Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2019年10月

日ごとの聖句914 善を行うことを学べ 2019/11/3〜9

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2019年11月3日(日)聖霊降臨後第21主日
                イザヤ1:2
天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。

11月4日(月)          イザヤ1:16-17
悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。

11月5日(火)          イザヤ1:18-19
たとえお前たちの罪が緋(ひ)のようでも、雪のように白くなることができる。進んで従うなら、大地の実りを食べることができる。

11月6日(水)            イザヤ1:27
シオンは裁きをとおして贖(あがな)われ、悔い改める者は恵みの御業(みわざ)によって贖われる。

11月7日(木)            イザヤ2:3
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。

11月8日(金)            イザヤ2:4
彼らは剣(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。

11月9日(土)            イザヤ9:1
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

その衣を小羊の血で白くした

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ヨハネの黙示録7:9−17
2019年10月27日・諸聖徒日
奈良基督教会での説教

PDF全文 → 衣を小羊の血で20191027冊子

 今日、わたしたちはすでに地上の生涯を終えて天に召された方々を記念して、その方々の平安を祈るために礼拝をささげています。同時に、わたしたちが地上で礼拝をささげている今、この時に、天においても礼拝がささげられていることを心にとめたいと思います。

 ここでの礼拝は天における礼拝とつながっている。祈りにおいて、礼拝において、わたしたちはわたしたちの大切な人々と確実につながっているのです。このことを教会は「聖徒の交わり」、聖なる神の僕どうしの交わり、と呼んできました。
 その今日の礼拝に相応しく、先ほど朗読された使徒書、ヨハネの黙示録第7章には、天上の礼拝の光景が描かれていました。

 「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』」7:9-10

 この大群衆が礼拝をささげている。その光景を見ている「わたし」とは、だれでしょうか。それはヨハネと呼ばれる初代教会の指導者です。おそらくは主イエスの直弟子ヨハネとは別人でしょうが、このヨハネはキリスト教迫害の中で捕らえられて、地中海のパトモスという島に閉じ込められていました。ある主日に彼が祈っていたとき、不思議なことが起こりました。体は地上にあるのに、霊においては天に上げられて、天上の礼拝を目撃したのです。

 あらゆる民族の中から集まった数え切れないほどの大群衆が、玉座、つまり神の前で、そして小羊、つまりイエス・キリストの前に立って祈っています。ヨハネの目に非常に印象的にうつったのは、その大群衆のだれもが「白い衣」を身に着けていたことです。白い衣が美しく、まばゆいばかりに輝いています。

 すると礼拝をささげていた天の長老のひとりが、ヨハネに問いかけました。
 「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」7:13
 ヨハネは答えて言いました。
 「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです。」7:14
 すると天の長老はこう答えました。
 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」7:14

 その白い衣には深い意味があったのです。今、天で礼拝をささげている非常に多くの人たちは「大きな苦難を通って来た者」である、と。地上での人生において非常な苦しみと困難を経験してきた。心も体もひどく傷ついてしまった。純真無垢で生まれてきたはずなのに、この世においては悪と戦い、誘惑にさらされて、過ちも重ね、言わば身に着けていた服は破れ、どろどろに汚れてしまった。

 しかしこの人たちにこそ、イエス・キリストの愛が注がれました。ご自分の命を神にささげられたイエス・キリスト──神の小羊が、その人々の衣も体も心もすべて洗い清めて、まっさらにしてくださった。十字架に傷つけられたキリストが、ご自身の傷によって人々の傷を癒し、破れを繕い、輝く白い衣を着せてくださった。その人々が今、天において神とキリストに感謝と賛美の礼拝をささげているのです。

 輝く白い衣。これは新約聖書のどこかに出て来ました。
イエスさまが、高い山の上で祈っておられたとき、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(ルカ9:29)とルカ福音書は伝えています。
 今、天上で白い衣を着て礼拝をささげている人々は、あのイエスさまの輝く衣をいただいているのです。

