2019年12月

2019年12月29日(日)降誕後第1主日 ヨハネ1:14
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
12月30日(月) ヨハネ1:14
わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
12月31日(火) ヨハネ1:15
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「わたしが言ったのは、この方のことである。」
2020年1月1日(水)主イエス命名の日 ルカ2:21
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
1月2日(木) 出エジプト記34:8-9
モーセはひれ伏して、言った。「主よ、わたしたちの中にあって進んでください。わたしたちを受け入れてください。」
1月3日(金) 出エジプト記34:10
主は言われた。「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。」
1月4日(土) ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

2月16日に獄死した詩人を偲んで
2020 年 2 月 18 日(火)18:30
東京藝術大学上野キャンパス
第1部 15:30-17:30 特別上映会《空と風と星の詩人〜尹東柱の生涯〜
美しい言葉と映像で、詩人の生涯を綴る感動作!
第2部 18:30-21:00
お話 井田泉さん(日本聖公会奈良基督教会牧師)
「詩人・尹東柱− その時代と生涯と詩− 」
案内PDF→ 詩人・尹東柱〜その時代と生涯と詩

イザヤ11:1−10
2019年12月8日・降臨節第2主日
奈良基督教会での説教
全文PDF → その上に主の霊がとどまる
アドヴェント・クランツに2本のロウソクが灯りました。今日は降臨節第2主日。朗読された旧約聖書日課は、先週に続きイザヤ書の第11章でした。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」11:1-3
先週、イザヤ書第2章の言葉は、幻、神さまから示されたビジョンであるとお話ししましたが、今日の箇所も預言者イザヤが神さまから示されたビジョンです。
今日の箇所で顕著なのは、神の霊、主の霊の働きが語られていることです。
なぜクリスマスを前に主の霊の働きを聞くのか。それはクリスマスの出来事が、まさに主の霊の働きそのものだからです。
キリスト教の中心にあるのは、人間の考え、思想、論理ではありません。だれかが世界と人間に対する深い洞察して、それをまとめた、というのではありません。そうではなくて、神さまが、神ご自身が人類と世界の救いのために決定的に働かれた──これが中心です。
マリアが人によらずに胎に子どもを宿した。これは聖霊による出来事です。イエスさまがお生まれになった。言い換えると、神の子が人となった、人として、人の赤ちゃんとして生まれた。これは神の霊による出来事です。あり得ない、考えられないことを神がなさった──わたしたちの救いのために。これがクリスマスの出来事です。
それですからクリスマスを迎えるに際して、わたしたちのうちに空間を用意しなければなりません。いろんなことでいっぱいになっているわたしたちの中に、わたしの中に、イエスさまを宿すための場所を用意するのです。
今、幼稚園では聖劇の練習をしています。宿屋の場面があります。ヨセフとマリアが頼みます。
「トントントン、宿屋さん、どうかわたしたちを泊めてください」「どこの部屋もいっぱいです。」
頭ではイエスさまのことを考えながら、実際には、心ではイエスさまを閉め出している。こういう危険がわたしたちにはあります。わたしたちはイエスさまのために、貧しくも暖かい飼い葉桶を用意して、迎え入れたいのです。別の言い方をするなら、わたしたちにも神の霊が働きかけてくださることに対して、自分を閉ざさず、開くようにしたいのです。
イザヤ書の今日の箇所に戻ります。イザヤは見つめています。今、目に見える現実ではないけれども、やがて必ず実現する神の業を、はっきりと見ているのです。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」
イザヤが見ているのは切り倒された木の、残った切り株です。エッサイとは昔のダビデ王の父親の名前です。エッサイの息子ダビデから始まったユダ王国は切り倒されてしまう。今や切り株しか残っていない。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」
ここで大切なのは「主の霊」です。
「その上に主の霊がとどまる。」
その人、その存在の上に主の霊がとどまる。「主の霊」とはどのような霊なのでしょうか。それは
「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」11:2-3
主の霊は確かな知恵を与える。表面的なことで判断するのではなく、事の深み、人の魂の深みまで認識して正しく物事を見分ける。深い思慮に基づいて判断し、勇気をもって行動する。そして何よりも「主を知り、畏れ敬う霊」。
主の霊を受けたその人はどのように行動するのでしょうか。
「弱い人のために正当な裁きを行い、
この地の貧しい人を公平に弁護する。」11:4
主の霊を受けたその人は、弱い人を不当な苦しみから救う。神の霊に動かされたその人は、貧しい人たちを公平に弁護する。
主の霊は、エッサイの株から萌え出て若枝として育ったその人をとおして、このように具体的に働いていくのを、イザヤはかなたに見つめました。
このように主の霊を受けて神の意志を実現し、弱く貧しい人たち、虐げられた人たちを救う方。それはイエス・キリストです。そのように最初の教会の人々ははっきり認識し、また信じました。このイザヤ書のこの言葉は、救い主イエス・キリストのことをあらかじめ預言する言葉となったのです。
イエスは故郷ナザレの町の礼拝に出席されたとき、聖書を引用しつつこう語られました。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。」ルカ4:18
わたしたち自身が必要としているのは主の霊です。主の霊がわたしの上におられなければ、わたしたちは自分の霊、人の霊、この世の悪しき霊によって支配されてしまいます。
今日、神はイザヤの言葉をとおしてわたしたちを招いておられます。
救い主を新しく迎えなさい。わたしがあなたがたにわたしの霊を注いでいるのだから、それを受けて新しく生きなさい。
主の霊は喜びを与えます。希望を与えます。主の霊はわたしの目を神に向かって開きます。主の霊はわたしの耳を神に向かって開きます。神の霊は、知恵と勇気と愛と信仰をわたしたちに与えます。
祈ります。
神さま、どうかわたしたちに新しくあなたの霊を注いでください。この世の悪しき霊からわたしたちを解放してください。そして、クリスマスの恵みを深く味わわせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

