Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2020年06月

日ごとの聖句948 神に対して 2020/6/28〜7/4

IMG_4181

2020年6月28日(日)聖霊降臨後第4主日
                  詩編16:8
わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。

6月29日(月)使徒聖ペテロ・使徒聖パウロ日
                  ローマ6:4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。

6月30日(火)            ローマ6:8
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

7月1日(水)            ローマ6:10
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

6月2日(木)            ローマ6:11
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

7月3日(金)             詩編16:11
あなたは命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。

7月4日(土)        サムエル記下22:22,24
わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない。
わたしは主に対して無垢であろうとし、罪から身を守る。

説教の三つの難

蜀道難

説教の三つの難

1 聖書の世界に入っていくことの難。
  その箇所の世界、状況、場面、人々の生活や気持ちに近づき、やがてはその世界の中に自分もいるかのように感じることの難。

2 今の世界、また会衆の中に入っていくことの難。
  会衆が抱えている困難や重荷を感じて受けとめることの難。

3 神、イエスの存在、願い、目的を把握することの難。
  その箇所におけるイエスの切望、言葉にこめられた思い、意志に触れることの難。

これらの三つの難の結果、聖書をリアルに感じることができず、会衆の心に届かず、説教者も会衆も神の生きた存在と働きに出会うことのないままだとすれば……

43年の間この務めを負ってきて、一度もたやすいと思ったことはなかった。

主よ、憐れみたまえ。

(「難」とは李白の「蜀道難」の難で、困難を指します。)

蜀道難の詩との解説


写真は次のところから
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/rs549.htm

「一人の従順によって」

IMG_4167

「一人の従順によって」
ローマ5:15-19
2020年6月21日・聖霊降臨後第3主日の使徒書から

明日(2020/06/21)は説教しないので、以前のものをご紹介します。

(1)2014 年 6 月 22 日・聖霊降臨後第 2 主日
西大和聖ペテロ教会での説教 →以下をご覧ください。
「一人の従順によって」

(2)奈良基督教会第6回公開聖書講座(2017年5月20日)
  およびOCCカレッジ (2018 年 1 月 27 日)で話した「ローマの信徒への手紙 『恵みと信仰──キリスト教の根幹』」の一部。
全文は以下をご覧ください。
「一人の従順によって──アダムとキリスト」

 ここでは(2)を紹介します。宗教改革500年ということもあり、ルターへの言及が多くなっています。
────

4. 一人の従順によって──アダムとキリスト

 第5章はわたし個人にとっても一番大事なところですが、ルターは『ローマ書講義』(1515年)の中で次のように言っています。

 「使徒は本章においてこの上なく喜ばしい、この上なく溢れる喜悦をもって語る。全聖書のうちにも本章に比すべきテキストはほとんどひとつも見当たらない。」(新教出版社、1983)

 前半から数節を読んでみましょう。

「5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」

 「5わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」

 これはすでに起こってしまっている、言わば客観的な事実です。わたしたちが想像したり思い込んだりするのではない、神の側からの事実。これが恵みです。わたしが信じる/信じない、受け入れる/受け入れない、に関係がない。しかしその事実をわたしのこととして知る、認識する、経験する──これが信仰です。

 わたしたちの信仰が先に立つのではなく、神の恵みの事実が先にある。それがわたしたちに働きかけている。そしてわたしたちがそれを知らされて知ったとき、わたしたちの側に大きな喜びが起こります。神の恵みがわたしたちを動かし、わたしたちを生かすようになる。信仰とは、神の恵みの事実に対してこちらの心の目が開かれ、耳が開かれて、わたしたちの口と体でそれに答えて生きる。恵みに動かされ、影響され、生かされて、こちらからも熱心に生きるようになることです。

 今回のタイトルを「恵みと信仰──キリスト教の根幹」としたのですが、それはここのところです。「わたしたちは神の恵みにより、信仰をとおして、救われ、生かされる」と言ったらいいでしょうか。

 ただし土台は神の恵みです。土台をはっきりさせておく必要があります。パウロはここでこう言いました。

「わたしたちがまだ弱かったころ」「わたしたちがまだ罪人であったとき」、そのときに「キリストがわたしたちのために死んでくださった。」不信心な者を救おうとされる神の決意と行動がすでに実行された。そうであれば、不信心、不信仰な者も救いの内に招き入れられています。

