
マタイ16:13−20
2014年8月24日・聖霊降臨後第11主日
奈良基督教会にて
「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」マタイ16:16
今日の福音書は、イエスに対するペテロの信仰告白の場面です。
わたしたちは今年、この礼拝堂で8名の方の信仰告白に立ち会いました。1月1日の洗礼、3月16日の堅信式、7月20日の洗礼志願式です。一人ひとりが公に神への信仰を告白するとき、立ち会うわたしたちにも感動が起こります。
けれどもふと気になることがあります。それは洗礼のときというのではなく、一般的なことなのですが、「信仰」、「信仰告白」というとき、わたしたちはしばしば自分の信仰のある/なし、自分の信仰の強い/弱いに関心が行って、その信仰を待っていてくださる方、わたしたちの信仰を呼び覚ましてくださる方、わたしたちの信仰の告白を受けて喜んでくださる方のことを、十分に意識していないのではないか、ということです。
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』
シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。
すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』」マタイ16:15-17
こここで知らされるのは、イエスが弟子たちに問いかけ、促されたこと。それに対してペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたこと。それに対してイエスが「あなたは幸いだ」と喜ばれたことです。
このように信仰の告白は、イエスの問いかけ、働きかけがあって、それに対する応答として起こります。わたしたちの側だけのことではないのです。呼びかけと応答。心の交流が起こっています。イエスがわたしたちに呼びかけて、愛を注いで、わたしたちのうちに信仰を呼び覚ましてくださる。わたしたちのほうからも呼びかけ答える。わたしたちのほうからもイエスに愛を注ぐのです。心の交流があり、イエスの喜びがあり、わたしたちの喜びがあります。
今日、この箇所で、そのようなペテロの信仰告白が起こりました。しかしそれは急に起こったのではなく、これまでのイエスとの出会いの経緯を経て、今日、今、信仰告白が起こったのです。それに至るまでのペテロの歩みのいくつかを、マタイ福音書から振り返ってみることにします。
まず第1は、最初にペテロがイエスに呼ばれたことです。マタイによる福音書第4章にこのように記されています。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」4:18-20
きっとペテロには、心の渇きがあったに違いありません。漁師の生活に満足していれば、だれが呼ぼうと招こうと、自分の生活を捨てることはありえませんでした。ペテロの渇き、ペテロの心の疼(うず)きにイエスが呼びかけられた。その呼びかけは強力でした。ペテロは兄弟アンデレとともに、網を捨ててイエスに従いました。行く先の分からない新しい人生への出発です。ペテロは自分の人生をイエスに賭けたのでした。
第2に知らされるのは、ペテロが家族の病気を経験したことです。彼は結婚していて、妻のお母さん、つまりしゅうとめさんが高熱を出して寝込んでいました。そこにイエスの訪問を受けます。マタイによる福音書第8章です。
「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。」8:14-16
このとき、ペテロが見たのは、ただ自分のしゅうとめの熱が引き、病気の治癒が起こったということだけではありませんでした。イエスとの出会いによって、しゅうとめの生き方が大きく変化したのを見たのです。
「しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」と訳されていますが、「もてなした」というのは「仕えた」「奉仕した」という意味で、新約聖書の中のとても大事な言葉です。
イエスご自身が「仕えられるためではなく仕えるために来た」(マタイ20:28)と言われた、その重要な言葉なのです。
このときからペテロのしゅうとめは、イエスの働きに参加・協力する者となりました。この家が、言わばイエスを中心とする教会のようになったのです。大勢の病んだ人々がここにやってくるようになりました。
ペテロが、イエスが多くの病気の人々を癒されるのを見たとき、自分のうちにはっきりと響いてくる聖書の言葉がありました。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」
マタイ8:17
イザヤ書第53章4節の言葉です。イエスはただの超能力者ではない。イエスはこの人々の患(わずら)いを、病を、自分のものとして引き受けておられる。イエスがわたしたちの苦しみを引き受けてくださって、わたしたちは苦しみから解放されていく。無限に人の苦しみを引き受けて自ら苦しまれるこのイエスとは、いったいどういう方なのか。これがペテロの抱いた問いでした。
