Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2013年02月

日ごとの聖句566 岩 2013/3/3〜9

Peter20051003154333

2013年3月3日(日)大斎節第3主日      コリント一 10:4
彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

3月4日(月)                   詩編18:47、50
主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。
主よ、わたしはあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う。

3月5日(火)                    詩編40:3-4
主は滅びの穴からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、わたしの口に新しい歌を授けてくださった。

3月6日(水)                    詩編71:3
主よ、常に身を避けるための住まい、岩となり、わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。

3月7日(木)                    マタイ7:24
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」

3月8日(金)                   マタイ7:25
「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」

3月9日(土)                  イザヤ書26:3-4
堅固な思いを、あなたは平和に守られる、あなたに信頼するゆえに、平和に。どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。

そのときには、 顔と顔とを合わせて見る

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コリントの信徒への手紙一 13:12

2013年2月10日
大斎節前主日

奈良基督教会にて


「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」コリント一 13:12

 今週の水曜日、13日から大斎節に入ります。イースターに備える紫の期節。祈りと慎みと待望の期節です。私たちの信仰をまっさらにする時です。

 今日、大斎節前主日の福音書には、イエスさまの顔のことが語られていました。

「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」ルカ9:28-29

 「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わ」ったと言われています。
 今日はイエスさまの顔に注目しましょう。
 
 ところでわたしたちの信仰の先祖であるイスラエルの人々にとって、<神の顔>は大きな関心事でした。「神の顔を直接見ることはできない。見れば死んでしまう」と恐れられていましたが、しかし反対に、直接見ることのできない神さまの顔が自分たちに対してどのようであるのかは、真剣な事柄でした。神は顔をこちらに向けていてくださるか。それとも顔を背けておられるか。わたしたちに向かって神はほほえんでおられるか、それとも眉間にしわを寄せた恐ろしい表情か。

 イスラエルの人々は神に喜んでいただきたい、ほほえんでいただきたい願いをもって、献げ物をしました。礼拝もそのような思いでなされました。

たとえば礼拝ではこう祈られました。

「心よ、主はお前に言われる、『わたしの顔を尋ね求めよ』と。
主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。」詩編27:8

「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。」詩編42:3

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。
神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう
『御顔こそ、わたしの救い』と。」詩編42:6


 1週間ほど前の2月2日は被献日でした。生後約40日のイエスさまが、エルサレム神殿で両親によって神に献げられたことを記念する日です。
 その場面にもひそかな仕方で神の顔が現れています。
 老人シメオンは、イエスを抱いてこう歌いました。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」ルカ2:29-30


 シメオンは幼子イエスの顔に神の顔を見た。イスラエルを愛し救われる神の顔を見たのです。

 シメオンに続いて、アンナという高齢の女預言者がイエスと出会います。ルカ福音書は、アンナは「アシェル族のファヌエルの娘」と伝えています(ルカ2:36)。アンナの父親の名前「ファヌエル」とは、「神の顔」という意味です。「神の顔」という名前の父を持つアンナが、幼子イエスのうちに神の顔を見たということではないでしょうか。
それでアンナは、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話し」ました(ルカ2:38)。

 それから30年あまりして、いま山の上で、3人の弟子の前でイエスの顔が変化しました。どのような顔がどのように変化したのか、具体的には書いてありません。けれども手がかりはあります。

「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」ルカ9:30-31

 イエスの前に、昔のイスラエルの指導者モーセとエリヤが、栄光に包まれて現れました。それなら、イエスの顔も栄光に輝く顔であったに違いありません。神の聖なる輝きがイエスの顔から発せられています。弟子たちの信仰が弱く頼りないものであったとしても、その信仰を受け入れて肯定し、確かなものとしてくださる、力ある輝きの顔です。
 もうひとつ。

「二人は……イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」ルカ9:31

 神から託された使命を死ぬまで引き受ける覚悟をされた顔です。それは、限りない愛の顔です。苦難を受けても、死んでも、弟子たちを見捨てない、という愛の決意の顔です。

 そのイエスの愛に満ちた顔に、弟子たちは主の十字架の後、復活において決定的に出会うことになるのです。
 復活は、わたしたちのほうが無理して自分を納得させるようなものではありません。復活の主イエスのほうから、悲しみ落胆している弟子たちに出会ってくださる出来事です。わたしたちを赦し、清めてくださる愛の顔に出会う出来事です。

 ところで、本日の使徒書において、パウロは主イエスの顔について語っていました。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」コリント一 13:12

 今はおぼろに映ったものを見ている。昔の鏡はほんやりしか映りませんでした。神の顔はおぼろにしか見えず、わたしたちを愛してくださるイエスさまの顔も鮮明には見えないかもしれません。

「だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」

「そのときには」。
いつかは分かりませんが確実に来るそのときには、わたしたちは顔と顔を合わせてイエスさまと出会うのです。そのときには、あの山の上で3人の弟子たちが目撃した、栄光に輝くイエスの顔を、あのときの弟子たちよりももっとはっきりと見るのです。

 わたしたちを見捨てず守るために命を捨てる覚悟された顔。事実そのために死なれたイエスの顔。そしてわたしたちと会うために復活された愛の輝きの顔を、わたしたちは顔と顔とを合わせて見るのです。

 「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

 今はまだイエスのことを一部しか知らなくても、顔と顔を合わせてお会いするときには、はっきりと知る。わたしが罪のゆえに死ななくてはならない存在であること。そのようなわたしたちをイエスが決して見捨てず、わたしたちの罪と死をご自身が引き受けてくださったことを。何がどうであれ、イエスは最後の最後までわたしたちと共に歩んでくださることを。それをはっきりと知るようになる。

 わたしたちのことを心配してくださるイエスの顔。わたしたちを見つめ、見守っておられる顔。わたしたちを見捨てない決意をしていてくださるイエスの輝く顔を、そのときには、わたしたちははっきりと見るのです。

 わたしたちがイエスをまだごく不十分にしか知らなくても、イエスさまのほうはすでに今、わたしたちを完全に知っていてくださるのです。
 
 わたしたちの顔も変わらなくてはなりません。祈っておられるうちにイエスの顔が変わったように、わたしたちも祈っているうちに変わっていく。

 恐れこわばっている顔から、赦されて心を砕かれてやわらいだ顔に変わっていく。イエスの愛の輝きを映す顔に変わっていく。たとえ一部しか知らなくても、わずかにではあっても、イエスを知り得た幸いはわたしたちを喜ばせます。
 
 祈りましょう。

 主イエス・キリストよ、かつて3人の弟子たちに山の上で現されたように、栄光に輝くあなたのみ顔をわたしたちにも示してください。わたしたちを救おうとして、命を捨てる覚悟をしてくださった顔を、わたしたちをどこまでも愛していてくださる愛の顔を仰がせてください。そしてあなたのみ顔の前で、わたしたちの顔もやわらがせてください。アーメン

大きな神の愛(韓国・讃頌歌404)

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昨日、今日と韓国の讃頌歌(チャンソンガ=日本の讃美歌にあたる)404が響いてくるので、韓国語の歌詞をほぼ直訳に近い形で紹介することにしました。

わたしの印象なのですが、いくつもの讃頌歌は、原詩は英語で曲も欧米のものであっても、韓国の歌になりきっているような気がするのです。これもそういう印象を受ける歌です。

わたしは長い年月、韓国の讃頌歌によって慰めと励ましを受けてきたことをあらためて感じます。韓国語の歌詞の力強さ、明確さを伝えきれませんが、ともかくも訳してみます。

 1
大きな 神の愛 言葉では 形容し尽くせません
あの高い高い 星をこえて この低い低い 地の上に
罪を犯した魂を 救おうと わが子を お送りになり
和解の供え物となして 罪をゆるしてくださった
(おりかえし)
神の大きな愛は はかり尽くせません
永遠に変わらない愛を 聖徒よ ほめたたえよ

 2
苦しい時がすぎて 地上の栄華が衰えるとき
主を信じなかった魂が 大声で 泣き叫んでも
主を信じる聖徒たちに 大きな愛を注ぎ
私たちの罪をゆるしてくださった その恵みを忘れようか
(おりかえし)

 3
天を巻物とし 海を墨汁としても
かぎりない神の愛は すべて記録することはできないでしょう
神の大きな愛を どうして書き尽くすことができようか
天高く積み重ねても 満たすことはできないでしょう
(おりかえし)


興味深いのは「大きな神の愛」の「大きな」に尊敬語が使われていることです。
「大きくていらっしゃる」が直訳なのですが、日本語としては奇妙なので訳していません。
「クン」が「大きい」なのですが「クシン」となっています。「シ」が尊敬をあらわします。


2節はやや排他的響きが含まれていますが、しかしそのような現実の中を生きてきた(日本の圧政、解放後の軍事独裁政権によって苦しめられ、殺されもしてきた)人々の経験を忘れることはできません。

「主を信じなかった魂」というのを、キリスト信徒でない者、と狭く解するのではなく、正義と平和を拒絶して立場の弱い者を踏みにじってきた人々の悲劇を思ってはどうでしょうか。

