Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2013年07月

日ごとの聖句588 平和の宣言 2013/8/4〜10

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2013年8月4日(日)聖霊降臨後第11主日     コロサイ3:15-16
キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。

8月5日(月)                   イザヤ59:15
主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目(おんめ)に悪と映った。

8月6日(火)主イエス変容の日           イザヤ59:16
主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業。

8月7日(水)                   イザヤ59:19
西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。

8月8日(木)                   イザヤ26:12
主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです。

8月9日(金)                   イザヤ52:7
いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げる。

8月10日(土)                    詩編85:9
主は平和を宣言されます、御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に。彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

この家に平和があるように

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ルカ10:1‐6
イザヤ66:12‐14

2013年7月7日
聖霊降臨後第7主日
奈良基督教会にて

今日朗読された3つの聖書の、いずれにも出て来た言葉がありました。「平和」という言葉です。

 旧約聖書
「主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう
平和を大河のように」イザヤ66:12


 使徒書
「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」ガラテヤ6:15-16

 そして福音書
「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」ルカ10:5

聖書全体の中に「平和」という言葉がどれくらい出てくるのかと思って調べてみました。新共同訳で数えたら、旧約聖書130回、新約聖書87回、合計217回でした。
これだけ多くの「平和」が聖書に語られているのは、それだけこの世界には平和がないということです。同時に、そうであるからこそ神さまがこの世界に平和をもたらそうと切に願っておられる、ということでもあります。

不安、葛藤、憎しみ、争い、戦争が満ちている。それらを神さまはすべて押し流して清め、新しい世界を造り出したい。

「主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう、平和を大河のように。国々の栄えを洪水の流れのように。」イザヤ66:12
  
さてこの言葉が含まれているのは、長大なイザヤ書の最後の章、第66章でした。
「見よ、わたしは彼女に向けよう、平和を大河のように」と語られた主は、さらに次のように語られます。

「あなたたちは乳房に養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる。」イザヤ66:12

赤ちゃんを抱くお母さん。抱かれているわたしたち。お母さんによって養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされている自分を想像してみます。安心です。平和です。柔らかく、幸福で、満ち足りた気持ち……。
そのようにしてくれるのはだれか。その母とはだれか。

「母がその子を慰めるように
わたしはあなたたちを慰める。
エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」66:13


実は、わたしたちを膝の上であやしてくださる母とは、神さまのことだったのです。
神さまはただ父であるばかりではなく、わたしたちの母でもある。
神さまはわたしたちを「わが子」としてこのうえなく大切に思い、わたしたちを抱き、わたしたちをご自分の膝の上であやし、わたしたちを慰めてくださる。

「これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ
あなたたちの骨は青草のように育つ。」66:14


神の膝の上であやされ、神の愛に包まれ慰められて、わたしたちの心は喜び楽しみます。

こうしてわたしたちの枯れたかのような骨は潤されて、青草のように育ちます。神の膝のもとに慰められた者は、潤されて平和に包まれるのです。

イエスのもとに集まった人々も、このような経験をしたに違いありません。イエスのまわりに集まった人たちとは、傷や病、負い目を負った人たちでした。

イエスはそのような人々を慰め、励ましつつ、育まれました。イエスのもとで人々は次第に自分自身を取り戻し、成長し、イエスの働きに加わる者となっていきました。

これまでただ福音を聴く人であったのが語る人となり、ただ受ける人であったのが、自分からも人に提供する人になっていきます。祈られる人であったのが、みずからも祈る人になっていきます。

時が来ました。イエスは72人の人を選んで任命し、宣教に送り出されます。それが今日の福音書です。

「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」ルカ10:1

わたしたちもまた、形は違ったとしても、それぞれにイエスさまから任命されて宣教に遣わされるのです。

ここで大切に心にとめたいのは、「主が」そのことをなさる、ということです。主イエスがわたしたちを任命し、何かをわたしたちに託される。

少しとばして10章5節を見てみましょう。

「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」10:5-6
 
これが宣教です。主イエスが弟子たちに託されたのは「平和」です。

「あなたがたの願う平和」となっていますが、原文はもっと単純です。
「あなたの平和はその人にとどまる」
 
ところで別の場面でイエスはこう言われました。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」ヨハネ14:27

不安であったり恐れたりしているかもしれないわたしたち。しかしそのわたしたちに、イエスは「わたしの平和」を、ご自分の平和をわたしたちに与え、わたしたちに託してくださいます。イエスがご自分の平和をわたしに与え、わたしに託されるので、平和は「わたしの平和」になるのです。

