Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2014年05月

日ごとの聖句631 聖霊の約束 2014/6/1〜7

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2014年6月1日(日)復活節第7主日(昇天後主日)  ヨハネ14:16-17
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。それは真理の霊である。

6月2日(月)                   ヨハネ15:26
父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証(あか)しをなさるはずである。

6月3日(火)                   ヨハネ16:13
その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

6月4日(水)                    ルカ24:49
わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。

6月5日(木)                    ルカ24:50
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。

6月6日(金)                    ルカ24:51
そして、イエスは祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

6月7日(土)                  使徒言行録1:8
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

「人の子が神の右に立っておられるのが見える」

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使徒言行録7:54−60

2014年5月11日
復活節第4主日
奈良基督教会にて

 今日、使徒書として朗読された使徒言行録第6章、7章は、ステファノ(ステパノ)の殉教を伝えていました。最初の殉教者ステパノの記念する日は12月26日です。それなのになぜ、主イエスの復活を記念する復活節に彼の殉教の記事が朗読されるのでしょうか。
 それは彼ステパノが、主イエスの復活の証人であった。言い換えるとこのステパノの中に、復活の主が生きておられたことを、わたしたちが知るためではないでしょうか。

 彼が、主イエスの直弟子であったかどうかはわかりません。イエスさまご自身も、また多くの主な弟子たちも、ヘブライ語(厳密に言うとアラム語)を話していました。ところがステパノはギリシア語を話すユダヤ人だったようです。

 最初の教会がエルサレムに始まり、次第に人数が増えて行ったとき、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人が、教会には混じり合っていました。両者の間に深刻な葛藤が生じました。少数派であるけれども次第に増えつつあるギリシア語会衆が、差別扱いをされているというのです。特に、最初の教会は貧しいやもめの生活を支えることを大切にしていたのですが、ギリシア語会衆のやもめが軽んじられて、分配が公平でないという声が上がっていました。

 貧しい人々を支援するという教会の大切な働きをしっかりと行うために、指導者である12人以外に7人の指導者が新しく任命されました。この7名のひとりがステパノでした。

 しかしステパノは教会の奉仕的な働きのみを担ったのではありません。彼は"霊"と知恵に満ちて(使徒言行録6:3)、主イエスによる救いを非常に力強く語りました。彼の言葉と行動を通して、多くの人々が主イエスご自身に出会う経験をしました。次第に信徒は増えて行きました。

 ところがそれによってステパノは、力を持った人々の憎しみを買うことになったのです。
 主イエスが多くの人々にいのちを与えたように、ステパノは多くの人々に主イエスのいのちを伝えました。主イエスが権力を持った人々によって秩序破壊者として迫害され、捕らえられたように、ステパノも迫害され、捕らえられました。
 捕らえられたステパノはユダヤ人の議会、最高法院に引いて行かれ、大祭司から尋問を受けることになりました。主イエスと同じです。

 ところが尋問が、かえってステパノにとっては福音を語る機会になったのです。被告であるステパノ、裁きを受けているステパノが堂々とイスラエルの救いの歴史を語り、最後には裁きを行っている人々の罪を明確に指摘するに至ったのです。

「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」7:51-53

 ステパノは、無実の神の子、救い主イエスを処刑した罪を指摘したのです。これを聞いた人々は心を突き刺されました。ある場合には、これによって回心が起こりました。心を突き刺されて、自分たちの良心が疼き、救いを求める悔い改めが起こりました。それが聖霊降臨日の出来事です(2:37)。
 しかしこのときはそうはなりませんでした。ステパノの言葉によって心を突き刺された人々は激高しました。

「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。」7:54

 怒りと憎しみが燃え上がり、ステパノに対する殺意が人々を突き動かします。自分が殺されることを感じたステパノは、天を仰いで祈るしかありません。

「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」7:55-56

 ここで「ステパノの前に天が開いた」と言われているのですが、天が開くというようなことが聖書のどこかにあったでしょうか。
 イエスの洗礼のときです。ヨルダン川で洗礼を受けたイエスが水から上がって祈っておられると、天が開けました(ルカ3:21)。

 天が開けると、神の現実がありありと見えてくるのです。神の栄光の輝きが見える。その中にイエスが、神の右に立っておられるイエスがステパノにははっきりと見えました。
 イエスが神の右に立っておられる。

 ところで聖書は別の箇所では、天に上られたイエスは「父の右に座しておられる」と言われています(マタイ26:64、ルカ22:69、ロマ8:34)。

 わたしたちの礼拝でも、先ほど歌った「大栄光の歌」では「父の右に座しておられる主よ」と言いました。わたしたちの信仰告白、ニケヤ信経でも「天に昇り、父の右に座しておられます」と唱えます。

 ところがこのときステパノが見たのは、立っておられるイエスです。イエスが立ち上がられた。非常事態だからです。死のうとするステパノを、殺されようとするステパノを引き受けようとして、抱きとめようとして、イエスは立っておられる。

 すでにここでステパノはイエスの愛によって抱かれました。究極の危機にあってステパノは究極の平安で満たされました。

「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」7:56

 しかし

「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。」7:57-59

 自分のことを引き受けてくださったイエスに、ステパノは自分をゆだねたのです。

「それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」7:60

 天を仰ぎ天と通じたステパノ、イエスに自分を引き受けていただいたステパノには、もはや恐怖も怒りも憎しみもありませんでした。ただ、憎しみにかられて自分を殺そうとしている人々の姿があまりにあわれで痛ましかった。絶命しようとするとき、ステパノは大声で叫んで、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈って、眠りにつきました(7:60)。