「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」7:14
 輝く白い衣を身に着けた天上で礼拝する人々の姿を、迫害に苦しむヨハネは目撃し、その白く輝く衣の意味を彼は天の長老から教えられました。

 ここからわたしたちは、三つのことを知って心にとめたいと思います。

 第1に、わたしたちが今日記念する、世を去った大切な方々も、今、輝く白い衣を身に着けて、天上で神さまを礼拝しておられる。傷を癒され、清められて、神の愛の祝福に守られているのです。

 しかし第2に、これは当然のことではありません。わたしたちは土から生まれた弱くもろい人間であり、土に帰るしかなかった。しかし、その弱さを、その痛みを、その労苦を、神の小羊キリストが深く顧みてくださって、限りない愛を注いでくださった。キリストが十字架に傷ついて、ご自分の血を流された。そのキリストの血は限りない愛の血、人の傷を癒し、罪を赦し、永遠の命を与える血です。そのキリストの苦難の血が、人々の内も外も清めてまっさらにしてくださった。わたしたちの大切な方々が白い衣を着せられて輝いている。それは神の小羊キリストの尊い愛によるものなのです。

 第3に、わたしたちは心にとめましょう。天上の礼拝する人々も地上で礼拝するわたしたちも、イエス・キリストの愛の光に包まれています。天と地を包む大きな光、愛の光です。地上のわたしたちも実は白い衣を着せられている。それにはイエスさまの願いがあります。
愛の光を広げてほしい。正しく良いことを実践して広げてほしい。やがてあなたがたは顔と顔を合わせてわたしと会うのだから、その時に向けて、一緒に神の国を広げていこう。あなたがたの祈りと働きを、天の人々が祈りつつ支えてくれているのだから。
 
 祈ります。
 神さま、今日、先に召された人々をおぼえて祈る時を与えてくださったことを感謝いたします。わたしたちすべての傷を、ご自身の傷によって癒し清めてくださったイエスさまの愛を、天にも地にも満たしてください。天に召された人々にも地上に生きるわたしたちにも、主の平安をお与えくださり、聖徒の交わりを楽しませてください。アーメン


気を落とさずに、絶えず祈れ

JordanRiver

創世記32:23‐32 ルカによる福音書18:1‐8
2019年10月20日・聖霊降臨後第19主日
尼崎聖ステパノ教会での説教

PDF全文 → 気を落とさずに、絶えず祈れ

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」ルカ18:1

 イエスさまは、人が悩みを抱えて苦しんでいることをよくご存じでした。イエスの直弟子たちもそうですし、2000年後の弟子であるわたしたちもそうです。
 わたしたちは問題のむつかしさ、苦しさに容易に失望してしまいます。時々は祈るけれども、心配のほうがまさってしまうことが多い。そういうわたしたちのことをご存じであるイエスが言われます。
「あなたがたは失望するな。気を落とさずに、どんな時にも祈っていなさい。」
 これはわたしたちを悩みの淵から救おうとされるイエスの呼びかけです。この呼びかけに支えられて、わたしたちは祈る者となりたいと願います。

 ここでイエスがなさったのは「やもめと裁判官」のたとえです。やもめ、夫を失った女性は、しばしば力ある者によって苦しめられ、孤立させられ、不利益を強いられて、場合によっては持っているわずかなものまで奪われたりすることがありました。
 このたとえの中でやもめの訴えのことをイエスが話されたとき、イエスご自身が出会われたやもめたちの姿が目に浮かび、彼女たちの悲しみや訴えがイエスさまの心の中に響いていたに違いありません。

 けれども今はしばらくこのたとえから離れて、先ほど朗読された旧約聖書の箇所から、ひとりの祈る人の姿に目を注いでみることにします。創世記第32章、遠い昔のヤコブという人の姿です。
 ヤコブは、アブラハムの孫で、イサクとリベカの息子です。ヤコブは双子の弟で、兄はエサウです。若い日に兄エサウから長子の相続権をだまし取り、兄の憎しみを買いました。ヤコブは母リベカの勧めに従って家を離れ、母の兄、自分にとっては伯父さんにあたるラバンのもとに身を寄せて、20年の間そこで家畜の世話をして過ごしました。
 そこでヤコブはラバンの娘、いとこのレアとラケルを妻とし、たくさんの子どもを授かりました。やがてヤコブは家族と家畜の群れを連れてラバンのもとから脱走し、遠い道を旅して故郷の地に戻っていきます。