イエスはわたしたちにも言われます。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」

「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」

わたしたちも主イエスから平和を受けた者。主の平和を託された者です。行く先々で、留まる先々で、わたしたちも平和を祈りましょう。

たとえば、教会委員会でも、聖歌隊でも、何かの相談でもグループのミーティングでも、「ここに平和があるように」と祈りをもって始めましょう。始めたとたんに、別の空気になってしまうことがありがちです。平和の祈りの思いを繰り返し思い起こして、進めていきましょう。

ささやかであっても、このようにしてわたしたちは、イエスが願われた、「平和を造り出す」幸いな人(マタイ5:9)になっていくのです。

ところで、イエスが弟子たちを送り出すに当たって言われた言葉のひとつはこうです。

「途中でだれにも挨拶をするな。」10:4

挨拶して悪いことはありません。けれどもイエスがここで懸念されているのは、挨拶がよけいなおしゃべりになり、イエスがわたしたちに託されたことを忘れてしまうことです。それなら、挨拶しない方がいいのです。

「この家に平和があるように」「ここに平和があるように」とわたしたちが心で祈るとき、イエスが一緒に祈っていてくださいます。
たとえわたしたちの祈りが不十分で、あるいは無力であるような場合でも、そこにイエスが働いておられ、またやがてご自身が後からここに来られるのです。

「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」ルカ10:1

わたしたちのし残したこと、できなかったことを引き受けて、主イエスが整え完成してくださいます。

わたしたちが祈っていく小さな平和が、やがて神さまがもたらしてくださる大河のような平和につながっていきます。

祈りましょう。

主よ、わたしたちに平和を与えてください。平和を祈る者にしてください。あなたがわたしたちに託してくださる平和を受け、それを伝える者としてください。あなたがやがて実現してくださる大きな平和の中に、わたしたちの祈る小さな平和を結びつけて生かしてください。アーメン

日ごとの聖句587 神の国 2013/7/28〜8/3

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2013年7月28日(日)聖霊降臨後第10主日        ルカ11:2
イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』」

7月29日(月)                   ルカ11:20
しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

7月30日(火)                   ルカ12:32
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

7月31日(水)                   ヨハネ3:5
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

8月1日(木)                   ローマ14:17
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

8月2日(金)                    ルカ4:23
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

8月3日(土)                 使徒言行録14:22
パウロとバルナバは弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って励ました。

憲法とは……

「憲法とは、こういう国にしようという理念、目標です。」
井戸謙一氏

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日ごとの聖句586 希望 2013/7/21〜27

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2013年7月21日(日)聖霊降臨後第9主日      コロサイ1:23
ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。

7月22日(月)マグダラの聖マリヤ日     テサロニケ二 2:16
わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを与えてくださる神が、どうか、あなたがたの心を励ましてくださいますように。

7月23日(火)                  箴言23:17-18
主を畏れることに心を燃やすがよい。確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。

7月24日(水)                    詩編9:19
乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。

7月25日(木)使徒聖ヤコブ日             詩編62:6
わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。

7月26日(金)                 テモテ一 4:10
わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。

7月27日(土)                 エレミヤ29:11
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、将来と希望を与えるものである。
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使徒言行録の中のペテロ

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今日(2013/07/10)は奈良基督教会の聖書の会のひとつ、「アダマの会」がありました。
ペテロの足跡を、福音書から使徒言行録をとおしてたどっています。

もう終わりに近づいたところで、使徒言行録の中のペテロを箇所を列挙してみました。

使徒言行録の中のペテロ

2013/07/10

1. 主イエスの昇天後の弟子たちの群れの中  1章

2. 聖霊降臨  2章

3. エルサレム神殿で 癒しのわざ、逮捕と投獄  3〜4章

4. アナニアとサフィラの虚偽  5章

5. 投獄  5章
 「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」5:41-42

6. ステパノたち7人の選出  6章  (ステパノの殉教 7章)

7. サマリアでの按手と聖霊の注ぎ  8章 (パウロの回心9章)
「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」8:17

8. リダとヤッファでの奇跡  9章

9. コルネリウスの求道と洗礼  10章

10. エルサレム教会での報告  11章

11. 三度目の投獄と救出  12章

12. エルサレムでの使徒会議  15章

今日は5章から7章までをたどりました。

特に
ペテロが、逮捕、投獄、尋問、大祭司と最高法院の前での裁判、偽証……において、イエスさまとまったく同じ経験をしていることに気づき、主の苦難を経験することをとおして主の復活の命と祝福に動かされていることを知りました。