ペテロに起こった第3の鮮明な出来事は、イエスが自分を十二使徒のひとり、しかもその筆頭として選んでくださったことです。
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、……」マタイ10:1-2
ペテロはそのとき、不思議な賜物、力をイエスからいただきました。彼はイエスの働きを支え、また時にはイエスによって遣わされて、宣教活動を行いました。イエスの力ある業が、自分をとおして実現していくことを知りました。彼は弟子たちのリーダーとして人々の世話をし、また影響力を持つようになっていきました。だれよりも自分はイエスのことを知っており、だれよりも自分はイエスを愛しており、だれよりも大きい働きをしている、と思うようになったかもしれません。
けれどもそのような誇りや自負が破綻する時が来ます。
ペテロの第4の出来事は、ガリラヤ湖で起こりました。マタイによる福音書第14章です。
あるときイエスは弟子たちを無理に舟に乗り込ませて、向こう岸に行くように命じられました。イエスはそのまま残って山に行くと言われます。夜のガリラヤ湖に漕ぎ出しました。イエスが一緒におられない今、この弟子集団を率いるのは自分だと思ったかもしれません。いや、そんな高ぶった思いではなくて、とにかく向こう岸まで皆を連れて渡らねば、という強い責任を感じたかもしれません。
夜のガリラヤ湖。慣れてはいるはずなのですが、逆風が激しく、次第に波が高くなり、舵もオールも全く言うことを聞きません。ただ波に翻弄されるばかりです。舟が転覆するのではないか。ここで命を落としてしまうのではないか。皆を守らねばならないというあせりと、自分自身の恐怖とでペテロは平静を失ってしまいました。こんなことになるなら、無理にでもイエスさまに一緒に乗っていただくのだった。自分がそれを強く進言するのだった。後悔にさいなまれます。
そのとき、向こうのほうから湖を歩いて近づいて来る人の姿があります。
「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』
すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』
イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」14:26-31
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」
溺れ死のうとする自分をイエスが捕まえてくださった。この経験をとおして、ペテロは自分の高慢を砕かれるとともに、イエスへの思いをいっそう熱くしたのでした。
「この方こそ、神の子、メシアに違いない」
この方に自分は救われた。この方にどこまでもついていく。
こういう経過、経験を経て、今日のペテロのイエスに対する信仰告白に至ります。
イエスはあるとき、弟子たちをはるか北の方、フィリポ・カイサリアまで連れて行かれました。そこが今日の福音書です。
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』
シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。
すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』」マタイ16:15-17
イエスの思いがペテロに流れ込み、ペテロの思いがイエスに流れ込みます。愛と命の交流が起こっています。イエスは今後ペテロをけっして見捨てない。ペテロはどこまでもイエスさまを信じて従って行く決意です。イエスの喜びとペテロの喜びがひとつになりました。
ペテロが、今日の信仰告白に至るまでのいくつかをたどってみました。わたしたちに重なるところがあるでしょうか。
第1に、わたしたちも心に渇きや疼きを持っているかもしれません。そのようなわたしたちをイエスは呼ばれます。「わたしについて来なさい。」
第2に、わたしたちも自分の家族や親しい人、あるいは自分自身の病を知っているかもしれません。病の苦しみの中で、ペテロが知ったように、イエスがわたしたちの病を引き受けてくださることを知りたいと願います。
第3に、わたしたちはイエス不在のままで、困難な道を歩むようなことがあります。波に翻弄されることがあり、恐怖に陥ることがあります。しかしわたしたちが危険に陥ったとき、イエスは波を渡ってでもわたしたちのところに来てくださいます。嵐のなかでこそわたしたちはイエスを呼ぶことを学ぶのです。イエスを新しく深く知り、やがて信仰を告白する時が来ます。
「あなたはメシア、生ける神の子です」
祈ります。
主イエスさま、わたしたちの信仰を育んでください。もう一度わたしたちを呼んでください。あなたに従います。病を引き受けてくださる主よ、わたしたちを癒してください。困難のとき、わたしたちを捕らえ守ってください。あなたへの信仰を告白することの喜びを与えて、新しく歩ませてください。アーメン