2019年12月22日(日)降臨節第4主日 ルカ1:28
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
12月23日(月) マタイ1:20
主の天使が夢に現れて言った。「ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」
12月24日(火) マタイ1:21
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
12月25日(水)降誕日 マタイ1:23
「おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
12月26日(木)最初の殉教者聖ステパノ日
マタイ1:24-25
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。
12月27日(金)福音記者使徒聖ヨハネ日
歴代誌上22:16
ダビデは言った。「金、銀、青銅、鉄も数えきれない。立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように。」
12月28日(土)聖なる幼子の日 詩編23:4
死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。

2019年12月15日(日)降臨節第3主日 マタイ11:2-3
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。
12月16日(月) マタイ11:3
「来(きた)るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
12月17日(火) マタイ11:4
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」
12月18日(水) マタイ11:5
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
12月19日(木) マタイ11:6
「わたしにつまずかない人は幸いである。」
12月20日(金) ミカ書5:3
彼は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。
12月21日(土)使徒聖トマス日 ヨブ記19:25
わたしは知っている。わたしを贖(あがな)う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。

イザヤ2:1−5
2019年12月1日・降臨節第1主日
奈良基督教会での説教
PDF全文 → 主の道を歩もう
今日の聖書からわたしたちに向かって呼びかけてくる声があります。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」イザヤ2:3
「神の家に行こう」
「主の道を歩もう」
紫の期節になりました。救い主の降誕、クリスマスに向けて準備するときです。いろいろと準備すべきことがあります。けれどもその中心がはっきりしていなければなりません。
幼稚園の年少の子どもたちに「クリスマスって何の日かな?」と聞くと、初めは元気よく「サンタさんが来る日」と答が返ってきます。けれども、ほんとうは何かもっと別の大事な意味があるらしい、ということを子どもたちなりにだんだん感じはじめます。
幼い子どもたちのことを笑っていられません。わたしたちも、いろいろしなければならないことに捕らわれて、中心のことを見失う危険があります。中心とは、救い主イエス・キリストをわたしたちのうちに新しくお迎えすることです。
「神の家に行こう」
イエスさまがおられるところが神の家です。幼子イエスさまに近づきたい。幼子イエス様に新しく出会いたい。もしそれが実現したら、何かが変わります。イエスさまから温かい光が来る。その光を受けると、複雑なわたしたちは素朴にされる。困惑や自己主張の塊になっているわたしたちは、溶かされて柔らかくされて、人への思いやりを持つようになる。「神の家に行こう」という呼びかけを受けて、わたしたちは幼子イエスさまに出会う期待を持って歩み出しましょう。
もう一つの呼びかけを聞きます。
「主の道を歩もう」
遠い昔、預言者イザヤが直面して苦しんでいたのは、神さまの道から遠く離れた国と人々の現実でした。大国アッシリアの脅威に対して、恐怖に駆られて戦争準備にひた走る国。富める者がますます財産を蓄積し、貧しい人たちはますます貧しくされていく現実。不安を抱えて占いやまじないに頼り、あるいは死者の声を聞かせてくれるという霊媒に助けを求めようとする人々。いずれも主の道から逸脱した滅びの道です。しかしイザヤがいくら努力し、苦労し、戦い、傷ついても、彼の真実の声は聞かれず拒否される。
