Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2014年01月

日ごとの聖句614 あなたの救いを 2014/2/2〜8

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2014年2月2日(日)被献日              ルカ2:22
モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。

2月3日(月)                    ルカ2:27
シメオンが"霊"に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のためにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。

2月4日(火)                   ルカ2:28-29
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」

2月5日(水)                    ルカ2:30
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

2月6日(木)                   ルカ2:31-32
「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

2月7日(金)                    ルカ2:36
アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。

2月8日(土)                    ルカ2:38
アンナはそのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊

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写真は奈良基督教会洗礼盤側面「神の小羊」

ヨハネ1:29‐41

2014年1月19日 顕現後第2主日
奈良基督教会にて


「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ヨハネ1:29

 今日はこの言葉を聞きたいと願います。この言葉がわたしたちの心に深く留まるように、そしてそれがわたしたちの信仰生活を造りかえるほどに影響力を持つようにと願います。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」

 今日の福音書の冒頭、ヨハネによる福音書第1章29節です。

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」

 イエスが自分のほうに来られる。自分を目指して、自分に向かってイエスが来られる。それをヨハネは見ました。このヨハネはイエスの弟子のヨハネではなく、洗礼者ヨハネ、イエスに洗礼を授けたヨハネです。

 自分に向かって来られるイエスを見て、ヨハネははっきりとイエスを知りました。言葉が口を突いて出ました。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」

 ヨハネは指し示す指です。わたしたちにイエスを見るように促します。ヨハネが指さすとおりにわたしたちも見たい。世の罪を取り除く神の小羊イエスを。
 
 わたしたちは自分なりのイエスについてのイメージを持っています。漠然と、あるいははっきりと。けれども今は自分のイエス像がどうかということは横に置いて、ヨハネが見て指し示したイエスの姿を見つめたいのです。
 
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」

 この言葉を発したとき、ヨハネは無意識のうちに旧約聖書・イザヤ書の中に描かれている神の僕の姿を、イエスに見たに違いありません。

「わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。」イザヤ53:6


 わたしたちは皆、正しい道をそれて神さまから離れて行った。その結果自分と人を傷つけ、滅ぼし、滅びていくようになった。その不幸、その罪をすべて、神は「彼」の上に負わせられた。だれかがそれを負わないことには、人は救われないからです。

「苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠(ほふ)り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。」イザヤ53:7


 今、活動を始められたばかりのイエスは健在です。しかしヨハネは将来のイエスの姿をすでに見ています。
捕らえられ、不当な裁判を受けて、やがて沈黙されるイエス。

 マルコ福音書にはこう記されています。
「しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。」15:5

「屠り場に引かれる小羊のように」、裁判の場所ガバタから、自分のかけられる十字架の横木を負って、死刑場ゴルゴタに向かって歩まれたイエス。
苦難を負う神の僕の姿、屠(ほふ)られる神の小羊の姿を、ヨハネはすでにイエスのうちに見ていたのです。

 苦難を負う神の僕イエス。しかしこの方は「世の罪を取り除く」方です。
 ただ苦しむのではなく、苦しみをとおして、世の罪をご自分ひとりに引き受け、世の罪を取り除かれます。

 ヨハネがイエスのうちに「世の罪を取り除く神の小羊」を見て、そのように言葉を発してからおよそ3年。イエスは捕らえられて不義不当な判決を受け、十字架につけられました。

 イエスの両手を打った釘、両足を打った釘。これはこの世に働く攻撃性です。人を傷つけ、破壊しないではおれない闇の衝動。この世界、この社会にうごめく巨大な罪の力、人の中に、またわたしの心の中にうごめく闇の力。それが全部、イエスを十字架に打ち付けた大きな4本の釘の中に本性を現しました。