日ごとの聖句565 進まれる主 2013/2/24〜3/2

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2013年2月24日(日)大斎節第2主日          ルカ13:33
だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。

2月25日(月)使徒聖マッテヤ日            ルカ19:28
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。

2月26日(火)                    詩編17:5
主よ、わたしはあなたの道をたどり、一歩一歩、揺らぐことなく進みます。

2月27日(水)                   詩編132:8
主よ、立ち上がり、あなたの憩いの地にお進みください。あなた御自身も、そして御力(みちから)を示す神の箱も。

2月28日(木)                    箴言4:18
神に従う人の道は輝き出る光。進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。

3月1日(金)                   詩編59:10-11
まことに神はわたしの砦の塔。神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。

3月2日(土)                   イザヤ書52:12
急いで出る必要はない。逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから。

日ごとの聖句564 御言葉 2013/2/17〜23

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2013年2月17日(日)大斎節第1主日         詩編119:9
どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。

2月18日(月)                    詩編119:17
あなたの僕のためにお計らいください、わたしは命を得て、御言葉を守ります。

2月19日(火)                   詩編119:28
わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。

2月20日(水)                   詩編119:65
主よ、あなたの御言葉のとおり、あなたの僕に恵み深くお計らいください。

2月21日(木)             ローマの信徒への手紙10:8
何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」

2月22日(金)                   詩編119:81
わたしの魂は、あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。

2月23日(土)                   詩編119:105
あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。

バルト『イスカリオテのユダ』

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カール・バルト『イスカリオテのユダ──神の恵みの選び』
  新教出版社(新教新書)、1963、212頁

 このところ断続的に読んでいたが、やっと読み終えた。
 購入は1975年9月13日と書き込んであるので、37年と5ヵ月かかったことになる。

 人間の負の現実に対する神の恵みの圧倒的優越的力を論じる。
 
「このイエス・キリストは(再び見いだされるにしても)、彼のほか誰も失われないようになるため、ただ一人失われていったのである。」

 神の選びの優越的な力は、棄てられた者であるにもかかわらず彼(イスカリオテのユダ)を選びの環の中に堅く保ち、彼をイエスの左側に立たせる。そして神的引き渡し[神の救いの業]の道具として彼を用いる。

 この本は、バルトの大著『教会教義学』の神論の中の注「棄てられた者の規定」の全訳(それにに序論が付されている)である。

 難解だが、神の圧倒的恵みが押し寄せてくる気がする。

 訳者は川名勇牧師(当時、日本基督教団桜新町教会)。
 神学校入学直後、一度だけ桜新町教会の礼拝に出席し、説教を聞いたことがある。復活の主イエスの臨在を鮮明に感じるすばらしいものだった。
 
 

日ごとの聖句563 主の栄光を映す 2013/2/10〜16

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2013年2月10日(日)大斎節前主日           詩編34:6
主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。

2月11日(月)               出エジプト記33:10-11
民は全員起立し、礼拝した。主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。

2月12日(火)                出エジプト記34:30
アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。

2月13日(水)大斎始日(灰の水曜日)         ルカ9:28-29
イエスは祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。

2月14日(木)               コリント一 13:12
そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

2月15日(金)                コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。

2月16日(土)                 使徒言行録6:15
最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

イースターまでの説教予定(2013年)

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2013年

 「 」が説教題、その下がその週の聖句です。

2月3日(日)顕現後第4主日
 「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」 エレミヤ書1:8 奈良基督教会

2月10日(日)大斎節前主日 「そのときには、顔と顔とを合わせて見る」 奈良基督教会

そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。コリント一 13:12

2月17日(日)大斎節第1主日 「主はわたしたちの声を聞かれた」  高田基督教会

主はわたしたちの声を聞き、苦しみをご覧になった。申命記26:7

2月24日(日)大斎節第2主日 「主イエスを、わたしたちは待っています」 奈良基督教会

主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。フィリピ3:20

3月3日(日)大斎節第3主日 「この岩こそキリスト」 奈良基督教会

自分たちに離れずついて来た、この岩こそキリストだったのです。 コリント一 10:4

3月10日(日)大斎節第4主日 「その方によって神の義を得る」  奈良基督教会

わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。コリント二 5:21

3月17日(日)大斎節第5主日 「これが隅の親石となった」 高田基督教会

家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。ルカ20:17

3月24日(日)復活前主日 「イエスよ、わたしを思い出してください」 奈良基督教会

イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。ルカ23:42

3月31日(日)復活日 「神はこのイエスを三日目に復活させ」 奈良基督教会

神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。使徒言行録10:40

シメオンさんとアンナさん

ルカ2:22‐38

2013年1月25日
2013年2月2日

奈良基督教会・親愛幼稚園にて

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シメオンさん

 エルサレムにシメオンさんというおじいさんがいました。とても年をとっていました。悲しいこと、つらいことがたくさんありました。けれどもシメオンさんは、神さまを信じて、毎日聖書を読み、お祈りしながら暮らしていました。