世の人々から受け入れられるかどうかが問題ではなく、必要な時にはっきりと真理を言い表すことが、結果として多くの人の救いをもたらしたのだ、と感じました。

「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」

これが今日心に迫った言葉です。

日ごとの聖句585 神を知る 2013/07/14〜20

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2013年7月14日(日)聖霊降臨後第8主日     コロサイ1:9-10
わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。 どうかあなたがたがすべての点で主に喜ばれるように。

7月15日(月)                  コロサイ1:10
わたしたちは、祈っています。あなたがたが主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。

7月16日(火)                   箴言2:2、5
知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。

7月17日(水)               ダニエル書11:27、32
二人の王は虚言を語り合うが、自分の神を知る民は確固として行動する。

7月18日(木)                  イザヤ書11:9
わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。

7月19日(金)                  ホセア書6:6
わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。

7月20日(土)                ホセア書2:21-22
わたしは、あなたと契(ちぎ)りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。あなたは主を知るようになる。

この自由を得させるために

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ガラテヤ5:1

2013年6月30日
聖霊降臨後第6主日
奈良基督教会にて

 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」ガラテヤ5:1

 今日の使徒書の冒頭で、パウロはこのように語っています。
 
 キリストは、わたしたちを自由にしてくださった。
 わたしたちはそのように思ってきたでしょうか。
 ひょっとしてわたしたちは、こう思ってきたかもしれません。──信仰というのは努めて励むべきものである。努力して向上し、しっかりすべきものである。けれども現実にはなかなかそうはいかない。こうあるべきだと思うけれど、そうできないので、ため息をつく──そういう努力と反省は大切です。信仰は成長すべきものです。

 しかし今日パウロからわたしたちが聞くのは、それとは違う響きです。自由。解放。これをキリストはわたしたちにもたらしてくださった。
 あまりなじんでいない言葉だとしたら。ここには福音の宝がある。わたしたちがまだ十分に発見していない宝、わたしたちが発見することを待っている宝がここにはあるのです。
 それは一言で言うと、「ねばならない」の世界からの解放です。

 この手紙を書いているのはパウロですが、彼はかつては熱烈な律法主義のユダヤ教徒であり、キリスト教の迫害者でした。その頃は名前をサウロと言いました。当時の彼の考え方、生き方は、典型的な「ねばならない」主義です。

 礼拝はしなければならない。聖書は読まなければならない。神の掟は守り行わなければならないのです。十戒はおろか、守るべき掟が100あれば100、500あれば500守らなければなりません。そうしてこそ、神に近づき、救われることができる。サウロの誇りは、自分が熱心にそれを守っていることでした。自分が人よりも格段に熱心であることを誇り、また反対に彼は自分のようではない人々を見下げ、裁きました。

 彼は、ユダヤ教の中に起こったイエスを信じるグループを許すことができませんでした。なぜならイエスは途方もない律法違反者だったからです。安息日に働くことは許されないにもかかわらず、しばしばその安息日に治療行為を行った。そのようなイエスを救い主とする異端は撲滅しなければならない。これがサウルです。「ねばならない」の典型です。

 しかしサウロは、そのような自分が決定的に間違っていることをやがて知ることになりました。「ねばならない」で突き進んだ結果は、イエスを信じる無実な人々を迫害し殺害するということでした。彼はステパノの処刑に荷担しました。

 何が間違っていたか。それは自分の「ねばならない」が巨大な壁になって、生きておられる神と自分を隔ててしまい、神を見失わせたことです。

 復活のイエスが彼に出会ってくださったとき、彼の正しさと誇りは全部崩れました。神の掟、律法を守って自分の正しさを積み上げていたとき、彼にとっては神さまご自身よりも自分の正しさのほうが大事になってしまっていました。自分では気づかないうちに、神から離れて行き、間違っていると自分が信じた人々を、苦しめ殺すことが正しいことだと思い込んでいたのです。

 復活のイエスが彼に出会ってくださったとき、彼は目が見えなくなり、苦しみに食べ物も喉を通らなくなってしまいました。生きる目標も意味も根拠もすべては崩れてわからなくなり、良心の呵責にうめきました。

 正しいと確信してステパノの殺害に荷担したことを思うとき、サウロは自分を「呪われた者」と感じました。自分は生きる資格がない。

 しかし同時に、復活のイエスが彼に出会ってくださって彼が知ったのは、キリストが自ら呪われた者となって、呪いはご自分の身に引き受けて、反対に、サウロを「祝福された者」としてくださったことです。このサウロをキリストが愛してくださった。