 そして兵士がイエスのわき腹を突き刺します。同じヨハネ福音書の19章を読んでみましょう。

「そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」19:32-34

 五つ目の傷。兵士の槍によって、イエスはもっとも大きな傷を負われました。わき腹を刺した槍は、イエスの心臓を貫いたのではないでしょうか。

 イエスは深く傷ついて死なれました。しかしそれによってイエスは、世の罪、わたしたちの罪をすべてご自分の身体に引き受け、引き入れてしまわれたのです。
イエスは、この世とわたしたちへの愛から、この傷を引き受けられました。そのとき、この世の罪の力は、イエスのうちに引きこまれ、イエスのうちに捕らえられてしまいました。
 
 ここで「すると、すぐ血と水とが流れ出た」と書いてあるのに注意してみましょう。
 ここから救いが始まるのです。イエスの流された血と水は、人を清め、わたしたちを清めます。

 ヨハネが見た神の僕イエス。神の小羊イエス。この方が世の罪を取り除かれます。

 イエスの負われた苦難。イエスが流された血と水は、空しいものではありません。それは効力を持つ。力をもって働く。影響力を行使するのです。

 イエスの流された水は、洗礼の水となってわたしを、わたしたちを清め、わたしたちを神の子とします。
 わたしたちの礼拝堂の洗礼盤には、屠られた神の小羊の姿が刻まれています。

 イエスの流された血は、いのちとなってわたしたちを養います。それが聖餐式のぶどう酒です。

 イエスの流された血と水は教会を清めます。教会の中に傷があり、痛みがある。しかしイエスは教会をご自分の身体として愛し、教会をご自身の働きのために祝福して用いてくださいます。

 この礼拝堂に聖卓と洗礼盤がある。それがそのしるしです。

 イエスの流された血と水は世界を清めます。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」

 ヨハネの見たこのイエスの姿をわたしたちは見ているでしょうか。
 ヨハネところに来られたように、イエスはわたしたちのところに来られます。わたしたちも、ヨハネとともにイエスのうちに神の僕、世の罪を取り除く神の小羊を見るのです。

 ♪世の罪を除く神の小羊よ、憐れみをお与えください
 
 聖餐を受ける直前、わたしたちがこれを歌うとき、あの洗礼者ヨハネと一緒にわたしたちは神の小羊イエスを見て祈ります。

 この上なく尊い方の愛がわたしたちを招き、わたしたちのうちに浸透します。


 祈ります。

 主なる神さま、ヨハネが見たように、わたしたちにも神の小羊の姿を見させてください。世の罪を取り除かれる神の小羊イエスを見させてください。み子イエスによって、わたしから、わたしたちから、この世界から、罪を取り除いてください。救いを必要としているのはわたしたちです。
 主イエスさま、あなたがわたしたちのところに来られました。あなたの流された血と水はわたしたちを清め、わたしたちを救ってくださいます。あなたの受けられた傷がわたしたちを癒します。
わたしたちを愛してわたしたちを救うために十字架にかかられた尊い主のみ名を賛美します。アーメン

日ごとの聖句613 キリストの十字架 2014/1/26〜2/1

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2014年1月26日(日)顕現後第3主日       コリント一 1:17
キリストがわたしを遣わされたのは、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためです。

1月27日(月)         コリントの信徒への手紙一 1:23
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

1月28日(火)                コリント二 13:4
キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。

1月29日(水)                コリント二 4:10
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。

1月30日(木)              ペトロの手紙一 2:24
キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。

1月31日(金)                  ペトロ一 2:24
キリストが十字架にかかられたのは、わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。

2月1日(土)                  ペトロ一 2:24
キリストがお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

ライアー・デュオ演奏会〜冬から春へ〜 3月1日(土)

厭離庵コンサート2回目20140301案内

2014年3月1日(土) 14:00〜15:30

厭離庵  京都市右京区

演奏: 小野純子 山田祐子

京都市右京区嵯峨にある厭離庵での第1回目の演奏会に続き、早春の昼下がり、
ライアーのコンサートをします。

今回はフィンランドの作曲家、シベリウス最晩年の作品、五つのスケッチOp.114や、J.S.バッハのピアノ曲などをデュオで奏でます。
五つのスケッチは、ピアノのための作品ですが、ライアーで奏でると、そこにうたわれているしずかな情景が、自然の神秘や特別な空気と共に、立ちのぼるようにあらわれます。

