Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2019年11月

日ごとの聖句918 主の道 2019/12/1〜7

Way of the Lord

2019年12月1日(日)降臨節第1主日  ヨハネ1:23
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

12月2日(月)            詩編128:1
【都に上る歌。】いかに幸いなことか。主を畏れ、主の道に歩む人よ。

12月3日(火)            イザヤ2:3
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。

12月4日(水)            イザヤ2:4
彼らは剣(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。

12月5日(木)            ヨハネ14:6
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

12月6日(金)            シラ書2:15
主を畏れる人は、主の掟に背かない。主を愛する人は、主の道を歩み続ける。

12月7日(土)            詩編25:8-9
主は恵み深く、裁きをして貧しい人を導き、主の道を貧しい人に教えてくださいます。

わたしを思い出してください

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ルカ23:35−43
2019年11月24日・降臨節前主日
奈良基督教会での説教

PDF全文 → わたしを思い出してください

「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください。」ルカ23:42
 十字架につけられた犯罪人の一人が、傍らのイエスに呼びかけました。今、イエスは、十字架にかけられて血を流し、死のうとされています。
 それにしてもなぜ、今日の福音書が十字架の箇所なのでしょうか?
 今日は降臨節前主日、教会の暦の最後の主日です。そして来週は降臨節第1主日、クリスマスに向けて準備する時の始まりです。そのような時期に、なぜ主イエスの十字架の場面が選ばれているのでしょうか。わたしはこう思います。
 この教会の暦の最後、そして新しい1年の始まりを控えたこの日、クリスマスの祝福に向けて踏み出そうとする今こそ、わたしたちの救い主がどういう方であるかを心に刻まなければならない、と。
 主イエスの十字架がはっきりしなければわたしたちの救いの根拠ははっきりしません。反対に、十字架から来る恵みの光に照らされるとき、わたしたちは闇から解放されるのです。

 そこで今日の福音書の箇所を読みましょう。登場人物を順にたどっていくことにします。
 「民衆は立って見つめていた。」23:35
 第1は民衆です。その後に「議員たちも、あざ笑って言った」とありますから、この民衆もイエスを冷ややかな目で見つめてあざ笑っていたように見えるかもしれません。しかしわたしにはそうは思えないのです。ルカ福音書の「民衆」(オクロス)という言葉をたどってみると、全然違う民衆の姿が浮かび上がってきます。主の受難が近づく時期の民衆の姿を、いくつか見てみます。

 「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、
民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。」19:47-48
 民衆は皆、夢中になってイエスの話に聞き入っています。
 「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」20:19
 民衆は無言のうちにイエスを守っているのです。

 そしてイエスが裁判の場から死刑場まで連れて行かれる場面です。
「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」23:27
 民衆は女の人たちとともに嘆きながらイエスに従っていきます。
 この民衆が、イエスの話に聞き入り、イエスを守ろうとし、そして嘆きつつイエスに従ってきた民衆が、今、十字架にかけられたイエスを見つめています。この民衆は無力です。イエスを助ける力はありません。しかし嘆きつつ、この人たちは知っているのです。正しいのは、イエスを十字架につけた権威ある人たちではなく、正しいのは十字架につけられたイエスであると。
 わたしたちも、この民衆の一人でありたいと願います。

 第2の登場人物は議員たちです。ユダヤ人の指導者たち、イエスを死刑に定めた人たちです。
 「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』」23:35
 第3は兵士たちです。ローマ帝国の兵士たち。
 「兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』」23:36
 第4はイエスとともに十字架につけられた犯罪人の一人です。
 「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」23:39