 故郷に帰ってくるのは、なつかしうれしいことのはずなのですが、しかしヤコブは故郷の地に近づけば近づくほど、苦しみが増してくるのを感じました。20年という長い年月を経ても、兄エサウが今も自分を憎んでいるのではないか、会えば自分を殺そうとするのではないかという恐怖が去らないのです。
 ヤコブは先に使いの者を遣わし、エサウに挨拶させました。使いの者は帰ってきて報告しました。
「兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます。」創世記32:7
 400人が迫ってくる! ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けました。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのです。

 ヤコブは叫ぶように祈りました。ここは今日の聖書日課からは省かれていますが、非常に重要な箇所です。

「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」32:10-13

 このようにヤコブはひとり神にすがって祈ったのです。
 その夜、ヤコブは自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物を選びました。第1の贈り物、第2の贈り物、第3の贈り物と、三重におびただしい贈り物を用意して、順々に兄エサウに届けさせました。
 まもなくヤコブは川に至りました。ヤボクの渡しです。ヤコブは先に僕たちを渡らせ、持ち物を渡らせ、家族も渡らせました。しかし彼は川の手前に留まっています。渡ることができないのです。ここを向こう岸に渡ってしまえば、万一、兄エサウが襲いかかってきたときには逃げることができない。エサウが恐ろしい。
 ヤボクの渡しを前にして渡ることができず、ヤコブは神の救いと祝福を求めて徹夜で神と格闘するほどに祈りました。
25節以下を読んでみましょう。

「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿(もも)の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』『お前の名は何というのか』とその人が尋ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』
『どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、『どうして、わたしの名を尋ねるのか』と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。』」32:25-31

 次の1節も読みましょう。
「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿(もも)を痛めて足を引きずっていた。」32:32

 ヤコブは天使と、もっとはっきり言えば神と、夜通し格闘して祈ったのです。こうしてヤコブの祈りは聞かれ、神さまから祝福をいただきました。ヤコブは神に守られている確信と平安を得て、勇気を持ってヤボクの渡しを渡りました。
 けれどもここで彼はただ確信と平安と勇気を与えられただけではありません。ヤコブは、夜を徹しての苦しい祈りをとおして、変えられたのです。いろいろ経緯はあるにせよ、自分が兄エサウを傷つけ、憤らせた。ひたすら誠意をもって赦しを願う思いで兄に会おう。歩くのも困難なほどの腿の痛みを抱えて、彼は足を引きずりながら兄エサウに近づいて行きました。

 昨夜はエサウが恐ろしくて川を渡れず、最後まで残っていたヤコブは、今は先頭に進み出て、地にひれ伏しました。エサウは走って来てヤコブを抱き締め、一緒に泣きました。
 こうして20年ぶりにヤコブは兄エサウと和解したのです。
 
 諦めてはいけないのです。神の救いと祝福を得るまでは、祈り続ける。毎日毎日神に訴え続けるのです。
 イエスは言われます。気落ちしてはいけない。祈る勇気を失ってはいけない。いつも、どんな時にも祈っていなさい。神さまは絶対に放置されない。無視されない。

 このように弟子たちに教えられたイエスは、やがてあのヤボクの渡しのヤコブのように、苦しみもだえて祈られました。ゲッセマネです。
ヤコブのようにかつての自分の負い目の故に死の恐怖におびえて祈られたのではありません。自分の救いのためではなく、人の救いのためです。イエスは死を前にして、ゲッセマネで神と格闘して祈られました。血の汗を流して祈られました。わたしたちを神の国に入れるためです。
ヤコブは祈りの格闘をとおして神の祝福を受け、自分の命を長らえました。しかしイエスは、祈りの格闘をとおしてご自分の死を受け入れ、わたしたちのために神の祝福を獲得してくださいました。