冬から春へ移り変わる時期にふさわしい曲たちが、厭離庵のお庭の緑と響きあうことを楽しみに、奏でたいと思います。どうぞお越しください。

<曲目>

シベリウス/五つのスケッチ Op.114
風景〜冬景色〜森の沼〜森の歌〜春の幻
J.S.バッハ/シンフォニアより 1番、3番
ほか

主催 J 企画<シオンの竪琴>

詳細はこちら

わたしは彼らを慰めながら導く

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エレミヤ31:8─9、14

2014年1月5日 降誕後第2主日
奈良基督教会にて

 2014年度のわたしたちの教会の年間のテーマ聖句を「主の言葉によって、互いに励まし合いなさい」(テサロニケの信徒への手紙一 4:18)としました。これは、この教会の現状を思いつつ神さまに祈り求めて与えられた言葉です。

 昨年は「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(ペトロの手紙 3:18)という聖句でした。これはもう終わったというのではなく、この基礎の上に今年の聖句を積み重ねたい。

 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みを経験することにおいて成長し、イエス・キリスト知ることにおいて成長したい。そのひとつの具体化、具体的に実践として「主の言葉によって、互いに励まし合いなさい」という呼びかけがあると受けとめたいのです。

 教会においては、またわたしたちの信仰生活においては、主の言葉が聞こえていてほしい。神さまがわたしたちに何と言っておられるか、イエスさまがわたしたちに何と言ってくださっているか。それを聞きたい。主の言葉が、わたしたちを慰め、養い、導きます。

 主の言葉を聞くことを大切にして、人間の言葉、わたしたちの言葉は、あまりに早い断定や決めつけを避けて、何が正しいか、何かふさわしいかを一緒に探していく柔軟さと、祈り求めていく謙虚さを持ちたいと願います。

 神さま、教えてください。主よ、導いてください。わたしの人生を導かれるのは主です。教会を守り導かれるのはあなたです。──直接言葉にしなくても、そういう空気が、祈り求める心が、わたしたちの間に満ちていますように。

 「主の言葉によって、互いに励まし合いなさい」

 神さまがわたしたちを励ましてくださる励ましを受けたい。主イエスがわたしを慰めてくださる慰めに潤されていたい。それがあって、互いに励まし合うことが可能になります。

 ここで「励ます」と訳されている言葉は「慰める」という意味も含んでいます。あるときには活発な激励の言葉となり、あるときには深い慰めの言葉となる。それが主の言葉です。

「主の言葉によって、互いに励まし合いなさい
という言葉を大切に心にとめながら新しい年度を開始しようとする今日、旧約聖書から主の慰めの言葉が響いていたのを聞かれたでしょうか。

 遠い昔の紀元前6世紀、イエスさまよりも500年以上も前、預言者エレミヤは神の民イスラエルの神への背きと、それゆえに起こった悲劇のゆえに、嘆きと絶望の中にありました。その悲しみと苦しみと極限において、まったく思いがけない主の言葉を聞きました。

「見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し
地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も
身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。」エレミヤ31:8


 遠く連れ去られた人々を、神が呼び集め、連れ戻す、と言われるのです。自分では帰りたくても帰れない、動きたくても動けない。そのような人たちを主ご自身が呼び集め、ご自分のもとに連れて帰られます。その中には目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
 元気な者たちばかりではなく、むしろ弱った人々、歩行困難な人たちこそが、神さまのまなざしの中心にいます。

「彼らは泣きながら帰って来る。」31:9

 なぜ泣くのでしょうか。あまりに辛かったから、悲しかったからです。帰りたかったところに帰ろうとする道を進みながら、経験してきた悲しみがこみ上げてくるのです。
 しかしそれだけではありません。彼らは、神さまが連れて帰ってくださることのうれしさに泣きます。喜びの涙です。

