
ルカ9:18
ゼカリヤ12:10
2013年6月23日
聖霊降臨後第5主日
奈良基督教会にて
イエスはひとり祈っておられました。
今日の福音書の冒頭です。
「イエスがひとり祈っておられたとき、‥‥」ルカ9:18
けれどもそのとき、そばにだれもいなかったのではありません。こう書いてあります。
「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。」
そのとき、弟子たちはイエスと共にいたのです。けれども、イエスはひとり祈っておられて、弟子たちは祈っていなかったのでしょうか。
物理的にはイエスのそばにいる。イエスの弟子となって生活を共にし、日々イエスの教えを受けています。今、イエスは祈っておられる。ひとり祈っておられます。しかし弟子たちは別のことを考えています。
そのようなことがわたしたちの間でも、あるかもしれません。ここでイエスは祈っておられる。わたしたちはイエスのそばにいる。しかしわたしたちは祈っていない。
けれども、そのような反省をするのが今日の目的ではありません。祈っておられるイエスに近づきたいのです。
弟子たちは、イエスと同じようには祈っていなくても、イエスが祈っておられるのを知っています。イエスが祈っておられるのを感じています。
やがて弟子たちは、祈っておられるイエスのうちに沸き立っている何かがあるのを、知るようになります。何がイエスのうちに沸き立っているのでしょうか。それは、憐れみです。
祈っておられるイエスから憐れみが溢れます。イエスの祈りと憐れみは、人を救います。弟子たちはそれを、何度も目の当たりにしてきました。
そしてやがてイエスの憐れみと祈りが、弟子である自分たちのためにも注がれていることを知るようになります。
イエスの願いは、ご自身の憐れみと祈りが、弟子たちのうちに浸透することです。
イエスは弟子たちを愛しておられます。イエスは、困難を抱えている弟子たちのために祈っておられます。イエスの憐れみは弟子たちにも注がれています
イエスの憐れみと祈りを受けた者たちは、やがて自らも憐れみと祈りの人となってほしい。
今日の旧約聖書にこう言われていました。
「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。」ゼカリヤ12:10
イエスは言われます。
「わたしは弟子たちに、憐れみと祈りの霊を注ぐ。」
「わたしは信仰の群れに、憐れみと祈りの霊を注ぐ。」
「わたしはこの教会に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。」
どうかそのように言われ、そのように約束された主が、それをわたしたちにしてくださいますように。
わたしたちに憐れみと祈りの霊が注がれて、わたしたちがイエスの思いを抱き、イエスの業をなすことができますように。
それがクリスチャンであり、それが教会です。
ひとり祈っておられるイエスが、わたしたちの傍らにおられます。
祈っておられるイエスをひとりにはしない。わたしたちも祈る者になるのです。