 そして最後、第5の人物は、十字架につけられたもう一人の犯罪人です。
 「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」23:40-41
 そしてこの人はイエスにこう呼びかけます。
 「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください。」23:42
 彼は、死のうとしつつ、苦しい息の中から呼びかけます。
 「イエスよ」 Ἰησοῦ(イエスー)
 苦しみの中からイエスを呼ぶのです。心と体は破れて、切にイエスを呼ぶのです。
 「イエスよ」
 この人の一言が、イエスの名を呼ぶとはどういうことかを教えてくれます。人を気にしたり、他のことを考えたりしながらではなく、虚飾も誇りも自我も消えて、ただ心からイエスを呼ぶ。これが祈りです。
 クリスチャンとは何か。イエスの名を呼ぶ人のことです。

 「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください。」
 イエスよ、あなたが天のみ国においでになるときには、わたしを思い出してください。
 イエスよ、あなたが地上のみ国においでになるときには、わたしを思い出してください。
 わたしを思い出していただくだけでいいのです。わたしのことを忘れずにいてくださるだけでいいのです。イエスがおぼえていてくださるなら、イエスがわたしのことを思い出してくださるなら、孤独の奈落の淵に落ちることはない。これだけが、人生の最後の願いです。

 それに対してイエスは答えて言われます。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」23:43
 イエスは、心からその名を呼ぶ者を放置されません。求める以上のことをしてくださいます。ただイエスを呼んで終わったのではなく、イエスがこの人の将来を、救いを、祝福を約束してくださったのです。「思い出す」ばかりではない。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」、わたしはあなたを楽園に迎える、と。

 3時間後、イエスは大声で叫んで息を引き取られました。イエスは死なれました。しかしその死の中に、イエスとともに死んだ犯罪人の死は引き受けられています。イエスとともに死ぬ者は、イエスとともに永遠の命を受けます。
 わたしたちは洗礼においてイエスとともに死にます。わたしたちの死と滅びはイエスが引き受けてくださり、イエスの復活の命、永遠の命が、わたしたちに与えられる。これが十字架の意味です。

 あの民衆の嘆きがわたしたちの嘆きとなり、イエスとともに死んだ犯罪人の祈りがわたしたちの祈りとなりますように。そのようにしてわたしたちもイエスの御国(みくに)の約束を聞くことができますように。アーメン

「救いの杯を上げて」詩編に親しむ

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第14回 奈良基督教会修養会
「救いの杯を上げて」詩編に親しむ

   
2019年11月17日(日) 奈良基督教会
講話・司祭 井田 泉
聖歌 495 イエスよ、わが神よ

PDF → 「救いの杯を上げて」詩編に親しむ

開会の祈り

機〇輅埖116編 わたしは主を愛する
・春に続き「詩編に親しむ」の第2回。今回は第116編を味わってみたい。
・新共同訳で1〜7節をゆっくり一緒に読んでみる。(しばらく沈黙)

1. 「1 わたしは主を愛する。」
この言葉だけをまず大切にしたい。
いろんなことがあっても、ここにわたしたちの信仰と祈りと生活の中心がある。
ここに戻りたい。

「わたしは」 人がどうであれ、この世がどうであれ、わたしは。
「主を」 ほかに大切なものがあり、心をひかれるものがあるとしても、主を。
「愛する」 信じ、迷い、従い、逆らい、あるいは忘れていることがあったとしても、今、
     わたしは主を愛する。
      主の愛がわたしのうちに注がれ、流れ込んでいるのを思いつつ、わたしのほうからも、新しく主を愛する。
  この1節が、今日のわたしに伴い、わたしを生かす。
──こんなふうに詩編を毎日味わってみたい。それがわたしの慰め、励まし、力となる。

2. 「1 主は嘆き祈る声を聞き、2 わたしに耳を傾けてくださる。」
主は聞かれる。心を傾けて聞いてくださる。
「耳を傾けてくださった」と過去形に訳される場合もある。
過去あるいは現在の神経験の確認。主への信頼の告白。
わたしの嘆き、祈りを主の前に注ぐ。
──神さまとの関係(対話)はいつも整ったものである必要はない。本音で、子どものように訴え、あるいはつぶやくことも大切。

