Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2020年08月

御言葉を食べたエレミヤ

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エレミヤ15:15‐21
2020年8月30日・聖霊降臨後第13主日
彦根聖愛教会にて

全文PDF → 御言葉を食べたエレミヤ

 預言者エレミヤ。今から2600年くらい前の、ユダ王国末期に活動した人です。故郷はアナトト村。エルサレムから東北に向かって歩いて1時間くらいのところです。エレミヤはアナトトの祭司ヒルキヤの子として生まれました。多感で繊細、自然に触れても人に触れても、感じやすい心を持った若者でした。激動の時代です。
当時のユダ王国は、大国アッシリアとエジプトに挟まれ、さらにアッシリアに代わって台頭してきた新バビロニア帝国から圧迫されて、危機的状況にありました。けれどもエレミヤの心をさらに苦しめたのは、人々の心が神から離れて、ぼやけている──何が正しく何が正しくないか、何が真実で何が偽りであるかが判断できない──あるいはすっかり濁ってしまっている、ということでした。

 そのような彼は、20歳前後でしょうか、神に捕まってしまいます。神は手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、その口にご自身の言葉を入れてしまわれた。彼は願わないのに、一方的に神によって預言者とされてしまったのです。
 彼の口に入れられ、彼の身体の中に宿った神の言葉は、今度はしばしば彼の口から出ようとします。エレミヤは黙っていたいのに、自分の中から言葉が溢れ出る。厳しい言葉を語らせられるのです。それは彼に対する非難、迫害を招き寄せることになりました。故郷アナトトの人々までが、彼の命を奪おうとしました。
そのエレミヤの嘆きの祈りが、今日の旧約聖書日課です。

「あなたはご存じのはずです。」エレミヤ15:15
あなたは知っておられます。こう言ってエレミヤは神に訴えます。エレミヤの労苦も嘆きも、情熱も愛も、孤立も迫害も、神は知っておられる。そう彼は信じています。信じつつも、神が沈黙しておられるのが耐えがたい。神はわたしを忘れておられるのか。彼の嘆きと怒りは、ついに迫害する者への復讐を神に求めるところまで達します。
「あなたはご存じのはずです。
主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み
わたしを迫害する者に復讐してください。
いつまでも怒りを抑えて
わたしが取り去られるようなことが
ないようにしてください。
わたしがあなたのゆえに
辱めに耐えているのを知ってください。」15:15

「あなたはご存じです」あなたは知っておられます、と祈った彼は、今は「主よ、知ってください」と嘆願します。知っていてくださるはずの方に、もっとはっきり知ってほしいのです。この現実を、この苦しみを。これ以上はもう生きて行けない、というところまで彼は来ていました。

 けれども嘆きの中で、彼は最初の頃のことを思い起こします。
「あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました。」15:16
 彼は世の中に合わせて身を処していく、というふうには生きていけない人でした。彼の魂はほんとうのものを、自分がそれによって生き、それによって死ねるような真理を求めてやみませんでした。
 そのような葛藤と苦悶、言わば魂の飢餓の中で、彼は神の言葉と出会ったのです。それは頭で理解し心に留める、という程度のものではありませんでした。神の言葉を「食べた」。それを食べて生きることができる、食べなければ死んでしまう──そういうものだったのです。

「あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました。」

 このように神の言葉は、彼の喜び、また命となった、血肉となったのです。彼は、神の言葉を食べて、命を回復しました。それをいま、思い起こしています。あれほどの喜びはありませんでした。生きてきてよかった。生涯の喜びです。
 けれどもその後に起ったことは何か。
 彼の命となった神の言葉は、彼の中で燃え上がって、世の中の悪を責める言葉となりました。人々の神への不真実を突き刺す言葉となりました。彼は「争いの絶えぬ者」(15:10)とされ、非難、嘲笑、迫害の対象となりました。彼は深く傷つきました。

 彼はいま、神に訴えます。
「なぜ、わたしの痛みはやむことなく
わたしの傷は重くて、いえないのですか。
あなたはわたしを裏切り
当てにならない流れのようになられました。」15:18
「当てにならない流れ」とはいわゆる「ワジ」です。雨期には川になりますが、乾期には干上がってしまう。潤してくださるはずの神に求めたのに、あなたは水のない川だ、と抗議するのです。
 