 神さまが祈りを聞いておられます。イエスがわたしたちのために祈っていてくださいます。祈ることのなかでわたしたち自身が変えられていきます。
 今日聞いたイエスさまの言葉を、わたしたちが無にすることがありませんように。

 神さま、わたしたちはしばしば気落ちし、失望します。けれどもそれだからこそ祈る人にしてください。諦めずに祈り続ける者に、いつも祈る者にしてください。イエスさまがご自分の命を献げるまでにわたしたちの救いのために祈ってくださったことを無にすることのないようにしてください。イエスさまが再びおいでになるとき、祈ってきた者として、信じてきた者としてお会いすることができますように。アーメン

日ごとの聖句913 小羊キリスト 2019/10/27〜11/2

JordanRiver

2019年10月27日(日)聖霊降臨後第20主日
               ヨハネの黙示録7:9
見よ、あらゆる国民、数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立った。

10月28日(月)使徒聖シモン・使徒聖ユダ日
                 黙示録7:10
彼らは大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」

10月29日(火)          黙示録7:11-12
天使たちは言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように。」

10月30日(水)           黙示録7:14
長老はわたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」

10月31日(木)           黙示録7:15
「彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。」

11月1日(金)諸聖徒日        黙示録7:16
「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。」

11月2日(土)            黙示録7:17
「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。」

キリストと共に生きるようになる

十字架

テモテ二 2:8−15
2019年10月13日・聖霊降臨後第18主日
奈良基督教会での説教

PDF全文 → キリストと共に生きるようになる


今日の使徒書は、パウロがテモテに宛てて書き送った第2の手紙の一節です。昨夜になって気づいたのですが、週報に記した説教の題は不十分だったと思います。予告段階から「キリストと共に生きるように」と、題を決めていました。これはこれで意味があります。
「キリストと共に生きるように」とわたしたちを勧め、励ます言葉が響いている。わたしたちに必要な、また力になる呼びかけです。

けれども今日の手紙の本文は、2章11節ですが、「キリストと共に生きるようになる」です。あなたがたはキリストと共に生きるようになるだろう。必ずあなたがたはそうなる。キリストと共に生きることがあなたがたの定められた未来、言わば宿命だ──これが本来の意味です。

ここでパウロは、当時の教会で歌われていた聖歌、祈りの歌を引用しているようで、それで聖書本文のこの箇所は何度も改行がなされています。
当時の教会の礼拝の中でこのように一緒に歌われていた。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。」2:11

一緒に歌うことによって、聖書の福音は、イエス・キリストの愛は、わたしたちの中に浸透します。その言葉の意味とイメージを感じ、また心を込めるなら、そうなります。

今、聖歌541を歌いました。
 ♪空の鳥よ、野の花よ あなたたちは美しい
 ♪悩まず 感謝しよう 日々ある主の恵みを

わたしたちは悩みます。ひどいときは自分と世界のすべてが悩みになる。けれどもこの歌によってわたしたちは方向転換させられます。
 ♪悩まず 感謝しよう 日々ある主の恵みを

悩みはある。しかし感謝すべきことを数える。日ごとに与えられているよきこと、主の恵みを心に留める。前に向かって歩むことができるのです。どうかわたしたちにとっての聖歌が、さらにそのように働いてくれますように。

ところでパウロは今、獄に捕らわれています。鎖につながれています。その中から、宛先のテモテに向けてこの歌を書き送ります。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。」

テモテは教会の指導者としてあまりに重い責任を与えられていて、つぶれてしまいそうな心配がある。それでパウロはテモテと共にこの祈りの歌を歌おうとするのです。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。」
 ここから復活の力が湧き出ます。
 
このようにテモテを励まそうとしているパウロですが、一方で彼はこの手紙の中で自分の経験してきた苦労をところどころで吐露しています。たとえば2章の終わりです。

 「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。」2:24-25
 これを単なる教訓として読んだら面白くありません。

