2014年02月

2014年3月2日(日)大斎節前主日 マタイ17:7
イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
3月3日(月) マタイ17:8
彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
3月4日(火) イザヤ書60:1
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
3月5日(水)大斎始日 (灰の水曜日) エフェソ5:14
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
3月6日(木) マルコ1:35
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
3月7日(金) マタイ9:6-7
イエスは中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。
3月8日(土) 使徒言行録9:34
ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。

マタイ5:14─16
2014年2月9日
顕現後後第5主日
奈良基督教会にて
「あなたがたは世の光である。」マタイ5:14
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」5:16
長い間わたしは、この言葉に抵抗をおぼえていました。「あなたがた」の中にわたしが入っているとしたら、わたしはとてもそのようではないと感じます。自分が世の光であろうはずがないし、またそれでも世の光とイエスが言われるのであれば、自分は無理にでも世の光であろうとしなければならない。立派な行いをして、人々が神さまをあがめるようにしなければならない。──できそうにもないことを自分に強制しなければならない気がして、気が重くなる言葉でした。
けれども今はそれを一度横において、イエスさまがご自分の最初の弟子たちに対して、どういう思いで「あなたがたは世の光である」と言われたのかを探ってみたいと思います。
「あなたがたは」と言われた最初のイエスの弟子たち。彼らの多くはガリラヤ湖の漁師でした。ペテロとアンデレの場合はどうだったでしょうか。彼らは湖で網を打って魚を取っていました。そこにイエスが来られて、「わたしについて来なさい。あなたがたを、魚を取る漁師ではなく人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人はすぐに網を捨ててイエスに従いました。
聖書の記述は極めて簡潔ですが、これは大変なことです。それまでの生活、仕事を捨てて、何の先の保証もない歩みを始めた。それをさせるほどにイエスの招きは強力であったし、また二人はこのイエスに、自分の人生のすべてを託す決意をしたのです。
「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」とマタイ4:23には記されています。
弟子たちは繰り返しイエスの教えを聞き、イエスのなさる業を目撃し、またイエスの祈りに触れ、イエスのうちに燃える信仰の情熱と愛を全身で感じていました。
たまに会うのではない。1週間に一度話を聞くのではない。毎日ずっとイエスと一緒に過ごしている弟子たち。彼
ら彼女らは、弟子として成長していきました。
イエスによって、それまでははっきりとはわからなかった神さまのことがわかるのです。愛の神にして義(正義)の神。イエスが感じておられる人々の痛みが自分たちにも伝わってきます。義務的形式的であった祈りが、もっとも深い魂の底からあふれ出すものになってきます。イエスをとおしてはっきり神の声が聞こえるのです。
こうした日々が続いていたあるとき、大勢の群衆がついてくるのを見ながら、イエスは山に登られました。そして腰を下ろされました。すると自然に弟子たちが近くに寄ってきます。するとイエスは口を開いてこう弟子たちに教えられました。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。」5:3
以前ならわからなかったこの言葉が、今は弟子たちの心に浸透してきます。心の破れた者、心がうめいている者が天国に迎え入れられる。
「悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。」5:4
人の慰めではない、神の慰めが弟子たちの心をひたしてきます。
「柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。」5:6
憤りやすくまた絶望しやすい弟子たちは、神を信じて忍耐する者に変えられていきます。
「義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。」5:10
「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義のために迫害される人々」……
これはイエスご自身のことであったのです。イエスはご自身のことを語りつつ、イエスに従ってきた弟子たちの労苦を思いやり、その弟子たちの受ける神の祝福と慰めを語られたのでした。
これは今日の福音書の直前の箇所、山上の説教と言われるイエスの言葉の初めです。イエスはこのとき、一般的教訓を言われたのではなく、イエスに従って労苦している弟子たちへの慰めを語られたのでした。
聖書本文には書かれていませんが、それを聞いた弟子たちの反応があったはずです。イエスの語られる言葉が、弟子たちの心に浸透していくのをイエスはご覧になりました。イエスとともに心の貧しい者となり、イエスとともに悲しみ、イエスとともに柔和になり、イエスとともに神の願われることを行って、真実と真理のためには迫害をも引き受けようとする弟子たちのまごころと決意を、イエスはご覧になりました。
イエスが放たれる光は弟子たちを照らし、弟子たちのうちにとどまり、弟子たち一人ひとりが信仰と真実の光を放ち始めたのがわかります。それを見て思わずイエスは言われました。
「あなたがたは世の光である。」5:14
イエスの光を受けて自らも光を放ち始めた弟子たちをイエスは心から喜び、励まされます。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」5:16
遠慮せず、隠さず、あなたがたに与えられた光を堂々と輝かせなさい。それは自分を誇らせるものではなく、神の愛を人々に示していくものだから。
イエスはこのときこの上なくうれしかったのです。まだ弟子となって日が浅い。しかしすでにもっとも大切なものが、光が弟子たちのうちに宿っている。
このときイエスと弟子たちの間に深く通い合うものがありました。
もっともイエスは弟子たちの人間として弱さをよく知っておられました。この日、光を宿していた弟子たちが、闇の力におびやかされ、闇の力に捕らえられてしまう危険があるのをイエスは知っておられました。
それから3年近くして、イエスはこう言われました。
「イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。』」ヨハネ12:35
イエスはわたしたちのうちにも、光を見てくださるでしょうか。見てくださるに違いありません。
イエスに招かれたわたしたち。イエスの言葉を聞き、イエスに学ぼうとするわたしたち。イエスとともに祈り、イエスとともに神の国のためにささやかであっても労苦を引き受けていこうとするわたしたちであるなら、わたしたちには見出せなくても、イエスはわたしたちの中に光が宿っていることを見出してくださるでしょう。
十字架から光が差しています。わたしたちが十字架を仰ぎ見つめるとき、両手を広げてわたしたちを迎えてくださるイエスの姿を見ます。十字架を見つめるとき、わたしたちの苦しみと病と罪と死を引き受けてくださったイエスが、わたしたちを支え生かすために断固して立っておられる姿を見ます。
十字架を仰ぎ、聖書から主の声を聞き、イエスの願いを引き受け広げようと願うわたしたちの祈りと労苦のうちに、主の光が宿っている。それは無言で人に慰めと励ましと希望を与えるものです。
光なるイエスを仰いで光を受けましょう
主イエスさま、あなたはわたしたちに対しても「あなたがたは世の光である」と言われます。ひるまずためらわずに、あなたご自身の光をわたしたちの身に受けさせてください。そしてあなたの光を──それをあなたは「あなたがたの光」と言ってくださるのですが──わたしたちをとおして輝かせてください。十字架にかかって苦難を受けられた主のみ名を賛美いたします。アーメン

