Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2020年05月

神の愛の火──聖霊降臨日に寄せて

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使徒言行録2:1−4
コリント一 12:4
2019年6月11日
奈良朝祷会(奈良YMCAにて)

全文PDF → 神の愛の火──聖霊降臨日に寄せて

 この前の主日、6月9日は聖霊降臨日(ペンテコステ)でした。
今からおよそ2000年前の日曜日。復活の主イエスを天に送ってから10日後の主日。人々が集まって祈っていたとき、聖霊の火が降(くだ)りました。神の愛が炎のように燃えて降って来て、一人ひとりの上にとどまりました。集まって祈っていた人々の心は、神の愛の火を受けて熱く燃えました。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」使徒言行録2:1-4

 これが教会を誕生させました。こうして福音の伝道が始まりました。聖霊の火は世界に広まり、日本に至り、奈良のこの地に至りました。聖霊の火が燃えたので、聖霊の働きに動かされたので、聖霊の賜物をいただいたので、ここにいつくもの信仰共同体である教会、祈りの家である教会が誕生しました。その歴史、そのつながりの中にわたしたちはいます。
 
 ところで最初の教会を誕生させた聖霊の火は、三つのことを人々にもたらしました。
 第1は、人々の心を喜びで満たした、ということです。何が喜びであったか。
 イエス・キリストがはっきりとわかったのです。イエスさまが生まれて生きて死んで復活されたことが、わたしたちの救いであり希望である、ということがわかった。イエスの声、イエスのまなざし、そしてイエスの存在そのものがわたしたちの前に、わたしたちの傍らに、さらにわたしたちの内側に臨んでおられる。イエスが生きておられるのでわたしたちも生きることができる。神の愛を、神の救いを、イエス・キリストにおいて決定的に知ったのです。

 聖霊の火がもたらした第2のことは何でしょうか。今日の使徒言行録の続きに記されています。ペテロはイエス・キリストの十字架と復活を集まってきた人々に語りました。
 「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。」2:37
「大いに心を打たれ」と訳された言葉は、端的に言えば「心を突き刺された」という意味です。韓国語の聖書ではそのとおり「マウメ チルリョ(마음에 찔려)」と訳されています(改訳改訂版)。

 十字架に釘打たれて血を流すまでに人を愛されたイエス・キリストの前に立ったとき、自分がいかに間違った生き方をしてきたかを人々は痛切に感じたのです。

 それまで人々は怠惰であったかもしれないし、反対に熱心であったかもしれません。積極的であったかもしれないし、消極的であったかもしれません。自分を誇って高慢であったかもしれないし、反対に自分を卑下していたかもしれません。けれども人々は罪を知りませんでした。自分に固執することは知っていたけれども、自分が砕かれるということは知りませんでした。

 しかしペテロの言葉をとおしてイエス・キリストを知ったとき、自分の過ち、自分の頑なさと破れ、神への背きを知った。人を愛するということを知らなかったことを知った。そのような古いままの人々の心を、神の愛の火は焼いたのです。人々は神の愛の火によって清められたのです。

「わたしたちはどうしたらよいのですか。」
「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」
使徒言行録2:38

 この日、イエスを信じて洗礼を受け、新しい人として出発した人は3000に達したと言われます。このペテロの言葉の終わりに注目しましょう。
「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
 洗礼をとおして受けるのは聖霊だというのです。洗礼は神の愛の火をいただくことなのです。

 聖霊の火がもたらす第3はこれです。神の愛の火は、恵みの賜物を一人ひとりに与える、ということです。
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」コリント一 12:4
 神の愛の火である聖霊は、一人ひとりにそれぞれ良き恵みの賜物をお与えになります。わたしたちはこれを受ける。いただく。すでに受けているし、さらにそれをはっきり知って、これを神さまの人々のために生かすようになる。神の火がそれをさせてくださるのです。

 祈ります。
 神さま、あなたの愛の火である聖霊をわたしたちに与えてください。聖霊によってあなたと人を愛して生きることができますように。主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン

日ごとの聖句944 神の霊 2020/5/31〜6/6

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2020年5月31日(日)聖霊降臨日   創世記1:1-2
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

6月1日(月)         イザヤ書32:15-16
ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。

6月2日(火)           イザヤ書48:16
事の起こるとき、わたしは常にそこにいる。今、主である神はわたしを遣わし、その霊を与えてくださった。

6月3日(水)            ヨエル書3:1
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。

6月4日(木)          使徒言行録2:33
イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしています。

6月5日(金)           エフェソ4:29-30
聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。

6月6日(土)            テモテ二 1:14
あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

あなたがたに聖霊が降ると

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使徒言行録1:1−14
2017年5月28日・昇天後主日
奈良基督教会での説教です。

全文PDF → あなたがたに聖霊が降ると

 今日は昇天後主日。主イエスが天に昇られたことを記念しながら、イエスの約束を心に刻んで祈る日です。

 今うたいました聖歌187の1節
 ♪ 父の家に 昇りゆきて ほめうたのなかに まします主よ
  罪の重荷 負える者に 誓いの聖霊 降(くだ)したまえ
 
 父なる神の家に昇ってゆかれた主イエスさま、
 今、天使たちの賛美の歌の中におられる主イエスさま、
 地上にあって罪の重荷を負って苦しんでいるわたしたちに
 あなたが約束された聖霊を注いでください。

 わたしたちに必要なのはこれです。イエスさまが、わたしたちに何より必要と思われて、それを送ることを決意し約束されたのは聖霊。主イエスが約束された聖霊を祈り求めるのが、今日の主日の趣旨です。

 韓国の人が祈るのを聞いていてしばしば印象的なのは「간절히 기도합니다(カンジョリ キドハムニダ)」という言葉です。「カンジョリ」というのは、漢字で書けば「懇切に」なのですが、それは「切に」という意味です。「切に、切にお祈りします」という言葉をほんとうに切に祈られるのです。

 その祈りの切実さには二つの要素があると思います。一つは、祈る人の抱えている困難さです。困難であるがゆえに切に祈らざるをえない。人のために祈る場合は、その人への深い思い、本物の同情があります。
 もう一つは、祈る相手、つまり神さまへの信頼です。神さまへの一途(いちず)な姿勢です。抱えている困難を一途に神さまに聞いていただく切なる祈り。
これが、わたしたちに必要なものです。

 ヨハネ福音書によれば、主イエスは最後の晩餐において聖霊の約束をされました。何度も繰り返されたのですがそのひとつ。
 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」16:13
 聖霊がいちばん大事なことを分からせてくださる。これはイエスさまの遺言です。

 主イエスは復活の後、40日にわたってしばしば弟子たちに現れて、ご自分が生きていることをお示しになりました。そしていよいよ弟子たちを離れて天に昇ろうとされたとき、再び同じ約束をされました。それが今日読まれた使徒言行録です。
「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」
1:4-5
 わたしが以前から言っておいた、父なる神が約束されたものを待っていなさい。他のことは忘れて、約束されたものを待っていなさい。それは聖霊です。あなたがたが受ける聖霊はあなたがたを力づける。あなたがたを造り変える。あなたがたを喜びで満たす。聖霊を祈り求めて待っていなさい。

「あなたがたの上に聖霊が降(くだ)ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」1:8
これはイエスの遺言であり、希望を与える約束です。

 オリーブ山で主イエスを天に見送った弟子たちは、しょんぼりと山を下ったのではありません。イエスの約束を胸に刻んで、聖霊を祈り求める熱意を心に与えられて、エルサレムの仲間の家に戻ってきました。これからなすべきことはひとつです。約束の聖霊を待ち望んで祈ることです。
「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。」1:13

 ここに漠然と「弟子たち」とは書かれず、固有名詞が挙げられていることに注意しましょう。

 アンデレ。彼は、ヨハネ福音書によれば、イエスに従った最初の弟子のひとりであって、兄弟ペテロをイエスのところに連れて行きました。
 フィリポ。彼はバルトロマイ(ナタナエル)をイエスのもとに連れて行った人です。大事な場面でそっと登場しますが、最後の晩餐では不適切な言葉を口にしてイエスを悲しませました。
マタイ。元徴税人です。仕事柄人々から嫌われていた人ですが、イエスに呼ばれたとき、それまでの生活を断ち切ってイエスに従った人でした。
熱心党のシモン。ローマ帝国の権力支配に抗して立ち上がった人です。