「彼らは泣きながら帰って来る。
わたしは彼らを慰めながら導き
流れに沿って行かせる。」 31:9


 悲しみに泣き、うれしさに泣く人たちを、神は慰めながら導き帰られます。彼らが渇いて苦しまないように、水の流れに沿って道を行かせられます。
 
 エレミヤが聞いた主の言葉、エレミヤが見た主の姿はこのようでした。
 イエス・キリストにおいてわたしたちに自らを示される神は、このような方です。神はわたしたちを慰めながら導き帰ってくださる方です。

 今日の旧約聖書の最後の言葉を聞きましょう。

「祭司の命を髄(ずい)をもって潤し
わたしの民を良い物で飽かせると
主は言われる。」31:14


 「わたしの民を良い物で飽かせる。」

 この遠い約束は、わたしたちにとって具体的な現実となりました。わたしたちを良い物で飽かせようとして、わたしたちを満ち足りさせようとして、主はわたしたちのために聖餐の食卓を用意していてくださいます。

 わたしたちが正義と平和と愛の神の国を広めようとするとき、わたしたち自身が主の励ましによって励まされ、主の慰めによって慰められていますように。

 
 主よ、わたしたちの間に、あなたの慰めの言葉が聞こえているようにしてください。わたしたちはしばしば自分の言葉で人と自分を損なってしまいます。そのようなわたしたちを主の言葉によって救ってください。主が用意してくださった聖餐によって、わたしたちを養い、喜ばせてください。わたしたちの教会を慰めの共同体にしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン


日ごとの聖句612 世の罪を除く神の小羊 2014/1/19〜25

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2014年1月19日(日)顕現後第2主日         マタイ1:21
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

1月20日(月)                   マルコ2:17
イエスは言われた。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

1月21日(火)                   ヨハネ1:29
ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

1月22日(水)               ヨハネの手紙一 3:5
あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。

1月23日(木)               ヨハネの手紙一 5:16
死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。

1月24日(金)                  イザヤ53:11
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。

1月25日(土)使徒聖パウロ回心日         イザヤ44:22
わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。

洗礼者ヨハネの喜び ──主の母マリア訪問の日(5月31日)に寄せて

ルカ1:39‐45

2013年5月29日 同志社大学京田辺水曜チャペルアワーで話したものです。

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<主よ、人の望みの喜びよ>

 先ほど前奏で弾かれたのは、バッハ作曲「主よ、人の望みの喜びよ」という題で知られている曲です。

 この曲は実は、今朗読していただいた聖書の箇所と深い関係があります。今日の聖書は、イエスを胎に宿したマリアが、親戚のエリサベトを訪問した場面でしたが、そのマリアのエリサベト訪問を記念する日の礼拝のために、バッハはカンタータ147番を作曲しました。その中に含まれるのが先ほどの「主よ、人の望みの喜びよ」なのです。

 バッハはキリスト教ルター派の熱心な信徒で、ドイツのライプツィヒの教会と学校の音楽監督でした。バッハはライプツィヒの教会でささげられる礼拝のために膨大な音楽を作曲しました。その中の一つが、マリアのエリサベト訪問の祝日の礼拝のためのカンタータ147番「心と口と行いと生活は」です。全部で10の曲からなっています。先ほど演奏された曲は、10曲の中の第6曲と最後の第10曲(コラール)です。第6曲の後に説教がなされ、その後第7曲以降が演奏されました。礼拝は全体で2時間はかかったと思われます。

 今から290年前の1923年、ライプツィヒのおそらく聖トマス教会で、マリアのエリサベト訪問の祝日の礼拝が行われました。今日の同じ聖書の箇所とその続きが朗読され、その箇所についての説教があって、そのときあの曲が初めて演奏されたのでした。
今日は5月29日ですが、明後日の5月31日がマリアのエリサベト訪問の日とされています。それで今日は聖書のその箇所に近づいてみることにしましょう。