2014年2月23日(日)顕現後第7主日 コリント一 3:9
わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
2月24日(月)使徒聖マッテヤ日 コリント一 3:10
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。
2月25日(火) コリント一 3:11
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
2月26日(水) コリント一 3:16
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
2月27日(木) 使徒言行録9:31
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展していった。
2月28日(金) テモテへの手紙一 6:19
真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築きなさい。
3月1日(土) テモテへの手紙二 2:19
神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と刻まれています。

(写真は奈良基督教会のプルピットフォール=説教壇前掛け布)
2014年2月16日(日)顕現後第6主日 コリント一 3:6
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
2月17日(月) コリント一 3:7
成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
2月18日(火) コリント二 9:10
人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
2月19日(水) コリント二 10:15
ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長することです。
2月20日(木) イザヤ書66:13
母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。
2月21日(金) イザヤ書66:14
これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ、あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にある。
2月22日(土) サムエル記上2:26
少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。

2014年2月9日(日)顕現後第5主日 ヨハネ9:5
イエスは言われた。「わたしは、世にいる間、世の光である。」
2月10日(月) ヨハネ12:46
わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
2月11日(火) ヨハネ3:21
真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。
2月12日(水) マタイ5:14
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
2月13日(木) マタイ5:16
あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
2月14日(金) ヨハネ8:12
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
2月15日(土) ヨハネの手紙一 1:7
神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