苦悩の限界に達したとき、彼は神さまから幻を示されました。幻の中で彼は声を聞き、人々の姿を見ました。それが今日のイザヤ書の言葉です。冒頭の1節にこう記されていました。
「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。」2:1
信仰者(神を信じる者)というのは、この世界の現実の中に生き、現実に苦しみながら、しかし現実に圧倒されない、現実に呑み込まれない何か(幻=ビジョン)を神さまから与えられている存在です。幻とは、蜃気楼のようなものではなく、秘められたもう一つの現実です。
イザヤは神から与えられた幻の中で、国々、人々が大河のように大きな流れをなして神の家に向かっているのを見ました。そして呼びかける人々の声を聞きました。
「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」
当時の人々はほとんどこの声を聞きませんでした。聞こうともしませんでした。しかしイザヤの見た幻の中に、彼の語った言葉の中に、神の声を聞いて、それを書きとめ、伝えた人たちがいました。言い換えれば、主の道を歩もうとした人たちが存在しました。そのゆえに二千数百年の時を経て、この言葉がわたしたちにまで伝えられたのです。
そしてこれを埋もれされるのではなく、忘れ去るのではなく、これを受け継ぎ生かす人がいなくてはなりません。それは、ほかのだれかではなく、わたしたちです。皆さんです。
「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」
この呼びかけによって目覚めさせられ、これによって新たに歩み始めるのは、わたしたちです。
わたしたちは預言者イザヤより恵まれています。なぜなら、イザヤはまだ知らなかったけれども、わたしたちはイエス・キリストを知っているからです。
わたしたちに先立って、イエスがその道を歩まれた。イエスがわたしたちのために歩むべき道、生きる道を開拓してくださった。わたしたちがその道を歩むとき、主イエスがともに歩んでくださいます。
「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」
その道は憎しみの道ではなく愛の道。絶望ではなく希望の道。戦いではなく平和の道です。4節にこう言われていました。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」2:4
今の世界、今の日本に呼びかけられている声です。
イザヤの見た幻、聞いた言葉の中に、今、神さまがわたしたちを愛しつつ呼びかけておられる声が聞こえます。
「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」2:5
「わたしの愛の光の中を歩め。」
主の道は光の道。その光の道を歩むように。アドベントのろうそくが輝き始めています。
祈ります。
神さま、昔預言者イザヤが聞いて伝えたように、わたしたちにも主の道を歩ませてください。このクリスマスに、幼子として来られた救い主に新しく出会わせてください。その願いを心の中心に抱いて、降臨節を過ごさせてください。主のみ名によってお願いいたします。アーメン

2019年12月8日(日)降臨節第2主日 イザヤ11:1-2
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。
12月9日(月) イザヤ11:2-3
知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
12月10日(火) イザヤ11:4
彼は弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。
12月11日(水) サムエル記下23:2
主の霊はわたしのうちに語り、主の言葉はわたしの舌の上にある。 イスラエルの神は語り、イスラエルの岩はわたしに告げられる。
12月12日(木) イザヤ61:1
主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
12月13日(金) ルカ4:18
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」
12月14日(土) イザヤ63:14
谷間に下りて行く家畜のように、主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き、輝く名声を得られた。
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