響きのなかに響くクリスマスの 光 ・ ・ ・

2012 年12 月19 日(水) 午後2 時 開演(1 時半開場)

場所 京都市・右京ふれあい文化会館 創造活動室

    京都市右京区太秦安井西裏町11 番地の6
     TEL (075) 822-3349

演奏:ライアーアンサンブル・プリモール

<無料>

ライアーアンサンブル・プリモール
2008 年より京都、滋賀を中心に活動をしているライアーとリコーダーのアンサンブルグループ。
メンバー
  鈴木博子 ・ 中川悦子 ・ 平元みさえ ・ 村田悦子 ・ 山田祐子
  井田 泉(笛) ・ 小野純子(主宰)
  友情出演:小野利明(ビオラ・ダ・ガンバ)

聖歌隊に関する聖句

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クリスマスに向けて
聖歌隊に関する聖句を選んでみました。


詩編26:12

わたしの足はまっすぐな道に立っています。
聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。


  聖歌隊は神を賛美する群れ(会衆)の中に存在します。
  救い主を新しく迎える道にしっかりと立ち、
  まっすぐに進んで行きましょう。


詩編68:27 

聖歌隊
によって神をたたえよ
イスラエルの源からの主を。

  わたしたちの命の源である神、
  魂の故郷である主をたたえます。


旧約聖書続編・シラ書50:17‐19

そのとき、民は皆、
急いで地に顔を伏せ、
全能のいと高き神である
彼らの主を礼拝した。

合唱隊は声高く賛美の歌をうたい、
その響きはたぐいない、美しい調べとなった。
民はいと高き方である主に願い求め、
慈しみ深い方に祈りをささげた。

それは主への賛美が終わるまで続けられ、
こうして彼らは祭儀を終えた。


  祈りと賛美の響きは美しい調べとなります。
  祈りのないクリスマスの歌は空しく感じます。
  聖歌隊がみずから祈りと賛美をささげるなら、
  それは会衆をより深い祈りへと導きます。

平和を実現する人々は幸い(諸聖徒日)

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2012年10月28日
諸聖徒日
奈良基督教会にて


 今日は、先に地上の旅路を終えて天に召された方々、ことに奈良基督教会関係の逝去者を記念して祈りをささげます。
 また今年は特に、それを「諸聖徒日」の礼拝としてささげることにしました。それは、わたしたちが今日名前を挙げて具体的に記念する方々が、大きな天の会衆と一体でありその一部である、ということを心にとめたいからです。

 諸聖徒、諸聖人(St.──)というと、わたしたちとかけ離れた特別な信仰の偉人という気がします。けれどもそれとは違う受けとめ方をしたいのです。

 諸聖徒はその多くが殉教者です。この人々は、わたしたち信仰の群れ、神の民の最前線に立ってくれた人々です。きびしいところ(聖書には「破れ口」という言葉があります)に立って切に祈ってくれた人々、悪しき力によって傷つけられつつ、最前線に立って戦ってくれた人々です。
 教会が今日あるのは、その人々が教会の命の種となり、推進力となり、あるいは防波堤となってくれたからです。

 それですからわたしたちは、諸聖徒、言い換えれば優れた信仰の先輩たちとわたしたちとの違いを強調して悲観したり距離をとったりするのではなく、その反対につながりを、その人たちと一つであることを大切に心に刻みましょう。そうしてわたしたちは先の人々一緒に、イエスさまの願いを実現するために新しい一歩を踏み出したいのです。

 イエスさまの言葉が響いてきます。先ほど聞いた言葉です。

「平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9


 これがイエスさまの願いです。この願いの中に、イエスはわたしたちを引き寄せて包み込まれる。平和を願い実現しようとされるイエスの思いに包み込まれたら、わたしたちはもはや脅したり脅されたりすることを願わない。威圧したりされたりすることを願わない。
 この世では、抑えつけたり抑えつけられたりすることが多くあります。人を束縛し、コントロールしたりされたりすることがあります。

 けれどもイエスさまの祈りと願いに包まれて、わたしたちは自分も自由になり、人も自由になることを願います。人を萎縮させるのではなく、人を生かすことを願います。平和を願います。
 とても素朴なことですが、この世の中のあり方とは正反対のことを願い求めていきます。
 