イザヤ42:6
マタイ3:16─17
2014年1月12日
顕現後第1主日・主イエス洗礼の日
奈良基督教会にて
「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。」イザヤ42:6
主なる神がだれかに呼びかけてそう言われました。
「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。」イザヤ42:6
神から「あなた」と呼びかけられているその人=神の僕は、神に手を取られ、諸国を照らす光として定められ、任命されました。
この言葉が最初に発せられ、聞かれたのは、紀元前6世紀です。神に呼びかけられ、立てられて、神の救いの業を実行するその人とはだれか。その当時、異国に捕らえられていたイスラエルの人々を解放したペルシャ王クロスのことだとも言われました。
けれども政治的権力者たるクロス王が、理想的な神の僕でありつづけるのは無理でした。
このイザヤ書の言葉には後ほど戻るとして、今日は大切なことに心を向けなくてはなりません。それは、今日が主イエスの洗礼の日だということです。
イエスがヨハネから洗礼を受け、水の中から上がられたとき、先ほど読んだマタイ福音書ではこう言われていました。
「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降(くだ)って来るのを御覧になった」マタイ3:16。
神の霊が降(くだ)ってイエスを覆い、イエスのうちに宿りました。イエスは神の命(いのち)と力を受けられました。
「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」3:17
これは、神さまがイエスをみんなに紹介する言葉です。マタイ福音書の元になったマルコ福音書では「あなたはわたしの愛する子」と書かれています。神がイエスに呼びかけておられるのです。ところがマタイは「これはわたしの愛する子」となっています。マタイには神の声がそう聞こえたのかもしれません。
あるいは福音書記者マタイは、読者にイエスを神の子と紹介したかった。皆が目をイエスに注ぐように願って、このように一言書き換えたのかもしれません。
わたしたちの信仰にとって大切なのは、イエス・キリストに目を注ぐことです。
もちろん、自分のことを省みるのは必要です。自分をまっすぐ見つめることは、神を仰ぐことにつながります。しかし自分を見つめることそのものから救いの道が開けるのではありません。救いはイエス・キリストから来るのです。
わたしたちは、一度、自分を忘れるくらいにイエス・キリストに関心を持ちたい。イエスが何を見られたか。イエスが何を聞かれたか。イエスが何を祈っておられたか。イエスが何を話されたか。イエスが何をなさったか。──ここからわたしたちの道が開ける。救いが来るのです。
ところで直接だったか間接だったかはわかりませんが、イエスの洗礼の出来事を見つめ、イエスの洗礼に触れた人たちは、はるか以前に語られた神の僕の姿の中に、イエスの洗礼を重ねました。数百年前から伝えられてきたイザヤ書の中に響く神の呼びかけが、洗礼を受けられたイエスに対する呼びかけだと感じたのです。
それはどの言葉かと言うと、冒頭に読んだ今日の旧約聖書の言葉です。
「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。」イザヤ42:6
これはまさにイエスの洗礼のときの神の呼びかけだ、というのです。そのとき、神がイエスを呼ばれた。イエスの手を取られた。国々と人々を照らす光として、神はイエスを立てられた。
イエスはこのように神に呼ばれ、神に手を握られて、神の使命を受けられた。国々と人々を照らし導き救う使命です。神がともに働かれる救いの働きへの任命です。
イエスの洗礼は、神の霊、神の力を受けて、それによって神の業をなす使命を受けられた出来事だったのです。
洗礼において、神に呼ばれ、神に手を取られ、世を照らす光としての使命を受けたイエスは、今度はご自分から人を呼ばれます。人の手を取られます。
カファルナウムの会堂長ヤイロがイエスのところに来てひれ伏して願いました。
「わたしの娘が病気で死にそうです。来て、娘に手を置いてやってください。そうしたら娘は救われて生きるでしょう。」マルコ5:23
イエスは行って、その子の寝ている部屋に入り、その子の手を取られました。その子を呼ばれました。
「タリタ、クム」「少女よ、起きなさい。」
その子は起き上がり、新しい人生が始まりました。このイエスの働きの出発と原点は、洗礼にあったのです。
ここでどうしてもわたしたちが受けた洗礼、わたしたちが将来受けるかもしれない洗礼のことを思わずにはいられません。
わたしたちも洗礼において決定的に、「あなたはわたしの愛する子」という神の呼びかけを受けた/受けるのです。
わたしたちも神の霊に包まれ、神の霊を宿されるのです。
そしてあのイザヤ書の言葉も、わたしたちの洗礼においてわたしたちのことになるのです。
「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。」イザヤ42:6
神が恵みをもってわたしを呼ばれた。イエスがあの少女の手を取られたようにわたしの手を取られる。そうしてわたしを生涯守り、導かれるとともに、ひとつの使命を与えられます。
「光となる」という使命です。
同じマタイによる福音書においてイエスは弟子たちに言われました。
「あなたがたは世の光である。」5:14
以前から、この言葉を聞くとわたしには困惑が起こりました。どうしてこのわたしが世の光でありうるでしょうか。闇をいっぱい抱えているのに。
しかしイエスは言われます。わたしがあなたを照らし、あなたに光を与えた。わたしがあなたを、世を照らす光として任命した。
小さな小さな光かもしれないけれど、わたしたちは光を与えられています。自分に希望を与えてくれる光です。人に希望を与える光です。
わたしたちを呼んでくださった方は、わたしたちの手を取り、手を握ってわたしたちを見捨てられません。光を受けて光を携えて行くように言われます。
それが、わたしたちの洗礼の意味です。
主がその喜びと祝福をわたしたちに新しく味わわせてくださいますように。
神さま、あなたは洗礼においてわたしたちを、ご自分の愛する子と呼び、わたしたちの手を取り、わたしたちを立たせてくださいました。あなたから受けた光を曇らせず、それをあなたと隣人のために輝かすことに熱心にならせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
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