やがて神は沈黙を破って答えられました。
「それに対して、主はこう言われた。
『あなたが帰ろうとするなら
わたしのもとに帰らせ
わたしの前に立たせよう。
もし、あなたが軽率に言葉を吐かず
熟慮して語るなら
わたしはあなたを、わたしの口とする。
あなたが彼らの所に帰るのではない。
彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
……
わたしがあなたと共にいて助け
あなたを救い出す。』」15:19-20

 この言葉をエレミヤは再び食べるように心と体に受け入れて、立ち直ります。この言葉によって神が彼を預言者として再建された。立て直されたのです。

 「あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。」

 御言葉を食べて生きる──そのようなことを聖書の中で聞いたことはあるでしょうか。実はイエスさまがそうだったのです。
 エレミヤからおよそ600年後、イエスさまが30歳のときです。公に働きを開始される前、荒野でひとり断食し弱り果てたとき、サタンの誘惑にさらされました。
 サタンがイエスに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)と言ったとき、イエスはこう答えられました。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」マタイ4:4
 「書いてある」というのは、旧約聖書の申命記(8:3)に書かれているいうことです。
 「神の口から出る一つ一つの言葉」──神の口からエレミヤの口へ、神の口からイエスの口へ。口移しのように、命の言葉が与えられて、それを食べた。イエスは食べて生かされて生きた。かつてエレミヤが神の言葉を口に入れられて生きたように。また後に回想して、それがいかに喜ばしくおいしい命の糧であったかを確かめたように、主イエスは神の言葉を、聖書の言葉を食べて生きておられました。それだからこそ、今日の福音書で聞いたように(マタイ16:21-27)、イエスは十字架への道を歩み通されたのです。

 同じことを、程度の差はあっても、わたしたちも経験したい。わたしたちも神の言葉を食べて生きたい。御言葉は知識として情報として通り過ぎるものではありません。わたしたちの中に宿ってわたしたちの命となるのです。神はわたしたちを生かそうと願って、御言葉を与えようとしておられます。
 聖書はわたしの外から、わたしの内に、神の声を聞かせます。今日、エレミヤが聞いたこの言葉をわたしたちもいただきましょう。
「わたしがあなたと共にいて助け
あなたを救い出す。」15:20

 祈ります。
 神さま、あなたは知っておられます。わたしたちの労苦と怠慢を、わたしたちの喜びと失望を、あなたは知っておられます。かつてエレミヤがあなたの御言葉を食べて生かされたように、わたしたちにも命の御言葉をお与えください。それを食べて生きるように、聖書を愛させてください。イエスさまのみ名によってお願いいたします。アーメン

日ごとの聖句957 御言葉を食べる 2020/8/30〜9/5

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2020年8月30日(日)聖霊降臨後第13主日
                エレミヤ15:16
あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。

8月31日(月)          エレミヤ15:16
あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。

9月1日(火)            申命記8:3
主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。

9月2日(水)             申命記8:3
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

9月3日(木)             マタイ4:4
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

9月4日(金)           エゼキエル3:3
「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。

9月5日(土)        ヨハネの黙示録10:10
わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って食べた。それは、口には蜜のように甘かったが、わたしの腹は苦くなった。

あなたは幸いだ ──ペテロの信仰告白

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マタイ16:13−20
2020年8月23日・聖霊降臨後第12主日
京都聖三一教会にて

 こちらをご覧ください。↓ 

あなたは幸いだ ──ペテロの信仰告白

日ごとの聖句956 あなたは幸い 2020/8/23〜29

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2020年8月23日(日)聖霊降臨後第12主日
                マタイ16:15
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

8月24日(月)          マタイ16:16
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

8月25日(火)           マタイ16:17
イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、わたしの天の父なのだ。」

8月26日(水)            マタイ5:6,8
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」

8月27日(木)           マタイ11:6
「貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

8月28日(金)           マタイ13:16
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」

8月29日(土)            マタイ5:10
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

わたしの魂は主をあがめ

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【大阪・京都教区合同 平和礼拝】
2015年8月15日・主の母聖マリヤ日
奈良基督教会にて


 本日8月15日は「主の母聖マリヤ日」。マリアが地上の生涯を終えて神のもとに召されたことを記念する日です。それが日本の敗戦記念日でもあります。
……

全文PDF → わたしの魂は主をあがめ

日ごとの聖句955 正義と祈りの家 2020/8/16〜22

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2020年8月16日(日)聖霊降臨後第11主日
                   イザヤ56:1
主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い。

8月17日(月)            イザヤ56:2
いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。悪事に手をつけないように自戒する人は。