 この後、5章の後半は「アダムとキリスト」という小見出しが付いています。

 「5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」

「一人の人によって罪が世に入り……」。

 この「一人の人」とはアダムです。神に背き、罪を犯し、苦しんで、やがて滅びていく。このアダムが、言わば全人類の代表です。アダムにおいて起こったこと、それはあらゆる人に通じている。アダム的連帯──これはわたしが勝手に使う言葉ですが──の中にわたしたちすべては閉じ込められてしまっている、というのです。どうしようもない悲しい人間の現実です。

 ところが、それが結論ではありません。アダムではなく、もう一人の方がいてくださるのです。

「5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」

 一人の人イエス・キリストが、全人類の罪と死と滅びを引き受けて、そうしてアダム的連帯の中に閉じ込められたあらゆる人々を解放されるのです。アダム的連帯が強力であったとすれば、それよりはるかに強力なイエス・キリストの存在と業がアダム的連帯を打ち砕き、あらゆる人々をご自分のもとに引き寄せられる。

 アダム的連帯ではない、キリスト連帯──これもわたしの言葉ですが──のうちにわたしたちは入れられるのです。人類の代表者はアダムではありません。イエス・キリストが人類の代表者なのです。

 「5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

 だれ一人神に対して従順ではありえない。ただ一人イエス・キリストが神への従順を貫いて生き、死なれた。このゆえに、わたしたちは罪人でありながら、不従順でありながら、それにもかかわらず神は、わたしたちを正しい者、愛する子として受け入れてくださる。これによって魂は休らうことができます。

 むつかしい理屈のように聞こえたかもしれません。しかし実は、わたしはこの箇所、この言葉で生きながらえることができたのです。

 30数年前、わたしはあることで心に深い負い目を抱えていました。神学校の教師になりたての頃でした。特別何か悪いことをしたのではありません。だれかがわたしを責めたのでもありません。秘密を隠していたのでもありません。けれどもわたしは、ある具体的なことで、自分の仲間たちを、同志を裏切ったという思いに苦しんでいました。そのことが心にのしかかってくると、食事も喉を通らなくなる。自分の存在そのものが危うくて、生きて行けないように感じてしまう。そういう状態を抱えながら神学校の授業をし、礼拝をし、説教をしていました。

 どこに救いがあるのかを呻き求めて、聖書を読んでいました。そのようなとき、このローマ書第5章の言葉に出会ったのです。

 「19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」

 ただ一人、イエス・キリストの従順によって多くの人が正しい者とされる。わたしは正しくなくてよい。イエス・キリストがおられるから、この方がただ一人神への従順を貫かれたから、それでよい。わたしの救いはこの方が確保していてくださる。わたしは生きることを許されている。生きていてよい。この言葉のゆえに、わたしは死なずにすんだのです。

 先ほどの言葉で言えば、わたしはアダム的連帯から断ち切られて、キリストのうちに確保されていることを知ったのです。

 ルターは『キリスト者の自由』の中でこう述べています。

 「罪はキリストの中に呑み込まれ、溺れさせられてしまう。」

 パウロをイエスと切り離して、パウロのことを観念論だとか幻想だとか言う人がいます。しかしパウロの語ってくれた一言がわたしを闇から、死から救ったのですから、わたしはそういう人には組みしません。

日ごとの聖句947 エレミヤの告白 2020/6/21〜27

IMG_4194

2020年6月21日(日)聖霊降臨後第3主日
                 エレミヤ20:7
主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。人が皆、わたしを嘲ります。

6月22日(月)           エレミヤ20:8
わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。

6月23日(火)           エレミヤ20:9
主の名を口にすまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。

6月24日(水)洗礼者聖ヨハネ誕生日
                エレミヤ20:10
わたしには聞こえています、多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。

6月25日(木)          エレミヤ20:11
しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき、勝つことを得ない。

6月26日(金)          エレミヤ20:12
万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。

6月27日(土)          エレミヤ20:13
主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を、悪事を謀る者の手から助け出される。

