使徒言行録7:54−60

 今日は京都聖ステパノ教会の創立23周年記念礼拝が行われています。
毎週代祷で祈っていますとおり、私たちの教会とステパノ教会が洛西伝道に力を合わせるため、ステパノ教会の名まえ、ステパノのことをお話しします。

 イエスさまが復活し、天に昇られた後、イエスを信じる人々に聖霊が注がれ、最初の教会が誕生しました。教会はいのちに満ちて成長していきました。

 ところが人数が増え、教会が大きくなるにつれて、大きな問題が生じてきました。教会の中に、軽んじられている人々がいる、という苦情が出て来たのです。軽んじられている人々とはだれかというとギリシア語を話すユダヤ人です。同じユダヤ人であっても、外国に暮らし外国語で生活する人々。そのやもめたちへの援助が後回しにされている、というのです。

 貧しい人々を支えること──それは当然のこととして最初の教会では行なわれてきました。ところが同じ教会に属していても、外国語であるギリシア語を話す人々は言わば後から入って来た人です。新しい人たちは後回し。しかしこれでは不公平ではないか、という声が大きくなりました。

 そこで12弟子たちは、新しいリーダーを任命することにしました。こうして選ばれたのがステパノをはじめとする7名です。12弟子たちは、教会の生活と奉仕活動の責任をこの7名に任せ、自分たちはみ言葉の奉仕と祈りに専念することとしたのです。
 ステパノは「信仰と聖霊に満ちた人」であったと聖書に記されています(使徒言行録6:5)。

 ステパノは教会の運営と奉仕だけではなく、説教にも力がありました。彼は、間違っていると感じたことを黙っていられない人でした。

 彼は、当時の信仰生活の中心であるエルサレム神殿を見て、憤りを感じました。神殿は本来、神さまを人々にあらわす場所です。神と人とを結び合わせるのが神殿の意味です。ところが当時の現実のエルサレム神殿は、まったくその逆の存在になってしまっていたのです。神殿が神と人との間に壁を造り、人が神に出会えなくなってしまっている。

 ステパノは大勢の人たちの前でこう言いました。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」使徒7:51-53

 ところで私たちは使徒信経で、次のように告白します。
「(イエス・キリストは)……天に昇られました。そして全能の父である神の右に座しておられます。」

 イエスが復活し、天に昇られ、父なる神の右に座られた。これは、仕事が終わったのでゆっくりしようと腰掛けられたのではありません。
主イエスが父なる神の右に座しておられるのは、私たちの現実をしっかり受けとめようとしておられるからです。神さまの傍らからは、世界のすべてがよく見えるのです。イエスさまは、座って私たちをしっかりと見守っておられます。

 ここでステパノの話に戻って、使徒言行録第7章54節からもう一度読みましょう。
「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」7:54-55

 座っておられたイエスさまが立ち上がられました。ステパノが石を投げられて殺されようとするのを、イエスさまは黙って見ていることができませんでした。
「ステパノはわたしが引き受ける。」
 ステパノはイエスさまが立っておられるのを見ました。ステパノは立っておられるイエスの御手と胸に自分を預けました。イエスさまは立って、ステパノの体と魂をしっかり受け取られました。ステパノは自分の体と魂をイエスさまの御手に預けて死んでいきました。

 イエスは私たちを受けとめるために座っておられます。しかし私たちが危険にさらされたときは立ち上がって私たちを捕まえてくださるのです。

 続きを読みましょう。55節から。
「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」7:55-60

 ステパノは石を投げられました。石は彼の皮膚を破り、骨を砕きました。おびただしい血を流して、ステパノは死んでいきました。しかし、立ち上がられたイエスさまが、しっかりとステパノを引き受けてくださいました。

 しかしこの痛ましい出来事が、やがてひとりの人の回心を引き起こすことになります。このステパノの死に立ち会い、ステパノの殺害に加わったパウロが、やがて回心し、迫害していたキリスト教を今度は宣べ伝えることになるのです。
 もし、ステパノの殉教がなければパウロの回心はありませんでした。ステパノの死があり、パウロの回心があったからこそ、イエス・キリストの福音の恵みは、この私たちに届くようになったのです。

 ステパノを見守られたイエスさまは、私たちのことも見守っていてくださいます。ステパノの危ういときに、立ち上がって彼を引き受けられたイエスさまは、私たちの危ういときも立ち上がり、私たちを引き受けてくださいます。このイエスさまを信頼して、歩んでいくことができますように。
     (2006/09/24 京都聖三一教会・京都聖ステパノ教会)