 「主の僕たる者は争わず」。ああ、自分は争ってきた。「すべての人に柔和に接し」。不愉快な相手にそんなことはできなかった。「教えることができ」。十分にていねいに教えることができなかった。「よく忍び」。しょっちゅう忍耐は切れてきた。「反抗する者を優しく教え導かねばなりません。」さんざんな反抗に遭ってきて、優しくなどできなかった。
けれども長い伝道生活を振り返ってみたとき、パウロは深い反省や苦(にが)い失敗の中から、やはりこういうことが大事だと悟り、後輩のテモテに勧めているのでしょう。

 次の言葉も興味深い。25節の後半です。
「神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。」
あの腹立たしい人たちの顔が思い浮かぶ。彼らは悔い改めなければ滅びだ、と言ってやりたい。けれども「神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。」
「かもしれない」と言っています。悪いことをしてもまったく反省もせず、真理を認識しようとしない頑な彼ら。もうどうしようもない。けれども神は、それでも彼らを変えてくださるかもしれない。希望は捨てないのです。あとは神さまにゆだねます。

さらにこんなふうに言っています。
「こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」2:26
彼らは悪魔に生け捕りにされて悪魔の意のままに振り回されている、というのです。けれども「いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」

こんなに痛烈な言葉があるでしょうか。聖書はもっと穏やかな、立派なことが書いてあると思っている人にとっては、驚くような言葉の連続です。けれどもおそらくもう年老いたパウロは、この人と世界の現実、自分が戦い苦しんできた悪魔的な力について、率直に物を言わずにはおれなかった。またテモテを励ますためには、それが必要だったのではないでしょうか。

 「いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」
パウロは希望を捨てずに祈っています。

わたしはある時期、このテモテへの第2の手紙がとても好きでした。今もです。表現はひどいかもしれないけれども、これが福音のために、キリストのために苦闘する生(なま)の人間の真実の声です。最後は神さまにまかせて、人を見限りはしないのです。

この手紙の終わりのほうでパウロはテモテに頼んでいます。
「ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。」4:9
「あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。」4:13

秋が深まりつつあるのではないでしょうか。やがて冬が来る。トロアスのカルポのところに置いてきてしまった外套がほしい。寒く冷たい冬の獄中生活を耐えなければならないのですから。

「また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。」

何の書物でしょうか。聖書に違いありません。獄中ですから、手元に聖書があったとしても、それはごく一部でしかなかったのではないでしょうか。聖書がほしい。聖書が読みたいのです。聖書から神さまの声を聞かなければ生きていけないのです。特に羊皮紙のもの。きっとパウロの弱った目にも読みやすい、手触りのよいものをそばに持ちたい。それで抱いて寝たいくらいなのです。

こうしてパウロは自分の苦労や憤りも含めて率直に語りつつ、テモテを励まそうとしました。同時にテモテとの信仰の交わり、キリストにあるつながりをとおして、自分も励ましを受けていたに違いありません。
 
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。」

わたしたちは洗礼においてキリストと共に死んだ。それなら、キリストと共に生きるようになる。キリストが生きておられるからわたしたちも生きる。それ以外はない。

「キリストと共に生きるようになる。」
必ずキリストと共に生きる。キリストが共に生きてくださる人生──それが、わたしたちに与えられた祝福であり、唯一の道であり、希望であり、また現実です。

祈ります。
神さま、「キリストと共に生きるようになる」という言葉を今日聞きました。この言葉をわたしたちの内に宿らせ、わたしたちの命また力としてください。キリストと共に生きるように定められたわたしたちを、その命の道に戻らせ、新しく確固として歩ませてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

日ごとの聖句912 気を落とさずに祈れ 2019/10/20〜26

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2019年10月20日(日)聖霊降臨後第19主日
                  ルカ18:1
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

10月21日(月)            ルカ18:7
まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

10月22日(火)           ルカ6:12-13
イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、十二人を選んで使徒と名付けられた。