日ごとの聖句946 十二人 2020/6/16〜20

IMG_4162

2020年6月14日(日)聖霊降臨後第2主日
                 創世記42:13
「僕どもは十二人兄弟で、カナン地方に住む男の息子たちでございます。末の弟は父のもとにおります。もう一人は失いました。」

6月15日(月)         出エジプト記24:4
モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。

6月16日(火)            マタイ10:1
イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、病気や患いを癒すためであった。

6月17日(水)          マタイ26:19-20
弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。

6月18日(木)           マタイ28:16-17
十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。

6月19日(金)           使徒言行録2:14
ペトロは十一人と共に立って、話し始めた。「ユダヤの方々、エルサレムに住む人たち、わたしの言葉に耳を傾けてください。」

6月20日(土)         ヨハネの黙示録22:2
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実をみのらせる。その木の葉は諸国の民の病を治す。

主イエス・キリストの恵み、 神の愛、聖霊の交わり──三位一体主日によせて

IMG_4158

創世記1:1−3
コリント二 13:11−13
2020年6月7日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日
上野聖ヨハネ教会での説教

全文PDF → 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり──三位一体主日によせて

 もう15年以上も前のことです。ある晩、大きな叫び声が外から聞こえてきました。出て見ると牧師館の前にひとりの信徒が倒れそうな状態で、わたしに言うのです。

「祝祷ください、祝祷ください、祝祷ください……」

 祝祷というのは、教会に馴染んでおられる方はよくご存じでしょう。礼拝や集会の最後に唱える祝福の祈りです。祈祷書に繰り返し出て来ます。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともにありますように。アーメン」

 事情がわかりませんが、とにかくその方は「祝祷ください」と言うので、わたしは言われたとおりに祝祷を唱えました。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともにありますように。」

 あまりに苦しそうだったので、背中をさすりながら言いました。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたとともにありますように。アーメン」

 しばらくするとその人は落ち着いて、「ありがとうございました」と言って帰って行きました。あんな対応でよかったのかどうかずっと気がかりでしたが、その後に出会ったとき、元気そうだったので、深い話もしないままに過ぎてしまいました。

 その祝祷が今日の使徒書の最後に出て来ました。パウロの書いたコリントの信徒への手紙二の第13章。その最後の祈りです。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」13:13

 わたしたちの祝祷はここから来ています。パウロは宛先のコリントの人々に向かって祈っているので、「あなたがた一同と共に」と言っているのですが、わたしたちの教会ではそれを「わたしたちとともに」と変えて用いているのです。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともにありますように。アーメン」

 これは何を祈っているのでしょうか。あの夜、祝祷を求めてやって来た人が期待したような救い力がこの祈りにはあるのでしょうか。

 今日は三位一体主日。父と子と聖霊なる三位一体の神を特に心にとめて賛美する日です。祝祷の元になったこのパウロの祈りの中に、三位一体が込められています。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」13:13

 それで今日はこの三つを、短くときほぐしてみることにしましょう。

 まず第1に「主イエス・キリストの恵み」です。あまりにも聞き慣れた言葉なので何も感じずに通り過ぎてしまいそうです。けれどもこの主イエス・キリストの恵みを経験した最初の人々は、この言葉を口にし、文字にするとき、特別な心の高まりを覚えていました。

 たとえばヨハネ福音書記者はこう言います。

 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」1:14

 クリスマスの出来事を歌っています。神の子が肉体をもった人間となって、赤ちゃんとなってわたしたちのところに来られた。その方から発せられる光──この地上にはない、清らかで温かな光がわたしたちを包みます。純粋で真実な恵みの光がわたしたちの中に浸透し、わたしたちの目と心を清めて真理に目覚めさせてくれます。この方、イエス・キリストがわたしたちを罪と闇を引き受けて、ご自分は死んでわたしたちを新しく生かしてくださいます。キリストの恵みはわたしたちを引き寄せて、わたしたちをご自身のものとします。この方の恵みこそが人を生かし、世を救うのです。困難を抱えた人のために、主イエス・キリストの恵みが注がれるように祈らずにはいられません。

 第2は「神の愛」です。神はどのような方であって、どのように働かれるのか。その最初の働きを今日の旧約聖書が伝えています。聖書の始まり、創世記の冒頭です。

 「1 初めに、神は天地を創造された。2 地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。3 神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」