3. 「2 生涯、わたしは主を呼ぼう。」
新しい決意。今だけではなく、生涯にわたる決意をこの詩人は表明している。ここから主を呼ぶ人生が新たに始まる。

4. 「3 死の綱がわたしにからみつき、陰府(よみ)の脅威にさらされ、苦しみと嘆きを前にして
4 主の御名をわたしは呼ぶ。『どうか主よ、わたしの魂をお救いください。』」
詩人(作者)は死の危険にさらされ、恐怖におののいている。その中から主の御名を呼ぶ。


供〇輅埖116編と主イエスの最後の食卓
1. この詩編は主イエスが弟子たちと共にされた最後の食事(過越の食事)の終わりに歌われたとされる。
113〜114編が過越の食事の前、115〜118編が食事の後に用いられたという。
マルコ14章から
「23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24 そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。……』26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」
 ここでイエスは弟子たちとともにこの116編を祈り歌われたに違いない。
とすれば、この詩編全体を主イエスの祈りとして読むことができるし、そうしてみたい。

2. 「13 救いの杯を上げて主の御名を呼び、
14 満願の献げ物を主にささげよう、主の民すべての見守る前で。」
「救いの杯」 最後の食卓において主イエスは救いの杯を上げ、祈られた。
そのとき「満願」とはすべての人が救われることであり、「献げ物」は主イエスご自身であった。
聖餐式の感謝・聖別の祈りの中で、司祭は杯を上げる。これは主イエスのなさったことを再現するもの。

3. 「15 主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。」
このとき主イエスは、現実に迫るご自身の死をここに重ねておられたに違いない。
この詩編には「死」という言葉が3回出てくる(3、8、15節)。イエスはご自分に迫る(ご自分が引き受けようさされる)死を意識しておられただろう。

4. 「16 どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。」
ここでイエスは、ご自身とともに母マリアを思われたのではないだろうか。

5. 「18 主に満願の献げ物をささげよう、主の民すべての見守る前で
19 主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。」
この詩編は「ハレルヤ」(主を賛美せよ)で閉じられる。
イエスはここからオリーブ山のゲッセマネに向かわれる。
わたしたちも主イエスと共に、たとえ困難が待ち受けていてもそれに立ち向かい、賛美をもって進みたい。

(休憩)

♪カトリック典礼聖歌から「主の十字架を仰ぐとき」

掘〔枡匹畔かち合い
・詩編116編をそれぞれ読み、心にとまったひとつの節を書き写してみましょう。
(メモ)




・近くの人と感じたことを自由に分かち合ってみましょう。
(メモ)



結び

祈りのいくつかの要素
・呼びかけ 「どうか主よ」4、16節
・思いのつぶやき、訴え 「わたしの魂をお救いください」4
・救い、信仰の告白 「わたしは信じる」10
・祈願 「わたしの縄目を解いてください」16
・感謝 「あなたに感謝のいけにえをささげよう」17
・賛美 「ハレルヤ」19
・決意 「生涯、わたしは主を呼ぼう」

……

○詩編の中に、昔の(わたしとは違う)人の祈りを聞く。
○詩編の中に、自分の思い、祈りを発見する。つながり、響き合いが起こる。
○詩編の中に主イエス・キリストの祈りを聞く。
○詩編はわたしたちの信仰を養い守る。


祈り
祝祷
聖歌 495 イエスよ、わが神よ

日ごとの聖句917 思い出してください 2019/11/24〜30

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2019年11月24日(日)降臨節前主日   ルカ23:42
彼は「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

11月25日(月)            ルカ23:43
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

11月26日(火)           イザヤ38:3
「ああ、主よ、わたしがひたむきな心をもって御前(みまえ)を歩み、御目(おんめ)にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」

11月27日(水)            ルカ24:6
「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」

11月28日(木)           創世記40:14
ヨセフは給仕役の長に言った。「あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。」