10月23日(水)            ルカ24:30
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

10月24日(木)           フィリピ4:6
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

10月25日(金)          エレミヤ29:7
わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。

10月26日(土)       エズラ記(ラテン語)9:24-25
天使は答えた。「花咲く野原に行き、絶えずいと高き方に祈りなさい。そうすれば、わたしは来て、あなたと語ろう。」

信仰を増してください

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ルカ17:5−6
2019年10月6日・聖霊降臨後第17主日
奈良基督教会での説教

全文PDF → 信仰を増してください

 この前の日曜日の9月29日、わたしたちは4人の方々の堅信式に立ち会いました。その堅信式の中に「洗礼の約束の再誓約」という箇所がありました。

 「あなたは天地の造り主、全能の父である神を信じますか」という問いかけに対して4人の方は一人ひとり「わたしは天地の造り主、全能の父である神を信じます」と答えられました。
 「あなたは、この世の贖い主、み子イエス・キリストを信じますか」
 「わたしは、この世の贖い主、み子イエス・キリストを信じます」
 「命の与え主、聖霊を信じますか」
 「わたしは命の与え主、聖霊を信じます」

 洗礼のときにすでにそうであり、堅信式のときにもう一度そうなのですが、その場面に立ち会うとき、わたしはそこに奇跡が起こっていると感じます。

 「わたしは、信じます」。
 父と子と聖霊なる三位一体の神を、わたしは信じます。

 このようなことをただ心で思うだけではなく、人前で、声を出して告白することは尋常なことではありません。何かがなければ「信じる」ということは起こらなかった。何かが働かなければ「わたしは信じる」という告白は起こりえなかった。人間の力によっては、人の努力によっては不可能なことを、神さまがしてくださった。神さまがこの一人ひとりのうちに信仰を育んでそこまで至らせてくださった。そのことを思うとき、感謝の涙が胸の中に溢れてきます。1週間たって、昨夜はそんなことを感じていました。

 ところで、イエスさまの弟子たちも最初から信仰がはっきりとあったわけではありません。イエスに招かれて弟子となった人たちもまた、信仰を育てられていったのです。
先ほど朗読したルカ福音書の最初にこう言われていました。

 「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき」ルカ17:5

 使徒たちと言われるのは、ここでは12弟子のことでしょう。イエスさまこそは、この人たちのうちに信仰が育つために、祈り、言葉で教え、行動で示してこられたのです。そしてある段階に達したとイエスが判断されたとき、彼らを宣教に遣わされました。使徒たちは福音を告げ知らせ、人びとの病気を癒しました(ルカ9:6)。

 けれどもその弟子たち、使徒と呼ばれる人たちは、しばしばイエスさまから信仰のことで叱責を受けました。
 あるとき、弟子たちはイエスとともに舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとしました。イエスは舟の中で眠ってしまわれました。そのうちに突風が吹き降ろしてきて、舟は水をかぶって危うくなり、弟子たちは恐怖にかられてイエスを起こしました。
 「先生、先生、おぼれそうです。」ルカ8:24
 イエスは起きると風と波を静めて、弟子たちに言われました。
 「あなたがたの信仰はどこにあるのか」8:25
 弟子たちは叱られたのです。

 またこういうこともありました。弟子たちがある父親から、一人息子に取りついた悪霊を追いだしてほしいと頼まれたのですが、どうしてもできませんでした。そこに戻ってこられたイエスは父親の訴えを聞いてこう嘆かれました。

 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」ルカ9:41

 弟子たちはここでもイエスさまに叱られました。このよこしまな時代にあって、弟子たちはイエスに従って正しいこと、真実なものを示していかなければならないのに、まったくそれができていない。あなたがたは信仰のないよこしまな時代の中に埋没してしまっている。もうがまんがならない。こう叱責されてしまったのです。

 しかし叱責されることはさいわいです。それはイエスに愛されているしるしなのです。

 弟子たち、使徒たちは、何度も自分たちの信仰のなさ、信頼のなさ、愛のなさを感じて、このままではいけないと強く思ったのです。それでイエスにはっきりと今日、願いました。