 それぞれに個性があり、イエスと出会う前にはそれぞれの人生の歩みがありました。皆、仲がよかったとは限りません。弟子たちの間にも葛藤があり、場合によっては相互の不信もありました。しかし皆がイエスによって集められた人たちです。葛藤を超えて、彼らは同じ悲しみを経験し、同じ喜びを経験し、今、同じ一つの希望を抱いて一緒に祈るのです。一人ひとりに聖霊が必要であり、集まり全体に聖霊が必要です。

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」1:14

 聖霊を求めて祈る群れの中に女性たちがはっきり位置を占めて存在しています。イエスの母マリアがいて、イエスの兄弟たちもいます。

「彼らは皆、……心を合わせて熱心に祈っていた。」
 イエスが約束された聖霊を求めて祈っていました。
 この最初の教会の祈りと姿が、わたしたちの祈りと姿になってほしい。

 聖霊とは何でしょうか。聖霊は来て、何をもたらすのでしょうか。
 聖霊は風となってイエスの息吹をもたらします。聖霊の風はわたしたちの心と体の中に吹き込まれて、わたしたちの体と心の隅々までを活性化する、力づけるのです。
 聖霊は火となって、わたしたちの抱えている不純なもの、悪しきものを焼き払い、わたしたちを清める。と同時に神の愛をわたしたちの内に燃やすのです。
 また聖霊は光となってわたしたちのうちに宿ってくださって、イエス・キリストの存在と愛と救いをはっきりと経験させてくださるのです。

 聖霊は命の与え主。
 主イエスは、これが、これこそがわたしたちに必要であること知って、わたしたちを愛して、これを送ることをわたしたちにも約束してくださいました。

 祈ります。
 神さま、すでにあなたが与えてくださった聖霊を大切に保たせてください。今日、この礼拝のうちに聖霊を注いでください。そしてこれからの歩みのために、さらに豊かに注いでください。聖霊を求めてわたしたちも最初の弟子たちとともに祈るようにしてください。聖霊の祝福がわたしたちを生かしますように。聖霊によって神さまがわたしたちをとおして働いてください。アーメン


日ごとの聖句943 イエスと天 2020/5/24〜30

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2020年5月24日(日)復活節第7主日(昇天後主日)
                  マタイ3:16
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。

5月25日(月)           マタイ5:10
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

5月26日(火)           マタイ14:19
イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。

5月27日(水)           マタイ18:10
「これらの小さな者を軽んじないように気をつけなさい。彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる。」

5月28日(木)            マルコ7:34
イエスは天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。

5月29日(金)            ルカ24:50-51
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

5月30日(土)            ヘブライ7:25
この方は生きて人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

わたしにつながっていなさい

ぶどう園

ヨハネ15:1−8
2014年5月25日・復活節第6主日
奈良基督教会での説教を改訂したものです(2020/05/17)。

全文PDF → わたしにつながっていなさい

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」
ヨハネ15:1
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」15:5
 この言葉は、わたしが小学生の頃から大切にしてきた言葉です。というのは、日曜学校でこの言葉を書いたお皿のような壁掛けをもらって、ずっと机の前にかけてあったからです。

 「わたしはまことのぶどうの木」
 本当の、ほんもののぶどうの木。それがわたしだと、イエスは言われます。ほんものの、本当のぶどうの木、と言われるのは、世間には偽りのぶどうの木というべきものがあるからに違いありません。