 あるとき神さまの声が聞こえました。
「シメオンさん、あなたはわたしが遣わす救い主に会えるでしょう。」

 シメオンさんはそれを毎日楽しみにしながら待っていました。神さまのところから来られる救い主はどんな方だろう。いつ、どこでお会いできるのだろう。神さま、早く救い主に会わせてください、とお祈りしながら待っていました。

 ある日のこと、シメオンさんは朝から「今日はお祈りしたい」という気持がとてもして、エルサレムの神殿(大きな礼拝堂)に出かけて行きました。シメオンさんが神殿にやってきたとき、そこに赤ちゃんを抱いた若い女の人と、お父さんらしい人がそこに入って来ました。

 その赤ちゃんを見たとき、シメオンさんはなぜか胸がドキドキしてきました。喜びでいっぱいになりました。あまりにうれしくて目から涙が出てきました。

 シメオンさんは、赤ちゃんのお母さんに「その赤ちゃんを抱かせてください」と言って、赤ちゃんを抱きました。
待っていてよかった。生きていてよかった。神さまを信じていてよかった。シメオンさんは今まででいちばんしあわせでした。神さま、わたしはもういつでも神さまのところに行くことができます。あなたが約束してくださった救い主にお会いできたのですから。
 
 するとシメオンさんの口から歌が生れてきました。

♪主よ、今こそあなたはみ言葉のとおり
 僕を安らかに去らせてくださる
 わたしはこの目で 主の救いを見た。
 これは主が 万民のために備えられた救い
 すべての人を照らす光 み民イスラエルの栄光


 その赤ちゃんとはだれでしょう。イエスさまです。お母さんはマリアさん、お父さんはヨセフさんです。イエスさまは世界中を幸せにするためにおいでになったのです。

 (祈り) 神さま、わたしたちに救い主イエスさまを送ってくださってありがとうございます。イエスさまがどんなときも一緒にいてくださいますように。アーメン

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アンナさん

 昔エルサレムにアンナさんというおばあさんがいました。

 アンナさんは若いときに結婚したのですが、やがてだんなさんが亡くなってしまい、それからはずっとひとりで暮らしていました。

 悲しいこと、つらいことがいっぱいありました。アンナさんはいっしょうけんめい祈りました。神さまが助けてくださいました。神さまが守っていてくださいました。アンナさんは毎日、聖書を読んで、毎日心からお祈りしながら暮らしていました。また困っている人のために力になってあげました。

 そうしているうちに、不思議なことにアンナさんにはやがて神さまの声が聞こえるようになりました。聖書から神さまのやさしい声が、時にはきびしい声が聞こえてきます。アンナさんは、その神さまの言葉を他の人に教えてあげました。するとみんなは元気になりました。

 それでみんなはアンナさんのことを「預言者」と呼ぶようになりました。預言者というのは、神さまの言葉を知らせてくれる人です。イザヤさんという人も預言者でした。救い主イエスさまの誕生のことを、ずっと前に教えてくれた人ですね。

 そのアンナさんはだんだん年が行って、84歳のおばあさんになりました。

 アンナさんは毎日毎日神殿(大きな礼拝堂)に行ってお祈りしていました。アンナさんは今日も神殿にお祈りにやってきました。するとそこに、おじいさんが赤ちゃんを抱いています。おじいさんはその赤ちゃんを、大切にそのお母さんに返しました。その赤ちゃんはだれかな(イエスさま)。おじいさんはだれかな(シメオンさん)。お母さんはマリアさん。

 赤ちゃんがあまりにかわいかったので、アンナさんはその赤ちゃんを抱かせてもらいました。
 するとアンナさんはとっても幸せな気持ちになりました。

 赤ちゃんを見ていると、赤ちゃんを抱いていると、不思議なことに神さまの顔が見えてくるみたいなのです。
 アンナさんはわかりました。この赤ちゃんが、神さまがみんなを救うために送ってくださった救い主だ、と。

 アンナさんは、この不思議な赤ちゃんのことを、エルサレムの町中の人々に知らせてあげました。それを聞いた人々は、イエスさまが大きくなるのをとても楽しみに待っていました。

 (祈り) 神さま、わたしたちもイエスさま見て、一緒に喜べるようにしてください。アーメン

(親愛幼稚園礼拝でのおはなし)
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