 これは宇宙の始まりを科学的に説明しようというものではありません。2節の言葉に注意してみます。「混沌」「闇」「深淵」。いずれも恐ろしい言葉です。秩序は破壊され、混乱の中で何の支えもなく、底知れぬ闇の中に閉じ込められて何の希望もない。しかしこの「混沌」「闇」「深淵」の水の面(おもて)を神の霊が動いている。神が何かをなそうとしておられるらしい。何でしょうか。

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」

 「混沌」「闇」「深淵」。これはわたしたちの世界、わたしたち人間の現実のことなのです。混沌と闇の中で滅び沈んでいくしかないと思われた現実。そのわたしたちの現実に向かって神が呼びかけられる。

「光あれ。」すると光があった。

 神さまはわたしたちのつらい現実、希望のない現実をご存じです。しかし神はわたしたちを愛しておられるがゆえにわたしたちを闇と混沌の中に放置されない。光のないわたしたちに向かって呼びかけて「光あれ」と言われる。するとわたしたちの前に、わたしたちの周りに、わたしたちの中に、神の光が照りだす。希望が生じる。神がわたしたちを愛される、その愛のゆえに、「光あれ」と呼びかけて光を造り出してくださる。それはわたしたちが希望をもってしっかりと生きるためです。これが聖書の冒頭です。

 そして神はわたしたちを愛するがゆえに、み子イエス・キリストをわたしたちに送ってくださいました。

 神の愛がわたしたちとともにありますように。

 第3は「聖霊の交わり」です。これは何でしょうか。交わりとは「交流」です。何と何の交流か。神さまとわたしたちの交流です。聖霊は神さまとわたしたちを交流させてくださる。神の愛がわたしたちの中に注ぎ込まれて、反対にわたしたちの思いが神に注がれて、そのようにして神さまとわたしたちの間に真心と愛の交流が起こる。神はわたしたちに疎遠な方ではなく、わたしたちを生かす生きた方であることを聖霊はわたしたちに経験させる。わたしたちと神とを出会わせ、結び合わせ、命の交流をさせてくださる。これが聖霊の交わり、聖霊が与えてくださる交わりです。聖霊はイエスさまの声をわたしたちに聞かせ、イエスさまの命をわたしたちに注いでくださいます。

 同時に聖霊は、わたしたちの間に働いてくださいます。わたしたちの間に真心の交流が起こり、信頼と愛と協力が生じます。

 聖霊の交わりがわたしたちとともにありますように。

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりは人を、わたしたちを、世界を救う力を持っています。それですから、わたしたちは祝祷を唱え、あるいは聞くとき、大切にしたい。主イエス・キリストの恵みがわたしたちを包み、神の愛がわたしたちを浸し、聖霊の交わりがわたしたちを潤し生かしてくださることを信じ期待して、アーメンを一緒にしっかり唱えましょう。祝祷の中で三位一体の神が働いてくださるのです。

 ご一緒に心をこめて祝祷を唱え、祈りましょう。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともにありますように。アーメン」

「牧師は何を残して去るのか」

IMG_3906

「牧師は何を残して去るのか」
https://www.youtube.com/watch?v=FpyutJa5ZxE

最近、YouTubeでこれを知りました。2018年秋のある韓国の教会のことです。
自分が退職したこともあり、心にかかるので、部分的に訳してみました。
初めのほうで「ためらうことなく」と訳したのは ‘거침없이’ で韓国の聖書(改訳改訂版)使徒言行録の最後から二つ目の単語です。もっと適当な訳があるかもしれません。
────

最近、個人的に知っている何人かの牧会者が引退した。
……
韓国キリスト教百周年記念教会のイ・ジェチョル牧師は、去る秋の収穫感謝主日に最後の説教をして、縁故のない慶尚南道居昌へ去った。
「イ・ジェチョルを徹底して捨ててください」と言いながら、「ためらうことなく」それぞれの場所で使徒言行録29章を書き進めようという言葉を残した。

高齢で、病気で、その地を去った牧会者たちもいる。人間はいつかは去る。去った場所には何かが残る。牧会者たちの退場を見ながら、問うてみる。
「牧師は何を残して去るのか」。
否、牧師という職業を持った人が他の職業の人と区別されて残す痕跡とは何か。
……