 主イエスの最期と、何と似ていることでしょうか。
 ステパノの中にイエスが生きておられたからです。

 思い返しましょう。

 ステパノは最初の教会の葛藤の中で立てられた指導者でした。教会の人々の必要と公平と一致のために現実的に尽力しました。しかし彼の働きは教会内にとどまらず、外に向かって強力に福音を伝えるものでもありました。その結果、世の過ちを指摘することになり、怒りと憎しみを買って捕らえられて死ぬことになりました。

 彼は危機のなか、天を見つめ、天を仰いで祈りました。そして、神の右に立っておられるイエスを見ました。
 
 わたしたちも危機のときに、解決不可能な困難のときに、天を仰いで祈りたい。そしてイエスを見たい。

 たとえわたしたちはステパノのようにイエスを見ることができなくても、ステパノのために立ち上がられたイエスは、わたしたちの危機のときにわたしたちを引き受けようとして立ち上がってくださる。イエスがわたしたちを抱きとめてくださるのです。

 イエスの愛がわたしたちをひたしますように。
 
 最初の教会の人々は、ステパノの死を嘆きつつ、イエスさまの言葉を思い出したかもしれません。

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」マタイ5:8

 祈ります。

 神よ、わたしたちにも天を仰がせてください。わたしたちが危険にさらされるとき、わたしたちのために立ち上がられるイエスを見させてください。虐げられて苦しむ人々のたちに立ち上がられるイエスを見させてください。イエスの愛がわたしたちのうちに浸透するようにしてください。アーメン

日ごとの聖句630 木 2014/5/25〜31

ぶどう2

2014年5月25日(日)復活節第6主日         ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

5月26日(月)                   ヨハネ15:4
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

5月27日(火)                  イザヤ41:18
わたしは不毛の高原に大河を開き、谷あいの野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする。

5月28日(水)                  イザヤ41:19
わたしは荒れ野に杉やアカシヤを、ミルトスやオリーブの木を植え、荒れ地に糸杉、樅(もみ)、つげの木を共に茂らせる。

5月29日(木)昇天日              エレミヤ17:7-8
祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。実を結ぶことをやめない。

5月30日(金)                    ミカ4:4
人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅(おびや)かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた。

5月31日(土)                  イザヤ61:3-4
彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し、古い荒廃の跡を興す。

日ごとの聖句629 命の道 2014/5/18〜24

野原

2014年5月18日(日)復活節第5主日         ヨハネ14:6
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

5月19日(月)                   マタイ3:3
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

5月20日(火)                  詩編16:10-11
あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。

5月21日(水)                 使徒言行録2:28
「あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」

5月22日(木)                   ルカ13:33
わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。

5月23日(金)                   詩編119:59
わたしは自分の道を思い返し、立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。

5月24日(土)                   イザヤ26:7
神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。

日ごとの聖句628 わたしの霊を

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2014年5月11日(日)復活節第4主日          詩編31:6
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。

5月12日(月)                  イザヤ書44:3
わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。

5月13日(火)                  マタイ12:18
見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適(かな)った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。

5月14日(水)                 使徒言行録2:17
神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

5月15日(木)                   ルカ23:46
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

5月16日(金)                 使徒言行録7:56
ステファノは「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。

5月17日(土)                 使徒言行録7:59
人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。

イエスは「おはよう」と言われた

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2014年4月20日
復活日
奈良基督教会にて

 今日、復活日の聖書日課には三人のマリアが出て来ました。日曜日の朝早く、イエスの墓に行った二人のマリア──マグダラのマリアともうひとりのマリア。

 さらにもうひとりのマリアがその前に登場していました。旧約聖書、出エジプト記第15章20節です。

「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。」

 この「ミリアム」という名前は「マリア」と同じです。ヘブライ語の「ミリアム」が後にギリシア語に入って「マリア(ム)」となったので、マリアとミリアムは同じ名前なのです。それで今日は二人のマリアからさらに1200年くらいも昔、紀元前1200年頃のマリア、すなわちミリアムに、まず目を注いでみることにします。
……

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バッハ「ヨハネ受難曲」を聞く

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2014年4月13日(復活前主日)夕刻、奈良基督教会でバッハ「ヨハネ受難曲」(ハイライト)を聞く会(CD)を開きました。

当日聞いたのは、カール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ合唱団、ミュンヘン・バッハ管弦楽団によるものです。

そのために用意した対訳を掲載します。

ヨハネ受難曲対訳(抜粋)

終曲のコラールはこのうえなく美しく慰めに満ちています。全曲はこれに向かって用意されているような気がしました。

また、対訳を作っているときは、15「わたしの心の奥底にあなたのみ名と十字架だけが 輝いています」に心を動かされました。

日ごとの聖句627 イエスは生きておられる 2014/5/4〜10

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2014年5月4日(日)復活節第3主日         イザヤ書43:1
ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。

5月5日(月)                  イザヤ書43:1
恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。

5月6日(火)                  イザヤ書43:2
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれない。

5月7日(水)                 イザヤ書43:3-4
わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する。

5月8日(木)                    ルカ24:23
婦人たちは遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

5月9日(金)                   ルカ24:30-31
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。

5月10日(土)                   ルカ24:32
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
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