 古代イスラエルの人々、聖書の民は、ぶどうの木にどんな思いを寄せてきたのか。その二つを聖書から紹介しましょう。

「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。」ミカ書4:4

 脅かされてきた人々の現実がこの背景にあります。

 もう一つ。
「その日には、と万軍の主は言われる。
あなたたちは互いに呼びかけて
ぶどうといちじくの木陰に招き合う。」ゼカリヤ書3:10
 
今はそうではないけれども「その日には」、ぶどうの木といちじくの木陰に、招き合って一緒に祈り、また楽しむ。お互いの信頼と信仰の交わりが何の心配もなしに実現する、その日が来る。

 平和を得てこなかった古代イスラエルの人々が、切に求めてきたのが、平和なぶどうの木陰でした。

 二つ目に、ぶどうの木は、そこからぶどうの実を食べ、ぶどう酒を造って飲む。ぶどうは、生活になくてはならないものです。
「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ
パンは人の心を支える。」詩編104:15 

苦労の多い人生において、ぶどうのもたらすものが喜びだったことが感じられます。ぶどうの木は、喜ばしく、生きがいのある生活の象徴です。

 イエスは「わたしがほんとうのぶどうの木だ」と弟子たちに言われます。これは弟子たちと最後に囲まれた食卓での言葉です。
わたしがこれまで木陰となって、あなたがたを覆い、守ってきた。敵対者の憎しみ、非難、迫害からあなたがたを守ってきた。わたしのもとで、皆は信仰の交わりを楽しんで来た。

この最後のときに、わたしは極みまであなたがたを愛している。死んでもあなたがたを離さない。わたしがあなたがたにいのちを与え、あなたがたのいのちを喜ばせる。わたしがあなたがたのためのぶどうの木となる、とイエスは言われるのです。
 弟子たちはよくわかっていなかったかもしれません。しかしすでに彼らはイエスから受けてきた。イエスに守られてきた。イエスのもとで平安と満ち足りた思いを与えられてきたのです。

「わたしにつながっていなさい。」15:4
「つながっていなさい」と言うと、つながったり、離れたり自由にできるかのような感じがするかもしれません。しかしこれはその程度のことではありません。
元のギリシア語原典を直訳すれば
「わたしに中にいなさい。」
「わたしのうちに留まっていなさい」
となっています。

わたしがあなたがたをすでに捕らえ、あなたがたの木陰となり、あなたがたを覆い守ってきたのだから、あなたがたをわたしのうちに引き寄せて生かしているのだから、今あらためてしっかり、「わたしのうちにいなさい。」

 続けて言われます。
「わたしもあなたがたにつながっている。」
 つながっている程度ではない。
「わたしも、あなたがたのうちにいる」
「このわたしがあなたがたのうちにいる」
 約束です。
 あなたがたがどうであろうと、わたしはあなたがたのうちにすでに宿っている。

 イエスは、最初の弟子たちに対してだけではなく、わたしたちに対しても言われます。
「わたしはまことのぶどうの木」

 第一に、わたしがあなたがたの木陰となるから、わたしのもとにいて、くつろぎなさい。平安を得なさい。
 ♪ いつくしみふかき友なるイエスは
  罪、咎(とが)、憂いを取り去りたもう
あなたがたの罪、咎(とが)、憂いを、わたしが引き受けた。わたしがそれをあなたがたから取り去る。

 第二に、わたしがぶどうの木となってあなたがたに喜びといのちを与えるから、わたしからいのちを受けなさい。
イエスの言葉がいのちです。けれどもさらに何かにつながります。聖餐式です。聖餐のぶどう酒です。

 イエスはわたしたちに「平和」を呼びかけ、ぶどうの実からなるぶどう酒をご自身のいのちとして、わたしたちのために用意していてくださるのです。

 今は十分わからなくてもよい。はっきりとわかって喜ぶときが来る。わたしが聖霊を送って皆の心の目を開くから。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」ヨハネ15:26
「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」15:27

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」15:1
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」15:5
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」15:4

 愛の呼びかけです。わたしたちを守り、生かそうとされるイエスの愛の呼びかけを、冷たい教訓のように読んではいけません。

 教会がこのようなイエスの臨在を経験する場所であることを願います。脅かされた人々を主イエスが守ってくださるように願います。

 祈ります。
 主イエスさま、あなたが約束されたように、あなたがわたしたちのためにぶどうの木でいてください。あなたのもとで平安と、温かな交わりを楽しむことができるようにしてください。そうしてわたしたちもあなたの枝として、あなたの働きをなすことができますように。アーメン