去りながら悪臭を放つ人たちも多いけれども、澄んだ香りを放って美しく退場する方たちも多い。牧師は「永遠まで続く命」に関わる人だ。多くの職種の中で「牧会者」という職業を選んだ人は、その瞬間、他の人々の命を救うために自分を投げ出すことを誓ったのだ。ここでの核心は召命だ。神が自分をこの働きに召されたという事実をはきりと確信した人だけが、牧師となることができる。
……

いったん牧会者として召されたなら、それによって他の人々の命を救うことに献身すると決心したなら、その牧師は自分の能力や好みとは無関係に、命のために最後まで自分を燃やさなければならない。
……

牧師と教会は命を与えることができる時のみ、正しく機能する。これは牧師のみではなく「主の体なる教会」につながったすべてのクリスチャンにもあてはまるだろう。
2018年、韓国社会のいたるところで命と命の水を渇き求める声が聞こえる。
数々の不条理にもかかわらず、人々が教会になお期待しているのは、直感的にそこに命の水が流れてくるということを知っているからだ。
……

牧師は命を残す。命はイエス・キリストだ。それだから牧師が残すべきはイエスさまだ。大きい教会か小さな教会か、成功したか失敗したかは関係がない。……
そこで一人の命でも助けられたなら、それは成功した牧会者である。失敗し、墜落した牧師も、その墜落した現場から再び貧しい心で命を救おうと進まなければならない。それが、どのような状況であれ、失ってはならない彼らの召命だからである。
……

日ごとの聖句945 創造・受肉・執り成し 2020/6/7〜13

IMG_4087

2020年6月7日(日)三位一体主日・聖霊降臨後第1主日
                 創世記1:1,3
初めに、神は天地を創造された。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

6月8日(月)            イザヤ46:4
わたしはあなたたちの老いる日まで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

6月9日(火)            ヨハネ1:14
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは恵みと真理とに満ちていた。

6月10日(水)          マタイ28:19-20
「あなたがたは彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

6月11日(木)使徒聖バルナバ日  ペトロ一 3:18
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。

6月12日(金)            ローマ8:26
“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。 “霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

6月13日(土)         コリント二 13:13
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

マルタの信仰告白

IMG_4145

ヨハネ11:17−27
2020年3月29日・大斎節第5主日
奈良基督教会での説教

全文PDF → マルタの信仰告白


 このところ主日の福音書は、ヨハネによる福音書の長い物語が連続しています。教師ニコデモの話、サマリアの女の話、生まれつき目が見えなかった人がイエスによって癒された話、そして今日はベタニアのマルタ、マリア、ラザロの3人きょうだいの話です。
 それぞれが独立した話ではありますが、これらの出来事を経て、イエスは次第に「その時」に向かって近づいていかれます。その時とは、別れの時、十字架の時です。

 今日の物語の舞台はエルサレムにほど近いベタニアの村。まもなくこのベタニアからエルサレムに入って、イエスは捕らえられて死なれることになるのです。

 さてこのベタニアに、イエスにとってとても大切な3人きょうだいが暮らしていました。マルタ、マリア、ラザロです。今日は読むのを省きましたが、第11章5節にこう記されています。
 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」
 イエスはどの人もだれをも愛しておられます。けれども、ここにこう記されているのには、特別な意味があります。それは、このマルタ、マリア、ラザロがイエスを守り支える人たちであった、ということです。イエスにとってエルサレムは危険な場所です。イエスを捕らえて殺そうとする人々が待ち構えているからです。

 そのエルサレムの入り口に当たるベタニアの村で、イエスを物心両面にわたって応援し、宿る場所のほかあらゆる必要なものを提供していたのが、このマルタ、マリア、ラザロでした。3人は当然、力ある人たちからはにらまれている存在です。何の社会的地位も持たないこの人たち。けれども、自分を危険にさらしてまでイエスを信じ、イエスを愛し、イエスを応援してきたこの3人を、イエスをどんなに大切に思っておられたことでしょうか。
 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」