11月29日(金)        出エジプト記2:24-25
神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。

11月30日(土)使徒聖アンデレ日  ヘブライ10:32
あなたがたは、光に照らされた後(のち)、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。

日ごとの聖句916 子どもの祝福 2019/11/17〜23

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2019年11月17日(日)聖霊降臨後第23主日
                 マルコ10:13
イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

11月18日(月)           マルコ10:14
イエスは弟子たちに言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである。」

11月19日(火)           マルコ10:16
そして、イエスは子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

11月20日(水)           創世記48:15
ヤコブはヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。」

11月21日(木)           創世記48:16
「わたしをあらゆる苦しみから、贖われた御使いよ。どうか、この子どもたちの上に祝福をお与えください。」

11月22日(金)          創世記49:25
「どうか神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。上は天の祝福、下は横たわる淵の祝福をもって。」

11月23日(土)          ヨハネ三 1:4
自分の子どもたちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。

善を行うことを学べ

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イザヤ1:10−20
ルカ19:1−10
2019年11月3日・聖霊降臨後第21主日
奈良基督教会での説教

PDF全文「善を行うことを学べ」


 しばらく前、アモス書から説教したときに、旧約の預言者の精神がイエスさまに流れ込んでいる、ということを申しました。今日の預言者イザヤの精神もイエスさまに流れ込んでいます。
 そこで今日は、先ほど朗読されたイザヤの言葉を聞いてみることにします。正確に言えば、イザヤをとおして語られた神の言葉です。

 ところで預言者には不思議な力が与えられています。それは神の声を聞くという力です。同時に虐げられた民衆の声を聞くという力です。普通の人には聞こえない声が聞こえ、普通の人には見えない、あるいは見ようとしない現実が見える。そうすると黙っているわけにはいかなくなる。言わば預言者とは、神によって目と耳が、さらに口が開かれた人なのです。
 イザヤはこの社会の悪しき現実を見ます。それに対する神の思いをはっきり感じます。それで神に語らされて語ります。神によって示され、神によって促されるので、語らざるを得ません。
 後にイザヤの言葉を集めて記録し、編集した人は、「幻」(ビジョン)という言葉を使いました。

 イザヤ書の冒頭には、タイトルのような言葉が記されています。
 「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。」
イザヤ1:1
 気になってヘブライ語の原典を確かめたところ、「幻」(ビジョン)という単語が最初にあります。「幻、イザヤの」という言葉でイザヤ書は始まるのです
 「幻」というのは現実にはない蜃気楼のようなもの、というのとはまったく反対に、現にある神の臨在、社会の現実、人の現実を、言わば神の目で見るように示される、ということです。人としての知識と判断を超えて、神から示される。それでイザヤ書を編集した人は、「幻」と記したのです。

 少し前置きが長くなりました。今日の冒頭です。
 「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。
ゴモラの民よ、わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。」イザヤ1:10
 ソドムもゴモラも、かつては繁栄を誇った都市の名前ですが、いずれもその悪のゆえにすでに滅びた町です。
 かつてのソドム、ゴモラと同じだ、今のこのユダの国の現実は、とイザヤは言うのです。
 「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。
ゴモラの民よ、わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。」イザヤ1:10
 悪に陥ったユダの国の支配者たち、またその悪の現実に巻き込まれてそれに同調してしまっている多くの人々。彼らに向かってイザヤは「主の言葉を聞け」「わたしたちの神の教えに耳を傾けよ」と呼びかけます。紀元前700年余り前のことです。

 すぐそれに続くのは、当時ユダの国で盛大に行われていた宗教的儀式、つまり礼拝に対するきびしい批判です。
 「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。」1:11
 なぜ神がそれらの献げ物を喜ばれないかというと、悪い行いを重ねながらそれを悪いとも思わず、そのまま平気で神の恵みを求めようとするからです。ここにはもう人としての良心、神への真実が失われています。大きな力と財産を獲得して強い影響力を持った宗教、特にその指導者たちは、しばしばこのようになります。歴史と世界を見れば、キリスト教も例外ではありません。