8月18日(火)            イザヤ56:3
主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな、わたしは枯れ木にすぎない、と。

8月19日(水)           イザヤ56:4-5
わたしの契約を守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、わたしの家、わたしの城壁に刻む。

8月20日(木)            イザヤ56:7
わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す。

8月21日(金)            イザヤ56:7
彼らが献げ物をささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

8月22日(土)            イザヤ56:8
追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる。既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。

日ごとの聖句954 「わたしだ」 2020/8/9〜15

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2020年8月9日(日)聖霊降臨後第10主日
                  マタイ14:23
イエスは群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

8月10日(月)           マタイ14:24
ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

8月11日(火)           マタイ14:25
夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

8月12日(水)           マタイ14:26
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。

8月13日(木)           マタイ14:27
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

8月14日(金)           マタイ14:28
すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

8月15日(土)主の母聖マリヤ日   マタイ14:29
イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。


あなたの優れた霊を授けて

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ネヘミヤ記9:16−20
2020年8月2日・聖霊降臨後第9主日
上野聖ヨハネ教会にて

 今日は初めに読まれた旧約聖書・ネヘミヤ記第9章の場面にご一緒に近づいてみたいと思います。場所はエルサレムの、水の門と呼ばれる門の前の広場。ここに朝早くから大勢の人が集まっていました。時は紀元前443年第7の月の24日──年はそこまではっきり言えるかどうかはわかりませんが、月と日はそう書かれています。イエスさまがお生まれになるより400数十年前のことです。第7の月というのはわたしたちの7月ではなく、秋の収穫の頃です。

 ここに早朝から集まったのは礼拝のためです。聖書の言葉を聞くため、そして祈るためです。皆はとても真剣な表情をしています。聖書の言葉を聞かなければ、そして祈らなければ、と感じています。

 この日に至るまでの経緯をあらましお話ししておかなければなりません。

 この日からおよそ百数十年前、イスラエル、ユダの人々は国を失いました。大帝国アッシリア、ついでバビロニアによって祖国は滅ぼされ、神殿は破壊され、エルサレムとユダの主だった人々は遠い異国に連れさられて行きました。これをバビロン捕囚と呼んでいます。そこで人々は悲しみと嘆きの中で数十年を過ごしました。ところが思いがけないことが起こりました。新しく起こったペルシア帝国がバビロニアを滅ぼし、帰国を許したのです。人々は喜びの帰国を果たし、破壊された神殿を再建しました。そのときは希望に満ちていました、

 ところがそれから約70年が過ぎた頃、重苦しい空気と無力感が人々を捕らえていました。ユダの人々は周囲から圧迫と侮辱を受け、独立を回復することもできず、エルサレムの城壁は焼け落ちたままで再建する気力もありません。生活も信仰もすっかり力を失った状態です。このような中にエズラとネヘミヤが前後して帰国しました。彼らは人々を励まして社会を立て直そうとしました。城壁の再建はその目に見えるしるしです。

 ところで、社会と人々の生活を立て直すために一番根本になるのは何か。それは、礼拝です。現に礼拝は続けられている。しかし命がありません。神さまとの生きた交流が失われてしまっているのです。そのもっとも深い問題は、自分たちが神さまに背き、神さまから離れてしまっているのに、それに気づかない、それに直面しようとしないことでした。

 しかし変化が起こりました。3週間ほど前のこの月の1日にエルサレムの水の門の前の広場で行われた礼拝が決定的でした。その日、人々は皆、夜明けから正午まで聖書の朗読に耳を傾けました。その間に自分たちがどんなに神さまを軽んじ背いてきたか、また隣人を無視してきたかを痛切に悟りました。にもかかわらず自分たちを見捨てられない神の憐れみが迫ってきました。その日から人々の生活と信仰は変化しはじめました。これを進め深めて行かなくてはなりません。

 そして今日、同じ月の24日、再び人々は早朝から集まり、聖書の朗読を聞きました。聖書の朗読を聞きながら、神が自分たちにはっきりと呼びかけておられるのを心に感じます。次第に人々は自分たちのうちに抱えている過ちを、背きを、言葉にして神さまの前に告白しなければもう耐えられないという状態になってきました。礼拝の指導者たちの祈りが始まりました。