 そのラザロが重い病で危篤だという知らせが、イエスのもとに届きました。イエスはラザロが死ぬ、とはっきり感じられました。悲しみと嘆きがイエスの胸を突きます。
イエスは沈黙しておられました。1日、2日、3日。どうすべきかを、祈りつつ考えておられたに違いありません。
 「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」ヨハネ11:11
 眠っているとイエスは言われました。それはラザロはすでに死んだ、という意味です。けれどもイエスのうちにはっきりした決意が起こっています。このラザロを自分は引き受ける。このラザロを必ず生かす。ラザロが死ぬなら自分も一緒に死ぬ。しかしわたしが生きるので、ラザロも必ずわたしと一緒に生きる。けっしてラザロを死と滅びの中に放置しない。

 弟子たちは心配しました。ベタニアに行くのは危険だ。イエスの身を弟子たちは案じるのです。しかしイエスは、それは承知でした。イエスが思われたのは、自分の身のことよりも、ベタニアのラザロのこと、そしてマルタ、マリアのことです。自分がそこにいくことによって、マルタ、マリアまで危険にさらすのではないか。イエスを憎む者たちは、この3人のことも憎んでいるからです。
 すべてを考えた上で、イエスは立ち上がって出かけられました。ラザロを生かすため、また悲しみの底にあるマルタ、マリアを生かすためです。

 ベタニアの村の入り口まで迎えに来ていたマルタに、イエスは出会われました。マルタはイエスに言いました。
「『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。』……イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言った。イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」11:21-27

 イエスはすでにラザロを復活させる決意をしておられ、それをマルタに明確に言われたのです。けれどもマルタにはその意味がはっきり理解できなかったかもしれません。それでもマルタの精一杯の、溢れる真実がこの言葉に込められています。
 「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」11:27
 「わたしは信じております。」
 「わたしは」が、ギリシア語原文ではとても強調された表現になっています。他の人がどうであれ、わたしは、わたしは信じております。

 「信じております。」こう訳されたこの言葉にもマルタの思いが込められています。わたしはイエスさま、もうあなたを信じてしまった。もう以前に、あるときからあなたを信じてしまいました。休む場所も食事も、何もかもあなたに提供しよう、場合によっては自分の命も差し出そうと、もう決意しました。今もそうです。これからもずっとそうです。
まだマルタは、イエスがラザロを復活させることを理解していません。けれどもそれでよいのです。イエスがおられるのですから。

 「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
 
 このマルタの信仰告白がわたしたちの信仰告白になりますように。

 「わたしは」です。だれかの顔色を見たり気にしたりするのではありません。わたしは信じるのです。
 わたしたちもイエスさまを信じて、その働きに協力します。
 そしてわたしだけのためではなく、この世界、その世のために、イエスを信じます。
 マルタは「あなたは世に来られるはずの神の子、メシアである」と言いました。
 自分の平安だけではない。この世の救いのために来られた方を信じて、この世界が、あらゆる人々が救われるためにイエスを信じイエスに協力する。これがわたしたちです。

 思い出しましょう。初めのほうで何と言われていたでしょうか。
 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」

 わたしたちは、皆さんは、マルタです。マリアです。ラザロです。そのだれかです。イエスに愛されている者です。
イエスの愛がわたしたちを動かします。そしてわたしたちの中にイエスを思う思い、イエスを求める求め、イエスを愛する愛が起こされます。
やがてわたしたちはマルタとともに、これまでよりももっと、イエスの力ある働きを経験することになるでしょう。

 祈ります。
 主イエスさま、マルタが信じたように、わたしたちもまた真心をこめてあなたを信じ、あなたを愛するようにしてください。あなたの働きにわたしたちを加えてください。そして、やがてラザロを復活させられるあなたの業をマルタが経験したように、あなたの力ある愛のわざをわたしたちもはっきりと経験することができますように。あなたの尊いみ名を賛美します。アーメン

最近の記事
Archives
最近の関心

 『日韓キリスト教関係史資料』第3巻の編集
 リコーダーの世界
 音と響き
井田 泉
奈良基督教会牧師
親愛幼稚園園長
富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
聖公会平和ネットワーク共同代表

Mail
izaya*da2.so-net.ne.jp
(*を@に変更してください)

カウンター
最新刊
『これが道だ、これに歩め
──イザヤ書による説教』
かんよう出版
213頁 1500円+税

ここをクリックして
  ←左本文をご覧ください
ブログ内検索

WWW を検索 http://blog.livedoor.jp/izaya/ を検索