 神に莫大な献げ物を携えて来て、神の恵みを得ようとするその手。その手を神がご覧になると、血にまみれている。貧しい人たちから搾り取ってその人たちの命を削り取ってきた手だからです。
 「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」1:15-17
 富める者がますます財産を加え、貧しい人たちがますます苦しい生活に追い込まれていく。このあり方を変えよ、善を行うことを学べ、と主が言われます。

 昔、中曽根首相が言いました。「大型間接税はけっして導入しない」。つまり消費税のことです。しかし消費税は導入され、3パーセント、5パーセント、8パーセント、ついに10パーセントになった。政府は、これは社会福祉のための財源確保だと繰り返し説明してきました。しかしこのような税金は、貧しい人を最も直撃する。年金は下がり、実質賃金は下がっていく。正規雇用が減り、非正規雇用が激増しています。将来に希望が持てない若い人たちが増えています。そして現実には軍事費、アメリカから買う兵器の費用が途方もなく膨れ上がっています。イザヤの言葉は遠い昔のこととは思えません。

 今日のイザヤ書に響いているのは「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」という痛切な呼びかけです。

 イザヤをとおして社会と人の悪を責められた神は、ただ責めて滅ぼそうとされているのではなく、社会の、人々の悔い改めを、方向転換を願われました。厳しさの中にも神の愛が呼びかけているのです。
 「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋(ひ)のようでも、雪のように白くなることができる。」1:18
 考え直し、生き直せ。それはできる。

 主イエスはこのイザヤに溢れていた神の思いと情熱を受け継がれました。ルカ福音書の中でイエスはこう言われました。
 「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。」11:42
 立派な献げ物をするが、あなたたちは不幸だ。「正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。」

「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」とイザヤをとおして呼びかけられた神の声が、イエスさまをとおして強く響いています。
 
 今日の福音書には徴税人ザアカイのことが語られていました。彼は自分の立場を利用して、弱い立場の人たちから税を搾り取り、財を蓄えていた人でした。しかしイエスは彼の中に孤独、空虚をご覧になりました。イエスと出会い、イエスの愛を受けたザアカイに大きな変化が起こりました。
「ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」ルカ19:8

 ザアカイのうちに良心が呼び覚まされました。神への愛が燃え始めました。善を行うことが始まりました。
「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」というイザヤの、神の呼びかけは、イエスの愛、イエスとの出会いによってザアカイに現実となったのです。
 
 わたしたちは巨大な力に対してしばしば無力を感じます。しかし神の呼びかけを心に宿していたい。
「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」

 わたしたち一人ひとりを愛しておられるイエスは、ご自身の愛をわたしたちに注いで、わたしたちに善を行うことを学ばせてくださいます。イザヤが見、イエスさまが見ておられた神の幻(ビジョン)が、わたしたちを失望から救い、主とともにまっすぐに生きることを可能にしてくださいます。

 祈ります。

 神さま、あなたは今のこの社会と人の現実を見ておられます。主イエスが言われたように、正義の実行と神への愛を大切にするわたしたちにしてください。善を行うことを学ぶわたしたちにしてください。失望せずにあなたが喜ばれることを行わせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

日ごとの聖句915 あなたを守る 2019/11/10〜16

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2019年11月10日(日)聖霊降臨後第22主日
                  創世記28:11
日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。

11月11日(月)           創世記28:12
彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。

11月12日(火)           創世記28:15
主が言われた「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。」

11月13日(水)            創世記28:15
「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

11月14日(木)            創世記28:16
ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

11月15日(金)           創世記28:17
ヤコブは恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」

11月16日(土)           創世記28:18-19
彼は次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、その場所をベテル(神の家)と名付けた。
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