 「とこしえより、とこしえにいたるまで、栄光ある御名が賛美されますように。いかなる賛美も称賛も及ばないその御名が。」
ネヘミヤ記9:5
 祈りは神への賛美から始まりました。これはわたしたちが礼拝のはじめのほうで「大栄光の歌」を歌うのと同じです。
 やがて祈りは、自分たちの先祖を導かれた神さまの働きを振り返っていきます。
 「あなたこそ、主なる神。アブラムを選んでカルデアのウルから導き出し、名をアブラハムとされた。」9:7

 次に祈りは700年ほども前の出エジプトの出来事、荒野の40年の旅を振り返ります。
 「あなたは先祖の目の前で海を二つに裂き、海の中の乾いた地を通らせ、追い迫る敵をあたかも石のように、荒れ狂う水の深みに投げ込まれた。昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、わたしたちの先祖を導き、その進み行く道を照らされた。」9:11-12
 エジプトでの奴隷の生活からの解放も、荒野の危険な旅も、神がご自分の民を愛するがゆえに守り導かれたのです。

 ところが──今日の旧約日課はネヘミヤ記第9章16節の「ところが」から始まっていました。
 「ところが、わたしたちの先祖は傲慢にふるまい、かたくなになり、戒めに従わなかった。聞き従うことを拒み、彼らに示された驚くべき御業を忘れ、かたくなになり、エジプトの苦役に戻ろうと考えた。」9:16-17
 この祈りをいま聞いている人たちは、昔の先祖の話とだけ聞いたのではありません。自分たちは先祖と同じ過ちを犯してきた、という思いがこみ上げてきます。
 「しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった。」9:17
  「まことに憐れみ深いあなたは、彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。昼は雲の柱を取り去ることなく行く手を示し、夜は火の柱を取り去ることなく、行く道を照らされた。」
9:19

 「まことに憐れみ深いあなたは……」過去のことをこのように祈るとき、今祈っているわたしたちに対しても、「まことに憐れみ深いあなた」でいてください、という願いが起こります。「彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった」神が、今のわたしたちを見捨てないでほしいのです。
 次の20節では神がかつて荒野を旅する民に与えられた具体的な恵みを想起して祈ります。
 「(あなたは)あなたの優(すぐ)れた霊を授けて彼らに悟りを与え、口からマナを取り上げることなく、渇けば水を与えられた。」

 ここで挙げられた神の恵みの賜物は三つです。「あなたの優れた霊」「マナ」「水」。いずれも貴くかけがえのないものですが、今は最初の「あなたの優れた霊」に心を向けてみましょう。

 神が荒野を旅する苦難の民に与えられたのは「あなたの優れた霊」。「霊」は神さまの息吹です。わたしたちはこの地上に生まれたとき、神の息をいただいて呼吸する者となりました。神の霊がわたしたちの中で希薄になれば、わたしたちは気力を失う。希望を失う。正しい判断ができなくなる。愛も信仰も危機に瀕します。その危機からわたしたちを守るために、神はご自分の霊をかつての信仰の先祖にお与えになった。それを神は今日の聖書の箇所、広場で祈る人々に与え、そして今のわたしたちに与えてくださるのです。

 与えられる霊は「あなたの」霊です。神さまご自身の息吹、神のいのちです。その霊は「優れた」霊です。良き霊、喜びをもたらす霊です。

 この霊が神から自分たちにも与えられていることを、人々は祈りつつ悟りました。痛みが、苦しみが起こりました。自分たちは神に忠実でなかった、神を悲しませてきたという痛みです。と同時に、決意が心の底から生じてきました。今こそ神を信じて罪を告白し、自分たちの苦しい現状を神に訴え、そして新しく出発しなければという決意です。
 
 この日、エルサレムの門の広場に集まった人々は、およそ3時間にわたって聖書の朗読を聞き、その後また3時間にわたって地にひれ伏して祈り続けました。昼が来て、6時間の礼拝は終わりました。そのとき、おもだった人々は前に出て、神を信じその掟を行うことを誓約し、署名しました。他の人々もこれに同意しました。
 こうして紀元前400数十年前の信仰共同体は、礼拝と生活において刷新され、新しく出発したのです。

 わたしたちもささやかではあったとしても同じ経験をしたい。この礼拝をとおして神さまの優れた霊を受け、み言葉と聖餐の糧をいただいて、新しく出発したいと願います。

 神さま、あなたはかつてわたしたちの信仰の先祖に憐れみを注ぎ、あなたの優れた霊を与えて人々を新しく力づけられました。同じ霊を今、わたしたちにも与えてください。わたしたちの祈りと信仰をよみがえらせ、あなたのみ業がわたしたちをとおして行われるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

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