 「わたしどもの信仰を増してください。」

 この願いをわたしたちはどう聞くのでしょうか。自分には関係がない、と思うか。それとも、これはわたしの願いだ、と思うか。わたしの願いだ、と思う人はさいわいです。イエスさまそれに応えて、わたしたちの信仰を必ず増し加えてくださるからです。

 しかしこのときのイエスの答は意外なものでした。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」17:6

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があるなら」

 突き放したような言い方です。でもここで立ち止まってみることにします。

 「からし種一粒」 これはもっとも小さいもののたとえです。けれどもこれが成長して大きくなれば、空の鳥がその枝に巣を作るほどになる(ルカ13:19)。だから、大きなことを求めず、「からし種一粒」ほどの、小さくても確かな信仰を持て、決意して信じなさい、と言われたのかもしれません。辛いからしです。外見ではなく、内側に、あなたの奥にぴりっと辛い信仰があるように。

 「からし」でふと思い出すことがあります。わたしがまだ30代だった頃、30年以上も前です。東京教区と韓国のソウル教区の青年交流協議会というのがあって、わたしはそこで聖書研究をしてくれと頼まれて参加しました。到着した最初の日から夜中までどんちゃん騒ぎです。韓国の青年が青い小さな唐辛子を勧めるので、1個食べました。効果てきめんです。わたしは翌朝からずっとおなかの具合が悪く、10日ほどの韓国滞在中ずっと困っていました。大変な効果です。小さくても大きな影響を与えるからしです。

 ところで信仰とは、わたしの中だけに持っているというものではありません。神さまとの関係、イエスさまとのつながりを意味するものです。わたしの中に、たとえごく小さくても神さまを思う切なる思いがあれば、イエスさまに呼びかけ信頼する祈りがあれば、それで十分だ。その小さな信仰が、あるときには大きな業に、奇跡のようなことにつながる。

 あるいはイエスは、こう言われたのかもしれません。すでにわたしはあなたの中にからし種のような信仰を蒔いた。それがあなたの中に宿っているのだから、それを信頼しなさい。人と比べて信仰が大きいとか小さいとか、信仰歴が長いとか短いとか考える必要はない。心配するな。わたしが与えたその信仰の種を信じて大切にしなさい。それがあなたを生かす。

 事実、イエスは使徒たちの信仰を気遣い、それを育もうとして心を砕いておられました。やがて重大な危機が迫ったとき、イエスはペテロにこう言われました。

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:31−32

 生きていけないほどの悲しみ、打撃を経験して、信仰を失いそうになるときが来る。しかしそのあなたのためにわたしは、あなたの信仰が無くならないように祈った、とイエス言われました。わたしが祈った、と。

 イエスはわたしたちの信仰を守ろう、育もうとして祈っておられる。わたしたちのために、信仰が無くならないように祈っていてくださる。イエスの祈りに支えられて、これまでがあり、今があり、明日があるのです。

 自分の信仰は自分だけのものではない。イエスが愛して育てていてくださるものです。だから大切にしましょう。同時に人の信仰を躓(つまず)かせることのないようにしましょう。イエスが大切にしておられるのですから。
 
 祈ります。
 主イエスさま、わたしたちの信仰を増し加えてください。大きな立派な信仰ではなく、あなたが言われたように、からし種一粒ほどの信仰を与えてください。けれども漠然とした信仰ではなく、決意してあなたに信頼し、真心をこめて祈る信仰を与えてください。あなたがわたしたちの信仰を育んでくださることを信じます。わたしたちもまた、自分の信仰だけではなく、人の信仰が育まれるように心を砕く者にしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン


日ごとの聖句911 キリストと共に 2019/10/13〜19

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2019年10月13日(日)聖霊降臨後第18主日  テモテ二 2:11
次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」

10月14日(月)            創世記26:24
その夜、主が現れて言われた。「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福する。」