「平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9


 イエスさまは弟子たちを派遣するとき、こう言われました。

「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」ルカ10:5
 
 そう言われたのは、イエスさまがそうしておられたからです。

 イエスはカファルナウムの町で、ペテロの姑が高熱を発して伏せっている家に行かれました。
「この家に平和があるように」
 ペテロの姑の高熱は引きました。

 イエスはベタニアの町、マルタ、マリア、ラザロの兄弟姉妹の家に行かれました。
「この家に平和があるように」
 その家は平和で満たされました。

 イエスはエリコの町、徴税人の頭ザアカイの家に行かれました。
「この家に平和があるように」
 ザアカイの心に愛が宿り、自分の財産を貧しい人々に施すことを決意しました。

 イエスが行かれ、祈られるところ。そこに平和が訪れます。

 イエスがわたしの家に来られる。わたしの家に来て、平和を祈ってくださる。
 イエスがわたしの心の中に来てくださる。わたしの中に平和を祈ってくださる。
 なんと幸せなことでしょうか。迎えるわたしたちもうれしく、イエスさまもうれしい。そこに平和が訪れます。

 それは幸せなことだから、その平和を祈り願う働きを、イエスは弟子たちに託して、それを広げようとされています。
 
 かつてある時期、わたしたちの家によく韓国の牧師や伝道師さんが来られることがありました。迎えるほうは気も使う。緊張もする。言葉が通じたり通じなかったりするからなおさらです。けれども韓国のその牧師や伝道師さんがうちに入ってこられて、まず何をされたかというと、まず座って沈黙して祈られました。

「この家に平和があるように」
 そう祈ってくださっていたのでしょうか。いつもそうでした。それが終わってから話が始まりました。
 
 牧師や伝道師だけではありません。わたしたちが出かけて、「この家に平和があるように」「この場所に平和があるように」と心から祈るなら、そこから平和が始まります。自分の家でもそうです。「この家に平和があるように」

「平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9


 こう言われたイエスの願いは、このようにして素朴に具体的に始まっていきます。

 今日、わたしたちがこの礼拝堂に入ってきたとき、どうしたでしょうか。教会は神さまの家です。

「この家に平和があるように」

 ここに入ったらまず静かに祈ってほしい。
 礼拝堂の中には平和を願う祈りが充満していてほしい。
 ここでわたしたちの魂が清められてほしい。
 ここから平和が広がっていってほしいのです。

 82年を経たこの礼拝堂には、82年のあいだ祈ってきた人びとの祈りが積み重ねられています。見えない祈りの厚み、深みがこの礼拝堂には存在します。それを薄めてはいけない。いっそう深めたい。この教会がほんとうの祈りの家として深まっていってほしい。
 ここに入っただけで、祈りの空気を感じる場所でありたい。そうして、ここから平和が広がっていってほしいのです。

「この家に平和があるように」

 イエスがここで祈っていてくださいます。
この教会のために、わたしたちのために、家々のために、イエスさまが平和を祈っていてくださいます。
そして、かつてそうされたように、イエスさまはわたしたちを弟子として、平和を祈るためここから送り出されます。
 わたしたちも行って祈ります。

「この家に平和があるように」
「ここに平和があるように」


 今日わたしたちはここで、逝去された方々の平安を祈ります。逝去された方々も、イエスとともにわたしたちの平安を祈っていてくださいます。

 逝去された方々の平和を祈ることから初めて、わたしたちお互いの平和を祈り、教会の平和を祈り、社会の平和を祈り求めていきましょう。

日ごとの聖句550 収穫感謝 2012/11/11〜17

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2012年11月11日(日)聖霊降臨後第24主日     詩編85:13
主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします。

11月12日(月)                 ヨエル書2:22
野の獣よ、恐れるな。荒れ野の草地は緑となり、木は実を結び、いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。

11月13日(火)                ゼカリヤ書8:12
平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。

11月14日(水)                  申命記26:10
「わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」

11月15日(木)                   詩編43:4
神の祭壇にわたしは近づき、わたしの神を喜び祝い、琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。

11月16日(金)                  ヨハネ4:35
イエスは言われた。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」

11月17日(土)                  ヨハネ4:36
「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」

