Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2025年04月

日ごとの聖句1200 この命の言葉を 2025/4/27〜5/3

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2025年4月27日(日)復活節第2主日       使徒言行録 5:12
使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた。

4月28日(月)福音記者聖マルコ日      使徒言行録 5:17-18
そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。

4月29日(火)               使徒言行録 5:19-20
夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。

4月30日(水)                使徒言行録 5:21
これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。

5月1日(木)使徒聖ピリポ・使徒聖ヤコブ日   使徒言行録 5:26
そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。

5月2日(金)               使徒言行録 5:27-28
大祭司が尋問した。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。」

5月3日(土)                 使徒言行録 5:29
ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」

(新共同訳)

(ひとこと)
「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。」

ペテロたちは、神殿当局によって逮捕・投獄され、最高法院で大祭司から尋問され、脅迫されました。十字架に殺され、復活したイエスのことを宣べ伝えていたからです。

これに対してペトロと他の使徒たちは答えました。
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」

こう答えるのは、しばらく前、恐れのあまりイエスを見捨てて逃げたあの弟子たちです。

十字架に死んで復活された方は、弱い者に勇気と力を与え、「神に従う」ようにさせられました。弟子たちは「この命の言葉を」(5:20)伝えずにはおれないのです。
この方が、わたしたちとともに歩み、ともに働いてくださいますように。

日ごとの聖句1199 復活 2025/4/20〜26

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2025年4月20日(日)復活日         
使徒言行録 10:34
ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」

4月21日(月)復活後月曜日          使徒言行録 10:36
「神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉をあなたがたはご存じでしょう。」

4月22日(火)復活後火曜日          使徒言行録 10:38
「つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。」

4月23日(水)復活後水曜日          使徒言行録 10:38
「イエスは人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」

4月24日(木)復活後木曜日        使徒言行録 10:39-40
「人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。」

4月25日(金)復活後金曜日          使徒言行録 10:41
「それは、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」

4月26日(土)復活後土曜日          使徒言行録 10:42
「イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」

(新共同訳)

(ひとこと)
わたしたちは普通「イエスが十字架にかけられて死なれた」と言います。けれども注意しましょう。

ここでペテロが「人々はイエスを木にかけて殺してしまいました」(使徒言行録10:39)と言うように、イエスは「殺された」のです。イエスを憎んで抹殺しようと計画し、それを命じた人々(権力を持った人々)がおり、それを実行した人々がおり、それを喜んだ多数の人々がいる。

神から送られた正しい人を殺す。そのような悪の事実と責任を、使徒言行録は明確に指摘しています。ここからわたしたちは、この世界の具体的な悪の事実とその責任を見つめるように促されます。

続けてペテロは「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました」と言います。
「神」が主語です。神がイエスを復活させた主体です。そして神は、復活のイエスを人々の前に現した。復活のイエスは弟子たちに出会ってくださった。これらは神のなさった業であり、わたしたちにとっては神秘です。

しかし復活のイエスに出会った者は、その出会った事実をそのまま語るほかはありません。復活のイエスの衝撃的な力、言い換えれば、神が弟子たちの絶望的な悲しみを最高の喜びに変えた、という愛の事実。このことが重要です。

神の業を棚上げして、「復活」を心理学的にのみ説明しようとするのは愚かです。

イエスが復活し、今も生きておられる。これがわたしたちに希望と力と喜びを与えます。

日ごとの聖句1198 わたしの神 2025/4/13〜19

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2025年4月13日(日)復活前主日           詩編 22:1
わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられるのですか‖ どうして遠く離れて助けようとはせず、わたしの叫びを聞こうとされないのですか

4月14日(月)復活前月曜日             詩編 22:2
神よ、昼、わたしが叫んでもあなたはこたえられず‖ 夜、叫んでも心は安らぐことはない

4月15日(火)復活前火曜日             詩編 22:4
わたしたちの先祖はあなたを信じ‖ あなたは彼らを救われた

4月16日(水)復活前水曜日             詩編 22:7
わたしを見る者はみな笑い‖ わたしをあざけって言う

4月17日(木)聖木曜日               詩編 22:8
「彼は主を頼みとした。神が救いに来ればよい‖ 神が彼に心を掛けているのなら、救い出せばよい」

4月18日(金)聖金曜日(受苦日)          詩編 22:9
あなたは母の胎からわたしを取り出し‖ その乳房でわたしを育てられた

4月19日(土)聖土曜日               詩編 22:10
この世に生を受けたときからわたしはあなたのもの‖ 母の胎にいたときから、あなたはわたしの神

(日本聖公会祈祷書の詩編から)

(ひとこと)
イエスは十字架の上で「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と叫ばれました。これは詩編第22編の冒頭の言葉です。苦しみの極みの中で、イエスのうちに蓄えられている詩編の言葉がご自分の祈りとして噴出したのでしょうか。

イエスが活動を始められる前、40日40夜の断食をして弱り果てた時、サタンの誘惑を受けられました。その時、誘惑を退けたのはイエスのうちに宿っていた聖書の言葉でした。イエスの公生涯の初めと終わりは、このように大切な共通点があります。

イエスは苦しみと絶望の中から「わたしの神」を叫び求めて神を離さず、それによってわたしたちのために「わたしの神」を獲得してくださいました。

「わたしはあなたのもの」「あなたはわたしの神」(詩編22:10)は昔の詩人の祈りにとどまりません。イエスの十字架によって、それは確実にわたしたち自身にとっての事実、またわたしたちの祈りとなったのです。

日ごとの聖句1197 キリストの真実 2025/4/6〜12

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2025年4月6日(日)大斎節第5主日 フィリピの信徒への手紙 3:5-6
私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。

4月7日(月)           フィリピの信徒への手紙 3:7
しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

4月8日(火)           フィリピの信徒への手紙 3:8
そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。

4月9日(水)          フィリピの信徒への手紙 3:8-9
それはキリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。

4月10日(木)           フィリピの信徒への手紙 3:9
私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。

4月11日(金)         フィリピの信徒への手紙 3:10-11
私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

4月12日(土)          フィリピの信徒への手紙 3:12
私はすでにそれを得たというわけではなく、何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。

(聖書協会共同訳)

(ひとこと)
フィリピの信徒への手紙第3章9節は新共同訳では「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」となっていました。ところが今回用いた新しい聖書協会共同訳では「私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。」となっています。

何が違うかと言うと、前者では「キリストへの信仰による義」と訳されていたのが、後者では「キリストの真実による義」と訳されたことです。前者では「<わたしたちがキリストを信じる>信仰」が強調されているのに対し、後者では「<キリストご自身が貫かれた>真実」が強調されています。

わたし自身は、自分の信仰の危うさを経験してきたこともあって、後者、聖書協会共同訳のほうを好みます。
たとえわたしたちの信仰が闇に包まれ、神を見失ったとしても、イエス・キリストが神に対して死に至るまで真実を貫かれたその<事実>があるから、わたしたちは大丈夫なのです。
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井田 泉
奈良基督教会牧師
親愛幼稚園園長
富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
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