10月15日(火)          申命記31:6
あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。

10月16日(水)           コロサイ3:4
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

10月17日(木)          イザヤ43:1-2
恐れるな、あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。

10月18日(金)福音記者聖ルカ日     ルカ1:28
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

10月19日(土)           マタイ28:18、20
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

主がすべての霊を奮い立たせられた──奈良基督教会礼拝堂耐震対策工事起工式

礼拝堂耐震対策工事起工式20190929

ハガイ書1:7−8、13−14

日本聖公会 奈良基督教会礼拝堂
耐震対策工事 起工式

2019年9月29日・聖霊降臨後第16主日
司祭 ヨハネ 井田 泉


ハガイ書 第1章7節から

7 万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。8 山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると、主は言われる。
13 主の使者ハガイは、主の派遣に従い、民に告げて言った。「わたしはあなたたちと共にいる、と主は言われる。」
14 主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。

 奈良基督教会礼拝堂の耐震工事を始める起工式に当たり、ここまで導いてくださった主なる神さまの名を賛美しますとともに、今日に至るまでさまざまな労苦を引き受けてくださった方々、支援をしてくださった方々に心からの感謝をささげます。

 今読みましたのは旧約聖書の終わりのほうに収められている預言者ハガイの書の一節です。ハガイは、遠い昔、エルサレム神殿の再建のために力を尽くし、また皆を励ました預言者です。

 エルサレムの神殿はイスラエルの王ソロモンの時代に完成し、人びとの心と生活の拠り所でした。しかしその後、東側から勢力を伸ばしてきたバビロニア帝国によって破壊されてしまいました。人びとはこれによって大きな打撃を受け、嘆き続けていたのですが、数十年経って神殿再建の気運が起こり始めました。紀元前500年頃のことです。

 預言者ハガイは神さまの声を聞きました。
 「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。」
 「わたしはそれを喜ぶ。」

 そこでハガイはその言葉を人びとに伝えて言いました。
 「わたしはあなたたちと共にいる、と主は言われる。」

 それまで人びとには迷いがあり、ためらいがあり、勇気と自信がありませんでした。しかしこのとき、神さまは指導者たちと人びとの心を奮い立たせられました。心を動かされた人びとは立ち上がり、出かけて行って神殿を建てる作業に取りかかったのです。

 この礼拝堂は今からおよそ90年前、心を奮い立たせられた人たちの熱意と努力によって建築され、長く人びとの祈りの場、また憩いの場として用いられてきました。信徒にとっての心と生活の拠り所であることはもちろん、広く一般の方々にも愛されてきました。
 これをさらに将来50年、100年、さらにその先にまで生かすために、多くの方々のご協力に支えられて、いま工事を開始しようとしています。

 昔、預言者ハガイをとおして神さまが人びとの心を奮い立たせて工事に取りかからせ、完成させてくださったように、神さまがわたしたち一同の心を奮い立たせ、困難を乗り越えさせて、完成へと至らせくださることを信じ、またお祈りいたします。


全能の神よ、あなたはわたしたちに日本聖公会奈良基督教会礼拝堂の耐震対策工事をしようとの良い願いを持たせてくださいました。どうかこの土地と工事を祝福し、働く人びとを守って災害を防いでください。どうかわたしたちを励まして、この計画を完成させ、み名の栄光を現わすことができるようにしてください。ここがあなたご自身の宿られる場、また多くの人々の祈りと憩いの場であり続けるように祝福をお与えください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

日ごとの聖句910 信仰 2019/10/6〜12

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2019年10月6日(日)聖霊降臨後第17主日 ルカ17:5-6
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。

10月7日(月)             ルカ17:6
「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても言うことを聞くだろう。」

10月8日(火)             ルカ7:50
イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

10月9日(水)             ルカ9:41
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

10月10日(木)            ルカ22:32
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

10月11日(金)           ローマ10:17
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

10月12日(土)           ローマ15:13
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、希望に満ちあふれさせてくださるように。

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井田 泉
奈良基督教会牧師
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