背いた者のために執り成しをしたのは

イザヤ書53:4‐12
2012年10月21日
聖霊降臨後第21主日
高田基督教会にて

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 今日は、旧約聖書日課の中に描かれているひとり人の姿を見つめてみたいと思います。
 旧約聖書イザヤ書。この書物は、イエスさまが愛読された書物です。イエスさまが故郷のナザレに帰られて、会堂礼拝に出席されたとき、受け取って、開いて朗読されたのはイザヤの巻物でした(ルカ4:16‐)。

「彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。」イザヤ53:4


 ひとりの人が叩かれ、痛めつけられて苦しんでいます。その人はかがみこんで、口を開きません。

 わたしたちは思いました。この人は神に打たれている。悪いことをしたから、神によって罰せられているのだ。
ひどく傷つき、全身汚(よご)れたその人は、さらに鋭いもので刺し貫かれました。そうして彼は、息絶えました。

 裁きを受けて死に定められ、打たれ、傷つき、捨てられて、そして死んでいった無残な姿。神に背いた者の最後はこのようなものなのだと、わたしたちは思っていました。

 それからどれくらい時間が過ぎたでしょうか。そのように打たれ、傷つけられ、無抵抗に死んでいったその人の姿が、わたしのまぶたの奥によみがえり、その人の目がわたしを見つめているような気がする。その目は平和な、穏やかな目です。わたしを慈しむかのような目です。

 その人の声が聞こえるような気がする。叫んでいるようです。しかし呪うような声ではない。祈っているような……。そうです。祈っている声です。苦しいから祈っているのでしょうか。
何を祈っているのか。だれかのことを祈っているようです。だれかのことを……。わたしです。わたしのことを祈っている。

 突然、わたしの胸が刺し貫かれるような痛みが走りました。

 この人は、わたしのために祈ってくれている。わたしの平安と救いのために、わたしが癒されるように、わたしの罪が赦されるように祈ってくれている。
 この人はわたしのことを引き受けて苦しんでいたのだ!

 何という申し訳ない誤解をしていたのでしょう。この人が悪いのではなく、悪いのはわたしだった。間違っていたのはわたしたちだった。この人の受けた苦しみの意味がはっきりわかります。

 その人の姿がありありと目の前に立ち現れます。

 その人を見つめているうちに、言葉が内側から湧き起こってきました。

「彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」53:4-5


 なぜかわからない。それでもはっきりとわかるのです。この人の受けた傷がわたしの傷をいやしてくれる。この人の傷が深いほど、わたしの深い傷がいやされていくのがわかるのです。

「わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。」53:6-9


「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」53:12


 このイザヤ書の言葉が語られてからおよそ500年後、エルサレムで、ひとりの人が捕らえられ、裁きを受けて、打たれ、傷つき、そして死んでいきました。無残な最期でした。神に背いたからこんな目に遭ったのだと、多くの人が思いました。

 しかしこのイザヤ書の言葉を思い起こした人がいました。マリアが、ペテロが、ヨハネが、マグダラのマリアが、ステパノが、そしてパウロが、はっきりと理解しました。

 あのイザヤ書の言葉のとおりに、イエスは、わたしたちの病と重荷と罪を引き受けて、死なれたのだと。この方の受けた傷によって、わたしたちは癒されたのだと。
 このイエスが、わたしを救うために苦しみを受け、わたしのために祈ってくださっている。
 
 釘と槍によって刺し貫かれたイエスが、わたしを引き寄せてくださいます。
 ほんとうには神をよく知らず、自分のこともよくわかっていないわたしたちを、イエスが引き寄せて、神を見出させてくださいます。
 イエスの受けられた苦しみと傷と死によって、わたしは深い自分の過ちに気づきます。けれども同時に、わたしの過ちをイエスが引き受けて祈っていてくださるのを知ります。
 
「多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」


 これが、今日の使徒書、ヘブライ人への手紙で「大祭司」と言われたイエス・キリストです。

「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」4:14-15

 わたしたちの救いのために苦しみを受けられた大祭司、神の子イエスが、どのようなときも、わたしたちが祈れないときも、わたしたちに代わって祈り、わたしたちを捕らえて、神さまと結びつけてくださいます。

 祈ります。
 主イエス・キリストよ、あなたが苦しみを受けて死なれたのはわたしたちのためでした。あなたの受けられた傷によってわたしたちは癒され、あなたの死によってわたしたちは新しいいのちに生きることができます。わたしたちをみもとに引き寄せ、あなたのもとにおらせてください。アーメン
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