<マリアのエリサベト訪問>

 ナザレの貧しい娘マリアは、当時およそ15歳で、ヨセフと婚約中でした。そのマリアが天使ガブリエルから「あなたは神の子を産む」と告げられたのです。容易に受け入れがたい内容でした。婚約者ヨセフと無関係の子どもを自分が身ごもったとなれば、どんな恐ろしいことになるかわかりません。けれども天使ガブリエルとのやり取りの末、マリアは「わたしは主のはしため(僕)です。お言葉どおり、この身に成りますように」と言い、天使は去って行ったのでした。

 ある言い伝えによれば、それは3月25日であったとされます。クリスマスからちょうど9ヵ月前のことです。

 マリアは恐れと決意をもって天使の言葉を受け入れたものの、だれにもそのことを話すことはできませんでした。婚約者ヨセフにも話せません。2ヵ月の間、マリアはこのことを自分の心の奥に秘めて祈っていたのですが、しかし神の子を産むという重い使命をひとりで受けとめ続けるのは耐えがたいことでした。

 ある日、マリアは決意して立ち上がり、親戚のエリサベトに会いに行くことにしました。エリサベトにだけは、自分の身に起こったことを打ち明けたいと思ったのです。天使ガブリエルがあのとき、「エリサベトも神の力によって子どもを身ごもり、もう6ヵ月になっている」と言ったのをマリアは記憶していました。それからもう2ヵ月たっています。

 マリアはガリラヤのナザレを出発し、ユダの山里に向かいました。数日かかったでしょう。おそらくエルサレムからそれほど遠くない所です。エリサベトの夫ザカリアは、エルサレムの神殿に仕える祭司でした。

「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」ルカ1:39-40

「急いで」という言葉に中に、マリアの気持ちが感じられる気がします。

<胎内の子がおどる>

「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。』」1:41-45

 大きな喜びが湧き起こりました。マリアは神から大切な使命を託されてそれを引き受けた。エリサベトはそれを瞬時に理解し、一緒に喜び、その使命を共に引き受ける決意をしたのです。世間の無理解、あざけり、迫害があったとしても、神の計画の実現に参加することこそは何にものにも代えられない幸福なのです。二人は一緒に喜び合いました。

 ここで注目したいのは、このとき、マリアとエリサベトが出会っただけではなく、マリアの胎内のイエスと、エリサベトの胎内のヨハネが出会ったということです。

「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。」ルカ1:41

 エリサベトは言いました。

「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。」ルカ1:44

 8ヵ月になっているエリサベトのおなかは大きい。胎内の赤ちゃんがおなかの中で喜びのあまりとびはねる、おどるのがはっきりわかるのです。やがて生まれる救い主(まだ宿って2ヵ月です)に会えてうれしい。イエスと共に歩んでいけるのがうれしい。
 マリアとエリサベトは、神さまから託されたよいこと、正しいことのために共に祈り共に歩む同志です。まだ生まれていないヨハネとイエスも、すでにこの時から、この世界に愛と正義と平和を実現していく同志です。

<洗礼者ヨハネとイエスの再会>

 それからおよそ30年が過ぎました。ヨハネはこの世界に迫る神の審判を告げ、人々に悔い改めと人生の新しい出発を呼びかけました。人々はヨハネの訴えに自分の良心をゆさぶられて、ぞくぞくと集まり、ヨルダン川でヨハネから罪の赦しの洗礼を受けました。

 そのとき、イエスもヨハネのところに生き、洗礼を受けたいと申し出ます。ヨハネはためらうのですが、イエスの強い求めにより、ヨハネはイエスに洗礼を授けます。30年前の喜びが今、現実の喜びとなってあふれます。30年前は母の胎の中にあって無意識の喜びであったかもしれませんが、今は現実の中の喜びです。イエスが神の使命を受けて、神と人々のために身をささげて生きようとする決意をヨハネははっきり感じます。ヨハネはこのイエスを人々に紹介することができることを喜びます。