日ごとの聖句942 ぶどうの木 2020/5/17〜23

ぶどうの木

2020年5月17日(日)復活節第6主日  創世記49:11
彼はろばをぶどうの木に、雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。

5月18日(月)            詩編80:15
万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください

5月19日(火)          エレミヤ書31:5
再び、あなたは、サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人が、植えたその実の初物を味わう。

5月20日(水)            ミカ書4:4
人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、
脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた。

5月21日(木)昇天日        ゼカリヤ書8:12
平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。

5月22日(金)             ヨハネ15:4
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

5月23日(土)            ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

日ごとの聖句941 フィリポ 2020/5/10〜16

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2020年5月10日(日)復活節第5主日  ヨハネ1:43
その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。

5月11日(月)             ヨハネ1:44-45
フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
フィリポはナタナエルに出会って言った。

5月12日(火)            ヨハネ1:45
「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

5月13日(水)            ヨハネ1:46
するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。

5月14日(木)             ヨハネ6:5
イエスは目を上げ、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。

5月15日(金)          ヨハネ12:21-22
ギリシア人がフィリポのもとへ来て、「イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

5月16日(土)            ヨハネ14:9
イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は父を見たのだ。」

人の子が神の右に 立っておられるのが見える

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使徒言行録7:54−60
2014年5月11日・復活節第4主日
奈良基督教会での説教を改訂したものです。

全文PDF → 人の子が神の右に 立っておられるのが見える


 今日、使徒書として朗読された使徒言行録第6章、7章は、ステファノ(ステパノ)の殉教を伝えていました。最初の殉教者ステパノの記念する日は12月26日です。それなのになぜ、主イエスの復活を記念する復活節に彼の殉教の記事が朗読されるのでしょうか。

 それは彼ステパノが、主イエスの復活の証人であった。言い換えるとこのステパノの中に、復活の主が生きておられたことを、わたしたちが知るためではないでしょうか。

 彼が、主イエスの直弟子であったかどうかはわかりません。イエスさまご自身も、また多くの主な弟子たちも、ヘブライ語(厳密に言うとアラム語)を話していました。ところがステパノはギリシア語を話すユダヤ人だったようです。

 最初の教会がエルサレムに始まり、次第に人数が増えて行ったとき、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人が、教会には混じり合っていました。両者の間に深刻な葛藤が生じました。少数派であるけれども次第に増えつつあるギリシア語会衆が、差別扱いをされているというのです。特に、最初の教会は貧しいやもめの生活を支えることを大切にしていたのですが、ギリシア語会衆のやもめが軽んじられて、分配が公平でないという声が上がっていました。

 貧しい人々を支援するという教会の大切な働きをしっかりと行うために、指導者である12人以外に7人の指導者が新しく任命されました。この7名のひとりがステパノでした。

 しかしステパノは教会の奉仕的な働きのみを担ったのではありません。彼は“霊”と知恵に満ちて(使徒言行録6:3)、主イエスによる救いを非常に力強く語りました。彼の言葉と行動を通して、多くの人々が主イエスご自身に出会う経験をしました。次第に信徒は増えて行きました。

 ところがそれによってステパノは、力を持った人々の憎しみを買うことになったのです。

 主イエスが多くの人々にいのちを与えたように、ステパノは多くの人々に主イエスのいのちを伝えました。主イエスが権力を持った人々によって秩序破壊者として迫害され、捕らえられたように、ステパノも迫害され、捕らえられました。

 捕らえられたステパノはユダヤ人の議会、最高法院に引いて行かれ、大祭司から尋問を受けることになりました。主イエスと同じです。

 ところが尋問が、かえってステパノにとっては福音を語る機会になったのです。被告であるステパノ、裁きを受けているステパノが堂々とイスラエルの救いの歴史を語り、最後には裁きを行っている人々の罪を明確に指摘するに至ったのです。