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」ガラテヤ3:13

 十字架において、イエス・キリストはサウロの呪いと人々の呪いを引き受けて死なれた。その十字架から愛と祝福がサウロと人々に満ちてくるのです。彼は赦されて、愛されて、感謝して、喜んで生きて行くことができます。
 もはや彼は、「ねばならない」の世界から解放された。律法から、罪から、呪いから解放されたのです。

 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」

 実は、わたし自身が「ねばならない」の世界に苦しんだ人間です。わたしの学生時代は学園紛争の時代で、キリスト教会の中でも教会革新運動が燃え上がった時代でした。1970年頃、今から40年数年前です。

 わたしが通っていた大阪外国語大学は、民青(共産党系)と反民青(全闘委=全共闘)が対立して混乱・荒廃し、およそ1年の間大学は封鎖されて授業は行われませんでした。教会では青年たちが、社会に無関心な教会のあり方を批判し、大津聖マリアでは礼拝ボイコットまで起こりました。

 そのようなとき、わたしはキリスト者として何かしなければならない、しかし何もできない……という思いの繰り返しで、焦りと無力感と捕らわれて、身動きができなくなってしまいました。心も身体もこわばってしまいました。

 そうした数年を過ごすうち、ある本を読んでいて、「ねばならない」「しかし何もできない」というのとはまったく違う世界に触れたのです。
 
「わたしが」ではなく、「イエス・キリストが」わたしたちを愛しつつ働かれる。

 同志社の大学院に進んだ1年目の終わり、レポートを書くために本を読んでいました。とても難解な本(カール・バルトの教会教義学『和解論』/1)でした。わからない、わからない、と思いつつ、毎日必死で読んでいました。ところがある日、あるページの活字の向こうから不思議な光が差してくる気がしました。イエス・キリストをとおして神の恵みの光、温かな光が自分に差し込んでくる。

 キリスト教というのは、福音というのは、自分が何かをする/しないということ以前に、イエス・キリストがわたしのために、わたしたちのためにしてくださったことを受け取る、ということだと知りました。

 「ねばならない」の律法にがんじがらめになって身動きできない状態になっていたわたしは、イエス・キリストから差してくる恵みの光によって解放され、自由になることを知りました。

 イエス・キリストの十字架において、古いわたしは死んで滅びていく。十字架が古いわたしたちを吸い込んでしまうのです。そして十字架から新しく恵みの光が差してきます。

 主の声が聞こえます。

「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」ヨハネ14:19

 イエスが生きておられるから、わたしたちも生きる。生きることができるのです。

 信じなければならないから信じるのではなく、信じることを許されたから喜んで信じ、礼拝しなければならないからするのではなくて、招かれたから喜んで礼拝します。

 わたしたちを縛り付け、不自由にしていた力は砕かれて、わたしを自由にしてくださったこのキリストのために何かをしたいという思いがわき上がってきます。
 
 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」ガラテヤ5:1

 わたしたちの身に起こった解放、わたしたちに与えられたキリスト者の自由──これを発見していくことが、これからのわたしたちです。

 祈ります。

 主よ、わたしたちを「ねばならない」の世界から解放してください。自分の熱心と自分の行いを誇ってあなたを見失うことから、あるいは失望し無力を感じてあなたを見失うことから、わたしたちを救い出してください。
 主の十字架のもとにわたしたちの救いと自由があることを教えてください。主が与えてくださった自由の中で、喜んで祈り、感謝して愛の業を行うわたしたちにしてくだ

シューベルト「詩編第23編」

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6月19日(水)の親愛幼稚園のマリア会(保護者対象の聖書の会)でシューベルトの合唱曲「詩編第23編」を聞きました。

次をご覧ください。
園長コラム シューベルト「詩編第23編」

次回は7月10日(水)9:30〜

幼稚園の年長さんのお泊まりキャンプ(キャンプファイヤー)にちなみ、「聖書の中の火」の話をする予定ですが、シューベルトの「ドイツミサ曲」の一部も聞いてみたいと思っています。

日ごとの聖句584 平和があるように

さくらんぼ

2013年7月7日(日)聖霊降臨後第7主日       ヨハネ20:19
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

7月8日(月)                    ルカ10:5
イエスは言われた「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」

7月9日(火)                    ルカ10:6 「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もしいなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」

7月10日(水)                  ヨハネ20:21
イエスは言われた「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

7月11日(木)                  ヨハネ20:26
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

7月12日(金)                  テモテ一 1:2
信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。

7月13日(土)                   詩編122:8
わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」

親愛幼稚園 園長コラム

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親愛幼稚園のHPに
「園長先生コラム」
ができました。

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