 イエスが洗礼を受けたとき、天から「あなたはわたしの愛する子」(ルカ3:22)という声が聞こえました。

 しばらくヨハネのところに滞在していたイエスは、やがて独立して自分の道を歩むことになります。それからどれくらいたったでしょうか。ヨハネはイエスが自分のほうに近づいて来られるのを見て、感動のあまり声を上げます。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ヨハネ1:29

 イエスはこの世界の救いのために世の罪を引き受けて苦しみ、血を流して死なれる。それをヨハネははっきりと感じたのです。
 やがてヨハネは領主ヘロデの悪を公然と責めたために捕らえられました。そのとき、イエスは自分の時が来たことを感じ、公的な活動を開始されます。ヨハネの働きを、イエスは引き受けられるのです。

<洗礼者ヨハネの喜び>

 あるときヨハネは言いました。

「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」3:29-30

 イエスが主役だ、とヨハネは言うのです。言わばイエスが結婚式の花婿であり、自分は花婿の友人、結婚の介添人だ。花婿の声が聞こえるのがわたしにはこの上なくうれしい。真の働きをするのはイエスであって、自分はそのイエスを指し示す。

 ヨハネの喜びは、母エリサベトの胎内にいたときだけのものではありませんでした。
 30年を経て、ヨハネはあらためてイエスと出会い、喜びに溢れました。この偽善、虐げ、抑圧、虚栄、自己保身の横行するこの世にあって、イエスが真実と愛のため、人々の救いのために自ら苦難を引き受け、傷つき、命を投げ出される。イエスが人の魂と世界を救うのを、ヨハネは見て喜んだのです。

 わたしたちも、イエスにほんとうに出会ったとき、喜びが溢れます。イエスの真実、イエスの愛、イエスの命は、わたしたちに慰めと励ましと希望を与えます。

<何と幸いなことか>

 ヨハネがイエスに感じた喜び、マリアが、エリサベトが感じた喜び。また後の人々が感じた喜び。──それをバッハが、マルティン・ヤーンという人の詩を借りて音楽にしました。
 今日の礼拝の最後にもう一度弾いていただく、バッハのカンタータ147番第6曲のコラール、ヤーンの詩のドイツ語歌詞の意味をご紹介して終わります。

なんと幸いなことか、わたしにイエスがおられることは(直訳−わたしがイエスを持つことは)。
ああ、どれほど堅くわたしは彼を抱くことか。
彼はわたしの心を力づけてくださる、
わたしが病のときも、悲しみのときも。
イエスがわたしにおられる(イエスををわたしは持っている。
彼はわたしを愛し、
ご自身をわたしに与えてくださる。
ああ、そのゆえにわたしはイエスを離さない、
たとえわたしの心が破れても。

日ごとの聖句611 あなたの手を 2014/1/12〜18

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2014年1月12日(日)顕現後第1主日・主イエス洗礼の日
 イザヤ書42:5
神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。

1月13日(月)                  イザヤ書42:6
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。

1月14日(火)                出エジプト記9:22
主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向かって差し伸べ、エジプト全土に、雹(ひょう)を降らせるがよい。」

1月15日(水)                   マタイ9:25
群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。

1月16日(木)                   マタイ14:31
イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

1月17日(金)                   マタイ19:13
そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。

1月18日(土)                  ヨハネ20:27
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」

日ごとの聖句610 慰め 2014/1/5〜11 

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2014年1月5日(日)降誕後第2主日         エレミヤ31:9
わたしは彼らを慰めながら導き、流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。

1月6日(月)顕現日           フィレモンへの手紙1:7
兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。

1月7日(火)          コリントの信徒への手紙二 1:3
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。

1月8日(水)                 コリント二 1:4
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

1月9日(木)                 コリント二 1:5 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。

1月10日(金)                   ルツ記2:13
ルツは言った。「心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」

1月11日(土)                   マタイ5:4
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
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井田 泉
奈良基督教会牧師
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富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
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