「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」使徒言行録7:51-53

 ステパノは、無実の神の子、救い主イエスを処刑した罪を指摘したのです。これを聞いた人々は心を突き刺されました。ある場合には、これによって回心が起こりました。心を突き刺されて、自分たちの良心が疼(うず)き、救いを求める悔い改めが起こりました。それが聖霊降臨日の出来事です(使徒言行録2:37)。

 しかしこのときはそうはなりませんでした。ステパノの言葉によって心を突き刺された人々は激高しました。

「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。」7:54

 怒りと憎しみが燃え上がり、ステパノに対する殺意が人々を突き動かします。自分が殺されることを感じたステパノは、天を仰いで祈るしかありません。

「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」7:55-56

 ここで「ステパノの前に天が開いた」と言われているのですが、天が開くというようなことが聖書のどこかにあったでしょうか。イエスの洗礼のときです。ヨルダン川で洗礼を受けたイエスが水から上がって祈っておられると、天が開けました(ルカ3:21)。

 天が開けると、神の現実がありありと見えてくるのです。神の栄光の輝きが見える。その中にイエスが、神の右に立っておられるイエスがステパノにははっきりと見えました。

 イエスが神の右に立っておられる。

 ところで聖書の別の箇所では、天に上られたイエスは「父の右に座しておられる」と言われています(マタイ26:64、ルカ22:69、ロマ8:34)。

 わたしたちの礼拝でも、先ほど歌った「大栄光の歌」では「父の右に座しておられる主よ」と言いました。わたしたちの信仰告白、ニケヤ信経でも「天に昇り、父の右に座しておられます」と唱えます。

 ところがこのときステパノが見たのは、立っておられるイエスです。イエスが立ち上がられた。非常事態だからです。死のうとするステパノを、殺されようとするステパノを引き受けようとして、抱きとめようとして、イエスは立っておられる。

 すでにここでステパノはイエスの愛によって抱かれました。究極の危機にあってステパノは究極の平安で満たされました。

 彼は言います。

「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」7:56

 しかし

「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。」7:57-59

 自分のことを引き受けてくださったイエスに、ステパノは自分をゆだねたのです。

「それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」7:60

 天を仰ぎ天と通じたステパノ、イエスに自分を引き受けていただいたステパノには、もはや恐怖も怒りも憎しみもありませんでした。ただ、憎しみにかられて自分を殺そうとしている人々があまりにあわれで痛ましかった。絶命しようとするとき、ステパノは大声で叫んで、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈って、眠りにつきました(7:60)。

 主イエスの最期と、何と似ていることでしょうか。

 ステパノの中にイエスが生きておられたからです。

 思い返しましょう。

 ステパノは最初の教会の葛藤の中で立てられた指導者でした。教会の人々の必要と公平と一致のために現実的に尽力しました。しかし彼の働きは教会内にとどまらず、外に向かって強力に福音を伝えるものでもありました。その結果、世の過ちを指摘することになり、怒りと憎しみを買って捕らえられて死ぬことになりました。

 彼は危機のなか、天を見つめ、天を仰いで祈りました。そして、神の右に立っておられるイエスを見ました。

 わたしたちも危機のときに、主に従おうとして解決不可能な困難に直面し、かえって脅かされるときに、天を仰いで祈りたい。そしてイエスを見たい。

 たとえわたしたちはステパノのようにイエスを見ることができなくても、ステパノのために立ち上がられたイエスは、わたしたちの危機のときにわたしたちを引き受けようとして立ち上がってくださる。イエスがわたしたちを抱きとめてくださるのです。

 イエスの愛がわたしたちをひたしますように。

 最初の教会の人々は、ステパノの死を嘆きつつ、イエスさまの言葉を思い出したかもしれません。

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」マタイ5:8

 祈ります。

 神さま、わたしたちにも天を仰がせてください。わたしたちが危険にさらされるとき、わたしたちのために立ち上がられるイエスを見させてください。虐げられて苦しむ人々のたちに立ち上がられるイエスを見させてください。イエスの愛がわたしたちのうちに浸透するようにしてください。アーメン
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